家
ご馳走様と皆で手を合わせると律が立ち上がりテーブルのお皿を片付け始めると鉄鼠さんの膝の上に乗っていた男の子は覚醒した様に椅子から降りて目の前にある自分の使ったお皿を流しに運んだ。
「小さいのに偉いですね。楓なんて何にもしませんよ」
「私だってお皿くらいは片付けるよ」
「そうでしたか。じゃあメイとはえらい違いです」
「ミラちゃんもお皿片付けてくれるよ。お皿洗ってくれるし、俺が締め切りやばい時ご飯作ってくれるし」
「ミラそんなことしてんの?」
「世話になってるからな。飯ぐらい作るだろ」
「かー、信じらんねえ」
「メイ、貴方は自分の飲んだ缶くらいは自分で始末しなさい。朝起きてテーブルに空き缶が散乱してるの私がいつも片付けているんですよ」
「わーってるよ。悪いとは思ってんだよ。でももう最後の方なると記憶がなくって」
「でもちゃんと仕事には行きますよね。そこは偉いです」
男の子は黙々とお皿を運んでいく。
まるでそれが課せられた使命のように。
律が男の子の頭に手をそうっと置いた。
それは触れることを少しためらうように私には見えた。
「ありがとう。でも貴方は子供なんですからそんなに気を使わなくていいですよ。子供は遊ぶのと眠るのが仕事です」
「そうそう、で、大人は飲むのが仕事」
「それはメイだけですよ」
男の子は踏み台代わりの椅子を流しに運びスポンジを手に取り台所用洗剤を垂らした。
「洗ってくれるんですか?」
男の子は頷く。
その目がとても力なく感じられ、一瞬男の子がここには本当にはいないんじゃないかと思えた。
「それは嬉しいですが、貴方はお客さんなのでテレビでも見て座っていてください。楓、ゲームでもしたらどうですか?」
「うん、じゃあゲームしようか?」
男の子は首を振り、黒いエプロンを両手でギュッと掴む。
その手はカワウソの律の手と同じくらいなんだろうけど、律の手とはまるで違った。
この手でこの子は何かを掴んだことはあるのだろうかという単純な疑問。
全てがその指からすり抜けてしまうんじゃないか、それくらい儚く見えた。
「じゃあテレビ見よ」
鉄鼠さんが男の子を抱き上げ自分の膝の上に乗せると男の子はテレビ画面をじっと見つめだしたので、皆で無言でついていた俳優と女優の夫婦が行く旅番組を見た。
奇しくも奈良県の吉野だった。
「ミラ行ったことある?」
「ない。超遠いもん」
「そーなんだ」
「これ去年撮ったんじゃね。だってまだ紅葉には早えだろ」
「ミラちゃん行きたいなら今度行こうよ」
「お前電車で行こう言うからやだ」
「せっかく電車があるんだからいいじゃん」
「どっこも行かなくていいよ。あたしは酒が飲めたら何でもいい」
「どっこもいかなくていい?じゃあ俺んとこでいいじゃない。帰ろうよ」
「帰るよ」
「ホントに?」
「ああ」
「じゃあ帰ろ。今すぐに」
「今は帰んない。そのうち、だよ」
「そのうちって明日?」
「そのうちはそのうちだろ。お姉ともうちっと一緒にいたいし」
「俺はもう帰りたいよ」
「すっげー、仏像あおっ、かっけえな、楓?」
「メイさんこういうの好き?」
「おー、何かありがてえのは伝わってくるな」
「強そうだもんね」
「ミラちゃん」
「だから帰るってば」
「言っとくけど俺ミラちゃん帰るまで帰んないからね」
「じゃあ家賃払って下さいね。二人なので二万です。子供は無料ですよ」
「葛餅美味そうじゃね?ミラ今度来るとき葛餅買ってこいよ」
「わかった」
「もう来ないよ」
「来たらいいだろ、つーかお前あたしに対する態度雑じゃね?あたしはミラのお姉ちゃんだぞ。もっと丁寧に扱えよ」
「たまたまお姉ちゃんだっただけでしょ。つーか俺がミラちゃんのお姉ちゃんなりたかったわ。そしたら何にもなくてもずっと生まれた時から一緒だったのに」
皆勝手なことばかり喋ってるな。
男の子は微動だにせずテレビ画面を見つめている。
何というか真面目だ。
言いつけられたことを果たそうとする意思を感じる。
可哀想なほどに。
「つーか鉄鼠締め切りは?」
「寝ないでやったらなんとでもなるよ。数書けるのだけが強みだし」
「考えさせて」
「何を?」
「一晩考えるから」
「だから何を?」
「これからどうするのか」
「これからって、考えることないじゃん。これからも俺と一緒に暮らそうよ」
「うん、そうなんだけど」
「ミラちゃん」
男の子は鉄鼠さんに懐いているのだろうか、膝の上で特に居心地悪そうにもしていない。
何か話しかけた方がいいんだろうか。
ここでは人間は私とこの子だけだし。
でも鉄鼠さんが何も喋らないって言ってたし、それにしてもこんな大きな子どうやって捨てたんだろう。
この子は本当の両親の所へ帰りたいとは思ってないんだろうか。
何というか叔母さんのとこのしんちゃん達と違って何を話したらいいのかわからない。
というよりしんちゃん達は勝手に喋ってくれて相槌打ったらいいだけだもんな。
「テレビ終わったらお風呂入ってくださいね。鉄鼠からどうぞ」
「俺から?後でいいよ」
「貴方はいいでしょうけど、子供は寝ないといけないですよ。お風呂に入れてから寝てください。お布団用意しときますから」
「ミラちゃん」
「帰るから」
「ホントに?」
「帰るよ」
「わかった」
「バスタオル用意しときますね」
「ありがと」
「その子の着替えは?」
「泊まりになるかもしれないから持ってきてる。大丈夫」
「用意のいいことですね」
「カワウソがいるとは思わなかったけどね」
「そうですか」
「まあ今夜だけは世話になるよ」
「ええ。お世話しますよ。ゆっくりしていってください。私明日はお休みなので」
私も休みだ。
それにしても律は機嫌がよさそうに見える。
美女の姿だからだろうか、表情がカワウソの時よりずっと読み取りやすい。
やっぱり妖怪仲間が来て嬉しいのだろうか。
職場じゃずっと人間に囲まれているんだもんな。
妖怪と一緒の方がほっとするのかな。
私は人間と一緒にいるより律といるほうが自然な気がしているけど、律は違うんだろうな。
それが何だか凄く寂しい。
当たり前のことなのに。
律にとっての私って何だろう?
活動拠点?
多分この家がなかったら律は私の所に来なかったんだろうな。
律は本当のところここで何をしようとしているんだろう?
そう考えると律の得体の知れなさは群を抜いている。
メイさんにはお酒を飲みたいという欲望がある。
鉄鼠さんは同人誌を出したい、ミラさんと一緒にいたいといったわかりやすい欲望が。
でも律にはそれがない。
律は何故ここにいるのだろう?
何故ここにいてくれるんだろう?
律にもいつか欲しいものが出てくるのだろうか。
それが人間でないことを私は願う。
せめて妖怪であってくれたらいい。
一番いいのは雄弁でない食べ物。
それなら例えどんなに美しくっても構わない。
同じ土俵で戦うことなどまずないから。
律は本当にわからない。
最も律のことばかり考えている最近の自分が一番わからない。
私は何が好きだろう?
律の作るご飯が好き。
お祖母ちゃんのも好きだったけど。
私の好きなもの。
あ、ある。
この家が好き。
前からこの世で一番好きな場所だったけど、最近は特にそう思う。
この家が好き。
私にとって家はいつだって帰りたい場所で、自分を守ってくれる小さな世界そのものだった。
帰る場所がないというのは恐ろしいことだと気づく。
私には帰る場所がある。
ずっとあった。
父がいなくても母がいなくてもずっと。
私は急に泣き出したくなって慌てて二階の自分の部屋に駆け込みベッドに突っ伏した。
しばらくして下に降りていくと鉄鼠さんが持ってきた業務用焼酎をぬいぐるみのように抱えたメイさんが楓、腹でも痛いんか?と聞いてきたので痛くないよと言った。
私はこの人も失いたくないと思った。
人ではないから、何と言っていいのかわからないけど、私は貴方達にいてほしい。
出来ればこの家で時間の許す限り、ずっと。




