母性
誰かが私の頬をつねっている。
その手の主を私は知っている。
国滅ぼすレベルの美女に変身できるというスキル持ちで、その正体は目も眩むようなイケメンだという妖怪カワウソ。
今私の頬をつねっているのは美女のすらっとした美しい手じゃない。
勿論伸びやかなイケメンの大きな手でもない。
私の頬をつねる手は何も掴めそうにない程小さい。
でもそこそこ痛い。
夢じゃないとわかる。
「楓、起きるんですよ」
「もう少し寝たい」
「さっきも言いましたよね。もう一時間たちましたよ。起きなさい」
「起きたくない。休みなんだからずっと寝ていたい」
「起きてゲームするんじゃなかったんですか?」
「朝早起きしてゲームするなんて勤勉すぎて無理」
「一日寝て過ごす気ですか?もうすぐ夏休みなんですからいくらでもできるでしょう。起きなさい」
「睡眠大事」
「睡眠は大事ですが限度があります。眠れば眠るほどいいってわけじゃありませんよ」
「大人になったら毎日早起きして仕事に行かなくちゃいけないでしょ?寝れるの今のうちだけじゃない?」
「そんなことよく思いつきましたね。呆れましたよ。朝ごはんを食べなさい。片付かないでしょう」
「主婦みたいなこと言うのねー」
「主婦みたいなものですからね」
「美人主婦だもんね」
「楓」
何か不可思議な力が働き私は起き上がる。
自分の意思ではないのはわかり切っている。
ベッドの前で如何にも善良な乳母のように控えるカワウソと目が合う。
「おはよう」
「おはようじゃないですよ。さっさと顔を洗ってご飯を食べなさい。今日はあさりのお味噌汁ですよ」
「おおー」
「おおー、じゃない。本当に貴方という人は」
「起きる起きる。何か目ぱっちり覚めちゃったし。ねえ、貴方私に何かした?」
「さあ、さっさとしなさい。あじに干物焼いてあげますから」
「わー」
「わー、じゃないです。全く」
カワウソはぷりぷりと私に背を向け部屋を出ていく。
その後ろ姿の溢れんばかりの母性に、遅れて来たマザーコンプレックスと言うやつだろうかとふと考える。
やっぱりカワウソは私が呼び寄せたのだろうか?
今頃になって私は母親が欲しくなった?
そんなわけない。
母親は間に合ってる。
何もしてくれたことないけど、考えたら祖母の家に預けてから駆け落ちしたのだから捨てていく娘へ多少の配慮はあったのだ。
あのまま東京のアパートに置き去りにされていたら間違いなく餓死か熱中症で死んでたかもしれないし。
「楓、いつまでそうしているんです?」
私がいつまでも降りてこないのでしびれを切らしたのだろう。
カワウソが部屋に戻ってきた。
わざわざ変身して。
「ごめんごめん、今日も綺麗だね」
美女は形の良い眉を吊り上げ、その美しい前提で付属しているかのような腕で私を持ち上げた。
人生初のお姫様抱っこが同性だとは。
まあ本当は男でカワウソなんだけど。
本当って何だろう?
「降ろしてと言わないんですか?」
「言わないよ。気分のいいものだね。このまま下に降りて」
「そうします。何時まで経っても片付きませんしね。このまま洗面所まで連れて行って顔も洗ってあげますよ」
「顔は自分でできるよ」
「当たり前でしょう。貴方今後の人生で何もしないつもりですか?」
「そんなわけないでしょ。でもいいね。自分で歩かないくていいなんて。お嬢様みたい」
「私はイケメンですしね」
「それは見てないから何ともなあ」
「見たら最後ですよ」
「死ぬってこと?」
美人が肯定するように笑う。
見せてはいけないものを子供に見せた様な顔で。
狭い階段を美人は実に器用に降りていく。
自分の脚で移動しないと言うのがこれほどの快楽を齎すとは。
これはいけない。
癖になりそう。
知ってはいけなかった。
私は所在なく自分の両手を合わせる。
何かを祈るかのように。
「さっさと顔洗いなさい。干物焼いておきますから」
「うん」
洗面所に降ろされ私は地上の住人になる。
誰かに抱っこしてもらったのはひょっとして初めてだろうか?
少なくともお祖母ちゃんにしてもらった覚えはない。
でも五歳までは少なくとも母と暮らしていたのだから抱っこくらいしてもらったはず。
多分。
台所に入ると美女の姿はなく、こちらも夢のようなカワウソがテーブルに目玉焼きの乗ったお皿を並べている。
「美味しそう」
「シャキッとしましたか?」
「うん」
「じゃあ、食べましょう。もうすぐ干物も焼けますよ」
「はーい」
「伸ばさない」
「はい」
千切りのキャベツにプチトマト、もずく、あじの干物、目玉焼き、あさりのお味噌汁。
そして今日もまるでラプンチェルを閉じ込められていた塔のような白いご飯。
「そんなに食べれない」
「成長期ですよ」
カワウソは有無を言わせず、つぶらな瞳で私にお茶碗を手渡す。
ご飯をいっぱい食べたら大きくなると最早信心のようだ。
まあ妖怪なんだから信心深いの当然かもしれないけど、野球部じゃないんだから。
「でも嬉しいな。朝からこう、上質な暮らしっていうの、生活水準の向上っていうか、もずくとか大好きだし」
「それは良かったです」
「何と言うかまともっていうのかな。まともより上か。ちゃんとした朝ごはんだよね。貴方が来てくれて良かった。私お魚焼けないもん。もう当分焼き魚食べれないんだろうなって思ってたんだよね」
「焼けないんじゃなくって焼かないだけでしょ。まあいいですよ。受験生ですしね。家事は任されたんですし。貴方の健康管理は私がしますよ」
「ありがとう、お味噌汁美味しいよ。あさり大好き」
「わりと食に興味があるくせに自分で作ろうとは思わないんですね」
「自分で作っても美味しくできないでしょ。ならそんなに美味しくなくても買ってきたものの方が失敗はないんじゃない」
「まあ、そうですか」
そんな小さな手でよくお箸なんか使えるな。
何度見ても感心するし、やっぱり唯のカワウソじゃないんだなと理解する。
プチトマトへたまで取ってある。
やりすぎじゃない?
子供の成長妨げるタイプの親では?
「あじ上手に食べますね」
「そう?」
「貴方みたいな子は魚の骨とか面倒だから食べないって言いそうですけど」
「こういうのは平気。美味しいし、面倒だは思わないよ。お掃除やお洗濯は面倒だけど」
「たった一人分でもですか?」
「うん」
「それじゃあ一人じゃ暮らせませんね」
「そうかも。だから言ってるじゃない。貴方が来てくれて良かったって」
「そうですね。まあ本当に感心しませんしね。未成年者の一人暮らしなんて」
「そうだねー」
私はもずくを飲み干す。
喉に流れていく細い糸のようなもずくが栄養をつま先まで運んでいくかのような清涼感に満足する。
カワウソは小さな手で器用に箸を使い彼が開けていくと真珠でも入っているかに見えるあさりをぱくぱくと食べる。
その仕草は少しカワウソ感があるなと思う。
本物のカワウソが何を食べているか知らないけど。
「目玉焼き半熟だ」
「私は半熟が好きなんですけど楓はどうですか?」
「私も半熟が好き。茹で卵も」
「それなら良かった」
「ねえ、お祖母ちゃんがね、茹で卵と鶏肉を煮てくれたのね、あれ作れる?」
「味付けは?」
「甘くて、お醤油だと思うんだけど、何て言うか甘辛い?」
「まあ作れますよ。楓のお祖母さんと同じ味になるかわかりませんけど似た様なのは作れます」
「ホント?」
「今夜やってあげましょう」
「ありがとー。嬉しい」
「他に食べたいものは?」
「うーん、白和えとか、切り干し大根の煮たのとか」
「随分地味なものが食べたいんですね」
「ホントは何でもいいの。貴方の作ったもの何でも美味しいから」
「そうですか。楓。今貴方が食べてるものは全部私の作ったものではありませんよ。あじは焼いただけだし、もずくはスーパーで買ってきたのを小鉢に移しただけです。プチトマトも千切りキャベツも買ったものです。お味噌汁くらいですね」
カワウソはまるで自分の手柄ではないとでも言いたげだ。
王からの褒美を辞退するかのような厳粛さ。
「私からしたら朝からお魚焼いてくれるだけで凄いし有り難いよ。トマトもへた取ってくれてさ。そんなことお祖母ちゃんにもしてもらったことないよ。もずくだってさ、ちゃんとお皿に移してくれてさ、暖かいんだよね。誰かにしてもらうってこういうことなんだなって思うよ。何で貴方がここまでしてくれるかよくわかんないけど」
カワウソが目を細めた。
それは何故か次期国王を産んだ女性のような目だった。
いずれこの国そのものとなる自分の子を見つめる期待と不安が入り混じったかのような複雑な何か。
「当分ここにいますね」
「うん、何?改めて?」
「何でもないですよ。その間に貴方に美味しいものいっぱい食べさせますね」
「うん。ありがと」
カワウソは冷蔵庫からキウイを取り出し剥いてくれた。
そのきらきらとした透き通るようなエメラルド色にお祖母ちゃんは失ったし、母親は長い間その機能を享受できなかったけど、その代り何かは手に入ったなと思った。
その何かが何なのかは全然わかんないけれど。