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旧・私のエッセイ:残り物(?)

私のエッセイ~第百八十四弾:小林多喜二~ 拷問に散ったプロレタリア文学の勇者

 皆さん、こんばんは! ご機嫌いかがですか・・・?


 皆さんは、国語や社会の時間に、『プロレタリア文学』という言葉を習ったことがあると思います。


 定義によりますと・・・


 『プロレタリア文学とは、1920年代から1930年代前半にかけて流行した文学で、虐げられた労働者の直面する厳しい現実を描いたものである。』


 とされておりますが・・・


 その文学におきまして、もっとも有名な作家が、今宵、私が取り上げる、『小林多喜二こばやしたきじさん』でしょう。


 『小林多喜二こばやしたきじ(1903~1933年)』


 ・・・前期プロレタリア文学における『文戦派ぶんせんは葉山嘉樹はやまよしきの傑作・・・『海にくる人々』『セメントだるの中の手紙』『戦旗せんき』に強く影響を受け、常に自らの政治的良心というものに、まっすぐに・・・そして忠実に行動した、プロレタリア文学のゆうです。


 この文学は、大正末期から昭和初期にわたって、芸術派の文学と対立しながら、思想的な立場から、既成文壇きせいぶんだんを否定するものであり・・・いってみれば「革命の文学」というべきものを目指したものでした。


 具体的には、第一次世界大戦以後の、資本家(=つまりは、「使用者」)と労働者の対立の激化を背景として展開された文学・・・そういったところですね。


 多喜二さんの代表作には、『蟹工船かにこうせん』『党生活者』がありますが・・・


 特に、前者の『蟹工船かにこうせん』が有名ですよね。


 これは、大日本帝国海軍の保護を受け、オホーツク海にまで出漁しゅつりょうしてカニをあさり、暴利ぼうりをむさぼりつづけた『蟹工船』という、カニの缶詰を作る工場船の内部で、過酷な労働条件に苦しむ労働者の群れが、一致団結して、血も涙もない非情な雇い主に立ち向かい、闘争に立ち上がるまでを、多喜二さんご自身の綿密な調査によって、写実的に・・・リアルに描いた傑作です。


「おい地獄さぐんだで!」


 で始まるこの物語。


 実は、ネット上の『青空文庫』にて、どなたでも無料で、すぐに読むことが出来ます。(もちろん、スマホでも。)


 「蟹工船 青空文庫」で検索してみてください。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 ・・・プロレタリア文学は、昭和六年(1936年)の満州事変まんしゅうじへん契機けいきにして、当局の弾圧が強化され・・・昭和八年(1933年)以降、多くの「転向作家」を出し、昭和九年(1934年)には、プロレタリア文学組織そのものが解体し、運動は崩壊してしまいました。


 そういった弾圧のさなか、多喜二さんご自身も、1928年の、いわゆる三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表し・・・作品中の特別高等警察(= 特高とっこう警察)による拷問の描写が、特高警察の怒りを買い、後に拷問死させられる引き金となります。


 詳しくは、『小林多喜二の拷問死、遺族が告訴試みる 弁護士供述記録』というサイトを参照していただきたいのですが・・・


 「小林多喜二 虐殺」で画像検索すれば、多喜二さんの最期の姿を・・・仲間や親族に見守られながら、横たわる彼の痛ましいお姿を拝見することができます。(閲覧注意)


 ここで、こんなお話を。


 多喜二さんの命を奪った、にっくき法律があります。


 それが悪名高き・・・


 『治安維持法ちあんいじほう』。


 もともとこの法律自体は、「皇室や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された法律」でした。


 しかし、多喜二さんが特高とっこうに逮捕・拘束されたときには、「社会主義運動・思想の自由、労働の自由、発言の自由など」を取り締まる、やっかいなものに変化しておりました。


 昔の東欧やソ連のような「秘密警察」よろしく、特高のスパイが暗躍あんやくする、そらおそろしい世の中だったのです。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 ではここで、超長い、多喜二さんの拷問がらみの記事を紹介してみますね。


 日本プロレタリア文化連盟の「大衆の友」に載った窪川いね子の「屍の上に」の一節は次のように記している。


 「午後十一時、阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。前田病院へ電話をかけると、死体は自宅へ帰ったというのだ。


 我々六人はものを言うとふるえるような気持ちで、言葉少なく歩いた。


 昨年三月以前、まだ文化連盟の犠牲者たちが外にいる頃、同志小林を訪ねて来た道である。


 家近くなると、私は思わず駆け出した。玄関を上がると左手の八畳の部屋、もとの小林の部屋である。


 江口渙が唐紙を開けてうなづいた。床の間の前に、蒲団の上に横たえられた姿! ああやっぱり小林であった。


 蒼ざめ、冷たくこわばっているその顔! それはやはり同志小林の顔である。彼は十ケ月ぶりで自分の部屋に帰って来ている。それを彼はもう知らない。


 我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。我々の目は一斉に、その無残に皮下出血をした大腿部へそそがれた。


 みんな一様にああ! と声を上げた。蒼白くこわばった両脚の太ももは、すっかり暗紫色に変じている。我々は岩田義道を思い出した。


 お母さんが、ああッ、おおッとうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。


 中条はそれを手伝いながら「お母さん、気を丈夫に持っていらっしゃいね」、「ええ、大丈夫です」。


 お母さんは握りしめているハンカチで、涙を両方へこするように拭いて、ははっ、おおっと声を上げた。「心臓が悪いって、どこ心臓が悪い。うちの兄ちゃは、どこも心臓がわるくねえです。心臓がわるければ泳げねえのに、うちの兄ちゃは子供の時からよう泳いどったんです」・・・中略・・・押しあぐる息で、お母さんは苦しそうに胸を弱って、はつッ、おつッと声を上げつづけた。


 涙を腹立たしそうにこすっては、また顔の上にかがみ、小林のこめかみの傷を撫で「ここを打つと云うことがあるか。ここは命どころだに。はア、ここ打てば誰でも死にますよ」。それから咽喉の縄の跡を撫で、両頬にあるさるぐつわの跡を撫で廻した。しわを延ばすように力を入れてこすり、血を通わそうとするように。


 お母さんは、小林の顔に、胸に、足に、見るところ毎に、敵の凶暴な手段の跡をはっきりと認めた。おっ母さんが見たように、我々もまた同志小林の顔に、胸に、足に敵の凶暴な手段の跡をはっきりと認めた」。


 翌21日夜、多喜二は母親セキの家(東京都杉並区馬橋)に運ばれた。セキは、変わり果てた息子の体を抱きかかえて次のように泣き叫んでいる。


 「あぁ痛ましや、痛ましや。心臓まひで死んだなんてウソだでや。子供の時からあんなに泳ぎが上手でいただべに。(中略)心臓の悪い者にどうしてあんだに泳ぎができるだべが。心臓まひだなんてウソだでや。絞め殺しただ。警察のやつが絞め殺しただ。絞められて息が詰まって死んでいくのが、どんなに苦しかっただべが。息のつまるのが、息のつまるのが、、、あぁ痛ましや、痛ましや」。(泣きながら)「これ。あんちゃん。もう一度立てえ!みなさんの見ている前でもう一度立てえ!」。


 同志たちが死因を確定するため、遺体解剖を依頼したが、どの大学病院も引き受けなかった。次のように記されている。


「東大と慶応はすでに警視庁の手がまわり断られる。慈恵医大が引き受けてくれて寝台車に遺体を乗せて向かう。医大は警視庁からの圧力にいったん引き受けたのに頑として受けられないと拒否」。


多喜二の遺体の様子につき次のように記されている。


 「左右の太ももは多量の内出血で色が変わり膨れ上がっていた。背中一面に痛々しい傷跡があった。手首には縛りあげられたことによりできた縄跡、首にも同様の縄の跡が認められた。左のこめかみ下辺りに打撲傷、向こう脛に深く削った傷跡が残っていた。右の人差し指は骨折していた」。


 「安田博士の指揮のもとで検診がはじまる。すさまじいほど青ざめた顔はでこぼこになり、げっそりと頬がこけ眼球がおちくぼみ十歳も老けて見え左のこめかみにはバットで殴られたような跡がある。首にはひとまきぐるりと細引きの跡。両方の手首にも縄の跡。下腹部から両足の膝頭にかけて墨とべにがらを混ぜて塗りつぶしたようなものすごい色に一面染まっている。内出血により膨れ上がっている。ももには錐か釘を打ち込んだような穴が15~6箇所もあいている。脛にも肉を削り取られたような傷がある。右の人差し指が反対側につくぐらい骨折。背中も一面の皮下出血。上の歯も一本ぐらぐらとぶら下がっている状態。内臓を破られたために大量の内出血がすでに腹の中で腐敗し始めていた」。


 多喜二の死を知った人たちが次々と杉並の家を訪れたが、待ち構えていた警官に検挙された。3.15事件記念日の3.15日に築地小劇場での葬儀が企画されたが、当日、江口葬儀委員長他が警察に逮捕されたため取り止めになった。多喜二の墓は南小樽の奥沢共同墓地にある。「昭和5年6月2日小林多喜二建立」とあるので、多喜二は絶命の3年前に墓を建立していることになる。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 ・・・とても、涙なくしては読めませんよね。


 では最後に、こんな余談を・・・。


 『悪法も法なり』という言葉があります。


 「たとえ悪い法律であったとしても、それが法である限りは守らなければならない」


 といった意味合いで・・・あの古代ギリシアの哲学者ソクラテスが言ったという逸話がありますよね。


 彼は、「若者をまどわせ、かどわかした罪により・・・」などという、強引な言いがかり、こじつけにより、毒殺による死刑を宣告されます。


 そのとき、お弟子さんたちにこう告げたといわれています。


 「・・・わたしは、生まれてから、この国の法律に守られ、育てられて、こんにちまで生きてこられた。

 その法律が、いま、わたしに『死ね』といっているのです。わたしは・・・その法律に素直に従い、この毒で人生の幕を閉じます・・・。」


 そして彼は・・・


 「先生・・・ソクラテス先生・・・!」と泣いてすがる弟子たちに別れを告げ、毒をあおって最期を迎えたそうです。


 でも私は納得できません。


 ソクラテス師匠と、多喜二さんの尊い命を奪った法律を、『法』として認めることはできません。


 それは、どこまでいっても『悪法』なんです。


 正しい人の人権や命を奪う決まりごとの、なにが法律なものですか。


 『悪法も法なり』じゃありません。


 私に言わせれば、『悪法は悪法なり!』に他なりません。


 最後に、あらためて・・・特高に拷問されても、自らの意志を命尽きるまで・・・最後まで曲げずに貫いた、立派な多喜二さんの御霊みたまに心から敬意と哀悼あいとうの意を表し、ここで黙祷もくとうをささげたいと思います。


 合掌。


 ・・・では失礼致します。


 m(_ _)m

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