完璧な令嬢は、泣き方を知らない
夜会の灯りは、いつも少しだけ眩しい。
シャンデリアから降り注ぐ光の粒が、集まった貴族たちの宝飾品に反射して、広間全体がちらちらと瞬いている。
私はその光の中を、笑みを浮かべて歩いていた。
「素晴らしいお嬢様ですこと。さすがセラフィーナ様」
「ヴァルトシュタイン公爵家の長女にふさわしい品格ですわ」
「あの方の挨拶は完璧でしたわね。一点の隙もない」
夫人たちの囁きが、すれ違うたびに耳に届く。
——ありがとうございます。
心の中でそう返した。声には出さない。完璧な令嬢は、立ち聞きをしない。
背筋を伸ばし、視線は前方やや下。歩幅は小さく、裾が揺れない速度で。口角は三分ほど上げて、ただし歯は見せない。
全部、幼い頃に教わったとおりに動いているだけだ。
喜びも、誇りも、特に感じない。
ただ、正しく動いた。それだけのことだった。
◇
夜会が終わり、屋敷に戻ると、お父様とお母様が居間で待っていた。
珍しい。夜会の後、二人が揃って私に話があるなど、記憶にない。
「セラフィーナ、座りなさい」
お父様の声はいつも通り平坦だった。お母様はその隣で、微かに口元を綻ばせている。何か良いことがあったのだろう。
「ローザリンデの婚約が決まりました。王太子殿下です」
——おめでとうございます。
そう言うべきだろう。口を開こうとした。けれど、言葉がすぐには出てこなかった。
おめでとう、の「お」を形作る前に、お母様が続けた。
「セラフィーナ。あなたには辺境公爵家へ嫁いでもらいます」
辺境公爵家。
クラウス・レーヴェンハルト。
「呪われた公爵」と恐れられ、冷酷で人を寄せつけないと噂される人。領地は霧と雪に閉ざされた北の果て。前公爵の失政で荒廃し、社交界との繋がりもほとんどないという。
「……はい、お母様」
それ以外に、何と答えればよいのだろう。
拒否するという選択肢が、私の中にはなかった。そもそも、それが存在することを知らなかった。
「よろしい。来週には発ちなさい」
お父様はそう言って席を立った。お母様も、もう私のほうを見ていなかった。
妹のローザリンデが廊下ですれ違いざまに微笑んだ。
「お姉様、辺境ですって? 寒いところは苦手でしょう? あら、でもお姉様は寒さなんか感じないのかしら。なにしろ——氷の令嬢ですものね」
くすくすと笑う声が遠ざかっていく。
氷の令嬢。
家族が私につけた名前。幼い頃から感情を見せたことがなく、私の魔力は冷気を帯び、近くの花を枯らし、小動物を遠ざける。お母様はそれを「欠陥」と呼んだ。
でも、私は思う。欠陥ではない。私にはもともと、感情というものが——ないのだ。
嬉しいという感覚を知らない。悲しいという感覚も知らない。
完璧でいること。それだけが、私がここにいてもよい理由だった。
◇
馬車が動き出した。
侍女のリーゼが、向かいの座席で静かに泣いていた。幼い頃から私に仕えてくれた、唯一の人。辺境にも一緒に来てくれると言って聞かなかった。
「リーゼ、泣かなくてもいいのよ」
「だって……セラフィーナ様……」
リーゼの涙を見るたびに、不思議に思う。
——リーゼは泣けるのだな。
私には、その方法がわからない。泣くというのは、どういう手順で行うものなのだろう。目から水が出る仕組みは知っている。けれど、感情が溢れて涙になる——その過程が、どうしても想像できない。
窓の外を見た。見慣れた街並みが遠ざかり、やがて木々の緑が深くなり、霧が立ち込めてきた。
別に、何も感じない。
ただ景色が変わっただけだ。
◇
辺境公爵の屋敷は、霧の中に佇んでいた。
古い石造りの門をくぐると、手入れの行き届いた——けれどどこか寒々しい庭が広がっている。花壇はあるのに花がない。代わりに霜が葉を覆い、白い息が立ちのぼる。
使用人たちが並んで出迎えてくれた。皆、少し怯えた目をしていた。
——なぜ怯えているのだろう。
そう思いながら、完璧な微笑みを浮かべて挨拶した。
「本日よりお世話になります。セラフィーナ・ヴァルトシュタインと申します。どうぞよろしくお願い——」
「笑わなくていいですよ」
声が、遮った。
屋敷の奥から現れたのは、長身の男性だった。暗い色の髪に、鋭い目。冷酷公爵——クラウス・レーヴェンハルト。
噂通りの冷たい容貌。けれど、その声は冷たさとは少し違った。
静かだった。ただ、静かだった。
「誰も見ていませんから」
「……笑っていませんが」
そう言おうとした。でも——確かに、口元を引き上げていた。社交の場で何百回と繰り返した、あの完璧な微笑みを。
誰にも言われたことがなかった。
「笑わなくていい」と。
今まで誰もが、私の笑みを「素晴らしい」と褒めた。完璧だと言った。正しいと認めた。
この人だけが、それを見て——笑わなくていい、と言った。
「……」
何と返せばいいのかわからなくて、私は黙った。
「部屋に案内させます。長旅でお疲れでしょう」
クラウス様はそれだけ言って、踵を返した。
背中は広かった。
◇
案内された部屋は、思っていたよりずっと温かかった。暖炉に火が入っていて、ベッドには厚い毛布が何枚も重ねてある。
「お荷物はこちらに。何かございましたらお呼びください」
使用人が去り、リーゼも別室に案内され、私は一人になった。
窓辺に立つ。荒涼とした景色。霧と霜に閉ざされた領地。花のない庭。凍った泉。
——ここが、私の新しい場所。
ふと、さっきの声が蘇る。
「笑わなくていいですよ」
おかしな人だ。笑わなくていいなんて、何を言っているのだろう。私は最初から笑っていない。正しく口元を動かしていただけで——
——目が、熱い。
何が起きているのかわからなかった。
頬に手を当てると、濡れていた。
涙。
これが、涙。
窓枠に置いた指先の下で、霜がほんの少しだけ溶けた。
何が悲しいのかわからない。何が嬉しいのかもわからない。ただ、目から水が溢れて、止まらない。
リーゼのように泣いているのだろうか。でも、リーゼは声を上げて泣く。私の涙は、音がしない。
「……私は、泣いている?」
指先が震えていた。
二十年の人生で、初めて泣いた。
そしてそれが、どうしようもなく——怖かった。
お読みいただきありがとうございます! 完璧な令嬢セラフィーナの物語、第1話をお届けしました。「泣けない」彼女がどう変わっていくのか、見届けていただけたら嬉しいです。次回、辺境公爵クラウスの意外な一面が明らかに。ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります!




