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第1部 隔離 07

「あ、由衣が戻ってきてる」浜口がつぶやいた。

 その言葉に俊は振り向き、ヌシの隣へ由衣が座っているのを見つけた。それを見て、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。

「お前、独房へ入ったっていうのにちっとも痩せてねえじゃねえか」

 早速森山が憎まれ口をたたいてくる。由衣はフンと言って、あさっての方向を見た。

「そういえば、福池はまだ来ていないようだな」

「あいつ、体調が悪いからって病棟に入ってるわ。ずっとあのまんまいてくれればいいのに」

 香織がつぶやいた。

「さあ、そろそろ行こうぜ。でないと坂谷がうるせえから」

 森山がそう言って立ち上がり、廊下へ出て行った。みんなもそれに続いて外へ向かう。

 今日の授業は、一時間目から体育だった。グラウンドに出ると、白のジャージを着た男が一人立っていた。体育の教師をしている板谷だ。背丈が高く、鍛えているのだろう、二の腕には岩のような筋肉がついていた。頬まで筋肉が盛り上がっているような顔をしている。

 空は晴れ、秋の乾いた風が吹き渡っていた。

「おらっ、時間まであと三分だぞ。走って来い」

 怒鳴りつけられて、クロックのメンバーは走り出した。

「シップスはどうしてるんだ? お前ら見ていないか」

「僕らが出てきたときはまだ出てきていませんでしたが」

 クラスの一人が答えたすぐ後、校舎から別の集団が出てきた。シップスだった。

「おーい、後二分だ。走れっ」

 板谷が叫んでようやく数人がだらだら走り出した。それでも半分は歩いたままだ。

「まだ八時五十九分ですよ」

 ようやく集まったシップスの一人が言った。戸田充佳だった。同時に校内放送から、始業のベルが鳴った。

「馬鹿野郎、五分前に集まるのが基本だ」

「はーい」

 シップスのメンバーがばらばらに答えを返した。

「シップスって、問題児が多いんだ」

 浜口が、耳元でそっとささやいた。

 俊は改めてシップスのメンバーを見た。ジューケイの隣には彼と同じくらい背丈の女がいる。痩せていて、短パンから伸びる長くて白い足がまぶしかった。いかにも気の強そうな目をしていたが、逆に美しさを引き立てていた。年齢的には一つしか違わないはずだが、見た目はもっと年上に思えた。

 思わず見とれていると、いきなり目が合ってしまった。どきまぎして目をそらすと、今度は女の方から話しかけてきた。

「こんにちわ。あなた、新しく入ってきた子でしょ」

「あ、はい」

「あたしは栗平奈美、よろしくね」

「石黒俊です。よろしく」

「お前さ、ここへ来る前に、派手なことして来たっていうじゃねえかよ」

 不意に奈美の背後から声が聞こえてきた。俊は再び記憶からあのときの光景を引きずり出され、吐き気がしてきた。

 声の主が現れる。小柄な男だった。猫背で、上目遣いで見ながら、口元に薄笑いを浮かべていた。目が暗く輝いている。

「館野っ、石黒にちょっかい出すんじゃねえぞ」

「はーい」

 板谷の叱責に、集団の外へ出て行った。

「悪りぃな、あの男も口が悪いからさ」

 ジューケイが苦笑いを浮かべ話しかけてきた。

「あの人って、この間浜口君が言ってた奴なの?」

 俊は館野の後ろ姿を目で追いながら聞いた。浜口は不意に俊の肩を抱えるようにして、館野から顔が見えないように向きを変えさせた。

「気をつけるんだ」浜口が小声でささやく。「あいつ、油断させておいて。僕らの会話を聞いてるときがあるからさ」

 俊は無言で頷いた。

「俊君の言うとおり、あいつが僕の言っていた館野だよ。性格は福池みたいだけど、あいつより、もっとずるがしこいところがあるんだ。なるべく近づかない方がいい」

 教員数が足りないため、体育の授業は基本、二クラス一緒で行っていた。最初は今日の課題であるハードル走を行うため、線を引き、倉庫からハードルを出して並べた。次に簡単なストレッチとランニングを行い、順番に走った。それを見ながら板谷が前傾姿勢を取れとか、リズミカルに走れといった指示を飛ばす。

「あんなの、アグノーを使えばスキップしながら飛び越えられるのにさ」

 前で順番を待っていた森山が、あくび混じりにつぶやいた。

「よしなよ、先生に聞かれたら噴火するじゃないの」

 前にいたヌシが振り返って諫める。

「わかってるさ」

 よくよく考えれば、森山の言っていることも一理あるのではないかと思う。アグノーさえ使えば、脚力とは関係なくジャンプできるわけだから、訓練さえすれば、ハードルなんて一足飛びで走れるはずだった。

 ジューケーが走り出した。ハードルを越える時は、前屈みで突き出した足をピンと伸ばし、テレビで見る陸上選手のように、きれいなフォームで走り抜けていく。明らかに他の生徒とはレベルが違っていた。

「さすがジューケーよねえ」

「よせよ、近づいたら奈美に殺されるぞ」

 森山がへらへら笑いながら茶々を入れた。

「そんなんじゃないわよ」

 ヌシが向きになって答え、森山は更に笑い転げた。

「栗平さんて、ジューケーの彼女なんだ」

「そうだよ。校内ナンバーワンの美男美女カップルさ。僕みたいなうすらデブとは違うよ」

 自嘲気味に笑う浜口に対して、どう対応していいかわからず困ってしまう。

「たださ、ジューケーにしろ奈美にしろ、所詮俺たちは世間からはじき飛ばされた人間なんだぜ」森山が引き継いだ。「ジューケー、なんであんな風にうまく飛べるわかるか」

「運動神経がいいんだろ」

「それだけじゃない。ムキになっているのさ。何でかって言うと、あいつ、ここへ来る前はサッカーの日本代表だったろ。それでJSが発覚したら、イカサマしてたんじゃねえかって噂が流れたんだ。

 要するに、試合でアグノーを使ってたんじゃねえかって事さ。ネットから〈戸田充佳詐欺〉とかで検索すれば、山ほど出てくるよ。法律だとJSの名前は伏せなきゃならないはずだけど、元が有名人だから、どうにもならないんだ」

「だからアグノーを使わないで運動するのにこだわってるの?」

「そうさ。もちろんそれで外にいる連中からの疑いが晴れるわけじゃないけどね。ま、自己満足って奴だよ。仮に十八でJSが消えたとしても、ジューケーが代表へ復帰することはあり得ない。一度レッテルを貼られたら、もうアウトさ」

「そんなの、その時になってみなけりゃわかんないじゃないか」

 森山は皮肉な笑みを浮かべて首を振った。

「いくらJSが消えたって、世間はそう見てくれない。一度発症したんだから、もう一度出てくることだってあり得ると思うのさ。これは俺の思い込みで言っているんじゃないよ。めでたくJSが消えて、娑婆へ帰った奴らがインタビューで答えているんだ。何年かぶりに家へ帰っても、近所の連中にはJSだったことが知れ渡ってるから、誰も不気味がって近づこうとしない。たいていはいたたまれなくなって、知らない土地へ引っ越して、ひっそり暮らすしかなくなるんだ。ジューケーなんか最悪だよ。仮にJSでなくなったとしても、顔が知れ渡ってるから隠れようがない。あいつはもう、一生JSから抜け出せないんだ」

「そうなんだぜ」

 不意に声が聞こえてきた。いつの間にか館野が背後に立っていた。話をしたくないのか、森山が目をそらす。

「だから俺たち、開き直るしかないんだよな」

 なれなれしく俊の肩へ腕を回し、耳元でささやいた。吐く息が、妙に生臭かった。

「アグノーはうまく使っていかなくちゃ。こいつみたいに後ろ向きな話ばっかしたってしょうがねえのさ」

 ズボンがもぞもぞ動き始めかと思うと、パチンと音がしてゴムが切れた。俊はずり落ちそうになるスボンを手で押さえた。

「おいおい。そんなじゃ、ハードルを跳ぶたびにフリチンになっちまうなあ」

 館野はケラケラ笑いながら、俊から離れていった。むっとして追いかけようとしたが、森山に腕を掴まれた。

「よせよ。あいつ、今みたいに小技も効かせられるし、暴れ出すと手加減しないしさ。お前がどれだけ力があるか知らないけど、テクニックなら確実にあいつの方が上だ。浜口なんか、マジでやばかったし」

 浜口が暗い顔をしてうつむいた。

「窒息させられたんだ」

「だったら何で捕まらないんだ?」

「俺たち、JSだぜ」

 森山が皮肉な笑みを浮かべているのを見て、愚問だとすぐに気づいた。普通の傷害なら、鑑別所か少年院へ行っているところだが、JSにはそんな施設はない。ここが最後の吹きだまりなのだ。

「浜口、ぼさっとしてないでトラックに立て。お前の番だぞ」

 板谷に怒鳴りつけられ、浜口ははっとしてトラックへ向かって走り出した。次は俊の番だったが、ゴムの切れたスボンではとても走られない。俊は板谷に申し出て、スボンを変えるために宿舎へ走った。館野の横を通り過ぎるとき、あからさまにニヤニヤ笑っているのが見えた。


 山原は職員室から見える栂の林を、ぼんやりと眺めていた。葉は緑を保っているが、既に下草は茶色く枯れ始めていた。つい先日までは夏のような日差しが照りつけていたというのに、いつの間にか、秋が近づいていたんだと思う。

「福池君の様子はどうですか」

 川崎が戻ってくると椅子から立ち上がり、すぐに様子を聞いた。

「昨日よりはかなり落ち着いてます。食事も普通に取っていますし」

 福池は特別教育室からは解放されていた。しかし教室へ戻りたくないと暴れ、鎮静剤を打たれて、現在は病棟で監視を受けながら生活している。

「面談は可能ですか」

「もう少し待ってください。まだ完全ではないですし、何よりあの子がまだ誰とも会いたくないと言っていますから」

「そうですか」山原は少し息を吐いた。「あの子が今のクラスへ復帰できるのはいつぐらいでしょうか」

「何とも言えません。もちろん病棟で四年間過ごすのは、どうにか避けて欲しいと思っていますけど。田原先生、クラスの様子はどんなですか?」

「芳しくありませんねえ。ご存じの通り、藤村と片平は兄妹みたいなものですから、福池のやったことにはかなり怒ってます。それに古市のような仲間が同調している状況です。しかもああいった行為は、将来メンバー全員に被害が及ぶ可能性もありますから、他の連中もかなり警戒していますよ。彼がいなくなって十日経った感想ですが、正直言いまして、福池はあのまま病棟に居続けるべきなんじゃないかと思いますね。下手に復帰させるより、福池にとってもいいんじゃないかと思うんですよ」

 今、病棟に居続けている生徒は二人いる。一人は引田という精神的に不安定な状態となっている十七歳の少年。もう一人は十三歳の少女で、将来を悲観して自殺未遂を起こし、脳を損傷してしまった。以来ずっと意識不明の状態が続いている。

 福池の心も病んでいるが、人間関係が問題となっているだけで、日常生活に支障はない。彼が反省して、優介やクロックのメンバーに謝罪すれば、どうにかなるのではないかという思いがあった。

「おや、山原先生じゃないですか。今日はどうしましたか」

 職員室へ新たに入ってきた男が尋ねた。ツイードの三つ揃いを着て、禿げた頭の下に度のきつい眼鏡をかけている。教頭の村井だった。

「先生方から福池君について、いろいろ聞き取りをしているところですよ」

「そうですか。研究熱心ですな」

 村井は笑みを浮かべながら頷き、廊下へ出て行った。

「さっきから知ってたくせに、空々しいわ」

 川崎が吐き捨てるように言った。

「立場上、そういう風にしか言えないんですよ」

 フォローしながらも、田原の目は冷たかった。

 山原はヤフノフスキ研究所の所長で、生徒の指導については管轄外に当たる。しかし、山原がたびたび指導に介入してくるため、村井はそれをひどく問題視していた。

「本来はあの人が中心になって対策していかなきゃならないのに、全部あたしたちに任せっぱなしじゃないの」

「あの人に期待しちゃいけないよ。所詮、中央からお目付役でしかないんだから。現場がいくらぐちゃぐちゃになろうが、上が決めた指示が守られていればオッケーなんだよ。ま、本当に何かあったらあいつも責任を取らされるんだろうけどさ」

 福池の処遇についてしばらく議論したが、すぐに結論が出るはずもなく、結局ペンディングとなり、山原は職員室を後にした。

 山原が長を勤める研究所は、職員室がある棟の隣にあった。渡り廊下を通り、二階へ行く。研究所は二階と三階のフロアすべてが割り当てられ、三十二人の研究員がヤフノスキ症候群についての研究を行っていた。山原の専攻は生物学だったが、ここでの研究はそれだけではない。社会学、医学、法学についての専門家がおり、JSが社会に与える影響全般について調査、研究を行う機関だった。彼は自分の執務室へは戻らず、二階にある医科学プロジェクトが入っている部屋へ向かった。

「西村君、福池君の件で新しい情報は入ってきているかな」

 西村は今年四十二歳、いつもあごに髭の剃り残しが目立つ男で、髪の毛もあまり手入れをしていないのか、今日も右横の髪が寝癖で立っている。何度か注意したこともあったが、一向に直らないので、もうあきらめていた。昔はもう少し身だしなみには注意していたと思っていたが、そうそう外へ出られない状況では、気にしなくなってしまうのだろう。

「さっき村島さんと電話で話しましたが、福池君については特に何も言っていませんでした。」

「相変わらずデータの提出だけか」

「はい、残念ながら」

「もっとも、これについては肝心の福池君が人と会いたくないと言っているようだし、仕方がない面もあるんだがな」

「それでも、こちらの用意した課題に対して答えてくれないなんておかしいですよ」

 西村は口をすぼめて抗議した。

 この施設を管轄しているのは文部科学省だった。しかし付属の病院で行われる医療行為については厚生労働省が管轄しており、医師も厚労省から派遣されていた。そのせいか医療と研究の分野ではしばしば対立が発生しがちで、連携がうまくいかない。こうしたセクショナリズムは他にもある。たとえば警備は警視庁が行っているが、建物の敷地は陸上自衛隊基地の中にある。このため、警備範囲について、防衛省と警察庁でたびたびトラブルが起きていた。

 これらをまとめるのが理事長である萩谷の役目だった。しかし山原には、これらの問題に対して、彼がリーダーシップを発揮しているとは言いがたいように見えた。

「話は変わるんですが、天永大学の山崎教授、最近文科省へよく来てるみたいですよ」西村は眉根を寄せてつぶやいた。「なんか嫌な感じがするんですが」

「実はな」

 山原は先日行われた定期会合で野平が話した内容を伝えた。

「すると、法令が強化されるのは間違いないと言うことですか。山崎さんはその法令作りのアドバイスをしているというわけですね」

「多分そうだろう」

 ヤフノスキ症候群の研究では、患者の行動を極力制限させないように主張する穏健派と、法律で厳しく制限させることを主張する強硬派とで別れていた。穏健派のリーダーと見なされているのが山原で、山崎は強硬派だった。古坂の影響力もあり、ヤフノスキ研究所の主席研究員に選ばれた山原は、部下の人選も穏健派から選んでいる。西村もその一人だった。

「この先、どうなっちゃうんでしょうかねえ」

「どんどん規制が強化されていくと思う。これは世界的な流れだから、なかなか止めようがないんじゃないかな」

「僕たちにできるのは、地道に訴えていくぐらいなものですか」

 西村はため息をついた。


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