第1部 隔離 06
到着が少々早すぎたようで、会議室は事務局の若い男が、一人パソコンを操作しているだけだった。山原たちは男に挨拶して、それぞれ、名札の置いてある席へ座った。高層ビルと霞がかった空が見渡せるはずの窓は、ブラインドで閉じられ、広い部屋にもかかわらず、圧迫感がある。
この日、山原は霞ヶ関にある厚生労働省の会議室にいた。左には白坂学園の校長である安田一真、右には国立ヤフノスキ研究センター理事長の萩谷正邦が座っている。彼らは、ヤフノスキ症候群対策委員会の定期会合へ出席するため、上京してきたのだ。
「福池君の様子はどうですか」
話しかけられた安田は、神経質な視線で周囲を見回す。
「もうすぐ会議が始まりますから、盗聴対策はしているでしょう」
「もちろんそうなんだろうけど、外で生徒の話をするのはどうしても抵抗があってね」
「わかります」
「むしろそのくらいの緊張感がないと、生徒を預かれないよ」
萩谷が言う。
「はい」安田が頷いた。「福池なんですが、今のところ田原たちの説得もありまして、おとなしくしているようです。ただ、あの性格ですから、油断はなりませんけど」
「そうですね、私も帰ったら話をしてみましょう」
「お願いします。あいつも先生にだけは素直なところがありますし。
ただ、最近の騒動を見てますと、やはり校内の警備を強化するべき時に来ているんじゃないかと思うんですよ。正直言って、催涙ガスと特別教育室だけでは、彼らに対して役不足ではないかと思うんです」
「催涙ガスでも一般と比べて過剰なのに、これ以上彼らを押さえつけたら、学校と言うより、収容所になってしまいませんか」
「ただ、現場でがんばってくれている田原君たちも、かなり疲弊しておりまして、このままだと誰かつぶれしまいかねません」
「警備の増強は田原君の案ですか」
「彼は人員の増強を訴えているんです。けれど、各省庁に打診しても、どこも人を出すのを渋っている。民間からリクルートするにしても、JSについての知識を持って、情報管理ができる人材なんてそうそういるわけじゃない。しかも、マスコミに募集の事実を知られてはいけない。こんな状況では、偶然でもない限り、人材を見つけるなんて不可能ですよ」
「もう少し、世間もJS政策に理解があればいいんですがねえ。そうすれば、リクルートもたやすくなるのに」
「今日の会合では、警備の件も議論されるようだよ」
萩谷が机に肘をつき、ぼんやりと時計を見ながらつぶやいた。
「ほう」一瞬、山原の目が険しくなった。「それは初耳ですね」
開始十分前になった頃から、会議のメンバーが次々と部屋へ入ってきた。警視庁、厚労省、文部科学省、防衛省、法務省の各JS担当者。そして、内閣官房もいる。
「定刻になりましたので、会議を始めたいと思います」
議長席に着いたヤノフスキ症候群対策室長の堀田が口火を切り、会議が始まった。
「では最初に、野平内閣官房副長官よりご挨拶をお願いします」
堀田に促されて、右側中央の席にいた男が立ち上がった。痩せて小柄な体型だ。グレーのスーツを着ており、青いネクタイを締めている。地味な公務員といった姿だが、笑みを浮かべながら会議のメンバーを見渡す視線は自信に溢れ、彼がこの会議の主であることを物語っていた。
野平は官邸からの要請で、財務省から出向して生きた男だ。以前からも次期エース候補として注目されていたが、この人事により、それがいっそう明確になっていた。彼が財務省へ戻ったとき、日本の公務員の頂点である、財務次官へ就任するのはほぼ確定的と言われている。
「野平でございます」彼は軽く会釈をして話し始めた。「先月総理が出席した、太平洋安全保障会議で、JS対策について議論がされたのは皆様もご存じかと思います。本日はその話題を中心に話を進めさせていただきます」
事務局の男に視線を送ると、室内が薄暗くなり始めた。同時にプロジェクタスクリーンが光り始め、画像が映し出された。そこは熱帯雨林のジャングルで、武器を持った男たちが写っている。
「昨年までフィリピンで活動していた、毛沢東を信奉する極左ゲリラ〈レッドシャイン〉です。彼らもかつては、勢力を拡大してフィリピン政府を脅かしていた時期もありました。しかし直近では、スポンサーであった外国勢力の援助も途絶え、力を落としていました。関係者の間では、誘拐による身代金と、海賊行為を資金源とするだけの犯罪者集団に見られていたようです。
ところが、一年前に状況が変化しました。次の画像をお願いします」
画像が移り変わり、あどけない笑顔を浮かべた、まだ十代と覚しき少年の上半身が映し出された。褐色の肌に大きめの瞳と唇。モスグリーンの迷彩服さえ着ていなければ、フィリピン国内でよく見かける少年と、何ら変わりない。
「彼の名前はホセ・イグミー。JSと確認されております。彼が〈レッドシャイン〉の戦闘員に加わった結果、フィリピン政府は窮地に陥ったのです」
画像が移り変わり、壁や屋根が引きはがされ、ほとんど骨組みだけとなった工場が映し出される。
「沼川製作所のフィリピン工場です。日本の報道では〈レッドシャイン〉の犯行としか報道されませんでしたが、実態はホセ・イグミー一人の行為であります」
会議室の中に、動揺が走った。
「あの工場は、確か一万平米あると聞きましたが」委員の一人がつぶやく。
「その通りです。この件に関しては、フィリピン政府により、徹底した報道管制が敷かれました。彼の行為を目撃した従業員はもちろん、周辺住民にまで徹底した圧力をかけ、この事実を外部に漏らさないようにしたのです。
理由はおわかりかと思います。こうした事実が公になれば、世界のゲリラ組織や犯罪者が、JSの確保に躍起になるのは明らかだからです。
その後、皆さんもご存じの通り、〈レッドシャイン〉はアメリカ軍の支援を得て、壊滅に追い込みました。その過程で、ホセ・イグミーも殺害されました。
当時、弱小の極左ゲリラ一つ潰すのに海兵隊の中隊が投入されたことに、多くの批判が集まりましたが、真相はJS対策のためだったのです。もしあの段階で〈レッドシャイン〉を叩かなかったら、フィリピン政府が転覆したでしょう。
こうした事態を受け、太平洋安全保障会議では、 JSの保護強化について議論されました。その中で、日本でのJS保護体制について、いくつかの指摘がございました」
画像が移り変わった。刑務所のような高い塀のある建物、ライフルを担いだ兵士と、その横で注射を打たれるため、列に並んでいる人々などが次々と映し出された。
「これはメキシコにあるJS保護施設の様子です。ご存じの通り、メキシコでは麻薬組織の勢力が強く、彼らの手にJSが渡らないよう細心の注意を払っています。子供たちは十歳を過ぎると定期検診を受け、少しでもJSの可能性が疑われれば、施設へ送られます。その後正式にJSと認定されれば、今ご覧に入れた保護施設へ入れられることとなります。ここを管理しているのは陸軍です。こうした保護体制に比べて、日本のそれは脆弱ではないかと各国からご指摘がありました」
「お言葉ですが」それまで、野平の話をじっと聞いていた山原が立ち上がった。
「山原君、話の途中だ」隣にいた萩谷が、苦虫をかみつぶした顔をして制した。しかし、山原はそれを無視して話を進める。
「メキシコと日本の治安は、大きな差があるのではないかと思います。それでも今以上の保護強化をされると言うのは、過剰ではないかと思いますが」
「確かに山原先生のおっしゃるとおり、現在の日本はメキシコと比べて、遙かに安定した治安を保っております。しかし、国際的な犯罪組織が我が国の状況に目を付け、JSを奪取を計画したとしたらどうでしょう。各国は非常にそれを懸念しているのです。
つきまして、来月をめどに現在の保護制度の見直しについて審議会を立ち上げ、政府に答申を行う予定です」
「審議委員について、人選は進んでいるのでしょうか」
「いえ、今のところは白紙です。関係省庁と連絡を取りながら、適切な人選を進めていく所存であります」
「ぜひ、しっかりした人を選んでもらいたいものです。ここでも、私的な感情で会議を混乱させる方がいらっしゃるようですし」
まだ二十代と覚しき男が発言した。度のきついめがねを掛け、痩せた体つきだ。
名札には〈警察庁警備局警備一課理事官 塚原〉とあった。
誰かを名指ししているわけではないが、あからさまに冷たい視線を山原に投げかけている。
山原は爆発しそうになる感情を抑え、その若手官僚を見据えた。
「塚原、言い過ぎだぞ」
隣にいた上司の男が叱責するが、言葉に迫力がない。
「申し訳ございません」
言葉とは裏腹に、眼鏡の奥にある目が、かすかに笑っていた。
この猿芝居が。恐らく叱責した男も、部下の発言に満足しているはずだった。ここで山原が怒りを表に出せば、あの男言うとおり、〈私的な感情で会議を混乱させてしまう〉のだから。そうなれば、彼らの思うつぼだった。
その後、建物の修繕や、生徒関係者の面会申請など、事務的な案件が報告された後、会議は散会した。
山原は会議室を出て行く塚原の後ろ姿を、じっと見つめた。
「それでは、六時に厚労省の通用口で待ち合わせということでお願いします」
萩谷は立ち上がり、別の出席者の元へ歩み寄っていった。
「山原先生はこれからどうされますか」
安田が軽く伸びをしながら聞いてきた。
「野平さんの発言について、関係者へいろいろと聞きに行こうかと思ってます」
「そうですか。すると食事も役所の食堂で済ませるおつもりですか」
「はい」
「私はこれから、中華街へ行って、お昼を食べようかと思ってたのですが、ご一緒しませんか。昔私がよく通っていた店なんですが、北京ダックが最高にうまいんです。しかも価格はリーズナブルですし」
「残念ですが、またの機会と言うことで」
「はあ……。わかりました」
「それでは、ここで失礼します」
「あ、山原先生」
廊下へ出ようとした山原を、安田が引き留めた。
「差し出がましいようですが、先生も、もう少し余裕をお持ちになられた方がよいかと思いますよ。先生の姿を見ていると、あまりに根を詰めて仕事をされているように見えますから。端から見ていても大変そうに思えてならないんですよ。JSの問題も重要ですが、たまには息抜きでもした方がよいかと」
「お気遣い、ありがとうございます。ただ、私はこの問題と取り組むことが生活のすべてとなっているんです。今戦わないと、JS患者たちの未来は永遠に閉ざされてしまう。それは他の人々にとってもマイナスになるはずです。そんな思いで私は日々活動しておりますので」
まだ何か言いたそうな安田を残して廊下へ出た。周囲に誰もいないのを確認し、携帯から電話をかける。着信と同時に電話がつながった。
「山原ですが、古坂先生はいらっしゃいますか」
「少々お待ちください」
秘書が受話器を手で押さえているのか、くぐもった音が聞こえてくる。
「今、会議が終わったところか」
低く、やや枯れた老人の声が聞こえてきた。
「はい」
「言いたいことは、おおよそ察しがついている。今、議員会館にいるが、来られるか」
「大丈夫です。これから伺います」
山原は厚労省から出てタクシーを拾い、永田町にある参議院会館へ向かう。国会議事堂の裏手を走っているとき、ふと後ろを見ると、見慣れたシルバーのセダンが後ろにいた。警備の車だった。JS研究所に所属している限り、彼らはずっとついて回るのだろう。見えないプレッシャーを感じる。
突然の訪問のはずだったが、古坂にとってはそうでないようだった。入り口では既に外来者リストへ山原の名前が登録されており、すぐに入室許可が下りた。エレベーターで三階へ行き、奥まった場所にあるドアをノックする。鍵が開き、最初に電話に出た秘書が現れた。
「先生がお待ちです」
山原は頷き、部屋の奥にあるドアを開けた。
「失礼します」
山原の鼻腔にタバコのにおいが広がる。古坂が応接セットへ寝そべり、タバコを吹かしていた。
確か、今年で七十三になるはずだったが、その割には肌の色つやがよく、スーツのベルトがはじけそうな腹をしていた。
「煙たくて申し訳ない。医者からも止められているんだが、これだけは止められんのさ」
古坂はそう言って笑った。
「いえいえ、私は全然かまいません」
山原は古坂の向かいへ座る。
古坂洋蔵。参議院議員で、五期目に入った政界の重鎮だ。起き上がると、まだ半分残っていたタバコを灰皿へ押しつけ、山原へ向き直った。
「君も時間がないだろうから、本題に入ろう。太平洋安全保障会議の件だ。その件で電話してきたんだろ」
「はい。野平さんの話だと、今後JSに対して保護強化を前提にして法令を改正していくそうですが」
「あの狸が」古坂の唇が怒りでゆがんだ。「俺の知らないところで、どんどん話を進めている。審議会のメンバーもリストアップされているが、全員タカ派だ。JS患者を牢屋へ閉じ込めたがっている連中ばかりだよ」
「先生のお力で、規制反対派をメンバーに入れるよう働きかけていただけませんか」
「無論だ。あんな人選では、とうていバランスがとれたものとはいえない。擁護派の学者を入れるようプッシュしいている」
「よろしくお願いします」
山原は頭を下げた。
「具体的な話はまだ出ていないがな、俺の感触で言うと、現状維持は難しそうだ。当然の話だが、野平も自分の意向で動いてるわけじゃない。総理が会議でかなり突き上げられたしいんだ」
「我が国の体制についてですか」
「世界でもワーストファイブに入るそうだ。確かに世界の趨勢は、保護強化へ向かっているからな」
「どうにかならないのですか。このまま保護強化へ突き進んでいったとしたら、この先JS患者と一般人の間に、どんどん溝か深まってしまいます」
「我々も手をこまねいているわけではないよ。各国には保護強化政策に反対している市民団体は数多くあるし、彼らに支持を受けた議員もいる。彼らと共闘して事を進めていく。しかし、すぐに状況を変えられるわけじゃない。彼らも我々と同じく少数派だ。地道に、政策の不当性を訴えていくしかないんだ」
ノックが響き、秘書がコーヒーを持ってきた。山原は礼を言い、ブラックで一口飲んだ。古坂好みの、苦みの中に酸味の効いた味が口へ広がる。
「俺も疲れたよ」
古坂は新しいタバコに火を点け、一服した。煙を吐く息が、ため息のようにも見える。
「でも先生には、まだまだがんばっていただかないと」
「俺は七十過ぎのジジイだぞ。よくそんなことが言えるもんだな」
古坂の目が笑っていた。
「恐縮です」
「いっそのこと、山原君が俺の後を継いでくれたらありがたいんだがな」
「とんでもございません。私は政治家になるような器ではありませんよ」
山原は目を丸くして首を振った。
「実を言うとな、党の会合で次期参院選の候補者に、お前の名前が出ているんだ」
「しかし――」
「俺の話を最後まで聞け。俺も次の参院選の時は七十五だ。仮にそこで当選したとしても、八十過ぎまで活動できる自信はない。それならあらかじめ、後継を決めて、支持者へ浸透させようと考えているんだ」
「私なんかより、ふさわしい方がいくらでもいるしょう」
「ところがいないんだな」古坂が苦笑いを浮かべた。「議員と言っても万年野党だからな、うまみはあまりないんだ。かといって反骨精神なんて、最近は流行らんし。今じゃまともに政治家を目指す奴らは、みんな与党へ行っちまうんだよ。うちの党へ売り込みに来るのは、バカか怪しい奴ばかりさ。
ただし、力はないと言っても、研究所で働いているよりは、確実に政策へ影響を反映させられるぞ。
君はJS研究でそれなりに知名度があるし、弁が立つのはわかっている。それに何より君は、物語を持っている。これは選挙で大きな武器になるんだ」
「武器、ですか」
一瞬、表情の消えた山原の顔に気づいたのか、古坂は慌てて言葉をつないだ。
「言い方が悪かったが、別に慎也君を選挙の道具にしようとするわけじゃないんだ。むしろ、選挙へ出るのは慎也君のためなんだ。彼や君が背負った苦しみを二度と起こさないため、政府へ直接働きかけができるんだよ」
「先生のお言葉はありがたいのですが、私が政治家なんていうのは、正直言ってピンと来ませんので」
「わかるよ。いきなり政治家になれなんて言われれば、誰でも驚くよな。とりあえず時間はまだある。じっくり検討してみてくれないか」
「はい」
山原は古坂の事務所を出た後、再びタクシーへ乗り、霞ヶ関へ行くよう頼んだ。後部座席へ座って一息つくと、慎也の遺影を抱えながら、壇上で演説する姿が目に浮んだ。
慎也、済まない。山原はほんのわずかな間でも、そんな自分を想像してしまった自分を悔やんだ。古坂に対して強く拒否しなかったのは礼儀だけで、本音を言えば、端から出馬するつもりなんてなかった。仮に出馬すれば、再び慎也の話がマスコミに取り上げられるのは必至だ。ましてや古坂の言うとおり、息子を選挙のダシにするなんてあり得ない。
慎也のことはそっとしておいてほしい。それが山原の願いだった。
山原は厚労省の前で車を止め、庁舎の中へ入ると、〈ヤノフスキ症候群対策室〉へ向かった。
「山原ですが、堀田室長はいらっしゃいますか」
室内を見回し、奥にある堀田の席を見て、パソコンを入力していた男に尋ねる。
「室長なら、おなかの調子が悪いとか言って病院へ行きました」
「ほう、それは急ですな。調子が悪いなんてちっとも思いませんでしたよ」
さっきまで、てきぱきと議事進行をしていた堀田の姿を思い出していた。
「はあ……」
私に言われてもという言葉が顔に出ている男に「また来ます」と言い残し、〈ヤノフスキ症候群対策室〉を後にした。
堀田は自分の訪問を予期して、どこかへ雲隠れしたのだろう。庁舎内の会議室を片っ端から調べたい衝動を抑え、厚労省を後にした。次に、JS研究センターを管轄する文部科学省へ出向いたが、箝口令が敷かれているらしく、誰も詳しい話は教えてくれなかった。
「先生、本当に私は何にも知らされてないんですよ」
しつこく食い下がる山原に対して、官僚たちは、あからさまに嫌な顔をして逃げていった。
庁舎内の食堂で昼食を取った後、別の省庁へ行こうかとも考えたが、すぐにあきらめた。他の省庁は、名刺交換しただけの面識しかない。
そもそも、彼らにとって、自分は敵なのだ。午前中の会議で挑発的な態度を取った塚原が、役所の空気を代表しているのだと思う。
庁舎を出て、地下鉄の階段を降りた。切符を買い、改札をくぐる。電車を乗り継ぎ、小平駅で降りた。近くのコンビニで線香とろうそくを買い、線路沿いの狭い道を歩く。しばらくすると、雑木林が見えてきた。入り口の管理事務所へ立ち寄り、清掃用具を借り受け、更に中へ入っていった。
多くの墓が現れ、その中から迷うことなく一つの墓の前に立った。墓石には〈山原家之墓〉と刻まれている。
しばらくご無沙汰だったな、済まない。心の中でつぶやく。墓石に水をかけ、タオルで拭き、雑草を引き抜いた。
きれいになったのを確認すると、ろうそくに火を点け、線香に火を移す。墓の前で手を合わせ、目をつぶる。様々な思い出がよみがえり、闇の中へ消えていった。
しばらくして目を開き、墓を後にした。
「山原先生」
管理事務所が見えてきたところで、不意に声をかけられ、振り向いた。いつの間にか背の高い男が立っていた。つるりとした顔立ちで、イタリア風の柔らかいシルエットのスーツを、ノーネクタイで着ている。霊園というより、夜の六本木といった雰囲気だ。
「どなた様ですか?」
「覚えてませんか。一年ほど前、JS症候群国際フォーラムでご挨拶させていただきました、〈月刊リアル・カルチャー〉の矢阪です」
雑誌名を言われて、ようやく思い出し、何度か頷く。
「申し訳ありません、あのときは多くの記者さんとお会いしましたので。でも、どうしてこんな所へいらっしゃったのですか?」
「先生は立場が立場ですから、なかなかお話しできる機会がありませんので、私もない知恵を搾ったという訳です。
JSの定例会が第三水曜日に開催されるのはあらかじめわかっていました。それに加えて、今日は慎也君の月命日です。それで、ここで待っていれば、先生に会えるのではないかと思いまして。まさに的中です」
「そうでしたか。じゃあここで一日中張りついていた訳ですね。ご苦労な事です。ただ、いくら私に会えたとしても、守秘義務がありますから、公式発表以上の内容は話せませんよ」
「単刀直入に伺います。太平洋安全保障会議をきっかけに、JS保護の政策が大きく変わるようですが、具体的に教えていただけますか」
「私に聞いたって無駄ですよ。何しろその話、今日聞いたばかりなんだから」
「会議では具体的にどんな話がされたんですか」
「矢阪さん、何度も言うように、私には守秘義務がある。それに他の官僚のように、匿名とかオフレコで話す訳にもいかないんです。ご存じかもしれませんけど、私は研究所から外へ出ると、二十四時間監視対象になります。今も私たちの会話を、どこかでモニターしている人がいるはずです」
そう言いながら、無意識に周囲の茂みを見やった。この中には、間違いなく自分たちへカメラを向けている警視庁の職員がいるはずだ。
「では、私から情報をお話ししましょう。まず、他国同様、JSの収容施設の警備が大幅に強化されるようです。具体的には、施設内で鎮圧用の武器を携帯できる職員の範囲を拡大する。武器も一歩踏み込んで、レーザー発振機が使用できるようにするらしいです。JSの保護基準にも変更がある。従来はJS対策室しか保護権限がありませんでしたが、各都道府県の警察署にも権限を広げるという話です。とりあえず、私が掴んでいる情報はこんなところです。
どうやら、その様子ですと、先生は全く知らされていなかったようですね」
「ああ」
山原は動揺を抑えきれず、声が震えた。知らないところで、既に具体的な話がどんどん進んでる。
「君の方がよっぽど状況をよく知っているらしい。ここへ来たのは無駄だったようだね」
苦しげな答えに対して、矢阪は意味深げな微笑みを浮かべた。
「そうとも限りませんよ。先生が、一連の政策策定から外されているという状態がわかっただけでも大きな収穫です」
「どういう意味ですか」
「古坂さん、丸め込まれたみたいですね」
さらりと発した言葉が、山原の胸を突き刺した。
「あの人に限って、そんなことはあり得ない」
「二年前なら私もそう思いましたがね、年のせいですか、弱気とは言いませんけど、明らかに勢いは落ちてきましたでしょう。次の選挙には出ないみたいですし、安楽な老後を過ごしたいっていう気持ちが出たとしても、おかしくないですよ。ずっと野党でがんばってきた人ですから、金なんか貯まらなかったでしょうし」
呆然として立ち尽くす山原を残し、矢阪は軽く黙礼し、去って行った。混乱した思いを抱えながら清掃用具を戻し、霊園を後にする。
線路沿いの道を歩きながら、落ち着けと心の中でつぶやいた。さっきの話は奸計かもしれないのだ。矢阪の情報源は、当然自分が次期参院選の候補に名前が出ているのを知っているだろう。それを阻止したいため、矢阪を使って、自分にデマを流させたのかもしれない。
しかし、政策変更の案はどうなのだろう。出任せにしてはかなり具体的だし、明らかに会議で聞いた野平の話に沿った案だった。もしそれが本当に具体案として検討されているなら、古坂の耳に入らない方が不自然だ。結論が出ないまま駅へ着き、考えるのにも疲れ、電車へ乗って目を閉じる。
不意に慎也の姿が目に浮かんでくる。母によく似た大きめの目と、父親似の丸みを帯びたあごのライン。そして、両親よりも高くなった背丈。十五歳で止まったままの姿。
懐かしさと苦しさが同時に湧き起こり、涙がこみ上げてくる。山原は他の乗客にわからないよう前屈みになり、ハンカチで目を押さえた。あれから十年近い月日が経過しているというのに、未だ悲しみは癒えなかった。
JSになったという事実を、自分一人で抱え込んでしまった慎也。そして、最悪な場所でアグノーが発揮されてしまった。
夏祭りの夜、友人たちと多くの人が行き交う中を歩いていた時だ。友人の一人が他のグループと、肩がぶつかったとかいうたわいもない理由で喧嘩になった。興奮した慎也は思わずアグノーを使ってしまう。
当時はまだ、JSの存在が知られ始めたばかりで、研究も端緒についただけの状態だった。もちろん、法整備も行われていなかった。週刊誌は恐怖だけをあおり、海外で起きたJSによる犯罪と、民衆による私刑を派手に伝えた。ついに日本でJS患者が確認されると、一部の人々がパニックを起こし、JSの疑いがある抹殺しようとする者も現れていた。
慎也を背後から刺した男も、そんな中の一人だった。男はいつJSに襲われるかもしれないと恐怖を抱き、護身用にナイフを持ち歩いていた。裁判の時も一貫してJSによる脅威を訴え、自分の行為は正当防衛だと主張した。
簡単に結審すると思われた裁判が、意外にも長くかかったのは、JSの持つ力が武器と見なされるか否かが議論されたからだ。事前に起きた喧嘩で、相手が誰にも触れられずに突き飛ばされていた。原因が慎也のアグノーであることを立証できれば、正当防衛を認められる可能性が出てくる。
議論は裁判所だけでなく、学者や識者の間でも広く行われた。事件の起こる以前からJSの研究を行っていた山原は、なし崩し的に慎也の父親であることが明かされた。その上、否応なく議論の中へ駆り出されていった。
これがきっかけで、山原のJSに対する思いは、単なる研究対象から、人生をかけて解決しなければならない壁となった。それを超えられれば、少しでも慎也に近づける。そんな思いが彼を研究へ突き動かし、これまで無縁だった政治的な駆け引きにまで関わるようになっていった。
JSの力を認めた上で、彼らと一般の人たちが共存できる社会が山原の理想だった。そのために古坂へ近づき、国の政策に関われるよう働きかけた。そうした行為に対して、彼が純粋な研究から離れてしまったとして、離反していった者もいた。しかし、もはや研究が研究のままで終わることに意味を見いだせなくなっていた山原にとって、生臭い世界へ関わっていくことは必然だった。
ひとしきり泣いた後、体を起こし、まだ涙で滲んでいる外の風景をぼんやり眺めていた。しばらくそうしていると、政治家になるのもありなのではないかとふと思った。所詮、自分がJSに関わっている以上、間接的であっても慎也の姿を世間にさらしているのは間違いなかった。午前中の塚原の発言が、それを物語っている。だったらいっそのこと、政治家という立場になった方が、政策に対してストレートに影響が出せるのではないか。
しかし――山原は再び考える。もし政治家になったとしたら、研究者という立場から、完全に離れて行かざるを得ない。加えて選挙となれば、当人の意思とは関係ないところで、慎也がクローズアップされるに違いない。慎也の死体を担いで、町を練り歩くようなものだ。自分にそんな覚悟があるのだろうか。何よりも、慎也は許してくれるのだろうか。
揺れ動く思いを抱えながら、山原は霞ヶ関へ戻ってきた。もう一度厚労省の堀田の元へ行ったが、やはり机には戻っていなかった。
仕方なく廊下へ出て帰ろうとしたとき、エレベーター近くで携帯をいじっていた男が顔を上げ、一瞬こちらを見たのに気づいた。確か、和久井とかいう名前の若手だなと思う。彼は壁に寄りかかっていた体を起こし、携帯をズボンのポケットにしまいながら、顔をうつむき加減にして山原へ向かってきた。
すれ違いざまポケットから手を出し、名刺を差し出した。反射的にそれを受け取った山原は、エレベーターを待つふりをしながら、後ろ姿を見た。彼は山原を見ることもなく、部屋へ戻っていった。
名刺にはジャズ喫茶〈トワイライト〉と印刷されていた。山原は名刺をポケットへ突っ込み、エレベーターへ乗り込んだ。
役所の前に止まっていたタクシーへ乗り、赤坂へ行くように告げた。六本木通りから赤坂の狭い狭い道へ入り込み、交番の手前で降りた。携帯の地図で確認しながら、更に狭い道を歩き、雑居ビルの二階に〈トワイライト〉の名前を見つけた。階段を上がり、店のドアを開ける。大音量でトランペットとエレクトリックピアノが絡み合い、はねるようなリズムが鳴り響いていた。山原はカウンターで、猫背になって座っているスーツ姿の男を見つけ、その横に腰掛けた。
「ジャズ、お好きなんでしょ」
堀田は、手にしていた雑誌へ視線を向けたままつぶやいた。
「電化マイルスはあまり趣味じゃないんですが。まあそんなことはどうでもいい、ずいぶんと手の込んだまねをするんですね」
「そうでもしなければ、先生と内緒話なんかできないですから」
山原はカウンターの向こうで洗い物をしていた男に、コーヒーを頼んだ。
「改正案の骨子は、ほぼ固まってるみたいですよ」
「武器の所持と保護権限の拡大ですか」
「さすがですね。情報が早い」
「こっちが聞きもしないのに、勝手に話してくる輩がいるんですよ。今、どの程度まで話は進んでいるのですか?」
「既に内閣法制局が審査しています。それと平行して、野平さんが言っていたように審議会を立ち上げ、学者のお墨付きをもらう。最終的に国会へ法案が提出されるのは、来年の春を予定しているそうです」
「ずいぶんと早いですね」
「野平さんは先月の会議で指摘されたと行ってましたけど、それ以前から、米国に注文を付けられていたみたいです」
「古坂さんはどうなんですか」
「今回は妙に静かですね」
「ちょっと、妙な噂を耳にしまして」
和久井からもらったメモを取り出して裏返し、ボールペンで〈寝返った〉と書いた。堀田はそれをちらりと横目で見た。
「いつものように役所へ押しかけて、あれこれ注文を付けに来るような事はないですね。真偽は不明ですが、充分あり得る話だと思います」
店主がコーヒーを出してきた。ブラックで一口飲む。苦い味が、口の中へ広がった。
「そういえば先生、次の選挙に出るとかいう話を聞いたんですか、本当ですか?」
「白紙ですよ、白紙。まだ何にも決まっていません」
「そういうことですと、出る可能性もあると」
「堀田さん、かなり食いつきますね。興味があるんですか?」
「周囲に知りたがりがいるんです。親しいんだから、お前が聞きにに行けと言われるんですよ」
雑誌のページをめくった堀田の目が、少し笑っていた。
「話は変わりますが、私を挑発してきた人がいたでしょ。初めて見た顔ですけど、まだ人事異動の時期じゃないはずですが」
「ああ、塚原君ですね。先生はご存じなかったですか。実は前任だった吉野さんが亡くなりましてね、後任て来たそうです」
「病気でもしたんですか」
「事故ですよ。交差点で信号待ちをしていたら、トラックに突っ込まれましてね、即死だそうです。ひどい話だ」
「塚原という人はどんな人なんですか」
「今年二十七だったかな。なかなかのやり手だそうですけど、ちょっと変わったところもある」
「変わったところと言うと?」
「どうやら、私の後釜を狙っているらしい」
堀田が山原を見て、ニタリと微笑む。
「見上げた志をお持ちのようですね」
「個人的には、すぐにでも変わってもらいたいくらいなんですけどね。その辺りは私が決められる問題じゃない。一つの業務を他省庁に移管するのには、それなりの地位にいる人が、手間と時間をかけなければならないですから。今のところ、上の連中でそんな意思のある人は皆無ですよ」
JS対策室室長は堀田で二代目だが、危険と重い責任が伴う部署のため、なり手がいないポストだった。誰でも任期中に死者を出すのはごめんだ。堀田が就任したときも、かなりのすったもんだがあったのを記憶している。
「それで吉野さんの後任で来たわけですか」
「志願してきたみたいですよ」
「どうして火中の栗を拾いに行くようなまねをするんでしょうか」
「かなり塚原に食いついてきますねえ。今日の件、相当腹に据えかねましたか」
「いや……。なかなか威勢のいい若者だと思いましてね」
堀田が少し微笑む。「警察庁は規制派の牙城みたいなところですからね。会議に出てこないだけで、庁内に行けば、あんなのはよくいますよ」
「どんな男ですか」
「こっちが冗談を言ってもクスリともしない。何を考えているかわからないところがありますよ」
「ほう」
山原が最初につぶやいた言葉が効いたのか、コルトレーンのサックスが響き始める。店主には申し訳ないが、コーヒーを飲み干して店を出た。外はすっかり暗くなっている。山原はタクシーを拾い、厚労省へ戻った。
裏口へ行くと、既に萩谷と安田は通路のベンチへ腰掛けていた。
「まだ時間が早いようですが、三人そろったことですし、ちょっと行ってみましょうか」
萩谷が立ち上がり、外へ通じるドアを開けた。その後を山原と安田がついて行く。
駐車場に一台のワゴンタイプの車が止まっているのが見えた。三人が近づいていくと、ドアが開き、スーツを着た男が二人出てきた。
「萩谷理事長、安田校長、山原所長ですね」
今朝も会ったばかりだろうと思うが、マニュアルで決められているのだろう、男は律儀に尋ねてきた。三人とも「はい」と返事をする。
「お手数ですが、これで認証させてください」
携帯式の虹彩認証カメラを向けられる。その間、もう一人の男が電波発見器で、異常な電波が出ていないか調べてた。
男が携帯で「異常なし」と伝えて、ようやく車内へ入ることができた。すぐに車は発進したが、このまま研究所へ向かわない。一旦警視庁の地下駐車場へ入り、車を降りて通路を歩いた。通路の先は法務省の地下駐車場だった。そこにあるセダンに乗り、ようやく研究所へ向かう。面倒な手続きだが、すべては研究所の場所を秘匿するためだった。運転手は何度かUターンを繰り返し、尾行がいないのを確認して、ようやく高速道路へ乗った。生徒の面会者は、これと同じ手続きを、目隠しされたまま経験しなければならない。
萩谷は疲れたのか、目をつぶり、寝息を立てている。安田は興味深げな微笑みを浮かべて山原にささやいた。
「今日はどんな成果がありました?」
「皆さん口が堅くて、何も教えてくれませんでした」
「どうやら、センターに大型のレーザー発振機が配備されるようですよ」
「初耳ですね」
安田の目が優越感で緩むのがわかった。湧き起こった怒りを抑えるため、意識して呼吸を整える。
「どうやらアメリカのメーカーへは、すでに導入を前提に話が進んでいるみたいですね」
「そういえば今日、息子の月命日だったんですよ。すっかり忘れていました」
話を遮るようにして発言した。
「はあ……」
興味がないのだろう。安田はとたんに輝いた目をしぼませ、窓の外へ視線を向けた。山原も視線を逸らす。
雨が降り出したのか、窓に水滴が付着し始めた。暗闇の中で滲むオフィスビルの明かりをぼんやりと眺めながら、慎也を思い、研究所で生活している子供たちを重ね合わせた。彼らの未来を守らなければと思った。