朝が来た
耳障りな目覚ましの音で、八夜は目を覚ました。いつも通り目は閉じたまま、手探りで目覚ましのボタンを探す。
しかし、結局見つからず、仕方なく寝ぼけ眼を擦りながら、自分の目で確かめる事にした。
「──?」
しかし、目覚ましが何処にも無い。でも確実に、音は鳴り続けている。
ありえないほど、はっきりとした耳鳴りだろうか?
いや、それよりも。
「……? は? 目を……覚ました……?」
一瞬で意識が覚醒し、八夜はガバッと体を起こす。辺りを見回すと、見覚えのあるカーテンやテーブルがあって、そして、自分は見覚えのあるベッドの上で寝ていたようだ。
あの状況から、帰宅した、というのだろうか?
次に、八夜は自分の体をあちこち触りながら確認する。
あの時、自分の体に突き刺さっていた枝の痕跡を、なにより、確実に心臓を貫かれたであろう、胸にあるはずの傷を探す。
しかし、どこもかしこもつるりとした綺麗な肌で、貫通した穴どころか、カサブタの一つだって無かった。
あの時の出来事が、全て夢だったかのように。
「いや……夢、だったのかな」
いつの間にか、目覚ましの音も止んでいる。あまりにも、リアルな夢、だったのだろうか。
それにしては、あの時感じた痛みは、今も鮮明に思い出せる。枝が体を貫いた衝撃もだが、なにより、影達に殴られ蹴られしたあの痛み。
「……あれ? そういえば、今日は一匹もいないな……」
いつも見張るように漂っていた黒い影が、今日は一つも見当たらない。そんな事、震災の日以来一度も無かったというのに。
「なんなの、変な感じ……」
気になる事は数多くあるが、ベッドの上で混乱しているだけで状況が変わるはずもない。
いつの間にかパジャマにも着替えていたようだし、とにかく朝の身支度を整えないと、そう思って、八夜は洗面所に向かった。
顔を洗って、タオルで水を拭き取り、歯を磨こうと鏡に写る自分の姿を見て、八夜は違和感を覚えた。
何か、いつもと違う気がする。
考えながら、歯を磨いて、口を濯ぐ。そして再び自分の顔を見た時、その異変の正体に気付いた。
「……あれ? 髪が」
肩まで、ダラリと伸びていたはずの髪が、丁寧に整えられているのだ。まるで、誰かが梳かしてくれたように。
父や母では無い。二人もまた、あの震災で帰らぬ人となっている。
ならば、家族唯一の生き残りである兄かとも考えたが、離れて暮らしている兄が、わざわざ妹の髪を整える為だけにやってきて、帰る、なんて意味不明な行動をするとは思えない。
だからと言って、自分でやった、というには、あまりにも綺麗すぎる。というか、記憶にない。
「ま、まさか……誰か知らない人がここに入ってきたの?」
でも、部屋を荒らされた様子は無かった。八夜自身にも、髪以外特に変わった様子は無い。
かなり変わった怪奇現象だとでもいうのだろうか。
「だ、だとしたら……すごく親切な幽霊なんだけど」
『それほどでも!』
──八夜は、その場で硬直した。
今、ハッキリと、自分の独り言に答えるように、女の子の声が聞こえた。
「……え? あれ? 気のせい? まだ……頭は寝てるのかな……?」
『んーん、起きてるよ! 脳が状況を理解しようとぐるぐるしてるのが何よりの証拠!』
答えた。はっきりと、少女の声は八夜の発言に対して答えを返した。
「何、ちょっと待って、誰? 誰かいる? どこから喋ってるの……ここ私の家なんだけど……」
『知ってるー、だって記憶を辿ってここまで来たからね! 私は』
「何!? 誰!? どこ!? 怖いんだけど! いるなら出てきてよ!」
声は聞こえるが、八夜がその話を聞こうとはしなかった。ただただパニックを起こし、辺りをキョロキョロと見回しながら声の主を探すため、部屋中を漁りまくっている。
『もー! 話聞いてよ! ってか、じゃあまずこっち見て! 洗面所!』
「洗面所……?」
やっと声の話を聞き、恐る恐る再び洗面所に向かう。
しかし、誰もいない、鏡に写るのは、自分の姿だけ。
「どこ……?」
『ほらほら、もっと鏡をよく見て』
近寄って、鏡に写る自分の顔を覗き込む。
情けなく不安げな顔を浮かべる自分が写っている、ずっと見ていると、自分の顔が他人に見えるような、変な感覚に陥りそうになる。
しかし、今回は違った。
『ばぁっ!』
「うわぁああああああああっ⁉︎」
明らかに違う顔、自分の顔に重なるように、少女が満面の笑みを浮かべながら突然現れたのだ。
驚いた拍子に八夜は足を滑らせ、勢いよく尻餅をつき、壁に後頭部をぶつけてしまう。
『あははははははははははっ! ごめーん、びっくりしたぁ? 相変わらずヨルは反応が面白いなぁ』
「いたた……な、なんなの……本当におばけ……って、え、ちょっと待って……今、なんて」
突然出てきた少女の言葉に、八夜は奇妙な違和感と、懐かしさを覚えた。
今彼女は、自分の事を『ヨル』と呼んだように聞こえた。
いや、ありえない。自分をそう呼んでくれる人は、もうこの世にはいないのだから。
八夜は、ゆっくりと、顔を上げる。
こちらに満面の笑みを向ける少女が、そこに立っていた。しかし、それは明らかに人間ではなかった。
彼女の腹部から、赤黒いへその緒のようなものが伸びており、ソレは八夜の左胸と繋がっていた。
いや、それよりも、彼女が人間では無いと、はっきりと言える根拠が、八夜にはあった。
震える唇を必死に押さえながら、八夜はなんとか声を出す。
「──あ、アサ?」
そう呼ぶと、彼女は嬉しそうに両手で頬を押さえながらぴょんぴょんと飛び跳ねて、答えた。
『そう! アサ! 久しぶりだね! ヨル!』
十年前と同じ姿で、彼女、死んだはずの友人、アサは、そこに立っていた。
信じられない光景に、八夜が茫然としていると、アサはお腹をさすりながら言う。
『ヨルー、感動の再会をもっと楽しみたいところなんだけどさぁー……朝ごはん食べない? というか、食べて?』
じゃないと、死んじゃうよ?
十年ぶりに再会した友人は、笑顔のまま、恐ろしい事を言いながら、キッチンを指差していた。
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不思議な赤い髪を揺らしながら、アサは嬉しそうにトーストが焼けるのを待っていた。
『すごーい! ヨルがお料理出来るようになってたなんて……私感激だなぁー』
「…………」
言われるがままに、トーストと簡単な目玉焼きを用意して、皿に乗せたそれらを差し出すと、アサは無我夢中で食べ始めた。
向かい合う二人。満面の笑みを浮かべるアサに対し、八夜は疑いの目を向けている。
正直、信じていない。確かにかつての親友の姿をしてはいるが、自分を襲った黒い影の仲間かも? という疑念がある。
「貴女……本当にアサなの?」
『えー酷いよヨルー、友達の顔忘れちゃった? こーんな可愛い友達の顔忘れちゃったのー?』
目の前でウインクしたり、両手の指で頬をついたりと、可愛こぶってみせるアサに、八夜は更に疑いの視線を送る。
「忘れた事無いよ……無いけど……アサはそんな事しなかったよね……そんなキャラじゃなかった」
『あー、確かに! でもそこは仕方ないよ。私はもう死んでるし、自分を偽る事なんて出来ないからね』
「……どういう事?」
『人間誰しも、本当の自分、なんて、全員に見せたりしないでしょ? 嫌われないように、角が立たないように、みんな色々我慢して、本当の自分を隠して、偽りの性格で過ごしてる…はず、でも、それが出来るのは、生きてるからなんだよ?』
「……?」
『だからー、生きてるから。魂が肉体っていう入れ物で守られてるから、色んな自分を演じる事が出来る。魂が操縦者で、肉体がロボットみたいなものだと思えばいいよ、でも、私みたいに、死んじゃうと、つまり肉体が滅びて魂だけになると、偽る事が出来なくなるんだ、嘘も吐けなくなるし、性格を変える事も出来なくなる、本当の意味でのありのままの姿を晒け出しちゃうんだ、魂は、真実に逆らえないの』
「……つまり、貴女がいう事は……全部真実って事? 貴女が、アサだって事も?」
八夜が再確認すると、アサは親指を立てて頷いた。
『そゆこと! まぁ、確かにこんな状況だし、最初は疑われるだろうけど、今の私は私嘘吐けないからね、吐かないんじゃなくて、吐けないんだから、なるべく信じて欲しいなぁ』
アサはトーストを一口で飲み込むと、お皿を突き出して『おかわり!』とキッチンに置いてあるトーストを見ながら言う。
「……お化けなのにパン食べるんだね」
何気に思った事を言ってしまう八夜。しかし、それがどうやらアサの心を抉ったようで、途端に悲しそうな顔をして目にいっぱいの涙を浮かべる。
『ひどーい! お腹空いたらご飯ぐらい食べるよ! それに……私はお化けじゃないよ!』
「ご、ごめん……って、なに? お化けじゃないって……どういう事?」
八夜が尋ねると、アサは一瞬で機嫌を直し、自信満々に胸を張って言う。
『私はお化けよりも更に確かな実態を持った、いわば上位存在の、『怪異』だよ、お化けみたいな幽かな存在とは違うの! だからご飯も食べるし、こんな風にはっきり話せる! ヨルに付き纏ってた弱虫ども一緒にしないでよねー!』
「私に付き纏ってた……って、あの影の事? アサは、あれの正体を知ってるの?」
『知ってるもなにも、アレがみんながよく言うお化けとか幽霊ってやつだよ? 冥界に行くわけでもなく、だからと言って怪異になりきれるほどの執念とかも無い、会話も出来ないから何とかして自分の存在をアピールしようと必死になるしか無い、哀れで儚い幽かな存在……ま、私も最初はそうだったんだけどね……そもそも』
言いかけて、アサは思い出したようにお皿を突き出して、おかわりを催促する。
仕方なく、八夜はトーストをトースターに入れ、ついでに自分は水を一杯飲む事にした。
『ヨルー、ちゃんと食べてる?』
「え……まぁ、それなりには……病院の先生にも言われてるし…でも、朝はあんまり食欲無いから、抜く事がほとんどかな」
『病院行ってるんだー? っていうか、ダメだよ、ちゃんとご飯食べて? 特に今日からはちゃんと食べて? じゃないと……死ぬから』
先程までとは打って変わって、アサは真剣な表情と声で言う。
「そ、それは、どう言うことなの?」
『んー……ヨルはさー、今自分の体がどんな状態か、全然把握してないんだね』
「どんな状態って……?」
『私がヨルから離れたら、今すぐにでも死ぬ、そんな状態なんだよ?』
「えぇっ⁉︎」
発せられた衝撃発言に、驚きを隠せない。彼女は嘘を吐けないらしい、それが本当なら、今のも冗談とかではなく、真実なのだろう。
「……ど、どういうこと?」
『ヨル、桜の木に貫かれた事は覚えてるよね? アレ、ヨルが思ってる以上に致命傷だったんだよ? 即死じゃ無いのが不思議なぐらい。心臓は完全に破裂してたし、気付いてないかもしれないけど、刺さった衝撃で胃や腸にも損傷があった、脊髄なんかも傷付いてたし、もう一回言うけど、即死じゃ無かったのが本当に不思議』
「…………」
あまりの衝撃的な事実に、言葉も出ず、ただ固唾を飲む事しか出来なかった。
『私も入った時びっくりしたもん、正直かなり焦ったよ、どこまで修復出来るのかなって』
「修復……って、もしかして……今私が無事なのって」
『恩着せがましい言い方になるけど、私のおかげかな。損傷した箇所を全部私で埋めてるからね……でも、失った血の分は、やっぱり足りない……全然無事じゃないんだよ? ヨルは。だから、ちゃんと食べて、じゃないと、死ぬよ? 私だってどこまでもつか分からない』
八夜は、自分の体を恐る恐る見る。見た感じは、本当に何ともない、健康体そのものだ。しかし、アサの言う事が正しいのなら、この中身は、ぐちゃぐちゃになっている。
こみ上げる吐き気を抑えて、すがるように八夜は冷蔵庫に入っている食材を片っ端に掴み上げて、見つめる。
「た、食べれば……治るの?」
『かなり時間はかかるし、ちゃんとバランスの取れた食事をかなりの量取らないといけないけど……不可能じゃないと思う、というか、そこは私が頑張るよ! でも、常に意識して欲しいな、今ヨルは、八割死んでるようなものなんだって』
血の気が引いていくのを感じた。いや、血が足りないんだから、これは、アサの一部がそうさせているのだろうか。何にせよ、疑い続けた自分を、アサはそれでも救おうとしてくれたのだ。というか、現在進行形で、救われている。
「あ、アサ……ありがとう、助けて、くれたんだね?」
『当たり前じゃん! 私達友達なんだから! それに、助けてって言ったのは、ヨルの方なんだし! 友達の頼みを無視するなんて、私には出来ないね!』
「……言ったっけ? 覚えてないや……ねぇ、なんで、アサはそんな事が出来るの? 怪異だから?」
『怪異だからっていうか、ヨルに入ったから? いわゆる取り憑いたって言った方が分かりやすいのかな? でも怪異は幽霊とかよりも確実な存在だから……憑依っていうか……どちらかというと、寄生? 怪異って、人間と混ざると能力が上がるんだよね、そういう人と怪異の共生体の事を、怪異宿しって言うんだけど……』
あ、と、何か思い出したような声を上げて、アサは八夜を見る。
「な、何?」
『しまった、肝心な事言い忘れてた』
アサは困った顔をしながら言う。
『ヨル、ご飯も大事だけど、これからもっと別の事に気を付けなきゃいけなくなる、そうじゃないと、死ぬよ』
「ま、またぁ?」
『ヨルは、自分が思ってるよりずっと最悪な状況に置かれてるんだよ?』
アサは深刻な面持ちで、言う。
それは、八夜にとって、考えうる限り最悪の知らせだった。
『ヨルは……これから、沢山の怪異にその命を狙われる事になるよ』
パンの焼ける音がした。静まりかえった部屋の中で、虚しく響いていた。