あっち側こっち側
同じ相手に二度の逃走、二度の敗北。家に転がり込んだアサは、悔しさで下唇を噛み締める。覚悟を決めて、決意を固め、八夜を守ると誓った矢先に現れた、越えられぬ壁。
二度の対峙で確信した、勝てないと。どんな作戦を考えて、何を想定しても、斬り刻まれるイメージしか湧かない。防御すれば腕を落とされる、実際この両腕が──
両腕が。
『しまった! ヨル! ヨル!』
変身が解除され、アサと八夜が分離する。アサが離れた瞬間、糸が切れた人形のように、八夜はその場に崩れ落ちた。両腕から流れる血が、みるみるうちに床に広がっていく。
『かすっただけ……だと思ったのに……こんな内側まで刃が届いてたのか! 冗談じゃないんだけど……!』
とにかく止血をしようと患部に手を伸ばす、しかし、そこでようやく自分も無事では無い事に気付いた。
『やっば……』
八夜と同じ箇所から、黒い煙が上がっており、患部は黒く変色して崩れかけていた。これが、この症状が人とは違う怪異にとってのダメージの証。放っておけばボロボロに崩れ落ち、煙のようになって両腕が消えるだろう。
『もし全身を斬られてたら……ここに辿り着く前に消滅してた……』
恐怖が込み上げ、全身にまとわりつく。全身を斬られていないからといって、今だって安心できる状態じゃないのだから。遅いか早いかの違いで、全く猶予は残されていない。
ただ、だからと言って、体の崩壊を止める手段が無いわけではない。助かる方法が一つだけある、むしろこの方法があるからこそ、本来なら怪異にとってダメージなどあってないようなものなのだ。
こんな事で悩むのは、アサぐらいなのだ。
『ネズミとか牛とか……こういう事に悩まなくて良かったんだろうなぁ……』
アサは床に広がる赤い液体を悔しそうに見つめる。意識のない親友の腕から流れ出る血。早く止めなければ命に関わる。
最早迷っている場合では無かった。手段なんか選んでいられなかった。
『結局私もあっち側の宿命から逃げられないか』
ごめんね、と苦笑いを浮かべながらそう言って、アサは床に溜まった血をじゅるじゅると啜り始めた。早くしないと床のシミになってしまうので、出来るだけ早急に、且つたっぷりと口に含んで飲み込んだ。
『……ああ、やばい……マジで美味しいぃ……』
そんな場合では無い事は百も承知だ、誰か他に人がいるなら殴ってでも止めて欲しい。心ではそう思っているはずなのに、無意識に顔が恍惚に歪む。大好きな親友の血が、舌に触れた途端に味わい豊かな極上の飲み物になった。それが喉を通り、体内に取り込まれると、まるで細胞全体が喜んでいるみたいになんとも言い難い幸福感に満たされていく。
耐えろ。耐えろ耐えろ。持っていかれるな。目的は傷を治す事なんだから、親友を食べる事じゃ気持ちいいないんだから。自分をしっかり持て美味しい私はヨルを助ける為にもっと欲しいこの力を使うって決めたんだもっと欲しいもっと欲しい欲しい欲しいだからなんで我慢してるんだっけ耐えろ耐えろなんで耐えなきゃダメなんだ持っていかれるなこんなに気持ちいいのに我慢しろなんで我慢してるの私が守るなんで私が我慢しなきゃならないのこんなに頑張ってるのに頑張れ気持ち良いのに我慢する必要なんてあったっけ?
苦しい事を我慢するより、気持ち良いことを我慢する方がずっと苦しい、気持ち良いことを我慢して、我慢の苦しみを我慢して、二倍苦しい。あと一歩、たった一歩で気持ち良いだけになる。苦しむ必要なんてなくなる。
あと一歩。あと一歩。ヨルなら、分かってくれるよね? 親友が苦しんでるんだから、たすけてくれるよね? きっとヨルならそうするよね? 私がヨルならそうするよ、どんなに辛くても苦しくても、親友を助ける為にならこの身を犠牲にしたって良いって思うもん。だから、こんなにいっぱい我慢したんだ。こんどは、わたしが、たすけてもらう
「……アサ?」
聞き覚えのある声がして、ほんの少し思考が止まる。真っ白になった頭に、ぽつりぽつりと意識が戻り、そしてようやく正気を取り戻した。気がつくと、アサの目の前に不思議そうに首を傾げる八夜の顔があった。気付かないうちに、抱きつくように密着していたらしい。
正気を取り戻す、それはつまり、結局自分は何も押さえ込めて無かった事を意味している。その事実に気付いた途端、アサは恐ろしくなって慌てて八夜から離れた。
『ヨ……ヨルッ! ご、ごめっ……わたし』
「アサ? どうしたの? ……あ、そっか、そうだよね……怖かったよね……ごめんよ、アサ。あんな危ない目にあわせて……ずっとアサに任せてばっかりで」
申し訳なさそうに、八夜は怯えるアサを抱きしめて頭を撫でる。そして、頑張って作った笑みを浮かべながら言う。
「私も頑張るから」
違う、そうじゃない。そうなってほしいんじゃない。そんな決意いらない。本当はもっと、もっともっと戦う事から遠ざかってほしい。そうじゃないとまたヨルは傷ついて、その度に、私が私じゃなくなって、アナタを奪いそうになるから。
しかし、その思いは言葉に出来なかった。八夜とアサ、二人が繋がり、怪異宿しとして存在する限り、常に戦いの方から近づいて来る事を知っているから。そんな危険から、彼女を守れないぐらい、自分が弱い事も知っているから。化け物である事を再確認されて、捨てられるかもしれない恐怖心に負けるぐらい弱いから。
完治した腕の傷を撫でながら、アサもそっと八夜を抱きしめた。
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『ぐるるるるぅ……! あ、危なかった……!』
首の出血を押さえ、虎は辺りを警戒しながら高架下に逃げ込んだ。周囲に敵意のようなものは感じないが、油断は出来ない。さっきだって、直前まで何も感じなかったのだから。
『ウサギを囮にしたはいいが……いつまでもつか……』
(トラ子、お前酷い怪我じゃないか……早く治療しないと)
虎の内側から、つぐみが言う。その声はひどく焦った様子だった。
『ちりょう……よく分からんが、難しいことはいらん。俺達はもっと簡単に治る……』
そう言って、虎は物陰に隠れながら移動する。キョロキョロと、何かを探しているようだった。
(トラ子……? どうした?)
『ぐるぅ……何か手頃なのは……お、アレならいいか』
満足そうに喉を鳴らす虎の視線の先、そこには二つの人影があった。片方は若い女性、もう片方は大柄の中年男性だった。男が大声で女性を怒鳴りつけており、彼女はそれに対して身を強張らせている。
(うわ、可哀想……何があったか知らないけどあんなに怒鳴らなくても)
『つぐみ、怒鳴るのは悪い事か?』
(え? まぁ、うん……そうだね、しかもあんなふうに、自分より立場の低いと思ってる人とか、言い返せそうに無い人にだけ強く当たる奴なんて最悪だよ……それがどうしたの?)
『そうか、つまりあの男は悪い奴か……それは良かった』
言った直後、虎は跳躍し、一瞬で男の背後に立った。男の正面に立っていた女性の表情が、みるみる内に怒鳴られていた時とは違う恐怖に染まっていく。流石にその異変に気付いたのか、不機嫌そうに男が振り返るとそこにはーー。
『ふむ、やはりいい、女より大きいから得だな』
いや、男はその姿を見ることは無かった。振り返った瞬間、虎の大きな手で顔面を鷲掴みにされたのだから。
何が起こったのか分からない、混乱していて、声すら上げられない。そんな状態である事など構わず、次は体が宙に浮く感覚が襲ってきた。
徐々に自分の現状を理解する。巨大なナニカに頭を掴まれ、持ち上げられているのだ。
「ひっ」
一気に恐怖が湧き上がり、必死にもがく。しかし、ばたつかせていた足が、強い力で押さえつけられた。おそらくもう片方の手で足を掴まれたのだろう。
そこで、ぐるんっと奇妙な感覚に襲われた。普通に生きている中で中々感じないであろう、体が真横になって感じる浮遊感。ありえない事の連続でパニックを起こしていたが、どういう状況なのかは驚くほど冷静に理解出来た。
要するに、ハンバーガーやフライドチキンを食べる時みたいに持たれているのだ。異形の怪物が、人間をそんな風に掴んでいる。
(トラ子……? お前何を)
『補給だ』
そう言って、虎は掴み上げた男の腹にガブリと噛みついた。そのまま肉を引っ張り、何回か首を上下左右に振る。やがて服に血が滲み出し、ブチブチと音を立てて、ついに裂けるような音を立てながら服と腹の肉が男から引き千切れた。
男の絶叫が響き渡り、鮮血が零れ落ちる。
激痛に悶え、ぐねぐねと動く男を見て、虎はとても満足げに笑った。
『活きが良いな、こいつを選んで正解だった』
流れ出る血を大きな舌でベロリと舐めてから、再び男の腹を齧る。さっきよりも容易に肉が千切れ、虎の喉の奥へと消えていった。一口、また一口と獲物を捕食していく。噴き出した血が辺りに飛び散り、赤黒い水溜りを作っていく。
恐怖で固まっていた女は、顔に血が飛び散った事で一瞬正気を取り戻したが、目の前の凄惨な状況に耐えきれず声も出さずにそのまま気を失ってしまった。
最早人の出す声とは思えない悲鳴を上げ続けていた男も、いつしか静になり、ただ痙攣するだけの肉塊と化していた。
腹が深く破れ、詰まっていたものが重力に逆らわずぼたぼたっと落ちてくる。長い腸や胃袋、まだほんの微かに動いていた心臓などが、だらりと垂れている。
『美味いな、美味い。食べ応えがある、やはり大きい体の奴は良いな、体の内側から力が湧いてくるのを感じる……なんというか、幸せな時間だ』
虎の心が、至福に満たされていく。それは、つぐみにも伝わっていた。
止める間もなく行われた捕食。飛び散る鮮血、零れ落ちる臓物。とてもじゃないが人の死に方じゃない。それを行ったのは自分の中に住まわせている怪物、要するに、つぐみ自身のようなものだ。
唐突に行われた殺戮に、つぐみは怒り、悲しみ、罪悪感や後悔、嫌悪感や忌避感などの感情が
一切湧かなかった。代わりに湧き上がってきたのは、凄まじい高揚感と幸福感、満足感に達成感。ありとあらゆる快楽が、一気に心と体を支配した。
(なにこれ……なにこれぇ! すっごいすっごく気持ちいい! もっと食べよう! いっぱいあるし!)
つぐみの歓喜に応えるように、虎は肉を貪り続ける。血肉が喉を通るたび、幸せが全身を駆け巡る。さっき殺されかけた事なんて嘘のように忘れて、ただ幸せだけが自分達を幸せにしてくれる。幸せが幸せにしてくれて、幸せと幸せになって、幸せを幸せにして、幸せで幸せになって幸せで幸せが幸せと幸せに幸せを幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸幸────。
『もう終わりだ』
(あ、えぇ?)
唐突に、幸せは終わりを迎えた。残るは男の頭部のみ。
なんだつまらない。つぐみは心の底から落胆した。
『まぁ落ち込むな、俺は一番美味しいところは最後に食べる』
そう言って、虎は男の両目に指を食い込ませる。貝の中身を取り出すように目玉をくり抜き、ぽいっと口に放り込んだ。硬めのグミのような歯応え、しかし中身はとろっと柔らかく甘かった。
(一番美味しいとこ?)
『いや、この次だ』
虎は再び、ただの穴と化した両目に指を突っ込み、親指でしっかりと後頭部を押さえて、蟹の殻を剥がすように、男の頭蓋骨をガパッと剥がした。
目の前に現れた、ぷるんとした肌色の脳を見て、虎とつぐみは喉を鳴らす。甘美な香りが鼻腔をくすぐり、齧り付きたい衝動に駆られる。
『これだこれだ、美味しいんだ』
(はやくぅはやくぅ)
大きく口を開き、丸ごと放り込む。柔らかな舌触りを楽しんでから、ゆっくりと噛む。ぐにゅぐちゅと柔らかいのに少しハリのある贅沢な歯ごたえ、濃厚でクリーミーな味わいが口の中に広がって、さっきまで食べていたどの部分よりも美味しかった。
『ふぅ……傷を治せたし、補給もできた。この手に限るな』
虎の言うとおり、首に負っていた傷は跡形も無く消えていた。それどころか、疲労感まで吹き飛び、逆に力が漲ってきていた。心は、今まで感じた事のない幸福感に包まれ、ふわふわと暖かい。
(美味しかったなぁ……すごいね、怪異って)
『ぐるぅ、そうか? 俺達にとっては当たり前の事だが……そうか、つぐみは人間だものな、初めての経験か』
(怪異なら誰でもこうやってるの?)
『そうだな。というより、手っ取り早く傷を治せて回復できるんだからしない理由がない』
(そっか……なんか、トラ子に体あげて正解だったな。人間である必要なんて皆無じゃん)
つぐみはクスクス笑いながら言う。それにつられて虎も嬉しそうに喉を鳴らした。
『ぐるる、だが、まだ俺は不十分だ。完全にこの世界に適応するには知識が足りない』
(知識なんて必要あるかな? 気に入らない奴はみんな……ああ、そうか……ダメだ、世の中悪い人ばかりじゃないし……あれ? そもそも人殺しって……ダメな事じゃ無かったっけ)
『教えてくれた限りではそうだな……今は緊急だったから仕方ない……な?』
(そうだね、それにこの男に関しては……悪い奴だったしさ、食べても別に問題ないでしょ。でも、無闇に殺すのは良くないよ、ちゃんと相手は選ぼうね)
『わかった。それで、これからどうする』
(どうするって……そんなの決まってるでしょ)
虎の変身が解けて、つぐみの体に戻る。彼は辺りを見回し、場所を確認しながら言った。
「もう遅いんだし、家に帰るよ。これからの事はそれから考えよう」
ふわぁと一つ欠伸をして、あの味を思い出し、ほんの少しニヤけながら、つぐみは軽い足取りで家に帰るのだった。




