実験生物
薄暗くてよく見えないが、見えたところでこの場所がなんなのか、大橋静には見当もつかなかった。かなり広く、運動場のようにも見えるが、木組みの壁に囲まれた室内である。
何かの競技場なのかとも思ったが、それらしい競技用の用具は見られない。その代わりに、部屋のあちこちに大きな瓶がポツポツと置いてあった。特に規則性があるわけではなく、とりあえず置いた、という感じに、ポツポツと。
それがなんなのか、ここがどこなのか、どういう経緯でこうなったのか、などの考察は、残念ながらそもそも戦士でもない一般的な女子高生の彼女には出来なかった。静はただ、突っ立っているだけで、もはや思考すら止まって、完全に無の状態だった。
一瞬で場所が変わり、周りから人が居なくなる。こんな超常現象を始めて経験するのだ、混乱を通り越して、最早考える事を放棄してしまったのだろう。パニックになるよりは幾らかマシだが、しかし、『冷静である事』と『何も考えていないという事』ではその後の展開が大きく変わってくる。全ての反応が遅れ、あっという間に窮地に立たされるだろう。
もっとも、装着者の思考が停止していようと、最適な行動を自動的に取ってくれるのがタリスアーマーの高性能な部分ではある。
突如、静の視界が大きく揺れ、同時に奇妙な浮遊感が襲った。またどこかに移動させられたのかと焦ったが、どうやらスーツが自動的に大きく回避行動を取ったらしい。
焦った事により逆に脳が覚醒し、回避行動の意味を悟る。最悪な事に、ひとりぼっちのこの状況で、接敵してしまったらしい。
「……」
緊張で声が出ないまま、目前に現れた敵を見る。そこには二本足で立つ毛むくじゃらの巨大な化け物が、拳を突き出していた。その風貌に、嫌な記憶が重なる。
巨大な人型の猪のような怪物。猪は特に何の反応も示す事無く、無言で静に近付き再び拳を振るう。
「ひっ」
静が小さな悲鳴をあげるよりも早く、スーツはその動きに反応し、身を逸らして回避、そして目の前に繰り出された巨大な腕に自身の刃をぶつけた。ザリザリと音を立てて刃が滑っていくが、しかし、体毛の数本が落ちただけで、腕の切断には至らなかった。体勢を崩してしまったところに、猪の拳が繰り出される。
咄嗟に防御体勢を取るが、堪らず突き飛ばされる。だがスーツのオートバランサーのおかげで転倒は免れた。
渾身の一撃を受けたにも関わらず、立ったままの相手を猪は見つめ、ブルルッと大きな鼻息を一つ立てる。
『頑丈なんだな。鎧なんだから当たり前か』
猪は毛を切られた右腕を見ながら、何か確認するように頷く。
『防御力は申し分無い、でも攻撃、というか、戦闘技術は……なんていうか、不気味だな。お前なんか変だぞ』
「ぇ……ん……へ、ん……て……」
なんとか声を出そうとするが、震えて上手く発声できない。スーツは問題無く機能したのに、全く安心出来ない。
素人にだって分かる。さっき戦った怪物達とは圧倒的に格が違う。絶対に自分が戦える相手では無い。素人の自分がこのスーツを着て倒す事が出来れば、人間と怪異の戦いは圧倒的に人間が有利になるだろう。その為の試運転、それは、理屈では分かる。でも、この実験の失敗とは、敗北するという事、この場合の敗北とは、装着者の死を意味する。
死、しかも寿命などでは無く、未知の怪物に殺されて無理やり与えられる死。その恐怖が、ようやく実感として静の心を蝕む。
「…………」
本当に恐怖に支配された時、声など出ない。ただ、ブルブルと体の震えが止まらない。スーツにその震えは出ないが、しかし、猪には伝わってしまったようだ。しかし、嘲笑われるものと思っていたが、猪の反応は意外なものだった。
『……は? お前、怖いのか?』
それは、困惑だった。先程まで冷静にこちらの戦闘力を分析していた怪物が、明らかな動揺を見せた。
『どういう事だ……さっき戦ってたじゃないか。今だって俺の腕を斬り落とそうとしたし、防御だってした。わけがわからない、お前は闘争心無しに戦えるのか?』
「…………」
猪の混乱の意味が、静には分からなかった。そもそもそこまで考えられるほど脳が落ち着いていない。
この場に霧谷がいれば、かなり状況は変わっただろう。敵の立場で戦況を読む彼なら、即座に猪の混乱の意味が分かったはずだ。そして、その隙をすかさず突く。
全ての戦闘行為がフルオート可能なバトルスーツ『タリスアーマー』。もちろんマニュアル操作も可能であるが、しかし、それは場慣れしているプロが装着した場合にのみ威力を発揮する。あくまでコンセプトは『非戦闘員でも戦えるようになる装備』なのだ、システムの本領発揮は、一般人が装着した時にこそである。
あらゆるパターンを想定し、瞬時にベストな行動を導き出し、そして行動する高性能AI。そしてそれらの動きによる装着者への身体的負担はほぼゼロ。装着者の心拍数や脳波を感じ取り、状況に合わせて回避優先、または撤退までサポートできる。これだけでも十分過ぎるほどなのだが、しかし、開発者の久茂野知朱ですら想定していない思わぬ『副産物的な強み』があるのだ。
装着者がいてこそ生まれる効果は、今回のような、ある程度実力を持つ強敵に思いがけず効く。
殺気を感じ取り、そこから次の行動を読むのは、戦闘において基本中の基本と言える。しかし、タリスアーマーは簡単に言えば勝手に動く。装着者がどれだけ怯えていようと、闘争心なんて無くても、勝手に動いて戦ってくれる。機械に感情などあるわけがなく、あくまで機械的に必要な行動だけを取る。
装着者の感情と装備の機能、ここに生まれる差異が相手をする者の感覚を鈍らせる。殺気など無く、本気で怯えているのに、素早い動きで的確に急所を狙い攻撃してくる。
とどのつまり、動きを読みづらくなるのだ。
とはいえそれだって長くは続かない。仕組みを理解され、機械の動きだけに集中していれば簡単に攻略される。あくまで効果があるのは今だけ。
しかし、残念な事に、戦士でもなく、そもそも喧嘩すらした事の無い静がその事に気付く事は無い。なぜ相手が不思議がっているのかを不思議がるのが精一杯だ。
『奇妙な奴だな、先輩達に任せなくて良かった』
あの人達自信過剰だからな、と言いながら、猪は右肩を前方に突き出し、走り出す構えを取る。素人にも分かる、潔いまである突進の構えだった。
マズイと静が思う頃には、スーツも猪も動き出していた。案の定コチラに向かって突進する猪、剛腕がまるで壁のように迫る。しかし、スーツのシステムも負けてはいない、瞬時に猪の進路を何パターンも予測し、回避行動へと移る。
回避とはいえ、直進してくる猪から身を逸らすだけ、恐らく誰でも思いつく方法だった。敵が普通ならばそれで十分だっただろう。
直前で回避した直後、猪は速度を全く落とさずコチラに方向転換し、威力をそのままに突っ込んで来た。
「わぁあっ!?」
モニターには瞬時にいくつものパターンが表示されたが、回避は間に合わず、再び防御という形を取る。直後凄まじい衝撃が走り、浮遊感を覚えた。吹き飛ばされ、いや、撥ねられた。
「お、落ちるっ」
近づく地面に恐怖を覚えるが、両足と右手で落下の衝撃を和らげ、地面への直撃を避けた。もちろんスーツの判断である。
『これでも耐えるか、ものすごく頑丈だな。中身も気になるが、その鎧が欲しい。いやそれもそうだが、やっぱり妙だ、気迫や圧力を感じないのに、その達人の様な動き……そこまで自分の行動と精神を分離できるものなのか?』
「ど、どうして……」
何を思ったのか、どういうつもりなのか自分でもよく分からない。分からないまま、静は勝手に口を開き声を出していた。
「どうしてそんなに人の身体を欲しがんの……」
『なんだ、喋れるのか』
猪は顎をポリポリと掻きながら、呆れた様に言う。
『なんでも何も、病気を放っておいたら死ぬけど、飲めば治る薬があるって言われたら、飲むだろ』
「それは……そうなんだけど…何も殺さなくたってもいいでしょ、もっとお互いにとって害のない方法を──」
『ただの生存競争だろ。俺達はただ生きていたいだけだ。その為に手っ取り早い方法があるなら、そうするだろ』
「その為に人を殺してもいいって……?」
『お前はいちいち踏み潰した虫に同情するのか』
ダメだ、話が通じない。言葉は通じても、ここまで価値観が違えば、いや、そもそも価値観どころか生き物として違うのだ。同じ言葉を使う、別の生き物。分かり合って、尚且つ尊重し合うなんて、そうそう簡単なわけがない。
『ま、ここでお前らを捕まえてるのは別の目的もあるけど』
「……え」
そこで、猪の口から意外な発言だった。いや、目的というよりも、それを敵であるはずの静に話すという事そのものが意外だった。
『そうそう、試さないとダメなんだっけ』
めんどくさそうにトボトボと、猪は数ある瓶の中をあれこれと覗きだす。そして『あった』と言って、瓶の中に手を突っ込んで、何かを取り出した。
その全貌が露わになった時、静は再び声にならない悲鳴を上げた。直視したくないのに、動けず視線を外せない。
掴み出されたソレは、肌色のブヨブヨとした肉の塊で、グネグネと動いていた。よく見ると左右から人間のものに見える右腕が2本、左腕が2本ずつ生えており、ドロドロに溶けて太い触手のように垂れている足の様なものも見える。
『引っ込んでんな、よいしょ』
蠢く肉塊の窪みに猪が手を突っ込み、再び何かを掴み出す。そこから、プルンとした、一見すると巨大なニキビの様な突起物が現れる。二つの球体がくっついた様な不気味な突起物、それぞれの真ん中には、小さな二つの穴、そして、歯茎が剥き出しになった口の様なものが開閉を繰り返している。
認めたくないが、しかし残念ながら無慈悲にも、スーツのモニターはその肉塊に対して『人間である』という反応を示している。
「ひ、人って……あ、アレが……?」
『なんだ、知ってるんじゃないのか? さっき捕まえた奴らなんだが』
「さ、さっきって……ウソ……まさか!」
ちょうど2人分。その肉塊は、いや、彼らの正体は。
『俺も使うのは初めてなんだよな、さてどんな具合かな』
猪は躊躇う事なく肉塊を抱きしめる様に自身に押し付ける。その瞬間、猪の体が、まるで溶けた粘土の様に崩れ始め、水に投げ込まれた石のように肉塊へと沈み込んでいく。
「……あ、アレって」
静は、その光景に見覚えがあった。いや、正しくは、身に覚えがあった。第三者から見れば、こんな感じだったのかと、背筋が凍る。
崩れた猪が入り込んでいくたびに、肉塊の口から聞くに耐えない不気味な呻き声が上がる。低い男の声で、2人が重なっているような声で。
『うん、なるほどな、しっくりは来ないけど……なんというか、安定はするな』
肉塊に完全に入った猪は、再びその姿を現す。しかし、先程までとはかなり形状が異なっていた。
まずさっきよりも一回りほど大きくなっていて、牙と腕が4本に増え、体毛もかなり荒々しくなっている。太かった足もさらに太くなり、踏み締める地面がドスンと凹んでいた。
先程まで猪だった体は、ぐったりとした痩せっぽちの男に変わっており、猪の足元に倒れている。
『おお、肉体の変化も今までに無い感じだな。うんうん、なんというか、全身に余裕がある感じだ。あとは……』
首をコキコキ鳴らし、4本の腕をぶんぶんと振り回してから、猪は力無く倒れる男をおもむろに掴み上げ、そして大きな口でその頭部に齧り付いた。まるでハンバーガーでも食べるように、頭から咀嚼していく。噛まれた男は一瞬ビクンと大きく跳ねたが、すぐにピクピクと弱々しい痙攣に変わり、あっという間に動かなくなってしまった。
あまりに凄惨な光景を前に、静は呆然となり動けなくなっていた。スーツもモニターに忙しなく何かを映し出し点滅しているが、なにがなにやらさっぱりである。
『よし、準備万端だ。最後は腕試しだな、どこまで力が上がってる事やら』
変異を完了させた猪が、先程とは別の構えを取る。突進に変わりはないのだが、次は肩ではなく頭を、いや、正確には4本に増えた牙を前に突き出す形を取っている。4つに増えた掌をしっかりと地面につけ、両足のつま先で地面を抉る。
「ど、どうしよ、あんなの」
建物全体が揺れた。直後に、何か大きな物が激突したかのような爆発に近い衝突音が鳴り響く。立て続けに怒る破裂音、目の前に広がる薄暗い空、全身を痺れさせる衝撃と、ノイズが走る視界、全身に伝う浮遊感。
撥ねられた、というか、激突された。スーツのモニターには何も表示されていなかった。分析すら始まる前に猪は行動を開始し、その巨体を静にぶつけたのだ。
先程までとは段違いに、桁違いに、圧倒的に、あっという間に強化されていた。
ついに着地すら上手く機能せず、地面に転がる。全身を激しく揺らされたような衝撃が走り、激しい吐き気が襲う。ノイズ混じりの視界は赤く点滅し『warning』という文字が表示されていた。
『これはすごい! 実験生物の性能は申し分ないぞ! 生産性をもっと潤滑に出来れば……』
歓喜の声を上げながら、のっしのっしと猪が近付いてくる。
「……あ、ぅ……や、やだ……」
今何より怖いのは、装着者へのダメージは最小限に軽減されている事だ。生身なら最早人の形すら残さずに絶命しているダメージのはずなのに、静は未だしっかりと意識を保ち、生存している。しかし、スーツが死んでいる。まともに動かない鎧など、ただ自分を縛り付ける重りでしかない。
意識を保ち、体だって問題無く動くはずなのに、動けない。迫る怪物から、逃げられない。
『とりあえずこの鎧は引っ剥がして、中身は新しい実験体に回すか、エンコウさんには良い報告が出来そうだ』
「……ひ……やだ、やだやだ、やめて、たすけて、誰か……たすけて……」
動けないまま、震える事しか出来ない彼女に、無情にも猪の手が伸びる。
自分に迫る最悪の結末、その恐怖が込み上げ、とめどなく涙が溢れ出す。怖くて、泣いている。
どこかできっと誰かが助けてくれると思っていた。そんなヒーローみたいな都合の良い存在がいるなんて、本気で信じていなかったのに。次々と後悔が溢れ出す。霧谷さんは止めてくれたのに。久茂野さんに唆された。いや、最終的に選んだのは自分で、カッコつけたかったのか、その結果がこれか、出来るわけないってどこかでちゃんと分かってたのに、彼氏の最期が何度も頭に浮かぶ、いやだ死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない──。
『ぐうぅッ!?』
ドンッという衝突音と、不気味で奇妙な呻き声が上がる。直後にドサッ、という落下音。
「……うぇ……な、に」
歪む視界を見つめると、顔面を抑える猪がふらついていた。あの巨体がよろけるほどの衝撃が、猪を襲ったというのだろうか。
『なんだぁ……お前は……』
猪が睨み付ける。その対象は静ではない。彼女よりも向こう側を見つめていた。
「なに、何がいるの」
倒れたまま姿勢を変えられない彼女は、ただ自分の視界外に現れた謎の存在に混乱する。
『ガ……ギギ……ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァッ!!!!!!!』
不気味な叫び声のような咆哮が、猪に向けられていた。




