エマージェンシー
「やばっ……」
京橋さんの顔面は蒼白になっている。慌てて私が体を抱え起こそうとしたところ、「ちょっと待って!」と怒声が飛ぶ。顧問のマリリン先生がロープを飛び越えて、巨体を揺らして駆けつけてきた。
「すぐに保健の先生たちが来るからそのままにして!」
星花には四人も養護教諭がいる。ものの数秒でやってきて、保健委員も担架を持ってきた。
「すみません先輩、どうも足首をやっちゃったみたいです……」
京橋さんの表情は痛みで苦悶しているというより、何か大きな失敗をしでかしたときのような絶望感漂うものに近かった。私はただ、養護教諭の応急処置を見守ることしかできなかった。
「ちょっとこれはまずいかもね……」
養護教諭の誰かが言うと、マリリン先生は「そんなに酷いんですか?」と聞く。
「アキレス腱をやってるかもしれません。市立病院が休日診療で開いてますから、そこに連れて行きましょう」
養護教諭たちは素早く応急処置を済ませると担架に乗せて、グラウンドから運び出した。そのまま救急車で病院に行くことになって、マリリン先生が付き添うことになった。
「ウ、ウソでしょ……」
私の後ろで、古屋さんがへたり込んでいた。
顔を見てギョッとした。笑っていたからだ。だけど酷く歪んだ笑顔だった。
私が小学生の頃に出たコンサートのことを急に思い出した。ある出場者の子が本番で何度もミスしてしまい、引き上げてきたときに古屋さんのように笑っていた。
ミスした自分を励ますためではなかった。後で知ったが、この子の親は非常に厳格で音楽を教えるのに体罰も辞さなかったという。
恐怖心を和らげるために、本能的に出てしまった笑いだったのだ。
「ここまでするつもりはなかったのに……」
「古屋さん……?」
古屋さんの顔がどんどんクシャクシャになっていき、ついに泣き出した。
「違う、違うの! 私はただ失敗してほしかっただけなのに! ケガさせたくなかったのに!! うわああああ!!」
「古屋さん、落ち着いて!」
「わああああ!!」
古屋さんの体を揺すったところで、どうにもならない。一つ確かなのは、古屋さんも走れる状態ではなくなったということだ。失敗してほしいとかケガさせたくなかったとか、もう私には何が何だかわからない。
「よしよし、とりあえずあっちに行こう」
古屋さんの担任の先生がやってきて抱え起こされ、そのまま救護テントに連れて行かれた。
「何てこと……」
いつの間にか根尾部長もいた。未参加とはいえ部活対抗リレーに一番力を入れていた人は、もうこの世の終わりが来たかのような顔をしていた。私もきっとおんなじ顔つきになっているだろう。
「どうします? 代わりの選手を出しますか? それとも棄権しますか?」
企画委員が根尾部長に尋ねる。しかし部長はうなるだけで答えられない。
この部活対抗リレーには部長の考えの押し付けがある。だけど京橋さんは一番やる気があったし、古屋さんだって楽しみにしていたはずだ。私のことや部長はともかく、この二人の頑張りは無駄にしたくない。私は大きく息を吸って、部長の代わりに答えた。
「出ます! 出させてください!」
根尾部長は目をむいた。
「風原さん?」
「今から二人の代役を探す時間はありません。部長、お願いします。一緒に出てください!」
「私が!?」
根尾部長の眼鏡がずり落ちた。
「まだ負けると決まったわけじゃありませんから」
「……」
部長は眼鏡を外すと、自身の両頬を思いっきり叩いた。凄い音がしたから今度はこっちがびっくりした。
「わかったわ。仲間がピンチのときには体を張って鼓舞するのも部長の務め……やりましょう」
眼鏡をかけ直し、キリッとした表情に戻った。この辺は、さすがは伝統ある星花女子学園吹奏楽部の部長だ。
「しかし、あと一人はどうするの?」
私は企画委員に言った。
「一人で二人分走ることはできますか?」
企画委員は「少し待ってください」と言い残して、本部テントに向かった。
「風原さん、あなた……」
「今のところ、一番足が速いのは私です。京橋さんと古屋さんの分まで走ります!」
企画委員が戻ってきた。
「緊急事態ということで、特例でOKがでました」
「よしっ。じゃあ私が第一走者と第二走者に……」
「待ちなさい、作戦変更よ」
根尾部長が止めた。
「私が第一走者兼第二走者になるから、風原さんはアンカーに回って」
「部長が?」
「一度に200メートル走るなら体力が要るでしょ。今は学生指揮やってるけどフルート担当でもあるし、肺活量なら負けないわ」
部長がすごくかっこよく見えた。こんな不穏な状況でなければ拍手していた。
そういうことで走者が入れ替わり、私はアンカーとなった。
所定の時刻を過ぎたが、第二組の出走の時間となった。京橋さん古屋さんのことが心配だけど、まずは自分がやることをやってからだ。