アルフレッド
「こいつ今日からアルフレッドな」
日曜日の夜、明日奈良に帰るという鉄鼠さん達とホットプレートを囲みでお好み焼きが焼けるのを待っているとミラさんはいきなりそう言った。
ちなみにメイさんだけは仕事のため不在で、律は今日もカワウソの姿ではなく美人さん。
「アルフレッドってどこからきたの?」
「鉄鼠がつけた。前の名前嫌っていうから。いいだろー。かっこいい名前だろー」
「かっこいいけど」
アルフレッドと名付けられた男の子はお好み焼きをひっくり返し、おおっと言う顔をした。
金曜日に初めて見た時と全然違う、失くしていたものを取り戻したかのように見えた。
「えっと、それでいいの?」
男の子は頷き、隣のお好み焼きもひっくり返す。
「上手ですよ」
「上手いな、さすがアルル」
「アルフレッドじゃなかったの?」
「あだ名はアルル。もしくはアルたそ」
「アルルのほうがいいかな」
「アルルな、すげえんだぜ。字書けるんだ。だから筆談できるんだぜ」
「そうなんだ。すごいね」
「だろ?だから言いたいことあんなら書けって言ったんだよ。そしたら書く書く、長文書くんだよ」
「ミラちゃんより長い文章書くよ。ミラちゃん俺がいくら長文書いてもスタンプ一個しかくれないのに」
「当たり前だろ。お前は口で言え」
「文章にしたいんだよ。文字で書き起こしたいの。ミラちゃんのことが大好きだから」
「嫌、いらんだろ」
「どこが好きとか書きたいじゃん。こういうミラちゃんを可愛いと思いますとか書きたいじゃん」
「いらねえわ。つーか、何であんなですます口調なんだよ」
「手紙をさ、書きたいんだよね。あれ、恋文」
「古くない?」
「古くないよ。いつだって思ってるよってしたためたいんだよ」
「いいよ。消すのもしんどいじゃん」
「残してくれてるの?」
「面白かったのはな」
「面白い?」
「面白いのもある。でも基本メンドクサイ」
「えー、女の子って長文嬉しくないの?」
「楓、嬉しいか?」
「貰ったことない」
「彼氏いねえの?」
「いない。友達もいないから長文って見たことない」
「人間なのに変わってんね。友達いないとか珍しくない?」
「さあ。ずっといないから」
「へー、あんたもいろいろあるんだ」
「いろいろなんてないよ。何にもなかった。今まで何にも」
「いいじゃん何にもないなら。平和ってことだろ?」
「そうだね」
「焼けましたね。食べましょう」
「うん」
アルフレッドはお好み焼きソースをたっぷりとかけその上からマヨネーズもどっさりとかけた。
血液がドロドロになりそうだと思ったけど、もうそんなことこの子は気にすることないんだと思うとお好み焼きがとても悲しく見えた。
「よし、ジャンジャン食おうな。今日から毎日遊んで暮らすぞ」
アルフレッド君は頷き、お好み焼きを上手に箸で一口大に切り口に運び、もぐもぐと小さな口を動かす。
このささいな動作さえもこちらにいなければできないことだ。
私はまだこの単純などうしようもないくらい簡単な動作をこれからもずっと繰り返しできるのだ。
お好み焼きだけじゃなく、あらゆる美味しい食べ物でできるのだ。
ラーメンをすすり、かちかちのフランスパンをかじり、マーボー豆腐を辛い辛いとヒーヒー言いながら食べ、甘い甘いぜんざいのなべ底のドロドロになったお餅をかき出す。
日が経つごとに美味しくなるカレーにおでん。
寒くなると無性に食べたくなる何の変哲もないチョコレート、食べだすと止まらなくなるかりんとう。
お正月の神社で飲む甘酒、焼きたての大判焼き、思い出せないけど確実にある美味しい何か。
「つーか、野球見ようぜ。野球野球」
ミラさんがテレビを点ける。
まだ一回の表が終わったところでもう六点入っていた。
「ホームラン見損なったな」
「振り返るから大丈夫」
「結構さ、長いこと人間やってんだけど、野球見たことなかったな。なあ今度見に行こうぜ」
「球場ってこと?」
「おー、一回球場行こう」
「ミラちゃん。これ日本シリーズだからもう来年の春まで試合ないよ」
「ねえの?」
「うん、ないよ。でもミラちゃんが行きたいならキャンプ地でも行こうか?」
「キャンプ地?なんだよ。こいつらキャンプすんのか?野球もしないで、練習しろよ」
「嫌、あのね、暖かい所で野球の練習するんだよ。火おこしたりするやつじゃないよ」
「暖かいって、和歌山か?」
「九州でしょ。でも行ってもいいね。俺ら近畿から出たことないし」
「ないな」
「俺四国行ってみたかったし。よし来年キャンプ見に行こう。ねー、アルル」
アルフレッド君はこくこくと二回頷いた。
野球好きだったんだろうか。
バッドやグローブを持ったことはあったんだろうか。
ボールを握ったことは?
人間が五年間でできることってなんだろう?
十九年生きているけど、野球を球場で見たことはないし、勿論バットを触ったことすらない。
でも私はこの先いつだって行ける、恐らく行ける。
野球を見に行くことも、四国に行くことも、野球はできないけど、バッティングセンターくらいなら行けるだろう。
生きてさえいれば。
お好み焼きを食べ、食後にショートケーキを食べ、メイさんが帰って来て鉄鼠さんが買ってきたドンジャラを皆でして、また明日ねと言ってそれぞれの部屋に分かれた。
ここからは私と律の時間だ。
「明日律は何時まで仕事なの?」
「四時です」
「じゃあ間に合うね。お菓子とか買って来たらいいかな?」
「そうですね。まあまた来るでしょうしね」
「そうだね。来てくれるといいね」
「恐らく一年以上はもつと思いますよ、ゾンビメイク。厚塗りしたって言ってましたから」
「そっか」
「人間ごっこというより優しさごっこですね」
「人間優しくないもんね」
「そうですね。人間でも優しくないのもいっぱいいますね」
「律は野球見に行ったことある?」
「ないですよ」
「私もない」
「行きたいですか?」
「ううん。ただやったことないことって多いなって」
「当たり前でしょう。貴方十九年しか生きてないじゃないですか」
「そうだね。そうだよね」
「やりたいと思ったら躊躇せずおやりなさいね。次なんてないかもしれないんですから」
「え?」
「貴方は生きています。アルフレッドとは違います。あの子は死ぬことで死ななくなったわけですけどね、生きてないわけですから」
「でもねえ、律、生きてるって何?アルフレッド君も律達もお風呂に入ってご飯を食べて眠るじゃない?私と律達でどんな違いがあるの?」
「貴方はいつかそれが出来なくなります。私達は永遠にできます」
「じゃあ現時点、今この瞬間において私達に違いなんてないじゃない」
「ないですよ。ないけど、貴方はいつかいなくなります。でも私はいます」
「うん」
「貴方はいつか確実に死にます。それは人間である以上避けられないことです。貴方の身体はマヨネーズを大量に摂取したらいけませんし、辛いものばかり食べていたり、甘いものばかり食べているのもいけません。身体を冷やすものばかり食べるのもいけないし、暖かいお湯につかり、ゆっくりと睡眠をとり、適度に運動をして、人間関係も円滑に進めねばなりません。歯磨きも大切ですし、具合が悪くなったら早めに医者にかかるといいでしょう。そうやって気を付けていても病気になる時はなりますし、いつ車が突っ込んでくるかもわからない。この世界には災害もある。いつだって死は隣り合わせです。生きている方が奇跡なんですよ。噛みしめなさい」
「生きてることを?」
「そうです。私にはできないことなんですから。それだけで貴方が私には特別に見えます」
「私が?」
「貴方がいつか失われるかと思うと尚更そう思えますよ」
「そう。何かよくわかんないけど嬉しいわ」
「何がわからないんですか。これ以上ない褒め言葉ですよ」
「そうなのね」
「鉄鼠もびっくりですよ」
「鉄鼠さんの長文ってどんなこと書いてるんだろうね」
「さあ、まあ何も考えないことですね」
「何が?」
「生きてるって何なのか、とか。人と妖怪の違いは、とか。答えが出ないようなことは考えない方がいいです。でも私貴方が余り後ろを振り返らないのがいいと思います」
「後ろ?」
「過去ですよ。振り返ってもしょうがないでしょう。もう終わったことなんか」
「人は過去の失敗から学ぶんじゃないの?」
「それはそうです。未来はこれからすることですけど、過去は既に終わっていますからね、取り戻せないけど、これからどうするか考えるにはいいでしょう。でもそんなことよりやりたいようにやればいいんですよ。貴方のものなんですから」
「私の?」
「貴方の身体は貴方だけのものですからね。でもそうはいっても人間は自分が次の瞬間に死ぬなんて思っていませんからね。だから毎日あらゆる心配をして生きなきゃいけないんですよ。可哀想に」
それは芯からそう思っているように聞こえた。
雲の上、そのまた上からの視線。
境界を、決してたどり着けない場所を示す声。
「貴方には可哀想なことをしましたね。私達を知らなければ良かったのに」
「律、私貴方に逢えて本当に良かったと思ってるよ」
「そうですか?」
「うん。アルフレッド君のことは可哀想だし、悲しいけど、毎日楽しいよ」
「ご飯の用意も洗濯も掃除もしなくていいですしね」
「うん、それもあるかも」
「あの子は本当に可哀想です。この先何年かをミラ達と遊んで暮らしたところであの子が生前受けた苦しみも痛みも絶望も決して消えないでしょう。あの子はそれによって生きることすらできなくなったんですから」
「うん」
「楓。貴方は今は若いから想像もつかないでしょうけど、貴方は年を取ります。確実に毎年とっていきます。平等にね。人間は毎日死に向かって生きているんですから。これからどんどん身体だって調子の悪い時が出てきますよ。三十代になればわかります。ずっと元気でなんかいられませんよ。もう人間辞めたいって思うこともあるほど、どこかが痛くなったりするでしょう。腰痛くて、足痛くて、背中痛くて、目痛い、耳痛い、体中が痛い。でもそれでも生きてくださいね。生きている限り生きることを止めないで下さい」
「うん。生きるよ」
「貴方に思い入れを持ったことが悔やまれます」
「え?」
「何でもないですよ。貴方を可愛いと思います。それだけです」
「何言ってるの?」
「何言ってるんでしょうね。寝ましょう」
「うん」
律に私は生きるよって言おうかと思ったけど言えなかった。
律は私よりずっと人間に詳しい。
律は実感として痛みや苦しみがわからないんなら、三十代になった人間の不調は律の実体験にはならないから、誰かの話なんだろう。
それは誰?
自分の過去はどうでもいいけど、律の過去は知りたいと思う。
それを言ったら律は嬉しくないんだろうから言わないでおく。
私は長文の恋文を貰ったことはないけど、毎日寝る前律とこうして喋っているのはもう往復書簡のようなものじゃないだろうか。
互いに姿の見えない相手に自分の気持ちを滔々と述べているのだから。
月曜日学校から帰ると三人はもう帰る準備をして台所の椅子に腰かけてテレビを見ていた。
私を見ると三人は立ち上がる。
「お帰り」
「ただいま、これお菓子。スーパーで買ったのだけど、食べてください」
「ありがとうな。じゃあ帰るわ。お姉によろしく」
「うん」
「気を付けて帰ってくださいね」
「ありがとうな。又来るわ。な、アルル?」
アルフレッド君は首を縦に振る。
手はしっかりとミラさんの右手を掴んでいる。
「アルル、また来てね」
玄関を出て少し歩くと帰って来た律と会えた。
「遅かったね」
「ちょっと色々ありましてね。これお菓子です。食べてください」
「わりいな。ありがと」
「また来てください。当分あの家は妖怪屋敷ですから」
「妖怪屋敷って」
「アルル。いっぱい遊んで、いっぱい食べてくださいね」
アルルはポケットからメモ帳を取り出し、ありがとうと書いて見せた。
「こちらこそありがとうですよ」
数日後、ハロウィンの仮装パーティーの動画をミラさんがメイさんに送って来た。
ミラさんはとんがり帽子を被った魔女、アルルは海賊、鉄鼠さんはバンパイアだった。
衣装は鉄鼠さんの手作りらしく、余りのクオリティの高さに本当にこの人は人間ごっこの一環でミラさんが好きというよりもミラさんが好きだから人間ごっこをしているんだろうなと思った。
こんなに好きならそりゃ恋文も書く、絶対書く。
動画を何度か見るとメイさんはちょっと出かけてくると言った。
「どこ行くの?」
「ハロウィンのお菓子ってまだ売ってるかな?」
「売ってるよ。毎年ハロウィン終わるワゴンに入れて値引きシール貼って売ってるよ」
「買ってくる。ちょっとは伯母らしいことしねえと」
メイさんはそう言って財布だけ持って出かけて行った。
動画の音を大きくすると微かだけど子供の笑い声が聞こえた。
それは私の願望がそうさせたわけではないと思う。
アルルとなった男の子は笑っていた。
三人で仮装しておいなりさんと巻き寿司を食べて、人生ゲームをして笑っていた。
生きている人間と死んでいる人間の境界線、それはまだわからない。
私がいつかこの世から消え失せる様に、アルルも消えてしまう。
今はいる、あの子はまだここにいる。
私もここにいる、いられるんだと思う。
この世の何一つ私は理解できていないし、できないままだと思う。
毎日この瞬間を力いっぱい生きていたいと思う。
何も考えず、前だけ向いて。
律が帰って来て、私達は一緒に動画を見る。
笑ってますねと、律がポツリと言う。
やっぱりそうだった。
確かに聞こえた、あの子は笑っている。
生きていることはこんなにも楽しい。
十一月になっても互いの休みを合わせたお休みのたびに雨が降り私達は結局何処にも行かなかった。
冬の足音はもうすぐそこまで来ていた。




