兄
話は虎との戦いの翌日にまで遡る。犠牲を出した上に強敵を取り逃すという大敗北を喫したその翌日の朝。いつの間に眠ったのかも分からない、夢なんか見てなくて、電池が切れたようにプツンと暗闇に落ちていた八夜の意識を現実に引き戻したのは、豊かな出汁の香りだった。
「ん……んん? アサ?」
まさかアサが朝食を作ってくれているのかと思い、寝ぼけ眼を擦りながら、自分の左胸に手を当てる。心臓の鼓動と、微かに聞こえるいびき。アサは自分の中で爆睡している、そもそもアサは料理を作らない。作れない、ではなく、作らない。本人曰く『10人は余裕で殺せる』との事。なんか楽しくなっちゃって、いつも余計なアレンジを加えてしまうらしい。
良い子はちゃんとレシピ通り作ろうね。てか食べ物で遊ぶな。
それはさておき、ならばこの匂いの正体は一体。
「……あ、まさか」
ベッドから起き上がって、階段を降りると、調理中の音がより鮮明に聞こえた。じゅうじゅうと何かを焼く音に、何かを切り分ける音。間違いなく、第三者がキッチンで料理をしている。
泥棒なわけないのだから特に慌てもせず、しかし、少々意外な展開である事に驚きながら、八夜はキッチンにいる男に声をかけた。
「おはよう、お兄ちゃん」
八夜の声を聞いた彼は、びっくりしたように顔をあげ、そしてニンマリと、それはそれはだらしない笑みを浮かべながら、甘い声を出す。
「おっはよー! 八夜は寝起きでも可愛いねぇ! 顔は整った美人系なのに、ちょっと緩いパジャマで若干の幼さを感じさせるギャップがたまらない! てか髪下ろしてるの美人すぎるだろ! やばい! 直視できない! 愛しの妹を直視できないぃ!」
「……うん、ありがと。帰ってきてたんだね、とりあえず危ないから包丁はおろそ?」
包丁を握ったままの手で顔を隠す兄に、八夜は極めて冷静に言う。彼の奇行には残念ながらもう慣れてしまった。
兄、八雲十夜は、仕事の都合で家を何日も離れる事が多い。元々可愛がってくれる方だったが、なかなか会えなくなってからというもの、久しぶりに顔を合わせる度にその愛情表現が大袈裟になっていく。
きっと寂しいんだろう。でもこれだと、俗に言う『シスコン』って思われるかもしれないと、妹ととして兄の世間体を気にしている。彼女でも出来れば少しは落ち着くのかもしれないが、そんな色のある話は残念ながら聞いた事が無いし、紹介してあげられるほど、八夜の交友関係も広くは無い。
「お兄ちゃん、包丁」
いまだに顔を隠し、くねくねと気味の悪い動きを繰り返す十夜に、八夜は再度注意を促す。そうしてようやく通じたのか、十夜は「お?」と間抜けな声を上げて、包丁を見つめながら、何故か得意げな顔をして言う。
「包丁如きが僕に傷をつけるなんて、そんなの糠に釘、暖簾に腕押し、豆腐に鎹の如き所業だよー」
「いや意味全然違うじゃん。糠も暖簾も豆腐も包丁なんか突き立てたらズタズタになるでしょ。危ないからおろして」
三度目。ようやく十夜は奇行を止めて、さっさと朝食を椀と皿に盛り付ける。
「さて、戯れはこのぐらいにして、ご飯にしようか。早くしないと学校遅れるよ」
「お兄ちゃん、今日土曜だよ」
「社会人って曜日感覚ぶっ壊れるんだよ。顔洗って着替えておいで」
朗らかな顔で言う十夜に、八夜は「分かった」と言って洗面所に向かう。久しぶりに見るとは言え、よく知った顔のはずなのに、いつ見ても兄は不思議な容姿をしていると思う。
夜みたいに黒い髪、そして満月みたいな丸い瞳。まるで夜空のような容姿、なのに性格は太陽みたい、空がそのまま人になったみたいな人。なんてちゃって。
『ポエミーだねぇ』
いつの間にか隣に立ち、アサがぱちゃぱちゃと顔を洗っていた。
「あ、あはしゃこしゃこおはおーしゃかしゃか」
『ごめんごめん、歯磨きに集中して』
口を濯いで綺麗にしてから、アサにタオルを渡す。
「ポエミーって?」
『だって『夜空みたいな人』だなんて、ロマンチックな表現じゃない、詩人になれるよヨル』
「文豪になろうとかでなんか書いてみようかな」
『ランキング1位取ってー、コンテストで大賞とってー、書籍化してー、有名人になってー』
「八夜ー? 誰かと喋ってるー? 電話でもしてるの?」
心臓が飛び出るかと思った。て言うかアサが咄嗟に中に飛び込んできたせいで冗談抜きで内臓が出るかと思った。迂闊だった、完全に油断していた。アサがいる生活に慣れすぎて、人前でも普通に話してしまう事が多くなってしまっていた。知らない人ならいざ知らず、身内にはどうしようも誤魔化しが効かない。
「な、なんでもないよー! ちょっと寝ぼけて独り言してたかもー」
「あらあらお疲れなんだねぇ。お兄ちゃんの愛情朝ごはんを食べて心を癒すと良いよ。せっかくの休みなんだし、二度寝でもしちゃいな」
「二度寝……お兄ちゃんは、私に外でお友達と遊びなさいとか、言わないよね」
八夜が言うと、十夜は微笑みながら言う。
「そりゃ友達がいる事に越した事は無いけど、人それぞれに適合する生き方ってのがあるからね。疲れてるから寝ちゃう、だって、大事な時間の取り方さ」
「そうなのかな……何かしないと勿体無いって」
「何かするにも心も体も余裕がなくちゃ。焦ったって良い結果は出ないよ、なんなら余計にストレスが溜まる」
「そっか……どうせやるなら満足したいもんね」
「そゆこと、でもご飯は別だよ、冷めたら美味しくない、賞味期限は大事なんだから」
「はーい」
手早く身支度を整えて、席に着く。テーブルの上にはご飯と味噌汁、お新香と焼き鮭に卵焼きがホカホカと湯気を立てながら並べられていた。
「いただきます」
「はい、いただきます」
2人揃って手を合わせて言う。まずは味噌汁を一口啜って、ホッと一息ついた。
「相変わらずお兄ちゃんの料理は美味しいね」
「大事な妹が食べるものだよ? 気合いも愛情も入るよ、うん、若干愛情の方が多め」
八夜の食べる姿を満面の笑みで見ながら、十夜は言う。
「学校はどう? 楽しい?」
「うん……最近、楽しい。友達も出来て」
「おお、友達ね、友達友達……友達!?」
「その驚き方は失礼だよお兄ちゃん」
「ごめんごめん……え!? 友達!? 八夜に!?」
「訂正出来てないじゃん……まぁ、私自身そう思ったけど……」
なんせアサしか友達と呼べる存在がいなかったのに、この歳になって新しく出来るなんて思わなかった。自分でも驚いたのに、家族ならそれ以上に衝撃を受けるのは自然なのかもしれない。
(ヨルに彼氏とか出来たら、お兄さんショック死するんじゃない?)
ありえない話じゃ無いと思ってしまう。いや、多分無いだろうけど、でも絶対とは言い切れない。その場合って自分は殺人犯になってしまうのだろうか。
「いやぁ……びっくりしたな、ちょっと家を離れてる間にものすごく色々な事が進んだんだね。友達か、良い事だね、ちなみにそのお友達は女の子? それとも同性?」
「選択肢が無い……女の子だよ」
マジで彼氏が出来たら死にそうだな。疑惑が確証に変わっていく。
「別のクラスなんだけどね、いつも一緒にお昼食べたりしてるよ。何回か一緒に買い物も行った」
「八夜が普通の青春してる……お夕飯はお赤飯にした方が良い? それともお寿司でも取ろうか? その子も呼んでさ、僕も挨拶しときたいんだけど」
「やめて」
「お家わかる? 菓子折り持って挨拶行った方が」
「マジでやめて」
「兄視点から八夜の魅力をまとめた資料を渡した方が」
「イタすぎる、やめて」
かなり暴走している。まぁ、それだけ喜んでくれているという事なのだから、悪い事ではないのだろうけど……いや流石に家に行こうとするのは悪い事か。正常な判断、大事。
「キッカケは? どうやって知り合ったの?」
「それは……」
言葉に詰まる。怪異に襲われていたのがキッカケだなんて言えるわけないし、言ったところで信じてもらえないだろう。頭がおかしくなったと余計な心配と負担をかけるだけだ。
しかし適当な理由を考えようにも、対人経験の深刻な不足から、そもそもどうやって友達になるのか発想にすら無い。まいったな、なんか話すような事あったっけ。
あ、そうだ、良い事思いついた。八夜は少し困った顔を浮かべて言う。
「友達の彼氏がなんか私の事話してたみたいで、それがキッカケ」
「めちゃくちゃ修羅場から始まってんじゃん! こえぇよ!」
なんかすごく震えあがられた。はて、何かマズイ事を言ってしまっただろうか。牛の化け物がー、とか言うより遥かにマシだろうから、問題は無いと思うし、そこまで気にする必要は無いか。と、特に気にせず卵焼きを頬張った。美味しい。
しかし、兄の震える眼差しは止まない。埒が開かないので、今度は八夜から話題を振った。
「お兄ちゃんこそ、お仕事は順調なの? えと……え、なんの仕事だっけ」
「……え、ああ、そういえば詳しく話した事無かったっけ。まぁ、難しい事は無いよ、言ってしまえば現場監督……の補助、みたいなもんだよ」
「……工事現場?」
「いろんな現場、あっちこっちに派遣されるの」
派遣社員、と言う事だろうか。定職につくよりそっちの方が安定してるのだろうか? なんにせよ、たまにしか家に帰れず、生活費に八夜の病院代、全て一人で稼いでくれているのだ。改めて感謝しかない。
さっきはキツイこと言っちゃったかな、と、少し反省する。
「お兄ちゃんこそ疲れてるだろうに……ありがとう、ご飯作ってくれて」
「おん? それを言うなら八夜こそ色々大変なのに家の事全部してくれてるじゃん。任せっきりにしちゃってるんだしコレぐらい当然だよ、負担かけてごめんとか、お互い様なんだし言いっこ無しだよ」
「お兄ちゃん大人だね」
「大人だよ、だからすぐに仕事行かなきゃですわ」
しょんぼりしながら十夜は味噌汁を啜る。気晴らしにテレビでも観ようと電源を入れると、ニュースが映し出された。
八夜はあまりニュースが好きでは無い。いつも何処かで誰かが死んだとか、殺されたとか、騙されたとか、悪い事や不安になる事を教えてくるから。
(パンダの赤ちゃんが産まれたとか、そんなニュースばっかりでいいのに)
案の定、報道のお姉さんは不気味な内容を伝えている。それは、行方不明者が増えている、という不可解な事件だった。
「忽然と姿を消す……車ごとねぇ……」
「目撃者とかも無し……もうこの時点で3人……」
「一本道だし、迷うはずも無いのに、こりゃ怪談ですな」
「怪談……」
嫌な可能性が八夜の脳裏によぎる。まさか怪異の仕業なのだろうか。
「僕も気をつけないとなー。次の仕事行く時ここ通るじゃん」
「え、ほんと? 何があるか分からないし、一旦休ませて貰った方が……」
「そんなわけには行かないよ、大人だからね、受けた仕事は責任持ってしっかりしないと」
でも、と、十夜は少し真剣な顔で八夜に言う。
「八夜はしばらくここを通っちゃダメだよ、何があるか分からないからね」
「わ、分かった……でもお兄ちゃん、ほんとに気を付けてね、最近その……変な事件多いから」
八夜が言うと、十夜はニンマリと笑って答えた。
「あったりまえじゃあん! 可愛い妹が待ってるのに死ねるかって! でも心配してくれるの嬉しい! 嬉しすぎる! よし決めた! 今日は焼肉! 八夜が心配してくれたのが嬉しすぎた記念!」
「もー! 私も真剣に言ってるんだからね!」
食卓が笑いに包まれる。こんなにあったかいのはいつぶりだろう。
だからこそ、と、八夜は思う。
不安要素は早めに対処しておこう、と、心に決めたのだった。
この時の決意が、後にあんな事になるなんて、この時の八夜は夢にも思わなかった。




