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完璧な令嬢は泣けない ~冷酷な旦那様、どうして私の涙に気づくのですか~  作者: 凪乃


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3/12

好きなものを聞かれても、答えられません

 辺境に来て三日目の夕食のことだった。


 テーブルの上に並んだ料理を前に、クラウス様がふと言った。


「今日の魚は川で獲れたものだ。焼き方は二通りある。好みがあれば、明日から合わせる」


「……ありがとうございます。どちらでも構いません」


「では、好きな食べ物は?」


 ——好きな食べ物。


 手が止まった。


 スプーンを持ったまま、私は固まっていた。


「……」


 好きな食べ物。


 答えなければ。クラウス様が聞いてくださっている。答えることが礼儀だ。答えることが正しい。完璧な令嬢は質問に答えられる。


 でも、答えが出てこない。


 何が好きなのか、わからない。


 実家では決められた食事を食べた。「これが好きです」と言ったことがない。言う必要がなかった。好き嫌いを持つことは、完璧ではないから。


 五秒。十秒。


 スプーンが震えていることに気づいて、慌ててテーブルに置いた。


「……申し訳ありません。少し、考える時間をいただいても」


「急がなくていい」


 クラウス様は、何事もなかったように自分の食事に戻った。追及しない。不思議がらない。ただ、待っていてくれる。


 ——なぜだろう。胸が、また騒ぐ。


  ◇


「セラフィーナ様、大丈夫ですか?」


 食事の後、リーゼが心配そうに駆け寄ってきた。


「大丈夫よ。ただ、少し驚いただけ」


「驚いた……?」


「好きなものを聞かれたのは、初めてだったから」


 リーゼの目が、みるみる潤んでいく。


「リーゼ、泣かないで。大したことではないの」


「大したことです!」


 リーゼは鼻を赤くしながら言った。


「好きなものを聞かれたことがないなんて、そんなの——」


「でも、事実よ。私は好きなものがわからないの。欠陥なのかもしれないけれど」


「欠陥なんかじゃありません!」


 リーゼが私の手を握った。温かい手だった。


「好きなものはきっとあるんです。ただ——誰も聞いてくれなかっただけです」


 聞いてくれなかった。


 その言葉が、胸のどこかに引っかかった。


  ◇


 翌日の午後、中庭のベンチに座っていると、猫が来た。


 灰色の、痩せた猫。野良だろう。使用人の誰かが餌をやっているのか、屋敷の周りを歩き回っている。


 近づいてきた。私の足元で、にゃあ、と鳴いた。


「……何?」


 猫が膝に乗ろうとしている。


 普通なら、私の近くに動物は来ない。冷気を帯びた魔力が、生き物を遠ざけるから。


 でも、この猫は平気らしい。遠慮なく膝の上に乗ってきて、丸くなった。


「……温かい」


 猫の体温が、膝から伝わってくる。ごろごろと喉を鳴らしている。


 ——何だろう、この感覚は。


 口元が、動いた。自分の意思ではなく。


「ふ……」


 笑った。


 自分が笑ったことに気づいて、慌てて口を押さえた。


 笑う。私が?


 完璧な微笑みではない。社交の技術でもない。ただ、猫が温かくて、猫が膝の上で丸くなっていて——それが、おかしくて。


「あ……」


 声が漏れた。


 笑い方なんて知らないはずなのに、体が勝手に笑っている。


「セラフィーナ様?」


 いつの間にか、クラウス様が庭の入り口に立っていた。どのくらい見ていたのだろう。


「……あ、あの、この猫が」


「ゲルダだ。厨房の裏に住んでいる」


「ゲルダ……。名前があるのですね」


「使用人たちが呼んでいる。人懐こい猫だ」


 クラウス様はベンチの反対側に、少し距離を置いて座った。


「今の」


「はい?」


「笑っていた」


「……っ」


 顔が熱くなった。熱い? これは何だろう。恥ずかしい、という感情だろうか。恥ずかしいという感情があるのだろうか、私に。


「嫌でしたら——」


「嫌ではない」


 クラウス様はゲルダを見ていた。私を見ていなかった。


「その顔のほうが、いい」


 ——その顔のほうが、いい。


 何のことかわからなかった。私は完璧な微笑みのほうが、きっと美しいはずだ。お母様にそう言われた。お父様にも。社交界の全員が、完璧な私を褒めた。


 なのにこの人は、猫で笑った——不格好な、崩れた顔のほうがいいと言う。


「……変わった方ですね」


「よく言われる」


 クラウス様が、ほんの少しだけ口角を上げた。笑ったのかもしれない。よくわからない。


 そのとき、ゲルダが膝から降りて、庭の隅に駆けていった。


「あ」


 猫が座ったあたりの土から、何かが顔を出していた。


 小さな、緑色の芽。


 霜に覆われた庭の中で、その一点だけが——生きていた。


「……芽が、出ている」


 クラウス様が目を細めた。


「この庭で芽を見たのは、三年ぶりだ」


 私はその小さな緑を見つめた。


 なぜか、目が熱くなった。また、あの感覚。


 でも今回は、怖くなかった。


 怖くなかったことが、もっと不思議だった。


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