穴井律
「お疲れさま」
台所の片づけを終え、お風呂から上がったカワウソが部屋に入ってきた。
今日初めて見るその小さな姿にどこか安堵を憶えた。
「疲れましたよ。一日中あの姿でしたからね」
カワウソはベッドにダイブした。
私は携帯から目を離し、その小さな背中を撫でてみる。
「何ですか?」
「いたわり?」
「いいですよ、そんなの」
私は電気を消し、目を閉じる。
「もう寝るんですか?」
「疲れたでしょ」
「ゲームしなくていいんですか?」
「うん。今日はもういいや。寝よ」
「そうですね」
「あー、でも一個だけ教えて」
「何ですか?」
「穴井律って何?」
カワウソは叔母さんに穴井律と名乗ったのだ。
「阿那律」
「アナリツ?何それ?何かの法?」
「釈迦の十大弟子の一人です。天眼第一」
「本当にいた人?」
「ええ」
「貴方がそうなの?」
「そんなわけないでしょう。私は妖怪のカワウソです」
この声だ。
やっぱり暗闇で聞くこの声が一番落ち着く。
美女の声も美しく澄んでいて耳に優しいけれど、私はやっぱりこの声が好き。
「どうして穴井律なの?」
「とっさに浮かんだのがそれだったんです。深い意味なんかありませんよ」
「そう。でも貴方と私二歳違いってのは無理がない?貴方美人だけどどう見ても三十前だよ」
「年齢の割に落ち着いているんです」
「専門学校出たらこっちで就職するのでとか、よく思いついたね」
「まあ嘘をつくのは慣れているので」
「まあ、おかげで助かった。ありがとうね」
「いえ、別に」
「私もこれからあなたのこと律って呼ぶね。カワウソって呼ぶのもどうかなって思ってたし。でも実家は大津で兄が結婚して二世帯住宅にしたのでとか結構設定詰め込んだね。どうするの?」
「どうもしませんよ。もう二度と叔母さんに会わないかもしれないでしょう」
「何で?毎年夏と春に泊まりに来ることになってるよ」
「私はもう帰っているかもしれないでしょう。蓋が開いて」
「あー」
そうだった。
忘れていた。
何だろう、これ。
胸がちくっとした気がした。
本当にしたのかはわからないけれど。
「まあ貴方の受験が終わるくらいまではいますよ」
「そうね。そこまではいて。終わったら私だってご飯の用意くらいするから」
「用意くらいって言いますけど大変ですよ。まあ一人分なんてたかがしれてますけど、叔母さんみたいに九人分は毎日大変でしょうね。愚痴りたくもなりますよ、小姑までいるんですし」
「うん。あー、でも私絶対お酒飲めないなー。何言いだすか自分でも怖いもん」
「そうですか?」
「うん。二十歳になっても飲まないね」
「まあお好きに。私も貴方の夏休みが終わったら働きに出ますね」
「え?何するの?」
「何でもできますよ。妖怪ですもん。顔もいいし」
「それはそうだけど、戸籍とかないじゃない?」
「そんなのいくらでもどうとでもできます。妖怪ですから」
「そうなんだ」
「お金あったほうがいいでしょう。看護学校は奨学金で行けるとしても他にもお金いりますしね。お金入れますよ」
「うーん、よくわかんないけど、よろしく」
「はい」
最近この時間が好きだと思う。
眠る前お部屋を真っ暗にした静寂の中でカワウソと話すのが。
眠るまでの間誰かと話すのなんて勿論初めてで、隣に誰かがいるのも初めてだ。
誰かというほど大きな身体じゃないけれど、それでも声の存在感は圧倒的だ。
眠るのが勿体ないなと思う。
ずっとこのまま話せたらなと思う。
何を話すわけでもないし、お小言だって多いけど、それでも夜のこの時間が楽しみだったりする。
「律」
「はい」
本当は何も話すことなんかないと思う。
でも起きていたなと思う。
明日の夜までもうこの状態になれないから。
「私さ、叔母さんはさ、お母さんを失ったんだなって思ったんだよ」
「そうですか」
「うん、私はお母さんを失うことはないんだなって思うと有り難いのかなとも思うんだよね」
「そうですか」
「私もう何も失わずに死ねるんだなって」
「そんなわけないでしょう。何も失わずに生きることなんかできませんよ」
「そうなのかな」
「失うものが人より少ないだけで、これから増えるのかもしれませんよ。貴方は若くてまだこれからなんですから。これからどんどん増えていくんですよ、失いたくないものが、両手に抱えきれない程になるかも」
「そうなのかな、それなら失うの怖いからいいけどな」
「楓、叔母さんが帰ったら京都に行きましょうか?阿那律を見に行きましょう」
「見れるの?」
「ええ」
「うん、連れてって」
「夏休みですしね。たまにはいいでしょう」
「うん」
翌日叔母さんは十二時過ぎに起きて来て、律の作ったオムライスを食べ、持ってきたドラマのDVDを見ながらアイスを食べると夜ご飯までお祖母ちゃんの部屋でお昼寝をした。
夜は三人でキムチ鍋を食べ、しめはうどんにした。
叔母さんは冷蔵庫のお酒をからっぽにして大阪に帰って行った。
叔母さんが帰った三日後京都の大報恩寺というお寺に行った。
動かない人型というのが一堂に会しているのは中々に迫力があり少し恐くもあったが、お寺の引き締まった空気と言うのはどこか違う世界に来たようで身体の血が入れ替わるような感覚だった。
恐らくお祖母ちゃんもそうだったんじゃないかと思う。
そこから少し歩いて北野天満宮行こうと言うので、何で?と聞くと、楓、貴方受験生でしょうと言われた。
律は北野天満宮で水色の可愛らしい学業のお守りを買ってくれた。
二人で美味しい粟餅を食べ、駅ビルでお洋服や最中やわらび餅を買った。
「結構たくさん買ったね」
「そうですか」
「贅沢だなって」
「楓、それくらい少し働いたらいくらでも買えますよ。大丈夫です。美味しいものいっぱい食べなさい。せっかく生きてるんですから」
「うん、そうなのかな」
「そうですよ。人間が食べられるのは生きている間だけです」
「うん」
九月になり律はカルチャースクールのパソコン講師の仕事をみつけてきた。
妖怪っぽくないねと言うとリクルートスーツ姿の律は蠱惑的な笑みを浮かべた。
彼女がいれば私はこの世のあらゆる言葉を理解することとなるだろう。
季節はもうすっかり秋で二人で眠るには丁度いい季節になってきたが、私は未だこの世の者とは思えない程イケメンだという男バージョンのカワウソを見てはない。