静かに縮む距離
昼の中庭は静かだ。
窓越しに、芝の上の小さな影が揺れるのが見えた。
ひよりだった。
ヒールで、ターンを繰り返している。
まだ不安定だ。
重心が後ろに流れる。
だが――止まらない。
(やめないのか)
ぐらつく。
それでも立て直す。
悔しさを飲み込む顔。
俺はその表情を知っている。
「重心が後ろだ」
気づけば声が出ていた。
ひよりが振り向く。
「伊織お兄ちゃん?」
その呼び方に、胸がわずかに緩む。
だが、すぐに冷静に戻す。
「独学じゃないな」
「え?」
「基礎だけ入っている。講師以外に誰かに教わったのか?」
ひよりはあっさり答えた。
「海里が、昨日付き合ってくれたの」
胸の奥が、静かに波打つ。
「昨日?」
「夜に練習してたら見つかって」
海里のほうが一足早かったのか
「……そうか」
声は平静を保つ。
だが思考は止まらない。
「なぜ、海里のこと名前呼びなんだ?」
ぽつりと落ちる声。
責めるつもりはない。
ただ、確認しただけ。
「昨日お兄ちゃんって呼んだら嫌がって…。名前で呼ぶことになったの」
その言葉が胸に沈む。
(俺はまだ“お兄ちゃん”か)
安心と、物足りなさが同時に広がる。
ひよりがまた回る。
軸が甘い。
「止まれ」
僕が近づき、距離が詰まる。
「足を揃えろ。ここで逃げるな」
指先で床を示す。
ひよりに触れないように…。
触れたら、感情が出る。
「悔しいのか?」
ひよりは小さく頷く。
「うん…。でも、ちゃんと踊れるようになりたいから」
その目が、まっすぐで。
胸が締まる。
俺も、そうだった。
怜央という存在と比べられながら育ってきた。
彼には追いつけないと知りながら。
それでもやめなかった。
ひよりがターンする。
ふらつく。
今度は、迷わず肩を支えた。
一瞬だけ。
すぐ離す。
「ありがと、伊織お兄ちゃん」
その呼び方が、少しだけ甘い。
だが同時に、考えてしまう。
(海里だけが呼び捨てか…)
指先がわずかに熱を持つ。
「次は二十回だ」
声が低くなる。
「えぇ?」
「甘えるな」
ひよりは少しだけむっとする。
それでも回る。
止まらない。
汗が頬を伝う。
息が上がる。
それでも、逃げない。
(強いな…)
海里が感覚を教えるなら、俺は精度を上げる。
甘さではなく、完成度で隣に立つ。
「伊織お兄ちゃん、見てて」
その声に答える。
「見てる」
目を逸らさない。
今はまだ、“お兄ちゃん”でいい。
だが、いずれ
その呼び方を変えさせる。
特別を奪うのではなく、自然にそう呼ばせる。
静かな決意が、胸に落ちる。
海里が踏み込んだなら。
俺は、深く潜る。
引き返せないことは、
もう分かっている。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は伊織視点でした。
感情を大きく出さない人ほど、
一度揺れると深く沈んでいきます。
海里が“特別”を求めるなら、
伊織は“必要”になろうとする。
奪うのではなく、
自然に隣に立てる存在になろうとする。
その静かな対抗心が、今回のテーマでした。
そして、名前。
呼び方は距離そのものです。
まだ「お兄ちゃん」のまま。
でも、その呼び方がいつまで続くのか――。
物語は少しずつ、確実に動いています。
次は空気が変わるかもしれません。
それとも、さらに深く沈むのか。
引き続き見守っていただけたら嬉しいです。




