妖怪
朝目を覚ますと私より小さな毛むくじゃらの妖怪の姿はなかった。
良かった。
紫色の髪をしたイケメンが全裸で隣に寝ていたらどうしようかと思った。
「楓、起きましたか」
ドアを開けてカワウソがぺたぺたと入ってくる。
今日も朝から一人でミュージカルさせたくなるような美声だね。
暗闇で口説けば人間の女など簡単に蕩けさせてしまう声。
まあ、手を握ればその小ささと毛並みにすぐに夢だと気づくだろうけど。
「おはよう」
「おはようございます。さっ、朝ごはんですよ。早くしなさい。学校ですよ。お弁当は作っておいたし、水筒に冷たいお茶も入ってますよ。全く貴方ときたら水筒にお茶を入れるのすら面倒だったんですね。ペットボトルのごみばっかりじゃないですか。全く嘆かわしい」
「だってお祖母ちゃんがいつもやっててくれたから」
「早くしなさい。遅刻しますよ」
「はーい」
「伸ばさない」
「はい」
朝から元気。
そして喧しい。
お祖母ちゃんはあんまり喋らなかったもんな。
考えたら家の中ずっと静かだったな。
自分の身体にちゃんとタオルケットがかかっていたことに気づく。
いつも朝起きるとベッドの下に落ちているのに。
朝早く起きたカワウソがかけてくれたのだろう。
小さな手で甲斐甲斐しく。
それが嬉しいかと言われると違和感があり、うっとうしいかと問われるかと否で、全く複雑でこんな感情が自分にあったことを初めて知った。
「早く食べなさい」
「早く食べてほしいなら、その山盛りやめてよ」
カワウソは昨日の夜同様私のお茶碗に塔を建設しようとしていたので、露骨に不機嫌な顔をして見せた。
「せっかく顔だけは整っているのだからそういう表情はおやめなさい。損です」
「損?」
「この世の損失ですよ。美しい顔というのはこの世の宝です」
「どうしたの急に?」
「いえね、朝起きて眠る貴方を見て、とても綺麗な顔をしているなと思ったのですよ。それだけです」
「そうなの?」
「ええ、他意はありませんよ。さあ早くお食べなさい」
「いただきます」
ワカメとネギのお味噌汁。
お味噌汁は久しぶりだ。
カップのお味噌汁買おうかなと思ったけど、お湯を沸かすのが面倒で買わなかった。
「どうですか?お味噌汁」
「うん。お祖母ちゃんのに似てる」
「それはそうでしょう。お味噌は貴方のお祖母ちゃんが残したのを使いましたから」
「そうなんだ」
「二つのお味噌を合わせて使ってたみたいですよ。二種類ありましたし、どちらも均一に減っていましたからそうなんでしょう」
「そっか」
記憶にある優しく暖かで、それでいてそっけなくって愛嬌のない味。
そう、こんな味だった。
お豆腐とわかめのお味噌汁が多くて、あさりやシジミは滅多になかった。
私がお休みの日にはカボチャのお味噌汁にしてくれた。
柔らかく形を失ってドロドロになったカボチャのお味噌汁をお休みの日のお昼頃起きて食べるのが好きだった。
「楓いっぱい食べなさい」
「うん」
カワウソがいなかったら泣いていた。
本当にお祖母ちゃんはもういないんだ。
「でも楓、貴方庭のトマトに水をやるのはちゃんとしていたんですね。偉いですよ」
「水やるだけだからね」
「もう少し赤くなったら食べられますね」
「そう」
「お魚もちゃんと食べなさい」
塩鮭の切り身もちゃんと焼いてある。
焼きたての鮭なんて食べるの久しぶり。
お祖母ちゃんは毎日焼いてくれたな。
あと卵焼きも。
「卵焼きは今日は甘めに作りましたが甘いのが嫌なら明日からは甘くしませんよ」
「どっちも好き」
「ブロッコリーも食べなさい。野菜をちゃんと食べるんですよ」
「うん」
朝からお腹いっぱいだ。
カワウソは一口食べるごとに口を開いた。
こんなに朝から誰かと話したのは初めてだ。
カワウソは玄関まで見送ってくれた。
「行ってらっしゃい。しっかり勉強するんですよ」
「うん」
「寄り道しないで帰ってくるんですよ。ピーマンの肉詰め作っておいてあげますから」
「うん、ありがと」
玄関を出て数歩して我が家を振り返る。
何故か昨日の朝までのひっそり感はなく、同居人の穏やかな気配を感じた。
まあ人間じゃなく、カワウソだけど。
妖怪だけど。
お弁当はわりと普通だった。
白いご飯に梅干しがちょこんと乗っていて、卵焼きとプチトマトとピーマンとホタテ貝の炒めものとミートボールが入っていて、朝からあの小さな毛むくじゃらの手でひき肉を丸めていたのかと思うと帰りにケーキでも買っていってやろうかとすら思ったが、ふと冷静になってみると、あのカワウソはどうやってこれらの食材を入手したのであろうかという単純な疑問にたどり着いた。
妖怪の不思議な力だろうか?
そもそもカワウソは私以外に見えているのだろうか?
もしやあの姿のままスーパーに行きこっそり盗んできたのだろうか?
嫌、あれは盗みなんてしないだろう。
育ちの良さを誇っているのだし、そうなると不思議な力か。
妖の力で人を操り買い物をさせるとか?
そんな小さなことに使わないか。
そんなことできるんならこんな片田舎の女子高生の家に居座ろうなんて思わないだろうし。
お昼ご飯はいつも一人で思索にふけることができるのが有り難い。
私は昔から友達というものができなくてこの年までなってしまった。
天性の愛想の無さのたまものだろう。
友達はいないが、クラス中から無視されるとか、持ち物を隠されるとか、暴言や暴力を振るわれるとかいうことはないので特に何の支障もないが、お祖母ちゃんはそんな孫をどう思っていただろうかとふと思う。
私は一度も家に友達を連れてきたりしなかったし、学校の話もしたことがなかった。
まあお祖母ちゃん自体が無口な人だったし、余り笑わなかった。
お葬式には職場のパート仲間さん達が何人か来てくれていたけど、家に遊びに来てるのを見たことがなかった。
家を訪ねてくるのは叔母さんくらいで、たまにパートが休みの平日一人で出かけてたりしたけど誰かと会ってるような感じはなく携帯で撮ったお寺の山門の写真を見せてくれたりするだけで、お土産のお饅頭や葛餅を二人で黙ってもそもそと食べた。
十三年間、そんな何もない毎日の繰り返しだった。
帰ったらカワウソにどうやって買い物をしているか聞こう。
盗品だったらどうしよう?
もう食べちゃったし、防犯ビデオに映るカワウソを追跡した結果この家にたどり着きましたと言って刑事さんが訪ねてきたらどうしよう。
昨日の夜カワウソの作ったものを美味しいと思った。
叔母さんの料理だって美味しかったけど、何だろう、何か違った。
身体を芯から温めてくれた。
眠る時も私は人と一緒に眠るというのは恐らく初めてのことだったし、カワウソは意外と場所を取ったけれど朝まで一度も目覚めず、ぐっすり眠れた。
警察からかばってあげてもいいかもしれない。
盗んでいたならその分の代金を払えばいいだろうし、そもそも動物って罪に問えるのだろうか。
まあ動物というか妖怪なんだけど。
家に帰ると祖母が百円ショップで買ったサンダルを履いたカワウソがジョウロでトマトの鉢に水をやっていた。
カワウソの小さな紅葉のような小さな足にはそのサンダルは大きすぎるので明日帰りに子供用のを買って来てやろうと思った。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「冷蔵庫にプリンがありますよ」
「どうしたの?」
「買ったんですよ。手を洗っていらっしゃい。一緒に食べましょう」
「うん」
二人で古い朝ドラの再放送を見ながらプリンを食べた。
さてどうやって切り出そう。
「お弁当は大丈夫でしたか?」
「うん。美味しかったよ。朝からわざわざミートボールしてくれたの?」
「昨日の夜のうちにしておきましたよ。朝は焼いて味付けするだけです」
「ねえ、聞いてもいい?」
「いいですよ。何ですか?」
「あのね、私は貴方のこと信じてるからね」
「何ですか、急に。可笑しなことを言いますね」
「あのね、そのー、買い物ってどうしてるの?」
「普通に近所のスーパーに行っていますが」
「そのままで?」
まさか、カワウソに見えてるのは私だけで、普通の人にはただのイケメンに見えるとかそういうパターン?
「そんなわけないでしょう。このまま行ったら捕獲されますよ。変身してます」
「変身?」
「ええ」
「えっと、人間に?」
何という察しの悪い娘だろうという顔をカワウソはした、ように見えた。
よく見るとカワウソの瞳は黒くて潤んでいてまん丸くつぶらで、宝石のようなという形容をしても大げさにはならなそうだった。
そして小さな手が実に信心深そうなのだ。
思わずその手から何かを得たいと思ってしまうほど。
「人間以外何になるって言うんです。人間に変身して行くんですよ」
「えー、ねえ、なってみて。見たい」
「見てどうするんですか」
「見たい、見たい、ねっ、お願い」
私は胸の前で手を合わせる。
こんな風に人に何かを頼むのも初めてだ。
まあ人じゃないけど。
「仕方ありませんね」
カワウソは椅子から立ち上がった。
私は胸を膨らませながら世紀の瞬間を待つ。
「目を閉じてください。変身の瞬間を見られるわけにはいかないので」
「うん、わかった」
私も椅子から立ち上がり手を合わせたまま目を閉じる。
「はい、いいですよ」