来訪者
慎重に、しかし大胆に、八夜はペンを握っている。額に汗を浮かべながら、白紙にペン先を滑らせていく。
八雲八夜、と、自分の名前を書いて、更に今日の日付や曜日、天気までも書いていく。そして、特に書く事は無いが、近況を綴っていく。
丁寧に、一文字ずつ。
最後の一行を書き終えて、八夜はホッと安堵のため息をこぼす。
「や、やっと……ここまで出来た」
感激のあまり、拙い文章が綴られたA4サイズのルーズリーフを掴んでぼろぼろと涙を流した。
『泣くほどのことかとツッコミをいれたいけど、これまでの苦労を考えたらねぇ、泣けるよねぇ……やっと普通に文字が書けるぐらいまで力加減出来るようになったんだねぇ』
八夜に小さく拍手を送りながらそう言うのは、親友であり、命の恩人でもあるアサだ。怪異の彼女が取り憑いているからこそ、八夜は今辛うじて生きていられる状態である。
そんな彼女が取り憑いて、怪異宿しとなり、凄まじい力を手に入れて、ネズミを退治してから早一週間が経とうとしていた。その間、力加減が出来るようになるまで何本ペンや箸が犠牲になったか分からない。それだけじゃない、ドアノブも捻り千切ってしまっているし、その勢いで扉も何枚か破壊してしまっている。
その度に力加減を調節し、その感覚に慣れるように気を張りながら生活してきた。特に学校では細心の注意を払って過ごした。
その甲斐あって、苦労の末、ようやくコツを掴んだのだ。やっと、まともに物が掴め、それを使えるようになってきた。
「自転車に初めて乗れるようになったみたいな感じ、マジで嬉しい、いやマジで」
『これで大体の事は大丈夫じゃないかな? ちなみに、力を入れ過ぎないコツはなんだった?』
「アサが言ってた通り、大胆に手を使うべきだね。私、慎重に掴もうとして指先だけで摘んだりしてたけど、それがダメだったみたい、掌全体で掴むイメージでやると上手くいったよ」
『でしょー? 一点集中は思ったよりも強い力が加わるからね。ね? 私が口で言うより、自分の感覚で覚えた方が確実でしょう?』
「うん、アサのおかげだよ。ありがとう」
お礼を言われて、アサは頬を赤らめながら、ふふん、と、得意げに鼻を鳴らす。
『私はヨルの損になるような事はしないよぉ、これからも役に立って見せるから期待してて! それよりさ、そろそろご飯食べようよ、お腹すいた』
「え、あ、ほんとだ」
ふと時計を見れば、既に時刻は午後七時を過ぎている。どうやら調子良く特訓の成果が出た為、時間を忘れていたらしい。
「ごめんね、すぐ作るよ……今なら普通に料理出来るかも」
『久しぶりに手料理!』
特訓中、食事は殆どがコンビニ弁当やカップ麺ばかりだった。理由は、迂闊に食器や調理器具に触って壊してしまいたく無かったからである。冷蔵庫なんか壊れたら目も当てられない。
八夜は、力加減を確認しながら冷蔵庫を開ける。しかし、中にはほとんど何も入っていなかった。
「しまった……買い出しなんて行ってなかったからなー……牛コマぐらいしか無い……」
『それにしたって少なすぎだよ、今まであんまりご飯食べてないのバレバレじゃん』
「だって食欲わかなかったんだもん……うーん……あ、野菜もある……一週間ぶりだし、慣らすためにも作るの簡単なカレーにしようかな」
『っしゃあ!』
はしゃぐアサを椅子に座らせ、早速八夜は材料を台所に並べる。一度深呼吸して気持ちを落ち着かせてから、包丁を握った。
「よし、大丈夫、潰れない」
野菜を洗い、皮を剥く。そのまま切って、鍋に入れ炒めていく。それぞれの工程を順序良くこなしていく。
野菜は潰れないし、まな板も真っ二つにならない。調理を進めていくうちに、段々と八夜の安心感と自信は強くなっていった。
大丈夫だ、完全に力の制御が出来ている。日常生活に支障が出ないぐらい、完璧に。
その後も難なく作業は進み、後は灰汁を取ってカレールーを入れるだけとなった。
「もう少しだから、もうちょっと待っててね」
『んー……食べれるかな……』
アサは、そんな不可解な事を呟くと、眉を潜めながら玄関の方をジッと見つめていた。
「……? アサ? 一体どうしたの」
その真意を確かめる前に、強制的に八夜の意識も玄関の方に向けられた。
インターホンが鳴ったのである。しかも、何度も何度も、叩きつけているかのように、音が途切れ途切れになる程、激しくなり続けている。
あまりの出来事に唖然としていると、インターホンが止み、ドアを激しく殴り付けているかのような鈍い音に変わった。
ようやく我に返った八夜は、アサを自分の中に隠し、急いで玄関へと向かった。
急かす客に慌てたわけではない、扉を叩くその音に混じって、悲鳴の様な声が聞こえたのだ。助けを求めているかの様な、怒りすら混じった叫び声。
(分かってると思うけど、迂闊に開けちゃダメだよ)
「分かってるけど……でも、なんとなく強盗とかの類じゃ無いと思う……本気で何かに怯えてる様な感じ」
言いながら、八夜は玄関のドアアイから来訪者の姿を確認する。
それは、自分と同じ高校の制服を着た少女だった。
誰だろう、そんな事を考える暇も与えてくれないほど、向こうの彼女は激しく扉を叩き、怒号をあげている。
「開けろ! 開けろよ! いるんでしょ! あんたのせいだ! あんたのせいで!」
敵意をむき出しにされ、怒鳴り散らされて、素直に扉を開けるほど八夜も馬鹿じゃない。こんなのを家に入れたら何をされるか分からない。
しかし、何か彼女をこんなにも怒らせる様な事をしてしまったのだろうか。生憎だが、彼女に見覚えは無い。同じクラスで無い事は確かなのだが。
(どうするヨル、警察呼ぶ? それとも放置?)
「いや、放置してたら近所迷惑になっちゃうし……警察に通報しようか。余計なトラブルに発展しちゃう前に」
若干動揺しながらも、八夜はスマホの通話画面を表示させ、1に指を置きかけた。しかし、ドアの向こうにいる彼女の怒号に、再び動きを止められた。
「アンタなんでしょ! アンタあの化け物と何か関係があるんでしょ!」
「──ッ⁉︎」
ドクン、と、心臓が跳ね上がるのを感じた。
(おー、修復中の潰れた心臓が、緊張に対して正常に反応した。回復の兆しだね)
などと、内側で呑気に言っているが、八夜の動揺は治らなかった。なんと言われた? 化け物と関係がある、と、彼女は言ったのか?
ある、大アリだ。怪異であるアサと融合し、怪異宿しとして辛うじて生かされている。化け物が怪異の事を指すのならば、関係は大アリだ。
しかし、だから、問題は、何故彼女がその事を知っているか、という事だ。名も知らぬ彼女は、どこで何を知って、何をしに、ここに来たのだろう、という事。
(まさかとは思うけど、私達が変身したところを見られたのかね? しかも、この扉の向こうの女は、例の怪異対策の組織の一員だったりして?)
「も、もしそうだったとしたら……私達を」
(殺しに来たのかもね)
嫌な汗が頬に垂れる。どうする、もう警察に言っても意味がない様に思えて来た。前回のネズミの捜査といい、例の組織は、警察の介入を防ぐ事が出来るぐらいには権力があるらしい。
「いや……でも、ちょっとおかしいよ、こんな風に私に警戒されてたら、討伐出来るものも出来なくなる……」
それに、あの化け物と関係がある、という表現にも違和感がある。化け物、とは、アサや八夜自身のことを指して言っているわけではないのか。
「……とりあえず、すっとぼけてみる」
(おん?)
「ま、まだ相手がどこまで知ってるか分からないし、カマかけられてるだけかもしれないし……動揺丸出しで私達の方から正体明かすわけにもいかないし……とにかく、大事なところは伏せて、一度話してみる。万が一、危なくなったら……その時は」
(その時はやるしかないよねぇ)
八夜は小さく頷いて、チェーンロックを掛けてから、ドアを少しだけ開けた。
その瞬間、隙間から強引に手がねじ込まれ、チェーンを掴み激しく揺らした。そして、その向こうには、ものすごい形相でこちらを睨む彼女の姿があった。
「や、やめてください! なんなんですかいきなり!」
「アンタ……アンタなんでしょ! この化け物! あの牛みたいなの、アンタがやったんでしょ! この人殺し!」
「お、落ち着いてください! なんの事だか分からないですよ! 私は見ての通り……普通の人間ですし……化け物呼ばわりされる様なところは無いつもりですよ、それに、人殺しなんて……」
「でもアンタの変な噂を最近聞いた! 死にかけみたいだったくせに、いきなり元気になって、体育館だってアンタが壊したんでしょ⁉︎ そんな事、人間ができるわけない!」
それを言われると本当に何も言い返せないので困る。一応老朽化していたという事で話は済んでいる思っていたのだが、やはりというか、当然の如く、そんな話に納得していない生徒もいたらしい。
いや、そんな事より、ちゃんと重要な情報が漏れた。
(牛みたいな……って、確実に私達じゃないねぇ、私達は可愛いウサギちゃんだ)
「あの、とりあえず落ち着いて、よければ詳しくお話を聞かせてもらえませんか? 私自身に心当たりが無くて申し訳ないんですけど……全くの無関係、というわけでは無いんですよね?」
八夜はそう言って、チェーンロックを外し、玄関のドアを開けてしまった。
(わお、何やってんのヨル)
「外も暗いですし、立ち話もなんですから、よかったら……どうぞ」
「…………」
八夜のまさかの行動に、相手も唖然としているようだった。意味不明な事を叫びながら怒鳴り込んできた相手を家の中に招き入れるなど、無用心にも程がある。勇気を通り越して無謀な行為だ。
第一、八夜の事を殺人犯だと思っているのだから、相手も警戒して入ってこないだろう。
「……分かった」
(おお?)
しかし、予想に反し、彼女は先ほどよりも落ち着いた様子でその提案に応じたのだった。
相手の顔も知らない、素性も何一つ知らない二人。つまり一般人の初対面同士が、いきなり一つ屋根の下で対談するという、奇妙な展開の幕開けであった。