この屋敷の人は、なぜ私に優しいのですか
市場に行くことになった。
クラウス様が月に一度、領地の視察を兼ねて市場を訪れるのだという。ヨハンがそう教えてくれた。
「お嬢様もご一緒されてはいかがでしょう。領民たちもお顔を見たいと申しておりますよ」
見たい。私の顔を?
実家では、領民と直接顔を合わせることなどなかった。公爵令嬢は公爵令嬢らしく、屋敷の中にいるものだと教わった。
「クラウス様は、構わないのですか」
「もちろん。旦那様もお喜びになるでしょう」
クラウス様が喜ぶ。その言葉に、胸がほんの少しだけ軽くなった。
◇
市場は、思っていたよりもずっと活気があった。
霧と寒さの中でも、人々は声を上げて品物を売り、子どもたちが走り回っている。パンの焼ける匂い。鍛冶の槌の音。毛皮を積んだ荷車。
クラウス様は先を歩いていた。私はリーゼと少し後ろをついていく。
「クラウス様! 先日の水路、助かりましたよ!」
「ああ。冬までにもう一本通す」
「おお、ありがたい!」
領民がクラウス様に話しかける。クラウス様は短く答える。愛想はない。でも、誰もが自然に声をかけている。
冷酷公爵を恐れている人は——少なくとも、ここにはいなかった。
「あら、こちらが奥様?」
果物を売っている女性が、私を見て目を丸くした。
「まあ、お美しい……。クラウス様、素敵な奥様ですね!」
「……」
クラウス様は何も答えなかった。でも、耳の先が赤い気がしたのは——気のせいだろうか。
「私、セラフィーナと申します。よろしくお願いいたします」
「ああ、ご丁寧に! これ、うちの林檎。持っていってください」
「いえ、そんな——」
「遠慮しないで! クラウス様の奥様なら、この街の家族みたいなものですから」
家族。
その言葉が、胸の奥に不思議な波紋を広げた。
林檎を受け取った。赤くて、冷たくて、手のひらにちょうど収まる大きさだった。
◇
市場を歩いていると、子どもたちが寄ってきた。
「お姉さん、きれいな髪! 触っていい?」
「こら、失礼だろう」
母親が慌てて止めたが、私は少し屈んで髪を差し出した。
「いいわよ。触ってみて」
小さな手が、そっと私の髪に触れた。
「つめたい!」
子どもが驚いて手を引っ込めた。
「……ごめんなさい。私の体は少し冷たいの」
「大丈夫! 冷たいのは慣れてるよ! ここ、いつも寒いもん!」
子どもが笑った。屈託のない笑顔だった。
——大丈夫。冷たいのは慣れている。
実家では、私の冷気は「欠陥」と呼ばれた。近づくな、と言われた。触るな、と。
この子は、触って「冷たい」と笑っただけだった。
何が違うのだろう。
この土地の人々は、冷たさに慣れている。凍てつく冬を毎年越えている。だから——私の冷たさも、怖くないのかもしれない。
初めて、自分の冷たさが「怖いもの」ではない場所に来た気がした。
◇
帰り道、クラウス様が珍しく話しかけてきた。
「……どうだった」
「とても、よいところですね。皆さん、親切で」
「領民は良い人間が多い。苦労しているが、腐っていない」
「クラウス様のおかげだと思います」
「……そんなことはない」
クラウス様は前を向いたまま歩き続けた。照れている——のだろうか。よくわからないけれど、少なくとも嫌な気分ではなさそうだった。
◇
その夜、リーゼと部屋で紅茶を飲んでいるとき、ふと聞いてみた。
「リーゼは、どうして私についてきてくれたの。辺境まで」
リーゼがカップを置いた。
「……お話ししてもよろしいですか。少し長くなります」
「聞きたい」
リーゼは膝の上で手を組んだ。
「私はもともと、ヴァルトシュタイン家で働く使用人の娘でした。母は厨房で、父は庭師で。小さい頃からお屋敷にいました」
「知っているわ」
「でも——知らないこともあります。私が七つのとき、父が仕事中に怪我をしました。それからは働けなくなって。公爵家は医療費も出してくれませんでした。不要な使用人は切り捨てる——それがヴァルトシュタイン家のやり方でした」
「……」
「母は無理をして働き続けて、体を壊しました。私は行き場がなくなって。そのとき——セラフィーナ様が、私を侍女にしてくださったんです」
「私が? でも、あの頃は——」
「八歳でした。セラフィーナ様は奥様に『この子を私の侍女にしてください』と頼んでくださいました。奥様は『好きにしなさい』と。それが——私がここにいる理由です」
覚えていない。八歳の私が、そんなことを言ったのだろうか。
「覚えていらっしゃらないでしょう。だって、セラフィーナ様にとっては——当たり前のことだったんです。困っている人がいたら助ける。それは完璧な令嬢の義務だから、と」
「……義務、で」
「はい。でも私は知っています。あれは義務じゃありません。セラフィーナ様には——優しさがあるんです。ただ、それを『感情』と呼ぶことを教えてもらえなかっただけで」
優しさ。
私に、優しさがある。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
「だから私はここにいるんです。セラフィーナ様の優しさが——ちゃんと『優しさ』だと気づけるようになるまで。ずっと、おそばに」
リーゼの目が潤んでいた。でも今回は、笑いながら泣いていた。
私は何と言えばいいのかわからなくて、ただリーゼの手を握り返した。
温かかった。
この屋敷の人たちは、なぜ私に優しいのだろう。クラウス様も。ヨハンも。市場の人たちも。リーゼも。
答えはまだわからない。
でも——ここにいたい、と思った。
「いたい」と思うこと自体が、私にとっては初めての感情だった。




