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隣で眠る彼は  作者: 青木りよこ
30/32

帰ります

「私来週帰りますので」


突然だった。

唐突だった。

何の前触れもなく伏線もなかった。

青天の霹靂。

驚天動地。

そんな言葉が頭に浮かんでは霞んでいった。

律は何でもないことのように言った。

いつも通り、明日は雨なので傘を持っていきなさいと言う様に、七年も共に暮らした男に私はそうやって簡単に別れを告げられた。

律とはあの日からずっと一日も離れず暮した。

沢山の夏を超えた。

秋を超え、冬を超え、何度目かの春を迎え、私はいつの間にか二十五になっていた。

看護学校を卒業すると市内の病院に就職した。

私が看護師になったら泣くかもしれないと言った律は結局泣かなかったけど、就職祝いにすき焼きをしてくれた。

今日まで私達は平穏に淡々と何もない暮らしを送って来た。

共に食事をし、何を話したのか思い出せない程何気ない会話をして過ごした。

毎日律の作ったものを食べた。

二人そろった休みの日には私が作ったお好み焼きや焼きそばを食べたりもした。

二人でテレビを見て、私がゲームをしている横で律が本を読んでいるそんな日が多かった。

二人で休みを合わせ京都や奈良に仏像を見に行った。

でも私達はいつも日帰りだった。

二人でどこかに泊まったことは一度もない。

静かで確実な時間だけが当たり前のように流れていて、その中にいつも律がいた。

私はもう律とは一生こうやって二人で暮らしていくものだと思っていた。


私が看護学校の三年生になるとメイさんが妖力の充電のためあちらに帰った。

帰る前日ささやかに三人で手巻き寿司と豚キムチでお酒を飲んだ。

メイさんは充電が終わったら帰ってくるけど今度は岡山に住むと言った。

何で岡山なの?と聞くと晴れの国らしいからな、暖かいんだろと言った。

一年後岡山から大手饅頭が送られてきたが、メイさんには会っていないし、それ以来音信はないけど、妖怪は死ぬことがないんだし、いつかまた会うこともあるだろうと思う。


鉄鼠さんとミラさんは今は所沢にいる。

結局アルルはあれから一年と四か月後、ゾンビメイクが取れ成仏した。

ハロウィンを二度、クリスマスを二度、お正月を二度過ごし、お花見を一度だけやって、旅立っていった。

二人はアルルがいなくなると充電のため一旦あちらに帰り、野球熱の高じたミラさんのため所沢に住むことにした。

鉄鼠さんは今は商業誌に連載を持つようになり、今度アニメ化もされるらしい。

こちらも五家宝が一度送られてきたきり何の音沙汰もないけれど、鉄鼠さんのツイッターを見ていると大酒飲みの美人妻の存在が常に匂わされているので大丈夫だろうと思う。


鬼火さんは三年後帰っては来たけれど、鬼火さんの変身能力ではどうしても限界があり成人男性にはなれないため、川村さんと鬼火さんは結婚はしていない。

鬼火さんの青い髪に青い目の男子中学生の見た目ではアパートを借りることもできないため、今は川村さんの部屋でこっそりと同棲生活を送っている。


こんなに自分以外の所ではいろんなことがあったのに、自分達だけは変わらないと思っていた。

このまま律とこの家で暮らして、私は年を取っていくんだと信じて疑わなかった。

律はどううまく立ち回ったのか博物館の学芸員の仕事なんて見つけてきて、この五年間ずっとそこで働いていたし、もう帰るなんて一言も言わなかった。

去年の春叔母さんが来た時もこのままこの家で楓とずっと暮らしていけたらなと思っていますと言っていて、叔母さんも確かにもう結婚しないで気の合った女同士で一緒に年を取っていくのもいいかもねーと言っていた。

まあ叔母さんは酔っていたけど、律は素面だった。

相変わらず律はいつも女性の姿だった。

私は律に何でも話した。

仕事のこと、職場の人間のこと、現在の自分の健康状態、今食べたいと思っているものすべて。

律は当たり前だった。

いるのが当然だった。

寄り添うでもなく、引っ張るのでもなく、ただそこにいた。

いるのが普通だった。

律がいなくなる。

そんなこともう考えもしなかった。

何で考えなかったんだろう。

最初から帰るって言ってたのに。

どうしてこのままの暮らしが永遠に続くと思っていたんだろう。

律が妖怪だからだ。

妖怪はしんだりしない。

だから失うことなどないと。

ずっとここにいてくれると思っていた。

思い込んでいた。


「何で、帰っちゃうの?」

「何でって、帰りたいからです」

「帰りたいって、何で?」

「そろそろ潮時かなって」

「潮時って、何で?」

「何でって、もういいかなと」

「何がいいの?」

「もう特にすることはないかなと」

「すること?」

「はい、もう特にすることもありませんし、したいこともありませんしね」

「何で急に?」

「急ですか?」

「急だよ。来週って何でそんな大事なこと簡単に決めちゃうのよ」

「決めちゃうって」

「こっちにだって都合ってもんがあるでしょうが」

「楓の都合ですか。別に引っ越しするわけではないので特に何も困らないと思いますが、まあそうですね。朝ごはんを作るのに少し早起きしないといけなくなりますね。でもまあ慣れたら大丈夫ですよ。お味噌汁とご飯と納豆があれば立派な朝ごはんの出来上がりです」

「そんな話してない」

「洗濯と掃除ですか?まあこれも纏めてやればいいでしょう。休みがないわけじゃないんだし、一人分なんてしれてますよ。帰るまでにエアコンも掃除して帰りますし、家じゅうピカピカにしてあげますよ」

「仕事だって急に辞めたら大変でしょ」

「仕事はもう辞めてるんです。この間飲みに行ったでしょう。あれ送別会だったんですよ」

「周到に用意してたんだ。私だけが知らなかったの?」

「そうなりますね」

「何で急に。叔母さんにずっとここで暮らすって言ってたじゃない」

「気が変わったんです。妖怪は気まぐれですから」

「帰ったらもう帰ってこないでしょう?」

「はい。もう帰ってこないつもりです」

「よそで暮らすつもりもないでしょ?」

「ないですね。もうこちらには来ません」

「何で?人間嫌になっちゃったの?」

「そういうわけではありません」

「何か痛いことでもあったの?」

「痛い?私がですか?」

「痛いことを知ってもういいと思ったの?」

「私に痛みを与えることなどできませんよ。そんなことできる人間などいません」

「考え直してよ」



駄目だ。

もう私は泣いていた。

泣くのは久しぶりだ。

いつから泣いてなかっただろう。

アルルが成仏したとミラさんから電話がかかってきたときからだろうか。

最後に会ったお正月皆で箱根駅伝を見ながらアルルは笑っていた。

誰よりもお餅を食べ笑っていた。

今でも思い出せるのはあの時のアルルで、私の人生で二人目の死者だった。

一人目はお祖母ちゃん、二人目はたった五歳の小さなとても小さな男の子で、死ななくていい命だった。

もっと生きられるはずだった。

あの子の周りの大人がもっとまともであったなら助かった命だった。


そうだ、私は知っている。

命には限りがある。

限度がある。

これより先には行けないと、限界がある。

そしてそれはどうしようもないくらい自分の力では何もできない。

人間はどれだけ健康に気を遣おうとも年を取り、死んでいく運命からは逃れられない。

人間のできることには限界がある。

でも妖怪にはない。

だから別れなどないと思っていた。

私が律を置き去りにしていくのだと思っていた。


「楓、泣かないでください」

「泣かないで欲しいなら帰らないでよ」

「そうはいきません。私は帰ります」

「どうして?」

「帰りたいからです」

「まだ何もしてないじゃない」

「何もしてないですが、何をすると言うんですか?」

「え?」

「何もありませんよ。未練はありません」

「何にもないの?」

「ありませんよ。新しいゲームの発売を、漫画の続きを待っているわけでも、アイドルに熱を上げているわけでも、贔屓の野球チームがあるわけでもないですしね。何もないから大丈夫です」

「何それ、そんなことなの?」

「そんなもんじゃないですか。こちらから帰れなくなるのってそんなもんだと思いますよ。次のワールドカップまでいようとかね、妖怪は次の四年後だろうが、八年後だろうが、三十六年後だろうが見れますが選手はそうはいきませんからね。見たい選手がいるなら留まらないといけませんね。まあたとえ話ですけどね」

「どうせ帰ってこないくせに何言ってるのよ」

「そうですね。何言ってるんでしょうね」

「帰らないでよ」

「帰ります」

「まだいいじゃない。もうちょっとだけいてよ」

「もう無理です」

「私がお祖母ちゃんになるまでいてよ」

「あと五十年くらいですか。無理ですよ」

「じゃあ充電して帰って来てよ。待ってるから」

「もう帰れません」

「何でそんなに頑ななの?」

「すみません。でももう帰らないと」

「帰らないと?」

「はい」

「帰らないと何なの?」

「楓」

「貴方一体、何しに来たのよ?」


律の瞳が揺れた気がした。

それとも私の瞳だろうか。

もうどっちでも構わない。

この宝玉の如き美しい女である男を帰したくない。


「帰るまでに私にして欲しいこと考えといてください。書きだしといてくれてもいいです。食べたいものとか」

「律」

「一週間仲良く暮しましょう。今まで通り」

「律」

「楓、もういいでしょう」


律は笑った。

長いこと一緒にいた。

七年もいた。

実の母より長いこと共に暮らした。

実の母より何でも話した。

実の母より私の体調をいつも気遣ってくれた。

これだけ長く一緒にいてもこのような笑顔を見たのは初めてだった。

律は泣きそうだったのだ。

美しい瞳からは今にも涙が零れそうだった。

長い睫毛が濡れている様に見えた。

私達は揺れる瞳で見つめ合った。

律が先に逸らし、お風呂に行きなさいと言った。

明日は仕事はお休みだったけど、まるで嬉しくなかった。

私は部屋に行きパジャマを出して、お風呂に入り、律におやすみなさいも言わず眠った。


メイさんがいなくなってから変わったことが一つだけあった。

私達は同じベッドで寝なくなった。

彼はもう隣で眠ってすらいなかった。

カワウソの姿ももう長いこと見ていない。

あの声を私はもう何年も聞いていない。

まるであの日々こそが長い夜の夢だったかのように。

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