愚痴です。
本当に愚痴ですからね?読まなくていいんですよ?
まぁ、なんと言いますか。最近筆も仕事も進まんわけですよ。
「私と言う形は社会にとって好ましくない」っていうのは、初めから分かっていたことなんですが、いざ突きつけられるとね。非常に辛いわけですよ。
例えば執筆に絞って言えば、とにかく伸びない、進まない。筆を取ろうと思ってパソコンを立ち上げると、ワードを見つめながら気づいたらもう深夜になってしまう。脳が筆をとることを拒んでいるようにね。
数字は全てじゃないよねって言ってくださる方もいると思うんです。ですが私がその人の作品に大体お邪魔すると、そうするととても数字を持っていらっしゃるわけですよ。変な笑い声が漏れちゃいますよね。「数字は全てじゃない」と言うのは、「衣食足りて礼節を知る」って意味なのかしらと、そう思うわけです。
そのくせ数字が全てだって言う会社の上司なんかは、大体「数字が振るわないとき」にそう言うわけですよ。そうでない時は「自己責任」って言うじゃないですか。自己責任って言っている時点で自己責任者じゃなくなってしまうのはなんとも皮肉なものです。
まぁぁぁ伸びないんですよ。仕事も小説もね。びっくりするくらい伸びない。私にいかに需要がないかよーく分かるわけですよ。
好きなこと書けばええんやでって言って下さる方もいるじゃないですか。そう言う方の好きなことって、本当に読者の方と心を寄せ合える好きなことだから言えるんじゃないですかね。知ってますか?こう、日に1pv入ると喜ぶ心理とか。
感想は当然飛んできませんよ。才能も需要もないわけですから。コナン・ドイルになれる人は能力のある人ですし、好きなことを書いて認められる人は需要のある人なんですよ。
……こう言うこと書くとそれこそ人間性に問題があるんじゃないかなと私は思うんですけどね。私にはとにかく需要がない。努力の方向性にも需要がないし、たぶん努力もあまりしていない。
そりゃ伸びないわけですよ。頭抱えてぼんやり一人で考える時間が一番自分らしい時間なんです。特にお金にもならないことを考えながら、部屋の隅っこで自己否定をするための論理を捏ねたりするのがとても心安らぐんです。
それでも好きなことをすればいいって言うんですかね?自分らしく生きればいいって言うんですかね?部屋の隅っこでウジウジ考え込む「自分らしさ」が正しいんですかね?
そうそう、人に気を遣ったりとか、誰かのために生きることを「自分らしく生きていい」って言うのは身勝手な理屈じゃないですか?だって、人に気を遣うその人らしさを否定して、自分の意見をハキハキ言うことだけを正しい自分らしさと言ってしまえるのって、それがその人の自分らしさってだけじゃないですか。「自分らしく生きる」って言葉大嫌いなんですよ。
ある程度縛られつつも、自分が生きていてぎりぎり不快じゃないくらいの社会がいいんじゃないかなぁと思います。そして、自分らしく生きるべきじゃなくて、自分らしさが嫌でしょうがないなら、自分らしく生きる必要もないって言う方が救いなのかなぁと思います。愚痴言ってもしょうがないですけどね。
あーあ。自分じゃない自分がいたらなぁ。取り替えてもらえるのに。
もしかしたら自分は取り替え子で、妖精の悪戯で人間社会にいるから自分が醜いのかなぁ。
流石に冗談ですよ、冗談。マニウケナイデネ。
いや、社会が変わるべきと言うわけじゃないんですよ。私と言う存在が、今形として残っているだけでも社会は優しいじゃないですか。「必要ない、需要ない、役立たない」有機物が呼吸をしていることに寛容なわけですから。ただなんだかなぁ。何というか、弱者なりに愚痴をこぼしたくなる時があるんですよね。これは多分分かっていただけると思います。
でも、あれですよ?だからと言って皆さんがわたしの側に落ちてくる必要はないですからね?鼻で嗤って通り過ぎて下さい。慰めてもらうと、慰められるという惨めさにかえって傷つくところありますし。まぁだからと言って、厳しい言葉受けるとショックで立ち直れないんですが。
愚痴聞いてくれてありがとうございます。こうやっていろんなストレスをなぁなぁにしながら生きてくんですねー。
ふぅ。
お付き合いありがとうございました。