好きなものを聞かれても、答えられません
辺境に来て三日目の夕食のことだった。
テーブルの上に並んだ料理を前に、クラウス様がふと言った。
「今日の魚は川で獲れたものだ。焼き方は二通りある。好みがあれば、明日から合わせる」
「……ありがとうございます。どちらでも構いません」
「では、好きな食べ物は?」
——好きな食べ物。
手が止まった。
スプーンを持ったまま、私は固まっていた。
「……」
好きな食べ物。
答えなければ。クラウス様が聞いてくださっている。答えることが礼儀だ。答えることが正しい。完璧な令嬢は質問に答えられる。
でも、答えが出てこない。
何が好きなのか、わからない。
実家では決められた食事を食べた。「これが好きです」と言ったことがない。言う必要がなかった。好き嫌いを持つことは、完璧ではないから。
五秒。十秒。
スプーンが震えていることに気づいて、慌ててテーブルに置いた。
「……申し訳ありません。少し、考える時間をいただいても」
「急がなくていい」
クラウス様は、何事もなかったように自分の食事に戻った。追及しない。不思議がらない。ただ、待っていてくれる。
——なぜだろう。胸が、また騒ぐ。
◇
「セラフィーナ様、大丈夫ですか?」
食事の後、リーゼが心配そうに駆け寄ってきた。
「大丈夫よ。ただ、少し驚いただけ」
「驚いた……?」
「好きなものを聞かれたのは、初めてだったから」
リーゼの目が、みるみる潤んでいく。
「リーゼ、泣かないで。大したことではないの」
「大したことです!」
リーゼは鼻を赤くしながら言った。
「好きなものを聞かれたことがないなんて、そんなの——」
「でも、事実よ。私は好きなものがわからないの。欠陥なのかもしれないけれど」
「欠陥なんかじゃありません!」
リーゼが私の手を握った。温かい手だった。
「好きなものはきっとあるんです。ただ——誰も聞いてくれなかっただけです」
聞いてくれなかった。
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。
◇
翌日の午後、中庭のベンチに座っていると、猫が来た。
灰色の、痩せた猫。野良だろう。使用人の誰かが餌をやっているのか、屋敷の周りを歩き回っている。
近づいてきた。私の足元で、にゃあ、と鳴いた。
「……何?」
猫が膝に乗ろうとしている。
普通なら、私の近くに動物は来ない。冷気を帯びた魔力が、生き物を遠ざけるから。
でも、この猫は平気らしい。遠慮なく膝の上に乗ってきて、丸くなった。
「……温かい」
猫の体温が、膝から伝わってくる。ごろごろと喉を鳴らしている。
——何だろう、この感覚は。
口元が、動いた。自分の意思ではなく。
「ふ……」
笑った。
自分が笑ったことに気づいて、慌てて口を押さえた。
笑う。私が?
完璧な微笑みではない。社交の技術でもない。ただ、猫が温かくて、猫が膝の上で丸くなっていて——それが、おかしくて。
「あ……」
声が漏れた。
笑い方なんて知らないはずなのに、体が勝手に笑っている。
「セラフィーナ様?」
いつの間にか、クラウス様が庭の入り口に立っていた。どのくらい見ていたのだろう。
「……あ、あの、この猫が」
「ゲルダだ。厨房の裏に住んでいる」
「ゲルダ……。名前があるのですね」
「使用人たちが呼んでいる。人懐こい猫だ」
クラウス様はベンチの反対側に、少し距離を置いて座った。
「今の」
「はい?」
「笑っていた」
「……っ」
顔が熱くなった。熱い? これは何だろう。恥ずかしい、という感情だろうか。恥ずかしいという感情があるのだろうか、私に。
「嫌でしたら——」
「嫌ではない」
クラウス様はゲルダを見ていた。私を見ていなかった。
「その顔のほうが、いい」
——その顔のほうが、いい。
何のことかわからなかった。私は完璧な微笑みのほうが、きっと美しいはずだ。お母様にそう言われた。お父様にも。社交界の全員が、完璧な私を褒めた。
なのにこの人は、猫で笑った——不格好な、崩れた顔のほうがいいと言う。
「……変わった方ですね」
「よく言われる」
クラウス様が、ほんの少しだけ口角を上げた。笑ったのかもしれない。よくわからない。
そのとき、ゲルダが膝から降りて、庭の隅に駆けていった。
「あ」
猫が座ったあたりの土から、何かが顔を出していた。
小さな、緑色の芽。
霜に覆われた庭の中で、その一点だけが——生きていた。
「……芽が、出ている」
クラウス様が目を細めた。
「この庭で芽を見たのは、三年ぶりだ」
私はその小さな緑を見つめた。
なぜか、目が熱くなった。また、あの感覚。
でも今回は、怖くなかった。
怖くなかったことが、もっと不思議だった。




