ある聖女の葬送
戦争を終わらせることと、世界を平和にすることは全く別の話だ。
どう頑張っても、人類に多数の幸福を導くすべは無い。それは歴史が語る真実である。
政治も、宗教も、経済も。
人が生み出した、モノは少数に栄華と繁栄を与えてもその他多数は、その繁栄を支えるための敷石でしかない。
だから、私は栄光の孤独を求めて戦った。
世界平和という教義を説き、多数の幸福を求めて、すべてを背負う少数の王足らんとした。
それが滅びの道だと知っていながら―――。
私は偽聖女である、有態に言ってしまえば聖女ですら無い。
それでも私は、この国の玉座に座り、今日も奇跡を体現した存在としてこの座に在り続ける。
私の成長は、12歳にして停滞していた。
聖女の奇跡
そう呼ばれた奇跡は、間違いなく聖女が起こしたものだ。
しかし、その奇跡を起こした聖女は私ではない。
そう、私ではなく、本当は、私の義姉こそが聖女であった。
「君は、不思議な子だね。
あの一族に、特有の傲慢さは持ち合わせているのに、それを王の器として昇華している」
そう言って嗤うのは、神柱に縛り付けられた天使。
聖教の経典に描かれた、翼の生えたヒト。
古き者達の末裔。
我々、聖教徒において、最も忌むべきモノと呼ばれる者たちの末裔である。
「…否定は、しません。
元より私は、すでに死んだ身です。
残った骸は、この地に、我が臣民へと捧げられたものですから」
「ははは、恐ろしいね。
やはり、その気質は、導師共に似通った狂気を感じる」
籠の中の鳥でありながら嗤う彼は、とても美しく静謐にすら見える。
「…まあ、そうでもなくちゃ。
君らにとっての禁忌の技術など使いはしないよね」
そういって天使が睥睨する少女の姿は、異様そのものであった。
片手を柱に縛り付け、残った手で鋭い刃を持ち腕の筋に一筋の切れ目を入れる。
流れ出る朱い血潮にも頓着することなく、その開いた標本を観察し、空いた手で手元の使い込まれた白紙の本へと、傷の経過、筋の動き、出血量、等々を書き込んでいく。
「禁忌とは、経典における禁忌。
臣民の役に立つのであれば、私は、気にしない…」
彼女が座る玉座の背には、インクの乾かぬほどに積まれた。同じ装丁の本が何冊も何冊も、何百冊も山と積まれていた。
「我が身、我が生、我が死。
すべてを切り刻み、記録し、後世に残す。それが私の使命、私に与えられた生きる意味ですから」
パチリと腕を縛る拘束を解くと、まるで、巻き戻るように彼女の傷が塞がった。
「これもまた、私に与えられた試練ですから…」
膝を付いて座り、神に祈るように腕を組む。
たとえ祈る相手が、己の神でなかろうと。
彼女のその姿は、神に許しを請う敬虔な信者の姿であった。
義妹が死んだと聞かされたのは、国を出て10年が過ぎた頃であった。
久しぶりに会ったその体は、最後に見た12歳の時のまま、もう10年も少女の姿のままで、華奢な方にこの国を背負い立ち、そして、今、まるで眠るかのように彼女は永遠の眠りについていた。
彼女の体に触れると、その体がゆっくりと風化していく。
さらさらと砂の様に、風に乗って彼女の体が世界へと連れ去られていく。
「…お疲れ様、聖女様」
彼女の玉座。
大聖堂までの道のりは、街、町、村、問わず彼女のために黒一色に染まっていた。
国が泣いている。
幼い姿の一人の少女の為に。
それだけ、彼女は国民に愛されていた。
国が泣くだけのことを彼女は成したのだ。
聖女だけしか使えない出来損ないの魔法ではなく、魔術を取り込んだ医療技術の発展。己の体の特性すら使い、生きた標本として自らの体を切り開き、彼女は人体という未知を解き明かした。
人の胎内にある魔臓器の存在と、魔術を併用した医療技術、そして、今、人が魔素に侵されるとどうなるのかを己の体を使い実証して見せた。
長らく解き明かされることの無かった風化という現象の意味。
一部の神獣のみが、死ぬときにおこる、魔獣の消滅とは全く別の、その生きざまが世界へ受け入れられた証。
カランと乾いた音のみを残して、彼女の体は世界へ還った。
残されたのは、結晶化した魔臓器が一つ。
神獣の遺物には遠く及ばない、しかし、嘗ての英雄・偉人達が残した聖遺物と同じように、彼女の体も己の生きた証を残して消え去った。
「…貴女は、私の事を聖女だと言ったわね」
所詮、私が使えたのは、時を停滞させるだけの小さな魔法。
私は、彼女の幼い体に巣くった病巣を取り払うことはできなかった。かつての聖女であれば、もしかすればそのような魔法をもって生まれた者もいたかもしれない。
しかし、私にできたのは、彼女の成長と共に、その時間を限りなく遅くすることのみ。
与えることできたのは、ゆっくりと死ぬだけの体だった。
治ってもいない、痛みがなくなったわけでもない、死なないだけ。12歳で死ぬはずだった彼女の体に10年の死なないだけの時間を与えただけ。
「どこが、聖女だ…。
幼い義妹一人救えず、出来たのは痛みに苦しむ体に、只、死なないようにしただけ、死を先延ばしにしただけ…の」
しかも、最後に彼女は、その時の牢獄すらも己の力で打ち破り、自ら死を賜ったのだ。
最後まで、笑顔で―――。
「また、珍しいものを見た。
他人の為に泣く聖女がいるとはね」
「私は、聖女ではない」
「彼女にとっては、あなたこそが聖女だったのにかい?」
不躾な声は天から響いていた。しかし、我らが奉じる神ではない、あの方は人には決して語らず、導師のみがそのお言葉を聞ける、そんな存在だ。
顔を上げる、彼女の玉座、大聖堂の上、大鐘楼の窓辺に腰掛けて、彼は私の事を見下ろしていた。
――天使。
古き者。
又は、鳥人とも呼ばれる種族。
彼の様に、似通いながらも人では無い種族は実は多い。しかし、我らが信ずる聖教は、それらをすべからく異端と認定している。
人では無いモノ、『忌誕』と憎しみすら籠めて、導師達は彼らをそう呼ぶ。
本来遍くすべてに与えられるべきだった『始原の果実』を食い散らかし、すべての創造主たる存在を殺めたと経典に描かれた12の氏族の一つ『鳥の氏族』の末裔。
始まりの氏族とも呼ばれる彼らの中でも、もっとも医療魔術に長けた氏族。
時代によっては、神として崇めた文明すら存在する古き者。
「彼女は、あなたの封印すらも破ったのですね」
「それが、あの子との契約だった。代わりに僕の知る限りの知識を教え込んだ」
「ふふっ。いったいどれだけの禁忌に触れたのでしょうね……」
「歴史を変える程かな」
「…それは!?」
遠く、昇る月を眩し気に見上げながら、古き者は口を開く。
「僕らですら、解き明かせなかったその先に彼女は行ったんだよ。
つまり、僕らのような紛い物ではなく、本当の意味での神々の領域にね」
カラン、ガランと深い慟哭を込めて大鐘楼の鐘が鳴る。
「生きながら、死にゆくもの。
死への旅立ちはすべからく、人に与えられた始原の試練だ。
だからこそ、人は歴史を紡ぎ、その足跡を残そうと歩き出す。
彼女は、己の死を見つめ、それを受け入れるために。その歩みを続けた。
僕らにはできなかった。
あの日、歩くことをやめてしまった僕らには―――」
鐘の音色が祝福を奏でるように、古き者の体が風化していく。
サラサラと、砂が鳴きながら空へと還っていく。
「でもね、彼女を見ていたら、僕も……もう、いっぽ………」
翼が解け、数枚の羽根だけが残る。
彼らが生きた証。
世界が、それを認めた遺物。
その日、大陸の北にて、一つの国がその名を変えた。
それまでの、神を奉じる名を捨てて、一人の少女がと、一人の羽根が生えた人が、生きた証を残す医療大国へと。
その、玉座を守るモノは代々聖女と呼ばれ、その手には紫色の石がはめ込まれた錫杖を持ち、その頭には羽を模した冠を被ったという。
―――私には、歩き続けるしか、道は無かった。
政治を壊し、宗教を嗤い、経済を焼いた。
全ては退路を断つために。
そして至は、平和という虚像への殉教者である。結局、私も人の業から逃れ出る術は持たなかったということだ。
それでも、私は、あの日消えた彼女の為に、この身を世界に焚べ続ける。
それが、彼女の望まぬ道であると知りながら―――。