下
「……あ……れ? わたし」
目が覚めるとそこは、全く知らない場所だった。紫色の照明に包まれ、やけに甘い匂いが漂う、どこか不気味な雰囲気の場所。
ふかり、と体に伝わる感触から、ぼんやりとした意識だが、自分が今布団の上に寝かされているのだと分かった。
「なに……ここ」
とりあえず起き上がろうとするが、何かが手に引っかかって動けなかった。そこでようやく、何故か自分が両腕を上げている事に気付く。不思議に思って見上げると、その先で、自分の両手が、嫌に豪華なベッドの装飾に手錠で固定されていた。
「え……? な、なにこれ……どうなって」
外そうと必死にもがくが、手錠も装飾も頑丈でビクともしない。
焦りと不安でだんだんと思考がハッキリして、状況を理解し始める。理解してしまう。
自分は誰かに捕まり、拉致されて、ここに拘束されているのだ。あの廃病院から記憶が無い、一体いつ誰に襲われたのだろう。目の前にいたグループの他に誰か居たのか、例えば背後とか。いや、背後には先生がいたはずだからその線は。
「……! 先生! 先生はどこ……!」
背後からなら先生も襲われてしまったかもしれない。迂闊だった、あの時自分が軽率な行動を取ったせいで。
「お、気がついた」
ベッドの脇から、聞き覚えのある声がする。顔を向けると、安心する笑顔があった。
「先生……良かった、無事だったんですね」
志音は相変わらず動けないままだったが、とにかく大事な人が無事だった事に安堵する。その様子を見て、太一は
「プフッ! アハハハハハハハッ!」
と、大爆笑した。
いつも向けてくれる優しい笑顔では無い。信じられないが、彼からこちらに向けられるのは、嘲笑だった。
「せ、せん、せい?」
「無事だったんですね、かぁ、ほんっと良い子だよね吊星はさぁ。自分の状況もよく分かんないまま、そんな事真剣に言われても……アハハハハッ! ギャグだってそれ!」
「自分の、状況……えっ!? なにこれ、なんで!?」
志音はようやく、自分が今どんな状態なのかを把握する。ベッドに固定されている自分が、何故か全裸である事を把握してしまう。
そして、移動する太一を追った視線の先には、大勢の男達が、同じく全裸でこちらを見ていた。その目はニヤけているような、見下しているような、とてもじゃないが知性というものをまるで感じられない、不愉快極まりない視線だった。
「なんで……やめて……先生! 助けてください!」
「うっそ! この状況でまだ俺が助けてくれるとか思ってんの!? 良い子だけどバカなんだねぇ! ねぇ皆さん!」
太一が言うと、その場にいた男達はゲラゲラと笑い出した。
もう何が何だか分からない。目の前にいる人は誰なんだろう。いつも優しかった人に似ているけど、彼は自分にこんな酷い事は絶対にしないし、言わない。
「……俺ねぇ、良さそうな女の子をコチラの皆さんに紹介して、お小遣いもらってんの」
志音の考えを察したのか、半笑いのまま太一は言う。
「教師ってさ、マジでつまんなぇ職業なのよ。クソ安い給料のくせに、一丁前に責任ばっか重くて、ちょっと叱ればやれセクハラだのパワハラだの、そんだけ苦労して他所のガキの面倒見ても、感謝されるどころか、大学さえ出てりゃ誰でもなれる職業とか言われてバカにされてさぁ、やってられねぇんだわ!」
「先生……な、悩みがあったんですか……つ、疲れてたんですね、ごめんなさい、私、自分の事ばっかりで、いつも助けてもらってたのに、全然気付かなくて」
「あーあー、いいよそういうの、もうなんも感じないから」
泣きそうな上擦った声で言う志音を雑にあしらい、太一は一際太った大男の隣に立って言う。
「ある時家でSNSいじってたら、この人が相談に乗ってくれてさぁ。バカなガキを売ってくれたら、金くれるって、そん時の金額に俺びっくりしてさ! 流石に無理だわーって思ってたんだけど、ちょうどそん時、服装の事で何回注意しても言う事きかねぇアホなギャルがいたから、試しにあの病院まで連れてったら、とんとん拍子で大金に変わったよ。もうそっから俺の人生は変わったね、豊かになったわ」
「……う、うそですよ」
「だから状況見ろってバカがよぉ!」
太一は豹変し、飛び乗るように志音に跨がって、彼女の頬に平手打ちを一発叩き込む。
乾いた音が鳴り響き、一瞬静寂に包まれる。
「……ひ……いや……せんせい……やめて」
「その、『先生』ってのもここではやめてくんね? ほんっと虫唾が走るんだその響き!」
もう一発、志音の頬を太一の掌が打つ。頭を撫でてくれた優しい手が、今や凶器に変わっている。
「い、痛いです……せんせい……! ご、ごめんなさい……! わたし……先生の役に」
「だぁあああかあああああらあああああっ! なんっかいも! 何回も何回も何回も! やめろっつってんだろメスガキゴラァ! イライラすんだよどいつもこいつも面倒事ばっかり俺に押し付けやがって! 何がいじめだぁ? テメェで解決しろクソガキが! いじめられてんのは! 嫌われてんのは! 全部テメェに原因があんだろうがクソバカ!」
何度も、何度も何度も何度も、彼の感情に呼応するように、平手打ちが繰り返された。唇が切れ血が垂れ、鼻からも滝のように血が流れた。
「いだっ……やめで……おねがいじばず……やべでくだざい……ごめんなざい、いうごときぎまず……なぐ、なぐらないで……ぞの、ぞのがおで……わたし……に、らんぼう、しないで……」
「ふー……やっとかよ。優等生なんだからここまでやられる前に理解しろよな」
太一はブルブルと震える志音の胸を乱暴に掴み、笑顔で言う。
「俺の役に立ちたいんだっけ? じゃあこのまま大人しくしててね。それだけでいいから、良い子だから出来るよな?」
「……い、良い子……わ、わたし……ちゃんと、良い子にしてたのに……なんで、こんなこと……校則……破った事ないです……ルールを守って、ちゃんと生きてきました……なのに、なんでぇ……」
涙と血を垂れ流しながら、うわ言のように呟く志音に、太一は、いつもと変わらない笑顔を向けて、いつもと変わらない優しい声で言う。
「良い子だったよ、だから俺みたいなのに利用されるの。悪い大人にとって『都合の良い子』だったから。バカだねー」
「う……ぐ……うわあああああっ! うええええええっ! うええええええええん!」
決壊した。大事にしていたものが一気に崩れて、感情と共に溢れ出た。子供のように大声で、縛られているから泣き顔を隠す事も出来ず、大勢の前で泣き喚いた。
「うるせぇよ」
再び頬を打たれる。ここに、味方などいなかった。
「所詮ガキなんだよな、思い通りにならないからって泣くなよみっともない、社会ってそういうモンなんだよ。俺だって何回泣きたかったか」
太一はそう言って、大男に近付いて満面の笑みで言う。
「それじゃあ、後はごゆっくりどうぞ。初モノなんで、きっとご満足されますよ」
その言葉を合図に、自分を見つめていた男達が、一斉に押し寄せる。
泣こうが叫ぼうが、誰も助けてくれない。ただ物のように扱われ、一方的に欲望をぶつけられた。いつの日かと、憧れていたもの全てを、気持ちの悪い一方的な快楽の為に、全て、全て全て全て奪われた。耐え難い陵辱の限りを尽くされ、尊厳を全て侵され犯された、犯された犯された犯され犯犯犯犯犯犯犯犯犯犯犯犯犯犯犯犯犯犯犯犯────。
涙も声も枯れ、生きる気力さえ無くなっても、行為は終わらなかった。
どれだけ時間が経ったか分からない。突然太一が声を上げた。
「さぁ! 皆さん盛り上がってきたところで、今回のメインイベント! 『解体ショー』のはじまりはじまりー!」
志音に覆い被さっていた大男も、ゲラゲラ笑いながら離れていく。圧迫感から解放されて、大きく息を吸い込んだ。
朦朧としながら、ほんの少し考える。『解体ショー』とはなんだろう。こんな場所で、マグロでも捌くのだろうか。
霞む視界で、群衆の前に運ばれてきた担架のようなモノを見る。
「は、話が違うじゃないですかぁっ!」
そこには、自分と同じく全裸にされ、全身を固定されて身動きの取れない状態にされた夢月が叫んでいた。そんな彼女の様子を見て、群衆はゲラゲラ笑っている。
「か、代わりを連れてきて、一回シたら解放してくれるって……約束したのにぃ!」
「いやぁ、無理無理、自分を助けてくれようとした恩人を売るようなクズには、ちゃんと制裁しないとねぇ?」
太一が言うと、台がガタガタと揺れるほど彼女が暴れ出す。泣き叫んで、必死に許しと助けを乞うている。しかしその様子は、残念ながら周りを笑わせ悦ばせるだけで、思っている効果は一切無かった。
可哀想に、と、意外にも冷静に志音は思う。彼女はただ、救われたかっただけなのだ。その結果が、コレ。なんで報われず、救われない。
だが、『解体ショー』と言っていたのは、どういうことなのだろう。彼女は既に裸にされていて、これ以上何をどうすると言うのだろう。
「他者を犠牲にして生き残ろうとしたこの恥知らずに! 俺の刃で制裁を与えましょう! 今宵ここにお集まりの皆様だけが体験出来る特別な『解体ショー』! とくとご覧あれ!」
太一が、小さな声で誰かに「行くぞ」と声をかける。その瞬間、信じられない光景が目の前で起こった。
「……なに、アレ」
太一の体が一瞬で茶色い体毛に覆われ、獣のような姿へと変身した。さっきまで人間のものだった両腕は、手首から先が鋭い鎌のようになってギラギラと輝いている。
巨大なイタチ、そんな印象を受ける化け物が突如現れ、さっきまで盛り上がっていた群衆も、どよめき始めた。
そんな様子を牙を向けながら化け物は見回して、ニヤリと口元を歪ませる。
『安心してください。私はアナタ達に危害は加えません。太一が『食べても良い』と言うヒトを、皆様の目の前で食べるだけです』
太一のものではない、丁寧で軽い男の声。確かに太一が変身したように見えたが、まるで別の生き物のようだ。
『はじめまして、私はスラッシュと名付けられた者です。今の暮らしを学ぶ為、太一と共に行動しております。以後、お見知り置きを』
スラッシュは長い胴体をぐにゃりと曲げて、恐らくはお辞儀した。悲鳴すら上がりかけた群衆達は、その丁寧な対応に心を許したのか、拍手を送っている。
『今宵皆様にご覧いただくのは、罪人を私が捌き、食する『解体ショー』にございます。罪を裁き、人を裁く、皆様が高貴な立場であるが故に浸れる悦、どうぞごゆるりとお楽しみくださいませ』
クスクスと笑いながら、スラッシュは驚愕し、声も出ずに固まっている夢月の側に立ち、その刃を首と腹に突き立てる。
信じられない。殺すのか。解体とは、そのままの意味で、バラバラにして殺すという意味か。
己の嗜虐心を満たす為だけに、人ひとりを殺すのか。
「……あ、や、やめて! やだやだ! なんで……! 殺さないで! 死にたくない! 死にたくない! 助けて誰かぁ!」
ようやく理解が追いついたのか、より一層強く夢月が暴れる。その様子を見て、スラッシュは鎌を舐めて、嬉しそうに微笑む。
『活き良い獲物ですね。解体のしがいがあります。では皆様、部位の説明をしながら解体に移らせていただきますね、まずは腰から股関節にかけてのこのラインにそって刃を入れ、脚を切り落とします』
「やだっ! いやだ! たすけて! たすけて! お母さん! おかあさあああああん!」
「……お……かあ……さん」
彼女の悲鳴が、志音の幼少期の記憶を蘇らせる。父と母の優しい笑顔。一緒に遊びに行った遊園地、運動会の後のお弁当。参観日で発表した『大好きな家族』という作文に、家族の絵。クリスマスにはレストランに行き、プレゼントを貰った。風邪をひいたら病院に連れて行ってくれて、診察が終わった後アイスクリームを買ってくれた。
「……お、かあ、さん。おとう、さん……」
両親は、今どんなに心配しているだろう。もう会えないかもしれない、こんな人権がない環境では、その可能性の方が当たり前とさえ思えるほどだ。
なんで、自分達がこんな目に。どこで間違えた、誰のせいで、何も悪い事なんてしていないのに、悪い事をされて、一方的に奪われて、泣いて叫んで、それを嗤われて、惨めな思いをして死んでいく。
何の為に生まれてきた。何の為に死ぬ。
「お、があ……さん……おどお……ざんっ」
涙が溢れて止まらない。同時に抑えられない気持ちが溢れ出た。言葉には出ないが、唸り声のようなものをあげながら、志音は必死に暴れる。
無駄だとは分かっている、でも、死にゆく少女の側にいてあげたかった。あんな怖い思いをして、子供のように泣きじゃくる彼女を、何とかして助けてあげたかった。
「う、うぐ、うう、うううううう! うあああああううううううううううううううっ!」
ガチャガチャと必死に腕に力を入れるが、残念ながら、金属で出来た手錠はビクともしない。
何も出来ない、誰も助けてはくれない。奇跡でも起きない限り、もうこんな状況どうしようも無い。
刃が夢月の太腿に突き立てられようとした、まさにその時だった。
──ガチャリ、と、大扉が開いた。
一斉にそちらを向く。そこには、一人の青年が立っていた。
「おじゃましまーす。うわなにここ、目に悪そうな色……いやそうじゃなくて、おお、いたいた」
彼は、まるで友達に会ったかのようなテンションで、小さく手を振りながら志音に近付いて来た。その手には、メガネを持っており、彼は得意そうにしながら言う。
「思い出したよ、君、僕のいた学校の風紀委員長だよね? ちょっと前に借りた漫画パクられたままだったのすっかり忘れてた!」
「……つぐみ、くん」
彼、竹水つぐみは、メガネを差し出しながら言う。
「はいこれ、落としてたよ。コレ返すんだから、あの時の漫画返してくれない? アレ僕のじゃないんよ、友達のやつでさ、なんか僕がパクった事になってて困ってるんよ」
「……え、あの……どうやってここに」
絶対今聞く事じゃ無いのは承知の上だ。多分、理解が及んで無い。ここに来てから、混乱と理解を繰り返し続けて、まともに脳が働いていない気がする。
「どうやってって……メガネの匂いを追ってきたの。つか、ここなに? 委員長ずいぶんと過激な趣味があるのね」
「……! ち、違う! お願い! 助けて!」
「たすけるー? ああ、もしかしてソレ拘束されてんの? いいよー」
そう言って、彼はおもむろに装飾を掴むと、まるで木の枝でも折るように、バギッと破壊してしまった。そのまま手錠を掴み、ボトルの蓋を開けるが如く、捩じ切って破壊した。
あっという間に自由の身になった志音に、つぐみはメガネを無理矢理持たせる。
「はい、返したからね! 後で漫画を」
『何者ですか貴方は!』
つぐみの言葉を遮って、スラッシュがヒステリックに叫ぶ。その様子から、自分達のような客では無いと悟ったのか、周囲もどよめき始める。
『無断で侵入した挙句、獲物に勝手に手をつけ、私のショーを台無しにするとは! 何と無礼な……名を名乗りなさい!』
牙と鎌を向けながら怒鳴るスラッシュに、つぐみはきょとんとした顔を一瞬してから、酷く残念そうに項垂れた。
「えー……お前かよぉ……ずっとソワソワしてた感じ……おめぇかよぉ……これ……え、鍛えたら光るのかな、一回それでも狐さんに相談すっか? いやでもなぁ……この程度かぁ……」
ブツブツ何か呟いているつぐみの態度に、苛立ちが抑えきれなくなったのか、スラッシュは一瞬で距離を詰め、つぐみの喉に刃を当てる。数ミリでも横に引けば、頸動脈が切れてしまう位置。
にも関わらず、つぐみはつまらなさそうにスラッシュを見ていた。
『最後の忠告です。何者か答えなさい、何が目的かもね』
「僕の名前はつぐみ、何が目的って言ったら……仲間集めかな。いや、僕じゃないよ、ただ、なんか世界平和の為に仲間がいるんだって」
刃に顎を乗せて、唇を尖らせ不貞腐れながら、つぐみはテーブルの上にあるピッチャーを指差して言う。
「ねー、あのジュース飲んでいい? ここまで歩いて来たから喉乾いちゃってさー、お金払うからちょっとちょうだい」
返事を聞かず、つぐみはパタパタとテーブルに近付き、ピッチャーを抱える。途中で何か白い粉が入った紙袋を見つけ「炭酸になるのかー」と呟いて、躊躇する事なく全部入れて飲み干した。ピッチャーの中に入っていたオレンジ色の液体を、物の二口ほどで飲み干してしまった。
「ぷは、おいしおいし。でも炭酸感無かったな……さてと、委員長、この状況どうしたらいい?」
「……え?」
つぐみは口の周りを袖で拭きながら、スラッシュに顎をしゃくらせて言う。
「助けてって、言ったじゃん? コイツ僕達の事殺すつもりだけど……前言ってたじゃん。ちゃんと考えれば暴力以外の解決策はちゃんとあるって、僕考えるの苦手だからさー、委員長頭良いでしょ? どうすればいいかな?」
「どう……って、それは」
志音が返事をしようとした瞬間、つぐみがスラッシュに蹴り飛ばされ、壁に叩きつけられる。建物が少し揺れるほどの衝撃で、壁にはヒビが入っていた。
「つ、つぐみ君!」
『あまりに不愉快ですね貴方、予定を変更して、あの小娘より先に解体する事にします』
素早く近付いて、スラッシュは両手の刃、では無く、座り込んだままのつぐみの顔面を思い切り蹴りつけた。ゴンッという鈍い音と共に、壁に頭が叩きつけられる。
何度も何度も蹴られ、顔や体がボロボロになっていく。
しかし、彼は何の抵抗もしなかった。
「つぐみ君! やめて! やめてください! 解体なら私がされますから! つぐみ君と綿畑さんを解放してあげてください! やるなら! 私ひとりを」
『それは無理です。貴女は太一のお気に入り、これから貴女を使っていろんな快楽を教えてくれると言っていました。今殺すわけにはいきません』
「そーだよ委員長。君が死んだら、助けようとした意味が無くなるじゃん。それより、どうしたら良いか教えてよ、僕待ってるから」
『コイツまだ……!? 生意気な!』
平然と喋るつぐみに、驚きを隠せない様子のスラッシュは、両手を振り上げる。
『お遊びはここまでです! 私の斬撃の速度には誰もついてこれません! 気付いた時には、いや、死んだ事にすら気付かないのです!』
刃が妖しく光る。それでもつぐみは、立とうとすらしなかった。
本気で志音の指示を待っているのだ。本気で、志音の方が正しいと信じているのだ。
「た、戦って! つぐみ君!」
何を思ったか、化け物を相手にそんな事を叫んでしまった。普通の人間が勝てるわけないのに、思わずそう叫んでしまった。
もう手遅れだ、バラバラにされて殺される。
そう、思った。
「ん、おっけー。『雷光』」
つぐみが答える。そしてその瞬間、つぐみとスラッシュの視線の位置が逆転していた。スラッシュが目を見開いて、つぐみを見上げている。否、正確には、噛み付かれ、持ち上げられた自身の右腕を見ている。
『あっ!? わ、あああっ!?』
つぐみ、だと思う。この光景は2回目だ。人が化け物になるのを見るのは、2回目だ。
スラッシュの腕に噛みつき、ぶら下げるように持ち上げているのは、巨大な虎のような化け物だった。
虎は、容赦無く牙をスラッシュの腕に食い込ませ、そのままブツンッと噛み切ってしまった。支えを失ったスラッシュは、重力逆らう事なくそのまま落下、床に這いつくばる。そのダメージによるモノなのか、はたまた避難のつもりなのか、変身も解け、虎の前に放り出されたのは、宿主である太一だった。
「むっしゃむっしゃ! んっんんー! 良い筋肉! 上質な歯応えですよお兄さん!」
太一の目の前で、彼の右腕を咀嚼し、飲み込む様を見せつける。巨大な虎の顔面が、大きな口を開け、さっきまで腕を味わっていた舌を出し、太一の顔面をベロリと舐める。
「わ……あわ……あ、あああっ! あああ、うわあああああっ!」
太一はガタガタと震え、涙と鼻水を垂らしながら、言葉にならない声をあげ、残った震える左手を、まるで犬に『待て』でもするかのように虎に突き出していた。
やめてくれ、とでも言いたいのだろうか。
そんな彼に、虎は大きな口を大きく歪ませ、狂気的な笑みを浮かべてから、太一の髪がオールバックになる程の勢いのある咆哮を上げた。そして、それが合図であるかのように、突き出された左腕に噛みつき、おもちゃで遊ぶ犬のように彼を振り回す。
悲痛な悲鳴が部屋全体に響き渡る。噛まれ、叩きつけられ、子供に弄ばれる虫のように無茶苦茶にされている。
不思議な事に、彼はすぐには絶命に至らなかった。それが怪異宿しになっていた事による副作用だと、志音が知るのはまだ先の話。
そもそも、目の前に広がる凄惨な光景に驚愕する彼女に、そんな事を気にする余裕は無かった。
頭と足を掴まれ、上半身と下半身に分断されからしばらくして、ようやく太一は絶命した。それまで叫んでいた事から考えると、死ぬその直前まで、意識はあったのだろう。
上半身、そして下半身を交互に喰べてから、虎は怯えきっている裸の男達に目を向ける。
「なんか気分がランランするぅー! 男の肉がいーちにーさーんよーん……たくさんあるー! 全部僕のだぞ! 腕とか脚とか喰べてからー! 内臓頬張ってー! 指なんかをポリポリつまみつつ、メインの腹筋を豪快に喰べるぞー! 脳みそはデザート! さっきのジュース置いとけばよかったな……」
瞳をギラギラ輝かせながら、虎はゲラゲラと笑う。耐えられなくなった一人の男が、走り出して扉に手を押し当てた。
「あ! バカ!」
「んぎいいいいいいいいいいあああああああああああああああああああっ!!!!!」
直後、男の体は感電し、火花と煙を上げながら、真っ黒になって、そのまま動かなくなってしまった。
「もー! 逃げられないように出口になりそうなところには全部電撃流してるんだよー! もったいねーな!」
黒焦げになった男の死体を蹴り崩しながら言って、悲鳴をあげる群衆に、虎は笑顔で言った。
「僕が喰べるまで大人しくしててねー」
そこからは、もう、阿鼻叫喚だった。逃げ場を失った彼らは、所狭しと暴れ回り、一秒でも長く生きようと必死になっていた。
ひとり、またひとりと虎に捕まり、喰い千切られ、引き千切られ、中身をぶちまけられ、頭を捥がれ、目玉を飴玉のように転がされ、脳を頬張られた。
「ひるとーよーるがーあいしーたーけものーやみにーさえー」
惨状を作り出す本人は、実に楽しそうに、歌いながら行為に及んでいる。
その様子を、志音はただぼんやりと座って眺めていた。
「た、助けてくれ!」
自分に覆い被さってきた大男が、泣きそうになりながら這いつくばってコチラに手を伸ばしてくる。
「……どうにもできませんよ、私には、何も無い」
直後、彼は足を掴まれ、虎に引き摺られて行った。その後は、さっき説明した通りになっていた。さっきまで悦に浸っていた男が、なす術もなく蹂躙されて、そして死んだ。
ものの数分で、虎は志音と夢月を残した全員を胃の中に送った。鮮血で濡れた部屋の真ん中で、虎からつぐみの姿に戻り、豪快にゲップする。
「あー、腹いっぱい。やっぱ肉は男に限るよね、どんなデブでも女の人より筋肉質だから喰べ応えあるわー。心臓とか肺も一味だけどやっぱ脳最高、定期的に喰べたひ喰べたひ」
呟いて、つぐみは2人の少女を交互に見ながら、目を丸くして驚いた。
「……ソワソワが消えない。まさか2人とも?」
不思議そうに夢月に近付き、拘束具を引き千切って解放する。転げ落ちた夢月は、咄嗟につぐみの足にしがみつきながら、必死に懇願していた。
「こ、殺さないで! 殺さないで!」
「……え、別に殺さないけど、僕女の人あんま喰べないし……んーと、2人しか喰べてない」
「あの……」
力無く立ち上がり、ヨロヨロとつぐみに近寄って、志音は頭を下げる。
「助けてくれて……ありがとうございます」
「んん? 僕メガネ持ってきて、ご飯喰べただけで、特に何もしてないけど。助かったのは、委員長の判断が正しかったからじゃない?」
「……私は……正しくなんか」
「でも委員長は生きてるし、なんか泣いてるこの子も生きてる。委員長が『戦え』って言ってなきゃ、死んでたと思うけど」
「戦う……あは、あはは……」
思わず、乾いた笑いが出る。
何の、何の意味も無かった。信じてきた正義なんて、平和的な話し合いなんて、圧倒的武力の前には、何の意味も無かった。ずっと信じてきた人に裏切られ、尊厳を踏み躙られたのに、自分じゃ何も出来なかった。手も足も出なくて、死ぬしか無かった。
そんな絶望を、あっという間に覆し、普通にしている彼がいる。見せつけられた、圧倒的な『正しさ』。
「ねぇねぇ、2人ともさ、服買ってあげるからさ、代わりにちょっと相談にのってくれない?」
「……そう、だん?」
「の、のります! なんでもします! た、助けていただいたお礼は必ず!」
「良かったー、何とか収穫あったな。じゃあ早速なんだけどさ」
つぐみは恥ずかしそうにモジモジしながら、笑顔で言った。
「僕の仲間になってよ!」
「仲間……そんな事でいいんですか?」
「むしろそれが目的なワケ、困ってたんだよね、優秀な人がいなくて」
「優秀……あの、私からも、ひとつだけ、質問良いですか?」
志音は、俯いて、『あの事』について聞く。
「私は……『良い子』ですか?」
つぐみは、首を傾げて、自分の頭を叩きながら言った。
「『頭の良い子』だと思うけど……もしくは『出来の良い子』かな? それ以外ってなんかあるっけ、てか、それ以外普通だと思うけど」
「……ふふっ、ふふふ、あははははははっ! あ、貴方だけです、私を、普通の子として、普通に評価してくれたのは……あはははははは! 良い事だって、信じてたのになぁ……あはははははは! あはははははははははははは!」
いとも簡単に『これまで』をひっくり返され、最早笑うしかなかった。
全てを失った少女は、ただひたすら、これまでを嗤い続けた。
──────────────────────
「ハッピバースデー! 志音、夢月、お前ら今日から『完全体』だ!」
九尾狐は、大はしゃぎで万歳までしながら、2人に言った。つぐみもその横で、小さく拍手をしながら笑っている。
「今すぐ特別何かして欲しいワケじゃねぇ。ただ必要な時は連絡するから、それ以外は好きに生きたらいいぞ。つぐみを世話係にするから、なんか困ったらコイツを頼れ」
「うむうむ、頼るがいいぞ」
人としての『これまで』が終わり、怪物としての『これから』が始まる。
人の形をした人では無い何かが、誰かになって、社会に紛れ込む。
侵略は、着実に進んでいた。




