カワウソと楓
全くあの時の私はどうかしていたと思う。
唯一の肉親である祖母が亡くなった。
嫌、これは間違いである。
現存する家族、この言い方にも語弊がある。
亡くなった祖母の娘であり私を産んだ女性は遠い福岡の地でまだ生きているし、私が二歳の時に離婚したのでまるで顔も憶えていないが父親だってこの国のどこかにはいるはずだ、多分。
まあ、兎に角一緒に暮らしていた人を私は亡くしたのである。
いつも通り学校から帰ると祖母はいつも通り一階にある台所の傍の自分の部屋のベッドで横になっていた。
別に臥せっていたわけじゃない。
まだ七十歳になったばかりで元気な人だった。
お酒もたばこも一切口にしなかった。
二月の健康診断の結果も何処も引っかからなかったし、健康診断の結果と一緒に貰った身体の健康年齢が六十歳と十歳も若いと無口で余り笑わない人だったのに珍しくほんの少しだけだが自慢げだった。
その日もいつも通り自転車で近所のスーパーのお惣菜コーナーのパートに行って午後二時までいつも通りお寿司を握ったり巻き寿司を巻いて、買い物をして帰って来た。
私はいつも通り夕飯まで二階の自分の部屋に籠って一応期末テストの勉強をしていた。
家は七時になれば夕飯なので祖母はいつも五時四十五分には台所に入り野菜を切り刻む音が階下から聞こえてくるのだが、その日は何の音もしなかった。
私は不審に思い階段を駆け下り祖母の部屋にそうっと入った。
「お祖母ちゃん」
私は自分でも驚くほどか細い声でそう呼んだ。
返事はなかった。
私は恐る恐るベッドに近づき祖母の肩にそっと触れた。
「お祖母ちゃん」
返事はなかった。
その後のことは何もかも自分と関係ない場所で過ぎていった。
叔母に楓ちゃん骨壺、白いのと花柄どっちがいいかなあと聞かれたくらいしか印象がない。
私はどう答えたのだろうか憶えていないが、叔母はどうやら白いのを選んだようだった。
お葬式は叔母が一切仕切ってくれた。
何年かぶりに生みの親である母親に再会した。
最後に会った時より私に似てきたと思い、私は二十年も経てばこの顔になるのかと思い、少なくとも見た目だけなら悪くないと思った。
流石十一歳も年下の男を誑かして五歳の娘を置いてけぼりにして駆け落ちした女は違うと思った。
前に会った時はやたらと若く見えた母の十一歳下の夫は三十を超えもう母の隣にいても違和感は感じなかった。
父親の違う私の弟と妹は生まれて初めてのお葬式に明らかには燥いでいた。
母が私が言うことじゃないかもしれないけど楓が一緒にいてくれてお母さん幸せだったと思うよと言うので、どの口が言うかと思ったが声に出す気力もなく首だけは縦に振った。
お葬式が終わると伯母さんは楓ちゃん、家で一緒に暮らさないと言い、九人も十人も一緒よと明るく笑った。
そのセリフはどう考えても私の母が言うべきだったが、あの人はお葬式が終わるとその日のうちに福岡に帰って行った。
何かあったら電話してねすら言えないのかこの女はと思ったが、言わないでくれて良かったとも思った。
同じ女の腹から生まれて何故こんなにも差が付いたのだろうと思う。
叔母は本当に善良で心底私に同情していた。
だが私は叔母の優しさをやんわりと拒絶した。
もう半年もすれば高校は卒業だし、電車で朝一時間半も満員電車に揺られ学校に通うことなど考えるだけでぞっとした。
私は眠るのが大好きだし、基本怠惰なのだ。
叔母さんはご飯の用意とかお洗濯とかお掃除とか大変よと言った。
確かに大変だろうけど、人一人くらい何とかなるものだろうと思った。
叔母さんの家は小学校六年生の男の子を筆頭に四人の息子と旦那さんのご両親と嫁いでいない妹さんの九人家族である。
そんな所に愛嬌のないひねくれた家事のできない娘が転がり込んでくるとか地獄絵図だ。
叔母は煩雑で様々な手続きを済ませ帰っていった。
叔母さんは何度も何かあったら電話して、ううん、何にもなくても電話してと言い、電子レンジで温めて食べてねとロールキャベツとエビグラタンとヒジキの鶏つくねと鶏肉のトマト煮込みを作り冷凍庫に入れ帰っていった。
それから一週間後、学校から帰ると台所に一匹のカワウソがいた。
「お帰りなさい」
やけに深みのある鷹揚で包容力を感じさせる声が聞こえた。
人を勘違いさせると言ったらいいか、人を、そう、騙せそうな、誑し込むほど優しく、それでいて規律に殉じる声。
最初そのカワウソから発せられていると気づくのに時間を要した。
「ただいまも言えないんですか。全く育ちの悪い」
カワウソは腰に手をやり近づいて来た。
小さい、叔母さんとこの末っ子の小二のしんちゃんより小さい。
百センチくらいだろうか。
「お帰りなさい、楓。手を洗ってきなさい。そして夕飯まで勉強しなさい。食事の用意はしますから」
そう言うとカワウソは洗濯物を取り込み始めた。
週末に纏めて洗おうと思っていた洗濯物をどうやら洗って干してくれたらしい。
何とシーツまで。
「全く何にもできないんですね。お部屋も掃除しておきましたからね。トイレもお風呂も定期的にカビ取りをしないと。あとエアコンのフィルターも掃除しておきましたよ。全くどれだけ埃が出たか見せたかったですよ。あんなの夏中使うつもりだったんですか。本当にだらしない」
「ごめんなさい」
「素直で宜しいですよ。ほら、手洗いうがい。そして勉強。学生の本分は勉学ですよ。励みなさい」
「はい」
「ほら二階に行った、行った」
不思議な剣幕に当てられて私は階段を上った。
部屋に入り机に向かった。
階下からは懐かしい気配だけがした。
「さあ、お夕飯ですよ。いっぱい食べなさい」
「いただきます」
カワウソは私のピンクのお茶碗に白い炊き立てのご飯をこんもりとよそっている。
どういうこだわりがあるのか、ご飯でタワーでも作ろうとしているのか、しゃもじで白いご飯をぺしペしと撫でつけている。
「そんなに食べられないけど」
「何言ってるんですか。成長期ですよ。沢山食べなさい」
そう言ってまたしゃもじでご飯タワーを左官職人のように綺麗に仕上げていく。
もういいから食べさせて欲しい。
満足いく出来になったのかカワウソはお茶碗を私の前に置いた。
「ありがとう」
「さっ、食べましょう」
カワウソは青色の祖母のお茶碗に自分のご飯をよそい、いただきますと手を合わせた。
「貴方も食べるの?」
「食べるに決まっているでしょう。作ったの私ですよ」
「いただきます」
私は恐る恐る一番近くにあったゴーヤチャンプルーのゴーヤに箸をつけた。
「美味しい」
私はパクパクとゴーヤチャンプルーを食べる。
本当に美味しい。
「鯖の竜田揚げも食べなさい。会心の出来ですよ」
カワウソが小さな手だが意外な握力でレモンを絞ってくれる。
生姜醤油にしっかりと漬けこまれた竜田揚げは揚げたてがたまらなかった。
ほうれん草の胡麻和え、春雨のサラダにカボチャのポタージュと私の好きなものばかりで、祖母が亡くなってから初めて食事を美味しいと思った。
そしてどれも祖母の味と違っていた。
「美味しい」
「それは良かった。全く夜はスーパーのお弁当、朝はフルグラとバナナ、お昼は菓子パンなんてどういう了見ですか。そんなんじゃ病気になりますよ。若いからといって過信してはいけません。日々の努力が五年後十年後の自分を作り上げるのです」
「だって、作るのめんどくさいもん」
「そのめんどくさいことを貴方のお祖母さんはずうっと一人でやってきてくれたんですよ。何十年も」
「頭が下がります」
「まあ、貴方はまだ子供でしたしね、今は勉強の時です。だから気にしなくっていいです。生活のことは」
「そう、ですか?」
「ええ、家事は私に任せてくれたらいいですよ。一応食べられないものは聞いておきましょう。何か苦手なものは?アレルギーとか人間は大変ですからね」
「食べられないものはない。何でも食べられる。好きなのはカレーとバナナとピーマンの肉詰め」
「明日してあげましょう」
「ありがとう」
カワウソは毛むくじゃらの手で林檎をむいてくれる。
背が小さいので台所の椅子に乗って。
その姿にひょっとして祖母がカワウソになって帰って来たのではないかと思ったが、その毛むくじゃらのしゃんと伸びた背中から祖母の面影を見出すことはできそうもなかった。
「さ、食べなさい」
「いただきます」
カワウソはフォークで林檎を突き刺しむしゃむしゃと食べる。
その立派な牙に、ああ、カワウソだと実感する。
「ねえ、聞いてもいい?」
「何なりと」
「貴方は一体何なの?」
「カワウソですが」
「それはわかる。テレビで見たことあるし、私だってそんなに無知じゃない。貴方がカワウソなのはわかる。でも、ねえ、何で喋れるの?普通カワウソって喋らないよね?」
それとも私が知らないだけでカワウソってのは人間の一種なの?
だってどう聞いたって人間の声だもの。
それも人間の男の、かっこいい声。
「私はカワウソですが、妖怪のカワウソなので喋れます」
「妖怪?」
「はい。私は妖怪カワウソです」
「そう、まあ信じるわ。ねえ、じゃあ何で家にいるの?」
「簡単に説明しますと、このへんをずっとぶらぶらしてまして、身寄りのない女性を探していたんです」
「何で?」
「この世の土産にしようかと」
「お土産?誰の?」
「妖怪王のです」
「妖怪王?」
「私はこの世とあの世の境目の妖怪の世界から来たんですが、これは話すと長くなるので省略しますね。
何年かに一度境目の蓋が開いて、妖怪がこちらに来れるんですが、その帰りそびれてしまって境目の世界の蓋が閉じられてしまったんですよ。それで私は帰れなくなったわけです」
「うん。それで?」
「それで当分こっちにいることにしようと思ったのですが、私はどうも育ちが良くて野宿などできないわけです。そしたら丁度お祖母さんを亡くした貴方を見つけたわけです」
「そう」
「家のことは私がやりますよ。お部屋空いてるでしょう?それに寂しくないですか?夜怖くないですか?全く感心しないですよ。未成年者の一人暮らしなんて、物騒です。私はこう見えて妖怪です。強いです。腕っぷしには自信があります。日本の屈強な成人男性が例え千人束になってかかって来ても勝てますよ。私を家に置いておいた方がいいと思いませんか?食事も貴方の半分くらいしか食べませんし。昨今流行りのルームシェアだと思えば・・・」
ペットと思えばと言わないあたりが妖怪の誇りだろうか?
確かに悪くない話だと思う。
叔母さんの作っていってくれた食料はとうに尽きた。
スーパーのお弁当はそんなに種類があるわけじゃなく、菓子パンはもううんざりだがお弁当を朝から自分で作るくらいなら寝ていたいし、掃除もお洗濯も好きじゃない、寧ろ嫌い。
毛むくじゃらなお手伝いさん、しかもお給料も払わなくてよく、用心棒の機能も兼ね備えている。
何だろう、これ、破格では?
「そうかも。いいよ。いてくれて」
カワウソは目を細めた。
それは何処か雅やかで貴族めいていて、これが彼の言う育ちの良さなのかと妙に納得してしまった。
そう、どうかしてた。
「それはそれは有難うございます。それでは当分お世話になります」
「うん」
お風呂から上がり黒いルームワンピースを着てベッドに寝ころんでスマホゲームに勤しんでいるとお風呂上がりのカワウソがベッドに乗りこんできた。
「一緒に寝るつもり?」
「何か問題でも?」
「お祖母ちゃんのベッドで寝たら?」
「一階じゃ賊が貴方に襲いかかった時守れませんよ。下はヤモリもいるし大丈夫です」
「ヤモリいるの?」
「妖怪じゃないですよ。ただの野性です」
「まあ、何でもいいけど、貴方朝起きたらイケメンになってるって乙女ゲームみたいな展開ないわよね?」
「ありませんよ。私は貴方みたいに胸とお尻ばかり大きな女体は好ましくありません。もっと慎ましやかで凛とした澄んだ目の女性が好きです」
「じゃあそういう女性を探した良かったのに」
「そういう女性は大概人のものです。私は人のものを取る趣味はないのです。生まれがいいので」
「そう、まあいいけど。もう寝るわね。電気消すわよ」
「おやすみなさい」
「おやすみ、ああ、ねえ」
「はい」
「貴方のことなんて呼べばいいの?」
「カワウソでいいですよ、楓」
「そう、まあ何でもいいか。おやすみ」
「おやすみなさい」
「あー」
「何ですか?」
「貴方、一応聞いておくけどオスよね?」
「当たり前でしょう。さっさと寝なさい」
本当にどうかしてた。
妖怪と一緒に暮らそうなんて。
異性と同じベッドで眠るだなんて。