第1部 隔離 08
福池は病室のドアをそっと開けた。誰もいないのを確認して外へ出る。ナースセンターの前は、身をかがめて見えないようにする。足音を立てないで小走りしながらエレベーターの前へ立ち、上昇ボタンを押した。すぐにドアが開いた。乗り込んで、最上階のボタンを押した。
エレベーターがわずかにうなり声を上げながら上昇し、再びドアが開く。そこは何もない小部屋で、正面にドアが付いていた。福池はエレベーターから出てドアノブをひねった。予想通り、鍵はかかっていない。福池は唇をゆがめながら笑い、ドアを開けた。
真っ青な空が見え、乾いた風でパジャマがはためいた。秋が深まっているのだろう、独房へ入る前より明らかに冷たく感じる。
屋上には先客がいた。福池と同じくパジャマ姿で、引田という男だった。家族全員を殺したショックで、口が聞けなくなってしまったという噂だ。
屋上は病院スタッフの許可がなければ入れない決まりで、鍵がかけられている。しかし、他の出入り口がIDカードを使わなくてはならないのに対し、ここはシリンダー錠だけなので、引田はアグノーを使って開けてしまうのだ。病院のスタッフも、屋上だからどうせ抜け出せないと思っているらしく、強くとがめようとはしなかった。
甘いんだな。福池はニタリと笑い、周囲を確認した。窓が少なく、グラウンドからも死角になっている所は、ちょうど引田が立っている場所だった。しょうがねえなと思いながら、彼の横に立つ。
「よお、元気かい」
わざと陽気に声をかけるが、引田は福池を無視し、前をぼんやり見続けていた。
「悪りぃけど、ちょっと邪魔するぜ」
福池は胸まである柵をひょいと乗り越え、切れ目から下を覗く。三階建てだが、充分過ぎるほど高くて、思わずめまいがしてくる。
見なきゃよかったなと思いながら、今度は四つん這いになって、足からゆっくりと体を降ろしていく。
胸まで降りたところでアグノーを使う。腕にかかっていた体重が軽くなった。いけるという感触を掴み、福池はゆっくりと体を沈めていく。
薬を飲んでなければ空間を浮遊することも可能かもしれないが、今の状態では無理だった。しかし、体を壁に押しつけて摩擦を利用すれば下へ降りられる。
引田を見上げたが、関心がないらしく、ぼんやり前を見ているだけだ。
「あばよ」
福池はクモのように壁へ張りつき、下へ降りていった。
香織はいつものように、図書館で由衣と宿題に取り組んでいた。他には数人の生徒が本を探すため、中を歩いている。
急に廊下の方から足音が聞こえてきた。半ば走るように大きく響いたので、顔を上げて出口の方向を見た。
二人の男子生徒が入ってきた。いずれも優介と同じクラスだった。彼らの深刻そうな顔を見たとき、香織は嫌な予感に襲われた。
「香織、片山がいないんだよ」
「どこへ行ったか、誰も知らないの?」
「だからこうして探してるんじゃないか」一人が苛立った表情で言う。「福池も姿が見えないらしいんだ」
「福池も? 病棟は簡単に外へ出られないようになっているんでしょ」
「さっきから建物の中を病院のスタッフが徹底的に探しているらしいんだけど、どこにもいないみたいだ」
福池と優介が同時にいなくなる。単なる偶然かもしれないが、そうでないとしたら、ひどく深刻な事態だ。向かいに座っていた由衣を見る。強い視線で見返しながら、机に置いてあったノートや教科書を仕舞い始めていた。
「あたしたちも探してみるわ」
「頼むよ」
香織もノートと筆記用具をトートバックへ放り込み、由衣と一緒に図書室を出た。廊下を小走りで進んでいると、校内放送で川崎の声が響いてきた。
――片山君、すぐに職員室へ来てください――
これでひょっこり現れてくれればいいのだがと、祈るような気持ちで思う。
外へ出て、辺りを見回す。施設内で生徒が出入りできる場所は限られている。しかも、監視カメラが至る所に設置されていた。自ずと捜索場所は限られてくる。
「幽霊ビルへ行ってみようよ」
「そうね、あそこが一番怪しいわ」
香織たちが着いたとき、入り口から女子生徒が出てきた。
「どう、見つかった」
「わからないけど、二階でドアが開かない部屋があるの。鍵は解除してあるから、ドアにつっかえがしてあるみたいだわ。今から先生に連絡してくる」
女子生徒は走り去っていった。二人は頷きあい、幽霊ビルへ入り、階段を上った。 二階へ行くと、薄暗い廊下の半ば当たりで、数人の生徒が立っていた。香織たちは駆け寄った。
「開かないのはこの部屋なの」
「ああ、どうやらキャビネットを倒してあるらしいんだ」
三人の男子生徒が、かけ声をかけながら、ドアのパネルを同時に押した。しかし、五センチほど開いただけで、ぴくりとも動かない。
「待って、あたしたちがやるわ」
「でも」
他の生徒たちが、不安げな顔で香織たちを見る。
「わかってるわ。あたしたちはまだ十四だからどうにかなるの」
ここにいる生徒たちは、みんな優介の同級生なので、全員一年以内に十八になるはずだ。だから、どうしてもアグノーを使うのには抵抗がある。
「さあ、どいて」
他の生徒はおずおずとドアから離れていく。
「行くわよ」
香織と由衣は、両手をドアに向かってかざした。ドアに意識を集中し、その向こうにあるはずのキャビネットを動かす様を想像する。静電気が起きたように、香織たちの髪の毛が、ふわりと浮かび上がった。
いける。そう思った瞬間、ドアの奥から床のこすれる音がして、ドアが動いた。他の生徒から、ため息が漏れる。
人が通れる隙間が空いた時点で、男子生徒が次々と中へ入っていった。香織たちも後に続いた。
「片山っ」
生徒の呼びかけに顔を向けた優介は、窓際に立ち、脱力した笑みを浮かべていた。右まぶたが腫れ、目が閉じていた。額から血が流れている。
その向かいに福池があぐらをかいて座っていた。額からこめかみにかけてべっとりと汗をかき、いつもより更に嫌らしい笑みを、顔いっぱいに貼りつかせていた。
福池の背後にある壁が、大きく陥没していた。
「アグノー、出ちゃったんだ」
優介がぽつりとつぶやいた。
「こいつがあんまり頑固なんでさ、ここへ連れてきていたぶってやったんだ。そしたら見事〈当たり〉だったってわけさ」
「お前、殺してやる」
優介の表情が消え、開いている左目が細くなる。同時に、室内の密度が高まり、息苦しくなった。
部屋の隅に置いてあった折りたたみ椅子が、細かく振動し始める。
「優介、やめてよ」
叫んだつもりだったが、息をするのも苦しく、喉からは、かすれたような声しか出なかった。駆け寄ろうとしても、泥の中へいるかのように、ゆっくりとしか動けない。
「香織。俺さ、終わっちゃったんだ。わかるだろ」
福池の体が浮いた。彼は部屋の中央へ移動すると、体が大の字に広がった。
「ああっ……」
優介に、初めて恐怖を感じた。圧倒的な部屋を支配する重い空気は、優介の発する殺気だと悟った。いつも微笑みを浮かべ、わがままを言っても困った顔をしながら答えてくれた優しい男はいない。
背格好は同じでも、目の前にいるのは、凶器となった怪物だった。
優介の周りで、オーラのような輝きが見えてくる。
「うぐぐっ」
福池から笑みが消え、顔をゆがめて呻いた。嫌らしい笑みは優介へ移動していた。
「八つ裂きにしてやるよ」
福池の両腕両足が、何かに引っ張られていた。
だめよ、千切れちゃう。叫ぼうとしても、声にならない。
福池の喉奥から、絞り出すような悲鳴が聞こえてきた。
その時だ。香織の横を、ボールのような物がかすめ、優介の目の前で止まった。
手榴弾、と思った瞬間、爆音と閃光がはじけ、目の前が真っ白になった。
目が見えない、耳も轟音だけが響いている。それは一切の思考をはぎ取った。パニックが起こる。
気付いたとき、香織はいつの間にか床に倒れていた。上半身を起こすと、部屋の中央で、白衣を着た大人たちがしゃがみながら何かをしていた。隙間から、パジャマを穿いた福池の足と、優介の後頭部が見えた。
「香織さん、大丈夫」
そっと背中に触れる感覚がしたので振り向くと、川崎が心配そうな顔をしてのぞき込んでいた。
「耳は聞こえる?」
「何とか。でも、凄い耳鳴りがして、自分で喋った言葉が、変な風に聞こえてくる。耳に水が入ってるみたいだわ」
「ごめんね、スタングレネードを使ったの。しばらく耳鳴りは続くはずよ」
「そうだったの」
何人かの生徒がここへ連れてこられるときに経験していたので、話は聞いていた。しかし、実際体験するのは初めてだった。
「二人はどうなったの」
「福池君は生きている。両腕は脱臼したらしいけど、意識はあるから問題ないと思う。片山君は麻酔銃を撃たれて眠ってるわ」
時間の感覚がなくなっていた。ただ、二人が運ばれていないところを見ると、スタングレネードが爆発して、まだ数分しか立っていないようだった。
担架が持ち込まれ、福池が慎重に乗せられた。鎮痛剤を打たれたのか、ぼんやりとした顔をしている。優介は目隠しをされ、冗談のように太いリングの手錠と足枷をはめていた。
「さ、私たちも病院へ行きましょう。歩けるかしら。大変なら車いすを持ってくるけど」
「大丈夫です」
「由衣さんも大丈夫みたいね」
「はい」
隣にいた由衣は、既に立ち上がっていた。香織も立ち上がる。一瞬よろめいたが、彼女に抱き留められた。体勢はすぐに安定したが、由衣は抱きしめたまま動かなかった。
由衣の体が震えていた。
「優介、行っちゃうよ」
その言葉で、すべての思考が戻ってきた。優介は、担架を持ち上げられて部屋の外へ向かっていた。
彼はこれから新たな施設へ連れて行かれる。それは場合によると、永遠の別れになるかもしれなかったのだ。
「優介っ」
香織は駆け寄ろうとしたが。今度は川崎に抱き留められた。
「香織さん、苦しいけど耐えるのよ」
「嫌よっ」
香織は叫び、あふれ出たアグノーが川崎を突き飛ばした。担架で運ばれていく優介へ近づく。
何をしようかというわけではなかった。ただ、離れるのが嫌で、彼の元にいたかった。
担架を持っている病院職員の男と目が合った。
「香織さん、よすんだ」
男は目をそらさず、話しかけた。
「だめ、優介を行かせないわ」
男をじっと見据える。アグノーが湧き出し、男へ向かおうとした。
その時、首筋にちくりと痛みを感じた。振り向くと、背後に田原が悲しげな顔をして立っていた。手には携帯用の注射器があった。
突然体が重くなり、その場へ崩れ落ちた。目の前がもうろうとし始め、やがて意識を失っていった。
精神的なショックが大きかったのだろう、事件が起きてから、ヌシと由衣はしばらく休んでいた。田原の話だと、とりあえず今週はずっと休みで、週末に様子を見てから来週の対応を考えるそうだった。
福池については、当分の間、隔離病棟へ入院し、復帰の見込みは立っていないと言っていた。これはいいニュースだった。
しかし、俊は思う。もともと一クラスの人数が少ないのに、三人もいなくなると、ほとんど個人授業を受けているような気になってくる。俊はあくびをかみ殺しながら、数学の授業を聞いていた。
チャイムが鳴り、ようやく六時間目が終了した。
「それじゃあ、明日までにドリルの五ページから十五ページまでを計算しておくこと。三時間目の授業で答え合わせをやる。以上」
俊は該当のページをぱらぱらとめくって、顔をしかめた。因数分解かよ、わかんねえぞ。俊は憂鬱な気分になりながら、教科書やドリルをバックへしまった。
教室を出て、いつものように浜口と一緒に宿舎へ向かった。風がグラウンドの乾いた土埃を巻き上げ、俊たちに降りかかってくる。
「浜口君、福池って何で優介さんに難癖をつけたんだい? 俺、それがどうもわかんないだよ」
「え?」
一瞬浜口が怪訝な顔で俊を見たが、すぐに事情を察したのか、寂しそうに微笑んだ。
「福池君はわざと片山君を挑発して、死のうとしたんだよ」
「それ、どういうこと」今度は俊が怪訝な顔になった。「言ってる意味がわかんないよ。死にたいなら勝手に死ねばいいじゃん」
「普通の人たちと違って、そういうわけにはいかないのさ。僕たち、自殺できないんだよ」
「そんなバカな。いくら先生の監視が厳しいからって、ビルから飛び降りるとか、首を吊るとかさいろいろできるだろ」
「そんなんじゃないんだよ。アグノーが僕たちを殺させないのさ」
「ばかな、ビルから落ちても、アグノーが押さえてくれるっていうのか」
「その通りなんだ。病棟へ入院している患者の中に、ビルから飛び降りた女の子がいるんだけど、アグノーに守られて、命は助かったんだ。もっとも、その時に頭を打って植物状態になっているんだけどね」
「たまたま落ちた場所がよかったとかじゃないの?」
「違うよ。彼女、ビルの二十階から飛び降りたんだ。普通なら、絶対助からない」
俊は言葉を失い、浜口を見た。
「たとえば天井にロープを張って首にかけるとするだろ。そうすると、勝手に体が浮いちゃうんだ。嘘だと思うなら、俊君もやってみるといいよ。ストロンチウム剤を使っているから多少沈むとは思うけど、首を絞めるまでにはいかないはずだよ。
片山君と同学年で、遠田っていう人がいるんだけど、その人はガス自殺を図ったらしい。でもね、酸欠になったらアグノーが反応して、彼がいた部屋を破壊しちゃったそうなんだ。練炭とか硫化水素でも同じみたいだよ」
「俺、なにも知らなかった」
「メディアでは、そこまで触れないし、先生も説明しづらいところがあるんじゃないのかな。JSと付き合っていれば、そのうちわかるだろうと思ってるかもしれないね」
「なんでそんなことが起きるのさ」
「よくわかってないけど、山原先生によると、この力が体の中でも、免疫系に関わっているっていう説があるらしいんだ。免疫系は体内に侵入してきた病原体を排除するんだけど、それが体外にまで延長されているっていうんだ。だから、自分の意志とは関係なく、免疫系が危険を察知したら防御しようとするんだ」
「それじゃあ俺たち、死にたくても死ねないっていうのかい」
「うん、僕たちの命は、自分でコントロールできないんだよ。もし死のうとするなら、麻酔銃に強力な毒薬を仕込んで不意打ちして貰うしかないよ。あと、レーザー光線も有効みたいだよ。あれならアグノーをすり抜けるみたいなんだ」
大きな意味が、じわじわと実感となっていった。
得体のしれない力が、自分の体に宿り、生きることを強制している。
恐怖と不安、そして怒りが、ふつふつと心の底からが湧き起こってきた。
「今まで自殺はいけないことだと教えられてきたでしょ。だけど、僕は思うんだ。自殺っていうのは、神様が人間に与えた特権なんだって。他の動物は自殺できない。自動車にぶつかって内蔵が潰れても、猟銃で撃たれて瀕死の状況になっても、心臓が止まるまで、激痛に苦しみながら生きていかなくちゃならないんだ。もうすぐ死ぬのは明らかなのにだよ」
浜口の声は淡々と優しげで、昨日食べた夕飯の感想を話しているような口調だった。
言葉が出なかった。
「僕たち、死ぬ権利を奪われちゃったんだ。これってひどいよ。腹が立ってこないか?」
浜口から笑みが消えていた。悲しみと怒りが混じり合ったような目になっていた。