ある狂人の独白
「なあ少年、君は、世界の重さはどれくらい有るのか、考えたことは有るかい?」
春の日差しが徐々に強くなり、桜の花びらよりも蝉の声が目立ち始める季節。春の終わり。
晩春とも言えず、初夏とも言えない、その若干の猶予を与えられたそんな日差しの中。
古都の一角に建つ、大きな武家屋敷の縁側に座り、楽しげに口を開く女性と、彼女を冷めた瞳で見つめる少年の姿があった。
「世界の重さ?
そんなの、この地球の土や水全部を測ったら、数億t以上になるんじゃ無いんですか?
自分は、物理は苦手なのでよく解らないですけど」
黒い長髪を後ろで括る少年の冷めた様な瞳は黒い、しかし、光の反射で若干紫の色が混じっているのが解る。
まだ少々肌寒い中、薄手の甚平を着ているが寒さは感じていないようだ。
「違う、違うよ、少年!
私は、そんな夢のない答えを期待していたわけでは無いよ。
まったく、誰に似たんだか…」
それに対する女性の方も、長い黒髪を無造作に縁側に流しながら、薄い藍色の着物の上から厚手の半纏を着ていた。
少年の返した答えに、眼鏡の奥の理知的な黒目を不愉快そうに歪め、その赤林檎の様な唇から煙管を離すとプカプカと煙を吐き出している。
「大体だね、私は、世界の重さを聞いたんだよ?
君が答えたのは、この惑星の重量だろう…。
世界といえば、私たちの生きる世界。国、人、命、宗教、それらの全てをひっくるめて世界と呼ぶだろうが。
少しは、頭を使いたまえ、少年」
少年の手元にある急須から注がれる緑茶を啜りながら、彼女は不機嫌そうに口を尖らせた。
年の頃を考えれば、二十、四五。若く見積もれば二十程度にも見えるかもしれない。しかし、彼女の纏う老生したような、不可思議な雰囲気がそれを否定する。
眼鏡の奥で不機嫌そうに少年を見つめるている瞳は、よくよく透かして見れば、反発する少年を面白そうに眺めているのが垣間見ることが出来るし、なにより、若干上がった口角が、一見して不機嫌そうなフリをしている彼女が、笑っていることを証明していた。
「…世界、世界ですか。
自分にはわかりませんが、その重さに何かの意味が有るのですか?」
そこまで問答を繰り返して、少しだけ興味が惹かれたのか、少年は緑茶の無くなった湯呑にお茶を注ぎながら、彼女に問いかけた。
「…意味ねえ?
その問いかけは無粋だと思わないかい、少年?」
彼女は、少年の言葉に楽しげに笑いながら、彼がいれた緑茶にそっと口を付けた。
「世界に意味を求めてしまっては、探求する価値が無くなってしまうじゃないか。
君は、このお茶がなぜ緑茶と呼ばれるか誰かに聞いたことが有るかい?
それと、同じだよ、例え疑問に思っても、その問いかけ自体に対した意味はない…。
私が聞きたいのは、世界の意味や存在意義などはなく、君にとって世界がどう見えているか、君が背負っている世界は、どれほど重たいのか、なのだからねぇ…」
そう言って嗤う彼女の姿は、傍から見れば、見えるの姿形から逸脱した物だった。
どちらかと言えば清楚な大和撫子風の立ち姿で有りながら、少年を見つめている瞳は、まるで研究者が実験動物を眺めている時のように、無機質でありながらもどこまでも、冷たく絡みつくような熱を帯びている。
「さあ、もう一度聞こうか。
君にとって、世界の重さとは、果たしてどれくらいのものだい?」
もうかわし切れないと悟ったのか、少年は暫し熟考する。
縁側に気の早い蝉の鳴き声だけが響き渡る。
そして、数分後。少年はやっと重い口を開いた。
「…世界は。
僕にとっての世界の重さは、僕が抱きしめて離さないように出来るだけの量です。
それ以上でも、それ以下でもありません」
「…ほう
ならば、今の君にとって、君の背負っているものは、まだまだ軽いと見えるね」
少年の言葉に対し、まだ熱の帯びない瞳を少年から外すと、彼女は、煙管を咥え直し後ろに投げ出した両手に体重を預けるように顔を逸らし、空を見上げた。
「軽いですか…。
それなら、貴女にとって、世界はどれくらい重たいのですか?
自分にこんな意地悪な問をふっかけるくらいです、当然答えは用意しているのでしょう!」
「ふぅーーーっ……。
私にとっての、世界の重さかい?もちろん、答えは用意しているさ…」
ぶっきらぼうに呟く少年を傍目に、冷めた瞳に濁った熱を含ませ彼女はそっと煙管の煙を吐き出してから、口を開いた。
「三kgだ…」
「……え?」
「だから…、三kgだよ。
それとも三千gの方が、君には分かりやすいのかい?」
吐き出されたのは、たった数kgの質量。で、ありながら、どこか確信めいたように力強く、そして、あっさりと吐き出された言葉。
少年は思わず、首を傾げてしまう。
「…いえ。三kgで理解できますが…。
……理解できません」
「ふむ、それは、いったい、理解できるのかできないのか、どっちなんだい?」
呆けたような表情を浮かべる少年を見て、苦笑を浮かべながら、彼女は煙管を咥えなおす。
胸いっぱいに、煙を吸い込み紫煙を吐き出しながら、達観したように、口を開く。
「正確に言えば、三kgしか無かったというべきかな。
あの時、あの時代。
あのどこまでも、愛しくて、どこまでも狂っていた我々人の、根源たる場所では…ね」
楽しげに嗤う彼女の瞳には、何も写っていない。
まるでどこか遠くを眺めているかのような、郷愁を胸にかき抱きながら、彼女は遠く瞳に映らない何かを見ていた。
「それは…。第一次魔導大戦の頃の話でしょうか?」
「おや?今の学校では、そう習うのかい?
私たちのような生き物にとっては、君たちの言う第二次魔導大戦など、お遊びだ。
それに私たちは、あれにそんな長ったらしい名前を付けた記憶はない。
私たちが、呼んでいたのは、ただ、一言。―――『聖戦』だ。」
「お遊び…に、聖戦ですか。
随分な物言いですね。
自分が伝え聞くだけの歴史の中には、聖戦と呼べるような美談も建前も、あの戦争にはなかったと聞いていますが?」
「戦争に美談や建前など必要ないよ…。有るのは薄汚れた欲望とだけだ。
殺すのも、生きるのも、奪うのも、全部全部、ただの欲望の成れの果てさ。第一、見たいものや欲しいものがあったから私も参加したわけだしね…」
風は無い、彼女の口から吐き出される紫煙が、重く沈殿していくような感覚。その錯覚に囚われまいと、少年は首を振る。
「ならば、どうして!」
「『聖戦』と呼ぶのか……、かい?」
「……っ。……はい。」
言葉を遮られながらも、まっすぐ彼女の瞳を睨みつける少年。
いつの間にかその瞳は、相対する彼女の瞳に絡め取られるように、冷めていたはずの意識が熱く沸騰させられた物となっている。
その熱さに比例するように、闇色の瞳を沈殿する漆黒で塗りつぶし、それでもまだ足りない、深い深い奈落の底のような絶望しか感じ得ない色を浮かべ、彼女は目の前に座る彼を見た。
「あそこには、全てがあったからさ……」
端正な口元を歪め笑う彼女、その圧倒的に異質な雰囲気に押しつぶされるように、少年は口を開くことができなくなった。
「嘗て、我々人は、生き残るために火を産み出し、鉄を打ち武器を作り上げた。
森羅万象を理解するために神を穢し、禁忌の法を手に入れた。
効率を求め、資源を採掘し魔導を科学を技術を発展させた。
そして、その業の果てにて。闘争本能と富と名声、その全てを掴むために、我々はその全てを使って、全精力をかけて戦ったのさ。
生への渇望、富への渇望、本能への渇望。
あれは、我々人の人生、いや世界の縮図だった。
それを『聖戦』と呼ばずして、なんて呼ぼうか?
ああ……、我々にとって、あれは正しく聖戦だったよ。善も悪もない、ただ、己の望みを希望を叶えるために誰もが武器を取り魔を使役し戦ったのだから。
君達も、そう思うだろう?」
「……」
間近で弾ける狂気に、言葉を失った少年。
すでに、彼女の瞳には、傍らに座る少年の姿は写っていなかった。
夢見がちな少女のような表情を浮かべながら、彼女が見ているもの、それは、嘗て駆け抜けた、血塗られた大地の記憶。
嘗て、人が最も強く生き、沢山の悲しみを生み出した時代。
そして、その中を駆けて逝く、共に生きた戦友達の姿だけであった。