変異した世界
倉トリックと言うものです。
死ぬ事を前提に生きたくない、そう思って書きました。
どうぞ、読んでみてください。
十年前、世界の人口は、一瞬で三分の一まで削られた。
世界中を襲った、まるで地球そのものが割れてしまうかと思うほど強力で巨大な地震。マグニチュード9.7、それが世界中をたったの十数秒間で、壊滅状態へと導いた。
三分の一、約二十五億人という人の命が奪われ、人々が築いてきた文明は容赦無く破壊された。
身も心も深く傷つけ、多くのものを終わりへと導いた忌々しい震災を、人々は歴史に残る最悪の出来事として『終焉』と名付けた。
ここ、日本も、危うく海の底に沈みかけた。
というか、実際に沈んでしまった島もある。
地割れに巻き込まれ、未だに遺体が引き上げられずにいる。
津波の恐怖で、海に近付いただけで失神する人だっている。
それでも、人間のエネルギーは凄まじく。たった十年で、人々の暮らしは、元の環境へと戻りつつあった。インターネットは繋がるし、テレビも見れる。買い物だって普通に出来るし、スポーツを楽しめる施設だってある。
人間の素晴らしさを一つあげるとすれば、それはしぶとさだろう。生きる、という事に対する、執念。死への抵抗。
生物なら持っていて当然の欲求だが、知性がある分、やはり人間は強い。
そのエネルギーが、文明の再生を可能にしたのだ。
しかし、そればかりに気を取られ、人々は、知らなかった。
地震は始まりに過ぎなかった事を。
現在進行形で、世界は『終焉』に向かっている事を。
生を貪る、死に、世界全体が飲み込まれつつある事を。
多くの人間は、知らないでいるのだった。
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「……私は……無駄な人間です」
開口一番、少女はそう言った。
白いカーテンに白いテーブル、一面を白で統一され、小窓から陽の光が差し込む清潔感溢れる診察室。そこで、黒縁眼鏡をかけた男性医師と、目に光を宿していない、まさに『死人の顔』と表現しても良いほどに正気を感じないくたびれた様子の少女が、向かい合って座っている。
「学校には行ってるかい?」
医師は表情を変えず、落ち着いて彼女に問う。
「行ってます……けど、先生の言うような……生きがい……みたいなものは……感じられないです……クラスメイト達は……楽しそうに、話をしてるんですよ……あんな事があっても、ちゃんと前を向いて生きてる……それを見てたら、私って、やっぱりいらないんじゃ無いかって……思いました」
少女は、両の掌でスカートを抑えながら、虚な表情で淡々と答えた。
「何故、いらないって思ったんだい?」
彼はカルテにボールペンで何かを書きながら質問を続ける。
「あの人達には……大切に出来る友達とか……家族が、生きてるじゃ、無いですか……。でも、私には、何もないでしょう? 目の前で、何もかも押し潰されましたから……愛し、愛されて……人は生きるものだって、思うんです……。だったら……愛されていない人間は、愛するべき人が一人もいなくなってしまった人間は……消えた方が、楽なんだと」
少女の肩まで伸びた髪が、ダラリと揺れる。ゆらゆらと首を動かし始めたのだ。
「そうか……なら……いや、やめようか」
彼はカルテをそっとテーブルの上に置いて、眼鏡を外し、少女の顔を見て呟いた。
「君のような症状の人間を見た事が無いわけでは無い、自分が生きている事自体に強い罪悪感を抱く人間なんて腐るほどいるからね…でも、君ははっきり言って異常だ、あの震災からもう十年、なのに、一向に回復の兆しが無い…私の方にも責任があるんだろう…でも、それ以上に、君はまるで、自分が生きている事だけじゃなく、精神を回復させる事にすら罪悪感を抱いているようだ、君、本当は望んでいないんじゃないかい?」
まるで、何から自分を許す事を許していないように、彼女は絶望の渦の中に自分から留まっているように見える。
「私は……私が……本当はあの時死ぬべきだったんです」
「あの地震の時、君は友人と二人でいた……その続きを、私は聞かせてもらっていない」
良ければ聞かせてくれないかな? 医者がそう言う前に、少女はフラフラと立ち上がり、ペコリとお辞儀してから
「帰ります……ありがとうございました」
と言って、部屋から出て行ってしまった。
「ふむ……難しい子だね」
彼はテーブルの上に置いた、少女の資料を眺めながら呟いた。
名前、八雲八夜。
歳、十七。
病名、心的外傷後ストレス障害(PTSD)。
あの地震の際、当時七歳だった彼女は、最も仲の良かった少女を目の前で亡くしたのだろう。その詳細は彼女の口から聞けていないが、彼女が断片的に漏らした情報を繋ぎ合わせた結果、そういう事だろうと予想される。
「あの時私が死ぬべきだった……か。これは意外に新情報だね、つまり……本当は彼女が死にゆく立場だった、という意味なのかな?」
そうなると、だんだん話がみえてくる。
「まだまだ時間はかかりそうだね」
そう呟いて、彼は資料を片付け、次の診察の準備を始めた。
彼もまた、気付いていない一人なのだった。
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許されない。
許されない、許してはいけない、許してもらえない、許されてはいけない。
私が生き残ったのは、間違いだったんだ。
「…………」
フラフラと、くたびれた少女は帰路を歩く。周りに感じる気配に怯えながら、出来るだけ目を合わせないようにして、まっすぐ家に向かう。
(先生に……悪い事しちゃったな……)
いきなり飛び出してしまったのだ、迷惑極まりなかっただろう。予定を合わせてわざわざ面会時間をくれたというのに、非常識な女だと思われただろう。
(でも、言えないよ……あの子の事は……)
言えない、言いたくても、言えない。
許しを乞う事は、決して許されない。
少しでも願えば、きっと彼らは牙を向く。
チラリと横目で確かめてみる。
自分の周りを、無数の黒い影が漂っている。地上から一メートルほど宙に浮いた黒い影達は、人の形をしてはいるが、煙のようにゆらゆらと揺れ、そして、たまにこちらを覗き込んでくる。
(先生には見えてないんだもの……仕方ないよね)
十年前、あの震災の直後、八夜はこの影に纏わり付かれるようになった。影達が、揺らいでる間は安全だが、ある条件を満たしてしまうと、態度が急変し、積極的に八夜を襲うようになるのだ。
決まって人目につかない場面で、なんと実体を持って、首を掴んだり、噛み付いたりしてくる。その際、必死になって謝り、生きる事を望んでいないと表明する行為(自傷行為や死にたいと発言するなど)をすれば、その攻撃は止む。
何度か襲われていくうちに、影が襲いかかってくる条件は、八夜自身が、生きたい、や、許されたい、と救いを求める願いをした瞬間である事が分かった。
彼らの機嫌を保つには、常に絶望し続けなければならない。
八夜は、永遠に、闇から逃れられなくなったのだ。
(今日は……やけに数が多い気がする)
影の数はその日によって違う。その数に何の意味があるのかは分からないが、でも、多い日は特に気をつけなければならない。
こんな数に襲われてしまえば、本当に死んでしまうかもしれない。
八夜は、死にたがりを演じている。生きる為に、死を本気で望まなければならない。こんなわけのわからない状態になっても、彼女は、生きる事を諦めてはならない。
それが、友人との最後の約束だからだ。
(いつか……アンタ達も追い払ってやるから)
結局正体は分からない。幽霊だと勝手に思っていたが、攻撃する際には、明らかに質量を伴った物体となって襲いかかってくる。
幽霊とは別のナニカ、実は、コレは八夜の周りにだけでなく、あちらこちらにいる。
十年前、影に纏わり付かれるようになってから、そういうものが見えるようになったのだ。
「……しんどい」
ネガティブな発言をして、影の機嫌を取りつつ、八夜は、家へ向かう足を止め、別の目的地へと移動を開始した。
機嫌取りのための発言だったが、正直、八割本音だった。
こういう日に、八夜は決まってその場所に行くのだ。
昔は緩やかな丘だったのに、地震の影響で断層ができ、小規模な崖のようになってしまっている場所。そこに、ちらほらと墓が建てられていた。
八夜は近所の花屋で買ったスイートピーを、一つの墓の前に置いて、手を合わせる。
「今日も生きたよ……アサ」
アサ、朝陽。家族同士の付き合いで、生まれた時からずっと一緒だった、たった一人のかけがえのない友人。双子の姉妹みたいで、離れ離れになるなんて考えた事も無かった。
あの地震さえなければ。あの日、桜を見に行こうなんて言わなければ。
アサは、八夜を庇って、折れた桜の木に押し潰され、そのまま帰らぬ人となってしまった。
あの時の、彼女が潰れる様子が、今も瞼の裏に焼き付いて離れない。
「アサは……スイートピー、好きだったよね。あと……ウサギだっけ? 昔作ってくれたよね、折り紙のウサギ……今もずっと持ってるんだよ? ほら」
八夜は、くたくたになった折り紙のウサギを鞄の内ポケットから取り出す。
(ねぇ、アサ? 貴女が私を守ってくれたのは……生きてって事だよね?)
潰れたアサは、最期に何かを言おうとしていたが、聞き取れなかった。最期の言葉すら、幼い八夜は聞かなかった。
だから、勝手に解釈するしか無かった。
自分に纏わり付く影を、大好きな親友のせいにしたくなかったから。
(アサ……私、辛いよ)
生きるのが、ではなく、この怯えた暮らしを続けるのが、本当に辛かった。
(貴女が生きてくれていたら、私はもっと)
もっと普通に生きられたのかな。自分が生きる口実に、友人を利用するなんて、そんな真似、しなくて良かったのかも。
「アサ、私……ひとりぼっちは……寂しいよ。本当はもっと……貴女と一緒に」
────失敗した。
すぐに、八夜は気付いた。自分がおぞましい殺気に囲まれている事に。
つい、口に出してしまった。独り言ならまだセーフだったかもしれないが、今のは、亡き友人を想って出た言葉、紛れもなく、本音。生きたいという意思を、もろに出してしまった。
「や、やめっ」
抵抗虚しく、早速首を掴まれ、勢いよく投げ飛ばされてしまう。崖の淵のようになった場所まで転がり、八夜は酷く咳き込む。
「ごほっ…! ごめっ…! ごめんなさっ」
必死に謝って、爪を剥がそうとした。刃物を持っていれば手首を切るでも良かっただろうが、そんな余裕今は無い。
しかし、剥がす事も出来なかった。
今日は、数が多い。言葉を最後まで言い切る前に、別の蹴りが飛んできた。それは腹部に直撃し、直後、八夜の体は宙を舞う。
「──っ!」
崖から、落とされた。
八夜は、次に起こる事を一瞬で理解した。彼女は知っている、この下に、巨大で、友人の命を奪った忌々しい桜の木がある事を。
その枝が、鋭く伸びている事を。
「いッ!」
ドスンッ! という強い衝撃の後、すぐに呼吸が出来なくなる。目の前が真っ赤に染まっていく、自分の胸から何か飛び出している。
桜の枝が、心臓を貫通しているのだろう。
そんな自分を、黒い影達が、崖の上から見下ろしている。
ああ、これは、本当に、死ぬ。
八夜は、声も何も出せなかったが、静かに泣いた。
(やだ……やだよぉ……死にたくない……死にたくないよぉ……助けて……だれか……誰でもいいから……おねがいします……本当は、本当はもっと生きたい……死にたがってたのは、仕方なかったの……だって、許してくれないから……本当は生きたいよ、死にたくないよ……助けて、助けて)
視界の隅に、血塗れになった折り紙のウサギが見えた。
力なく、それに手を伸ばす。
「……た……すけ……て、あ……さ」
かすれた声でそう言ったのを最後に、八夜の体から、力が抜けた。
その瞬間、何かが傷口からズルリと入っていくような感触がしたが、死にゆく八夜に、それが何なのか考える余地などあるはずもなく。
十七歳という短い生涯を、桜の木の上で、終えることになった。