帰りの静けさ
特別棟のサロンを出たとき、空はすっかり夕暮れ色だった。
白い廊下が、やけに長く感じる。
(親睦会、だったよね)
そう言い聞かせる。
でも胸の奥に、重たいものが残っている。
教室に戻ると、すでにほとんどの生徒はいなかった。
海里の席も空いている。
(まだ囲まれてるのかな)
自分の机に座る。
ノートの端を、もう一度そっと撫でる。
消したはずの文字の跡は、うっすらと残っている。
――連れ子
――元貧乏人
目を閉じる。
(気にしない)
カバンを持って立ち上がった瞬間、教室の扉が開いた。
「ひより」
玲央だった。
その後ろに、伊織、日向、蒼、そして海里。
五人そろっている。
「帰るぞ」
玲央の声はいつも通り。
でも視線は、教室の中を一度ゆっくり見渡した。
伊織の目が、机の表面を静かに追う。
白い粉の跡は、ほとんど消えている。
それでも、何かを確かめるように。
そして、伊織は消えきっていない白い粉の粒を、一瞬だけ指先で払った。
「遅かったね〜」
日向が軽く笑う。
「特別棟に呼ばれたんだって?」
海里がぽつりと言う。
「……うん」
「誰に」
短い問い。
「桐生院先輩だよ」
空気が、わずかに変わる。
蒼がやわらかく言う。
「何か言われた?」
「親睦会だよ」
笑う。
少しだけ、ぎこちなく。
伊織の視線が一瞬だけ細くなる。
でもそれ以上は追及しない。
「帰るぞ」
玲央がもう一度言った。
校門前。
黒塗りの車が静かに待っている。
いつもより、近く感じる。
帰りは五人とも同じ車だった。
車内は静かだった。
エンジン音だけが響く。
「ひより」
蒼が隣でそっと声をかける。
「疲れた?」
「ちょっとだけ」
正直に答える。
日向が前の席から振り返る。
「初日だし、疲れちゃったよね〜」
軽い口調。
でもその目は、ひよりの袖を見ていた。
うっすら残る白い跡。
海里が視線を落とす。
「……それ」
「あ、掃除してて」
即答。
少し早口。
伊織が静かに言う。
「特別棟で掃除はしない」
ドキッとする。
「教室で、ちょっとね」
玲央は何も言わない。
ただ、窓に映るひよりの顔を一瞬だけ見た。
でも、空気が少し重い。
車が屋敷の門をくぐる。
「明日から送迎は俺ら5人と一緒だ」
玲央が低く言った。
「え?」
「行きも帰りも、単独行動は禁止」
伊織が続ける。
「放課後は必ず僕たちに連絡」
日向が笑う。
「ひより、俺らに嘘はダメだからねー?」
「嘘…ついてないよ」
思わず言い返す。
海里が小さくつぶやく。
「…俺らには弱音を吐いてもいい」
その一言で、胸がきゅっとなる。
「大丈夫だよ」
笑う。
今度は、ちゃんと。
でも。
兄たちは気づいている。
何があったのか、まだ全部は知らない。
でも確実に。
何かが始まったことを。
屋敷の扉が開く。
初日の終わり。
静かな夜。
嵐は、まだ来ていない。
でも。
すぐそこまで、来ている。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
初日が終わりました。
守られているはずの場所で、守られていない時間があったこと。
ひよりはまだ全てを話していません。
でも兄たちは、確実に違和感を覚えています。
気づいているけれど、問い詰めない。
信じているけれど、放っておかない。
それぞれの優しさが、少しずつ動き始めました。
そして学園では、別の動きも始まっています。
次回、静かな均衡が崩れます。
お楽しみに。




