第2部 血まみれの愛 29
「奈美が消えたぞ」
俊は久々に聞いた名前を、記憶の底から引き出した。
栗平奈美。研究センター時代、ジューケイの彼女だった女だ。十八になって力をなくし、JSの認定を解除されて以来会っていない。
「監視が始まってから、あいつが完全に姿をくらましたのはこれが初めてだ。警察は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっているぞ。もっとも今は一般人だし、事件の容疑者じゃないからおおっぴらに指名手配はできないがな。マスコミも気づいて騒ぎ出していけれど、警察と保護庁が必死で押さえつけているらしい」
「どうしてあいつが逃げたんだ」
「わからない。だから大騒ぎしているのさ」
「ご苦労なことだな。で、何で俺に電話してきたんだ」
「保護庁へ来いってさ。出動待機命令が発令された」
「奈美と待機命令、どう関係があるんだ。お前だったら何か知っているんじゃないのか」
「俺は塚原のお使いだ。何も知らんよ。塚原さん、そうだろ」二人の会話を聞いているはずの塚原に呼びかける。「まあそんなのはいいや。ともかく命令なんだからな。三十分以内に保護庁だ」
電話が切れた。俊は息を吐き、携帯を置いて立ち上がった。床に散乱しているゴミを蹴散らし、タンスに向かう。
森山が死んでから、近くのコンビニとアパートを往復するだけの生活になっていた。彼が生きていた頃は二人でいろいろな店に行っていたが、今はそんな気力もない。腹だけは減るので、栄養を体に詰め込むため、適当に買って食べているだけだった。
後始末はしていないので、部屋の中は弁当の容器から出た腐臭が、澱となって溜っているはずだった。しかし、臭いは一切感じない。森山の死は、感覚まで麻痺させているようだ。
アパートを出て地下鉄に乗る。午後五時の電車は、まだ帰宅する人も少なく比較的空いていた。座席に座り、ドアの横に貼ってある週刊誌の派手な広告をぼんやり眺めていた。
塚原は本当に美佐子の事件と堀田の死に関与していたのだろうか。そうだとしたら、なぜそんなことをしたのか。あの事件はJSと一般人の溝を深める一因となり、結果的に塚原をJS政策の重要な立場へ押し上げた。あいつは自分の地位を上げるために犯罪行為に手を染めたというのか。
正直、そこまでして掴み取りたくなるような地位とは思えない。森山は誰からあんな話を吹き込まれたんだろうか。堀田を殺させたのはJS患者だと言うし。そうなれば、対象は館野かヌシしかいない。森山はヌシを対象から外したが、今の性格から考えれば、あいつも充分怪しい。
どちらにしても、理由が見えてこない。堀田や原口を殺したとされるJS患者も、JSの地位を後退させる企みへ簡単に加わるだろうか。確かに殺される恐怖はあるが、もし自分が持ちかけられたら、必ず抵抗するに違いなかった。もっとも、だからこそ塚原は俺や森山に話を持ちかけなかったのかもしれない。館野か今のヌシなら、やった可能性はあるか。
いつの間にか、降りる予定の駅を過ぎていた。次の駅で降りて、戻りの電車へ乗り換える。電車を待つ間、死んでいった仲間の姿が思い浮かんでは消えていった。
由衣、浜口、森山、美佐子。
俺も仲間に入れてくれないかな。
思わず、苦笑いがこみ上げてくる。
予定より少し遅れて、霞ヶ関の保護庁へ着いた。日が傾いてきたので、少し寒くなったなと思いながら玄関へ入り、警備員のチェックを受ける。
保護庁が入っているフロアは静かだったが、すれ違う職員の顔は皆一様に硬い。俊はいつもミーティングが行われている会議室へ入った。折りたたみの椅子と机だけが置いてある殺風景な部屋に、塚原と館野、ヌシが座っている。
「五分の遅刻だ」
塚原の冷たい視線が飛ぶ。俊はそれを無視して、館野とヌシの間に座った。
「館野から報告があったかと思うが、本日午後二時、栗平奈美が逃走した。所在は不明、緊急手配がされているところだ」
「俺たちは何をすればいいんだ」
「ちょうど一時間前、首相官邸へ戸田充佳からメールで脅迫文が送られてきた。脱走JS患者に対しての取締を一切やめること、さもなければ政府と全面的に戦うという内容だ。回答期限は十二時間後、了承した場合は、総理大臣が取締解除の記者会見を行えと要請している。政府は要求を拒否する方針だ」
「つまり、明日の朝四時以降、脱走JSとの戦争が始まるのか」
「そういうことだ。現在、国家安全保障会議が招集されている。間もなく、警察法七十一条に基づいて、総理大臣が緊急事態の布告を発令する予定だ。保護庁、警察、自衛隊には待機命令がかかっている。お前たちが呼ばれたのもその一環だ。
これから当面の間、お前たちはここで待機して出動に備えてもらいたい。寝泊まりは二十階にある仮眠室で行ってくれ。許可なき外出は服務規程違反として処分の対象となる」
「あたし、着替えなんかもってこなかったわよ」
「後でリストを作って、警備課の職員に持ってくるよう頼め」
「ったく、これから女をナンパしに行こうと思ってたのによ。どうしてくれるんだ」
「のんきな話してる場合じゃないだろ。戦争が始まれば、あたしたち最前線へ送られるのよ」
「どうせ死ぬときは死ぬんだからさ。考えたってしょうがねえだろ」
「お前だけ死なないとしたらどうなんだよ」
俊の言葉に、弛緩していた館野の顔が怒りで鋭くなる。「森山の件は関係ねえって言ってるだろ。もう一度言ったら、お前の腸を引きちぎってやる」
睨みつける館野の周囲にアグノーが立ち始めた時、心臓から、ヴァイブレーションが響き出す。
「やめろ、二人とも処分するぞ。前も話したとおり、森山は嘘に踊らされた。私たちを動揺させるための罠なんだ。まともに相手をしたら、敵の思うつぼになる」
「だとよ。これからはよく考えて行動するこったな」
館野は勝ち誇ったようににたりと笑う。
「では一旦解散する。各自が使う部屋は警備課の西上に頼んであるから、わからないことがあったら聞くように」
夜が来た。俊は特別に二十四時間体制で営業を始めた合同庁舎内の食堂でカレーを食べていた。妙に甘ったるいルーをすすっていると、点けっぱなしになったテレビから、アナウンサーのやや興奮した声が聞こえてくる。画面には街灯に照らされた新宿駅西口広場が映し出され、ダークグリーンに塗装された装甲車が止まっていた。
――繰り返します。先ほど楠木首相から緊急事態の布告が発令されました。陸海空各自衛隊へも出動命令が下され、都内にも続々と自衛隊車両が配備されています。今後、JSとの戦闘が始まる恐れがありますので、外出を極力控え、避難に備えて下さい。――
食べ終えた食器を返却口へ戻した後、窓際によって下を見ると、道路に戦車が何台も走っていた。空にはヘリコプターがサーチライトを照らしながら飛んでいる。これから、脱走JSとの全面戦いが始まろうとしているんだ。そう思うと、言葉にできない不安と恐怖がこみ上げてくる。
仮眠室へ行き、一人分がやっと眠れるベッドへ横たわる。緊張と興奮で目がさえているが、かといって本や雑誌を読む気にもなれない。壁に取り付けてあるテレビを点け、JS評論家と称する連中のとりとめのない討論や、自衛隊車両が走り回る映像を眺めていた。