冷酷公爵は、とても静かな方でした
朝が来た。
知らない天井だった。昨夜は泣き疲れて眠ってしまったらしい。枕元が少し湿っていた。
——昨日のことは、夢だったのだろうか。
頬に触れる。乾いている。目も痛くない。でも、あの濡れた感触は確かに覚えている。
「セラフィーナ様、おはようございます。お支度のお手伝いに参りました」
リーゼの声に、体が動いた。寝起きでも手順は変わらない。髪を整え、服を選び、背筋を正す。
食堂に向かうと、長いテーブルにクラウス様が一人で座っていた。
「おはようございます」
「……おはよう」
短い返事。視線はほとんど合わない。新聞のようなものに目を落としている。
噂では冷酷で人を寄せつけないと聞いていた。確かに、愛想はない。社交的とは程遠い。
けれど、よく見ると——テーブルの反対側、私の席の前に、温かいスープと焼きたてのパンが用意されていた。カップには湯気が立つお茶。蜂蜜の小瓶まで添えてある。
「食事の好みがわからなかったので、厨房に一通り用意させた。口に合わなければ言ってくれ」
新聞から目を上げずに、クラウス様は言った。
「……ありがとうございます」
一通り。その言葉の意味を、パンをちぎりながら考えた。つまり、私の好みを知ろうとしてくれた、ということだろうか。
実家では、食事は決められたものが出てきた。好みを聞かれたことはない。栄養と礼儀に適ったものを、適切な量だけ食べる。それが完璧な食事だと教わった。
スープを一口含む。
温かかった。当たり前のことだけれど、「温かい」と感じた自分に少しだけ驚いた。
◇
「屋敷をご案内しましょう」
食後、クラウス様の従者であるヨハンという男性が声をかけてくれた。穏やかな初老の紳士で、微笑みが柔らかい。
「旦那様は午前中、領政の執務がございますので、私がお供いたします」
屋敷は広かった。石造りの堅牢な建物。窓が多く、どの部屋からも外が見える。
書斎。客間。温室——の、骨組みだけが残ったもの。ガラスは割れ、中の植物は全て枯れていた。
「以前は見事な温室だったのですが」とヨハンは少し寂しそうに言った。「先代のお屋敷は華やかでしたが、領地の運営には関心がおありでなかった。クラウス様が継がれてからは、まず領民の暮らしを立て直すことを優先されています」
「……立て直す」
「ええ。荒れた農地を整え、水路を修繕し、冬の備蓄を確保する。地味なお仕事ばかりですが、領民は皆、クラウス様を慕っております」
冷酷公爵。
その噂と、ヨハンの言葉が、うまく重ならない。
中庭に出た。やはり花がない。霜に覆われた土と、枯れた木の枝。息が白い。
「この庭も、いずれお花でいっぱいにしたいとクラウス様は仰っておいでです」
「……お花を」
「旦那様は、この領地が春のように温かくなる日を願っておられるのですよ」
春。温かさ。
この凍った土地に、そんなものが訪れるのだろうか。
ふと、自分の指先を見た。いつもより少し温かい気がした。気のせいかもしれない。
◇
午後、書斎の前を通りかかったとき、扉が開いていた。
クラウス様が机に向かっていた。書類の山。地図。数字の羅列。
一人で、黙々と。
「……」
彼は周囲に人を置かない、とヨハンが言っていた。信頼できる従者は数名だけ。客人を招くこともほとんどない。
冷酷なのではない、と私は思った。
人から避けられることに、慣れてしまっただけだ。
その感覚を、私は少しだけ知っている気がした。
——気がしただけだ。私には「共感」という機能がないのだから。
足音を立てないように、その場を離れた。
◇
夜、部屋で一人になると、リーゼが紅茶を持ってきてくれた。
「今日はいかがでしたか、セラフィーナ様」
「静かなところです」
「クラウス様は、怖い方でしたか?」
「……いいえ」
怖くはなかった。冷たくもなかった。ただ——
「とても静かな方でした」
リーゼが少しほっとしたような顔をした。
紅茶を飲む。温かい。今日はずいぶん「温かい」という言葉を使った気がする。
窓の外は闇。月も見えない。
昨日ここで泣いた。あれは何だったのだろう。
もう一度、窓枠に指を置いてみた。霜はそのまま。何も溶けない。
——やはり、昨日のは夢だったのだろう。
そう思うことにした。
けれど胸の奥で、何かがほんの少しだけ——騒いでいる気がした。




