実家からの手紙には、命令しかない
辺境に来て一週間が過ぎた頃、手紙が届いた。
ヴァルトシュタイン公爵家の紋章が押された封蝋。見覚えのある筆跡。お母様のものだ。
部屋で一人、封を切った。
『セラフィーナへ
ローザリンデの王太子妃としての立場を盤石にするため、辺境公爵家との繋がりを活用しなさい。レーヴェンハルト領の鉱物資源に関する情報を送りなさい。また、北部貴族との交流の場を設け、ヴァルトシュタイン家の影響力を広げる足がかりを作りなさい。
なお、あなたが笑顔を絶やさず、公爵家に不満を抱かせぬよう振る舞うことは当然のことです。
体調の報告は不要です。
追伸——ローザリンデの婚約披露の夜会は盛況でした。あなたがいなくても何の支障もありませんでした。
ヴァルトシュタイン公爵夫人』
三回読んだ。
一度目は内容を理解するために。二度目は指示を確認するために。三度目は——何かを探すために。
何を探していたのだろう。
「元気ですか」という一言。「寒くないですか」という気遣い。「寂しくないですか」という問い。
——そんなものは、一度もなかった。
手紙を畳み直し、引き出しにしまった。これまでと同じだ。お母様の手紙はいつも命令だった。お父様の手紙は来たことがない。
何も変わらない。何も感じない。
はずなのに。
指先が冷たい。いつもより冷たい。窓の外では霜が広がっていくのが見えた。
◇
午後、書斎にクラウス様を訪ねた。
「少しお時間をいただけますか」
「構わない」
クラウス様は書類から顔を上げた。いつも通り、表情は乏しい。けれど、目はちゃんとこちらを見ている。
「実家から手紙が届きました。レーヴェンハルト領の鉱物資源に関する情報を送るよう求められています」
正直に伝えた。隠す理由がない。私はヴァルトシュタイン家の利益のためにここに嫁いだのだから、その役割を果たすのは当然のことだ。
「……」
クラウス様はしばらく黙っていた。
「それは、あなたがやりたいことか」
「やりたいこと……?」
「聞いている。鉱物資源の情報を送ることは、あなたがやりたいことか」
「やりたいかどうかは、関係ないと思います。お母様が——」
「関係ある」
クラウス様の声が、少しだけ強くなった。怒っている——わけではない。強い、というより、はっきりしていた。
「あなたはこの屋敷の人間だ。ヴァルトシュタイン家の使者ではない」
「……」
「手紙の返事は私が書く。領地の情報を外部に渡すことはできないと、公爵家の当主として回答する。あなたの名前は出さない」
意味がわからなかった。
「でも、それではお母様が——」
「怒るだろうな。だが、それは私が受ける。あなたには関係のないことだ」
関係のないこと。
お母様の怒りが、私に関係のないこと。
生まれてから二十年、お母様の怒りは常に私の責任だった。完璧でなければ怒られる。失敗すれば罰せられる。お母様の機嫌は、私の行動で決まる。
それが——関係のないことだと。
「なぜ、そこまで……」
「あなたを道具として使うことを、私は許可していない」
道具。
その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かが軋んだ。
道具。私は、道具だった?
——いいえ、違う。私は完璧な令嬢として役割を果たしていただけ。お父様とお母様の期待に応えていただけ。
……それを、世間では「道具」と呼ぶのだろうか。
◇
「セラフィーナ様、お顔の色が悪いです」
リーゼが夕食の前に気づいた。
「少し、考えごとをしていただけ」
「お手紙のことですか?」
「……知っていたの?」
「ヨハン様から伺いました。クラウス様が返書をお書きになったと」
リーゼは私の隣に座った。
「セラフィーナ様。一つだけ、聞いてもよろしいですか」
「何?」
「あのお手紙を読んで——悲しかったですか?」
悲しい。
その言葉を、心の中で転がしてみた。
「わからない。悲しいという感覚が、どういうものなのか——」
「では、こう聞きます。お手紙に、『元気ですか』と書いてあってほしかったですか?」
答えようとして、口が止まった。
書いてあってほしかった?
——書いてあってほしかった。
その事実に気づいた瞬間、目の奥が熱くなった。
「……リーゼ、私は」
「はい」
「手紙に、命令しか書いてなかったことが——少しだけ、嫌だったのかもしれない」
リーゼが泣いていた。私よりも先に。
「それは悲しいということです、セラフィーナ様」
嫌だった。悲しかった。
生まれて初めて、親の手紙を「嫌だ」と思った。
窓の外に目をやると、今朝よりも霜が厚くなっていた。けれど、私の胸の中では——何かが、ほんの少しだけ溶けた気がした。
◇
夜、窓辺に立っていると、庭の向こうにクラウス様の書斎の明かりが見えた。
まだ仕事をしているのだろう。領地のために。領民のために。そして今日は——私のために、返書を書いてくれた。
道具として使うことを許可していない、と言った人。
笑わなくていい、と言った人。
急がなくていい、と言った人。
この人は、どうして私を——人として扱うのだろう。
家族すら、そうしてくれなかったのに。
指先を窓ガラスに触れた。冷たい。いつも通り、冷たい。
でも。
その冷たさが、今日は少しだけ——寂しかった。
寂しい、という感情を知った夜だった。




