再び図書館
「おい、まさか助けを求めるつもりじゃないだろうな」
須賀野先輩がさらににじり寄る。無意識的な行動だったが、実のところ先輩の言う通りだっただろう。
だけど何だかこの人、図書委員の子にまで連帯責任を負わせかねなかったから、巻き添えにするわけにはいかないという気持ちが湧いてきて、こう答えた。
「いえっ、その子図書委員なんです。せめて本だけでもこの場で返したくて……」
須賀野先輩が図書委員の子に問う。
「氏名、学年、クラス、所属部活を答えろ」
「えっと……幅木綴理です。中等部2年2組、部活には入っていませんが、その人の言う通り図書委員です」
ハバキってあんまり聞かない苗字だな、と緊迫した状況なのに呑気なことを考えてしまった。
須賀野先輩は生徒手帳とは違う、黒くて分厚いメモ帳を取り出して読みだした。
「幅木綴理……確かに図書委員だな。風原、本を返してやれ」
「あ、はい……」
私は幅木さんに恐る恐る小説を渡す。
「ごめんね、急に呼び止めちゃって」
「何かあったんですか?」
「まあ、ちょっといろいろ……」
須賀野先輩は「用が済んだら行ってよし」と高圧的に幅木さんに言う。幅木さんは会釈して早足でどこかにと行ってしまった。
「さて、これで期限内に本を返せたとはいえ、廊下を走った罪状が消えるわけではない。腕立て伏せ、用意!」
「えー!」
「えーじゃない! 返事は『はい』のみだと言っただろう!」
軍曹殿は全く容赦がない。
*
あの後戻るのがだいぶ遅れて萩屋先輩に怒られるし、練習も上手くいかなくて無茶苦茶な一日だったが、何よりもきつかったのは翌日になって筋肉痛が出てしまったことだ。だってあの軍曹、29回でカウントを止めて延々とやらせるんだし。在籍年数は私の方が上なのにこの仕打。時間が経つにつれてだんだんむかっ腹が立ってきた。
「マジありえない。廊下をちょこっと走っちゃっただけなのに……こんなの体罰じゃん」
いまだにブツブツ文句言いながら、昼食後の食器を返却口に戻しにいく。トレイを持つだけでもピリッと腕に痛みが走り、落としそうになってしまった。
五時間目は理科で、理科室に移動しなきゃいけないから早めに教室に戻って準備しないといけない。だけど足は図書館の方に向いていた。改めて、昨日のことを幅木さんに謝らなければならないと思ったからだ。
図書館に入る。カウンターに座っていたのは別人だった。
「いないのかな」
とりあえず探してみる。星花女子の図書館は公立校のよりも広くて、何やら難しそうな書籍もたくさん置かれている。それには目もくれず幅木さんの姿を探すが、見つからない。
時間も時間なのでまた後日探すか、と出ていこうとしたときだった。
小脇に本を数冊抱えた、幅木さんがカウンター奥の部屋から出てきた。
「幅木さん!」
声をかけると、幅木さんは眉根を寄せて口に人差し指を当てた。そうだ、ここは図書館じゃないか。こっ恥ずかしい。
「ええと、風原先輩、でしたっけ」
「え、何で私の名前知ってんの?」
「この前生徒手帳見せてくれたじゃないですか。ちょっと見て珍しい苗字だなと思いまして」
風原という苗字について調べたことがあるが、意外にも全国に100人もいない珍姓に分類される。それでもハバキの方が珍しいと思う。
「先輩も私の名前を覚えてましたよね。同じく珍しい苗字だからかと思いますが」
「うん。でもこの学校、そもそも珍しい苗字の人が多いよね、なぜか」
話が脱線しそうになったので本題に入る。
「そうだ、昨日のことで迷惑かけちゃったから謝りに来たんだ。ごめんなさい」
「いえ、本を期日に返して頂けたのはありがたいんですけど、昨日は何があったんです?」
私は事情を説明した。腕立て伏せの件も含めて。
「それは災難でしたね」
「余裕を持って返さなかった自分も悪いんだけどね。面白かったからつい何度も読んじゃって返しそびれちゃった」
「そうですか、それは何よりです」
「音楽科のある高校が舞台で、主人公のバイオリンの腕前がどんどん上がっていくのがさー……」
バイオリンの話題を振ったから食いついてくるのかな、なんて思っていたけど、
「すみません、本を直さなきゃいけないので」
「あ、ご、ごめん!」
時計をちらっと見たら、もうそろそろ教室に戻らないといけなかった。最後に一言だけ何か言おうとしたものの、考える余裕があまりなく、口をついて出てきたのがこれだった。
「あの、8月最初の月曜日に市民会館で吹奏楽コンクール予選の東部地区大会があるんだけど、良かったら観に来てくれないかな?」
謝りに行ったついでお誘いをかけるなんておこがましいにも程があった。私は慌てて付け足した。
「あっ、余裕があればでいいんで。幅木さんも忙しいだろうし……」
「わかりました。行けたら行きます」
行けたら行く、は日本人らしい遠回しなお断りの仕方だ。でもまあ、赤の他人に近い人に向かって直接ごめんなさいとは言いづらいだろう。
「じゃ、じゃあ授業があるからこれで」
「またいつでもお願いします」
私は早足で(もちろんあの鬼軍曹に咎められない程度の速さで)図書館を後にした。ちょっとお話をしただけなのにひどい疲れを感じた。
「急に距離を詰めるようなことをして何考えてんだろうな、私」
読んでみてどうでしたかと聞かれてもないのに小説の感想を話そうとしたり、コンクール鑑賞に誘ってみたり。音楽やってるからって勝手にシンパシー感じちゃってそれで距離感がバグっちゃったのかな、というのが自己分析した結果だった。
もうちょっと慎重にならないと、と反省した。