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五日目

 

  今日は朝から雨が降っています。昨日の夜の事はよく覚えていません。ぼんやりと霞がかかったように思い出せません。



 今宵は月は出ないでしょう。きっと私の言葉が届くのは月が出ている間だけ……何となくそう思うのですよ。


 それに私の時間もあと少し、それまでに全てを伝えなければ取り返しのつかないことになるような、そんな確証のない漠然とした不安だけが私の体をむしばんでいます。



 庭の紫蘭も美しく咲いています。人間よりも余程強いのですね。人は雨に打たれて冷えきってしまえば二度と花を咲かせることも無いのですから。


 


 今日は旦那様を見たいと思いません。そんな気分の日もあるのです。近くの街まで行ってみましょう。


 一年経ったくらいではこの立派な街が変わることもないとは思っていましたが、馴染みの店がやめてしまったようですね。馴染みの店と言っても曖昧ですけれど。 店主の方も何のお店だったかも覚えていません。ぼんやりと馴染みの店だった、それだけは頭に残っています。


 カミル様の事をあそこまで覚えているのはそれほど大切な人だったのでしょうね。


 他の事はあまりよく思い出せないのに彼の事は鮮明に覚えているのですよ。


 忘れれば楽だったのに……と思いますが、だったら幽霊になんてなりませんね。



 昔は何をしていたのかしら?自分の事もよく分からなくなってきました。このままでは旦那様の事まで忘れてしまうのでしょうか。


 全てを通り抜ける霊体は街の人の笑い声も激しい雨も、恋人達のあまい囁きも全て通り抜けていきます。


 あら?あそこに居るのはどこかで見たことある人だわ。


 何処だったかしら?知っている気もするけれどよく居る顔と言えばそんな気もします。


 カールした金髪を揺らしながら不機嫌そうに歩いている。あの人は誰なんでしょう。



 少しだけ近づいてみましょう。私が彼女の視界に入るとその人は明らかに動揺したように見えた。



「もしかして私のことが見えてますの?」


 驚いた表情のまま固まる女の人はこの世のものではないものを見るような顔をしています………まぁ、確かに幽霊ですからこの世のものではないかもしれませんね。


 

「あ、あんたは死んだはずよね。どうしてここに…」


 見た目より粗雑な話し方ですね。随分とお綺麗な格好をされているのに意外ですわ。


 う〜ん。見た事ある気がするのよね。


「あの、どこかでお会いしたことありましたっけ?」


 彼女に近づいて顔を覗き込む。



「わ、忘れたのっ!?」


 厚めの化粧をした顔の上からでも分かるくらいに蒼白になりました。


 この方、私と何か嫌な思い出があるのしら?それとも幽霊が怖いのかしら?



「ご、ごめんなさい、私が悪かったわ。だから呪わないで怖いわ!」


 取り乱したままの彼女に此方がどうして良いか分からず


「少し人のいない所でお話しましょうよ。」


 と言いました。私はただ見える人がいて嬉しいだけなのですよ。怖がらせたい訳ではありません。


「え、えぇ。」


 そう言って冷や汗を滲ませる彼女は私と知り合いだったのかもしれませんね。あまり良いか関係とは言えなかったのかもしれません、あの様子ではね。

 






「それで話って何かしら?今までの事は謝るから呪わないで……」


 威勢よく言ったのは初めだけで、恐怖の表情を貼り付け僅かに震えていました。


「呪う?貴方、私に何かしたのですか?」


「は!?だって違うの……?私を呪う為に来たんじゃないの。」


 呪う……彼女を?

 知らない人なのに呪いませんよ。忘れているだけみたいですけれどね。


「すみません。貴方のこと私知りませんのよ。」


「そんな訳ないでしょう。あんなに貴方のこと虐めたのに!」


「私の事虐めたのですか。それは酷いですね。言わなければいいのになぜ言ったのですか?変わった人ですねぇ。」


 もし本当に私を虐めたのならば黙ってればいいのに。お馬鹿なのでしょうか?


 忘れた今、過去に何をされようとどうでもいいですけどね。


「本当に忘れたのね?でも、謝らせてもらうわ!私が虐めて死んだみたいで気分悪かったのよ!」

 

 そう言われましても、彼女の自己満足に付き合う筋合いもないですし。


「いえ、結構です。謝られてもなんとも思いませんので。本当に後悔しているならばそのまま忘れないで下さい。他の人に同じことをしないようにね。それではさようなら。私の知らない誰かさん。」



 彼女、過去を忘れて楽になろうとしているだけだわ。きっとまた誰かに同じ酷いことをするでしょうね。しかし、酷いことをされた記憶もないです。



「待ってよ!謝罪すら聞いてくれないというの?」


「待ちません。私は貴方に何かされた記憶がないので。」

 

「熱い紅茶をかけたことも、悪口を言ったことも忘れたと言うの!」


 そんな大声で悪事を暴露しなくてもいいのではないでしょうか?本当に変な人ですね。


「忘れました。紅茶勿体ないのでもうやらないで下さいね。それと悪口も止めた方がいいですよ。」


「や、止めたわよ。貴方が死んでしまったから。私のせいで。噂で聞いたのよ。貴方を乗せた馬車が落下したって。」


 馬車が落下したのはただの事故でしょう。それが彼女と関係あるとは思えないのですが。

 

「貴方は関係ないのではないでしょうか?」


「落下したのは足場の悪い道だったから。そして、その道を通ったのは私が意地悪して普通の道を通らせなかったから……。」


 言いにくそうに言った彼女は、下を向いたままそれきり何も言いませんでした。


「私の記憶ではそうではなかった気がします。ただ近道したくてその道を選んだだけでしょう。貴方が気に病むことではないです。」


 覚えてない事は仕方ないわ。少し言い過ぎたかしらね。彼女が可哀想に思えてしまいました。


「そ、そんな許してくれるの……?」


「許す……?ですから、許すも何も私は知らないですから。それに何で私を虐めたのですか?」


 少し興味が湧いてきました。忘れた事はどうでもいいと思いましたが虐められていたなら理由くらい聞きたいわ。



「それは……貴方が羨ましかったから。」


「私の事が羨ましい……何故です?」


 特別美しい顔でも大金持ちでも、高貴な身分でもない私に羨ましがられる点などないと思いますけどね。



「旦那に愛されていたから。私は誰にも愛されていなかった。だからあんなに貴方の事を考えている旦那がいる貴方が憎かった……いえ、妬ましかった。」


 気付けば雨か涙かどちらか分からない水が彼女の頬を濡らしていました。


 それに、彼女今なんと言いました?私が旦那に愛されている?


 それは笑えない冗談ですね。この状況で言うとは思えませんけど、それはおかしな話です。


 愛されていたならこんな姿になってまでこの世界に留まりませんよ。



「うふふ。それは、残念ですね。私は旦那様に愛されていませんでしたよ。彼は私に無関心。あなたの足元にあるその石と同じくらい関心がなかったはずよ。貴方はしなくてもいい嫉妬をしてしまったのですね。可哀想に。」


 とんでもない勘違いでそんな意地悪をしていたと言うなら呆れを通り越して笑えてきます。


「は?そんなはずないわ。私は貴方の旦那に会ったことあるのよ。」



「どういうことですか?」


 もしかしてこの方が旦那様の想い人だったのですか?それは呪わなければならなくなりますね。


「私が新しいネックレスが欲しくて店を見ていた時、貴方の旦那が難しい顔してネックレスを睨んでいたから少し声を掛けたのよ。そしたら、妻にネックレスを贈りたいけど何を選んでいいか分からないって言ってたのよ。」


「旦那様が私にネックレス?何かの間違いですよ。」


 そんなはずは無いわ。だって私は愛されていないのよ。



「いえ、名前を石に刻むと言って、店主に伝えた名前は、()()()でした。」



「旦那様の想い人がたまたま同じ名前だったのでは?」


「本気で言っているの?貴方を愛しているから死んでしまったショックであの公爵様は今も引きこもっているのでしょう!」


 声をやや荒らげて目の前の女の人は言いました。旦那様が私が死んでショック?今だって仕事をバリバリやっているでしょう。


「旦那様、引きこもっているのですか?」


「一度、様子を見に行ったらどうなの?そうすれば分かるでしょう、貴方が愛されている事。」


 彼女はどうしても私が愛されていたことにしたいみたいね。其れは嫉妬の理由を正当化したいからかしら?


 私は一度だって名前を呼ばれたことすらないのよ。それで愛されていると?


「貴方は知らないだけよ。」


「私は言ったわよ、貴方は愛されているって。それに今なら聞いてくれそうね。今までごめんなさい。あなたに嫉妬して酷いことをしてしまって。許さなくていいわ。ただ今とても後悔しているの。あの時、貴方にあんな事しなければ二人の人を不幸になんてしなかった。」


 

 言いたい事だけ言って彼女を雨に打たれたまま走って行ってしまったわ。


 身勝手な人ね。遠ざかっていく背中にそれだけ言って、感じないはずの雨に打たれた気分で私は家に戻りました。




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