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完璧な令嬢は泣けない ~冷酷な旦那様、どうして私の涙に気づくのですか~  作者: 凪乃


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5/12

この屋敷の人は、なぜ私に優しいのですか

 市場に行くことになった。


 クラウス様が月に一度、領地の視察を兼ねて市場を訪れるのだという。ヨハンがそう教えてくれた。


「お嬢様もご一緒されてはいかがでしょう。領民たちもお顔を見たいと申しておりますよ」


 見たい。私の顔を?


 実家では、領民と直接顔を合わせることなどなかった。公爵令嬢は公爵令嬢らしく、屋敷の中にいるものだと教わった。


「クラウス様は、構わないのですか」


「もちろん。旦那様もお喜びになるでしょう」


 クラウス様が喜ぶ。その言葉に、胸がほんの少しだけ軽くなった。


  ◇


 市場は、思っていたよりもずっと活気があった。


 霧と寒さの中でも、人々は声を上げて品物を売り、子どもたちが走り回っている。パンの焼ける匂い。鍛冶の槌の音。毛皮を積んだ荷車。


 クラウス様は先を歩いていた。私はリーゼと少し後ろをついていく。


「クラウス様! 先日の水路、助かりましたよ!」


「ああ。冬までにもう一本通す」


「おお、ありがたい!」


 領民がクラウス様に話しかける。クラウス様は短く答える。愛想はない。でも、誰もが自然に声をかけている。


 冷酷公爵を恐れている人は——少なくとも、ここにはいなかった。


「あら、こちらが奥様?」


 果物を売っている女性が、私を見て目を丸くした。


「まあ、お美しい……。クラウス様、素敵な奥様ですね!」


「……」


 クラウス様は何も答えなかった。でも、耳の先が赤い気がしたのは——気のせいだろうか。


「私、セラフィーナと申します。よろしくお願いいたします」


「ああ、ご丁寧に! これ、うちの林檎。持っていってください」


「いえ、そんな——」


「遠慮しないで! クラウス様の奥様なら、この街の家族みたいなものですから」


 家族。


 その言葉が、胸の奥に不思議な波紋を広げた。


 林檎を受け取った。赤くて、冷たくて、手のひらにちょうど収まる大きさだった。


  ◇


 市場を歩いていると、子どもたちが寄ってきた。


「お姉さん、きれいな髪! 触っていい?」


「こら、失礼だろう」


 母親が慌てて止めたが、私は少し屈んで髪を差し出した。


「いいわよ。触ってみて」


 小さな手が、そっと私の髪に触れた。


「つめたい!」


 子どもが驚いて手を引っ込めた。


「……ごめんなさい。私の体は少し冷たいの」


「大丈夫! 冷たいのは慣れてるよ! ここ、いつも寒いもん!」


 子どもが笑った。屈託のない笑顔だった。


 ——大丈夫。冷たいのは慣れている。


 実家では、私の冷気は「欠陥」と呼ばれた。近づくな、と言われた。触るな、と。


 この子は、触って「冷たい」と笑っただけだった。


 何が違うのだろう。


 この土地の人々は、冷たさに慣れている。凍てつく冬を毎年越えている。だから——私の冷たさも、怖くないのかもしれない。


 初めて、自分の冷たさが「怖いもの」ではない場所に来た気がした。


  ◇


 帰り道、クラウス様が珍しく話しかけてきた。


「……どうだった」


「とても、よいところですね。皆さん、親切で」


「領民は良い人間が多い。苦労しているが、腐っていない」


「クラウス様のおかげだと思います」


「……そんなことはない」


 クラウス様は前を向いたまま歩き続けた。照れている——のだろうか。よくわからないけれど、少なくとも嫌な気分ではなさそうだった。


  ◇


 その夜、リーゼと部屋で紅茶を飲んでいるとき、ふと聞いてみた。


「リーゼは、どうして私についてきてくれたの。辺境まで」


 リーゼがカップを置いた。


「……お話ししてもよろしいですか。少し長くなります」


「聞きたい」


 リーゼは膝の上で手を組んだ。


「私はもともと、ヴァルトシュタイン家で働く使用人の娘でした。母は厨房で、父は庭師で。小さい頃からお屋敷にいました」


「知っているわ」


「でも——知らないこともあります。私が七つのとき、父が仕事中に怪我をしました。それからは働けなくなって。公爵家は医療費も出してくれませんでした。不要な使用人は切り捨てる——それがヴァルトシュタイン家のやり方でした」


「……」


「母は無理をして働き続けて、体を壊しました。私は行き場がなくなって。そのとき——セラフィーナ様が、私を侍女にしてくださったんです」


「私が? でも、あの頃は——」


「八歳でした。セラフィーナ様は奥様に『この子を私の侍女にしてください』と頼んでくださいました。奥様は『好きにしなさい』と。それが——私がここにいる理由です」


 覚えていない。八歳の私が、そんなことを言ったのだろうか。


「覚えていらっしゃらないでしょう。だって、セラフィーナ様にとっては——当たり前のことだったんです。困っている人がいたら助ける。それは完璧な令嬢の義務だから、と」


「……義務、で」


「はい。でも私は知っています。あれは義務じゃありません。セラフィーナ様には——優しさがあるんです。ただ、それを『感情』と呼ぶことを教えてもらえなかっただけで」


 優しさ。


 私に、優しさがある。


 そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。


「だから私はここにいるんです。セラフィーナ様の優しさが——ちゃんと『優しさ』だと気づけるようになるまで。ずっと、おそばに」


 リーゼの目が潤んでいた。でも今回は、笑いながら泣いていた。


 私は何と言えばいいのかわからなくて、ただリーゼの手を握り返した。


 温かかった。


 この屋敷の人たちは、なぜ私に優しいのだろう。クラウス様も。ヨハンも。市場の人たちも。リーゼも。


 答えはまだわからない。


 でも——ここにいたい、と思った。


 「いたい」と思うこと自体が、私にとっては初めての感情だった。


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