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第1部 隔離 05

 この日、香織は図書館の奥にある長机に向かっていた。向かいの席に同い年の古市由衣がいるだけで、他は誰もいない。空調が効いているので、空気は乾いているはずだが、古い書物があるせいか、どことなく湿った雰囲気がある。

 二人の前にはノートと教科書が置かれてあり、その上にひもが浮かんでいた。ピンと張られて、複雑に交差している。

「今度は香織の番よ」

「うん」

 頬杖を付いた由衣は、余裕の笑みを浮かべていた。香織はひもをじっと見つめ、緩まないよう集中した。

「離すわよ」

 由衣の問いかけに、香織は声も出せずに頷いた。

 由衣から発せられていたアグノーが消えていくのがわかる。それでもひもは緩んでいない。香織は小さく息を吐き、慎重に糸の一端を力でつまんだ。

 由衣はどうしてこんなに器用なんだと思う。当人の話によると、特に練習したわけでもないらしいので、持って生まれた才能なんだろう。正直言って、見た目はこんなにも器用に見えない。体が太めなので、当然指も太くて短い。手であやとりをしたら、絶対負けないんだげど。悔しくて、思わず奥歯に力が入ってしまう。

 この学校で、由衣が一番の友達だった。彼女はいつでも自分を香織と本来の名前で呼んでくれる。本当はヌシと呼ばれているのが嫌いなのを、わかっているのだ。ふくよかな頬と、ちょっとたれ気味の目を見ると、のんきな印象しかない。しかし、実際つきあっていると、繊細だし、さりげなく他人を気遣ってくれる。あまりにさりげないので、鈍感な子にはわからないくらいだ。そういうのに限って、見た目で彼女を馬鹿にするのが悔しい。

「あっ」

 由衣が小さくつぶやき、視線が動いた。集中力が切れ、ひもがくしゃくしゃに丸まった。

 振り向くと、ノートを抱えた男がいた。痩せた体つきのせいか、肘やあごのラインがやや角張って見える。男にはやや不似合いな色白の肌と、度のきつい眼鏡が、線の弱そうな印象を与えていた。

「なんだ、優介か。せっかく成功しそうだったのにさあ」

「なんだはないだろ。それに、ここでアグノーなんか出して、大丈夫なのか?」

 片山優介は、まだ宙に浮いているひもを見ていた。詰問と言うより、心配そうな口ぶりだった。

「大丈夫よ。こんなとこ、先生なんか滅多に来ないもの」

「そうかもしれないけど気をつけろよ」

「わかってるって」

「お前もあんまり向きになるなよ。どうせ由衣には勝てるわけないんだからさ」

「いいのよ」

 思わずむっとした顔なった香織を、優介は微笑んで受け流した。

「お前も負けず嫌いだな」

 ひもが机の上に落ちる。香織はそれを拾い、バックへ入れた。

「さて、本業を始めようか」

「そうね」

 香織と由衣は数学の問題集を開き、宿題の続きを再開した。それを見て、優介は書棚に戻って本を探し始めた。

 優介は香織たちより四歳年上で、十八になったばかりだ。香織とはほぼ同じ時期に入ってきたので、現在はこの学校の中でも最古参の部類だった。香織とはとりわけ親しい。ただし、恋愛感情は一切なかった。初めて会ったとき、香織は小学生で、優介が中学生だったせいもあり、どちらかというと兄妹みたいな間柄だ。

 いつもだったらあやとりを潰したことに対して、もっと文句を言っていたはずだ。しかし、今は優介にとって微妙な時期なので、香織も遠慮をしていた。彼は今、卒業試験を控えていたからだ。

 この学校の生徒は、十八の誕生日を過ぎると、JSについての審査が行われる。様々な試験を行い、その時点で〈ヤフノスキ症候群認定委員会〉が力を持っているか否かを判断するのだ。アグノーが発生していないと認定されると、半年に一度の定期検診を除き、一般人としての生活が可能になる。そうでなければ、北海道にあるJS保護施設へ送られ、一生ストロンチウム製剤を摂取しながら生活しなければならない。優介はその試験の最中だった。


 宿題を終えて図書室から出てくると、廊下で優介と福池が話をしていた。嫌な予感がして、二人に近づいた。福池は独房から戻ってきたばかりだが、それで心を入れ替えるなんてあり得ない。反省しているなら、三回も独房へ行くわけがないのだ。

 由衣も危険な兆候を察したらしく、ちらりと香織を見た。頷いて、足を速めて二人へ向かっていく。

「ねえ、どうしたの」

 二人が振り向いた。優介の右眉毛が少し上がっているのに対し、唇の左端は下がっていた。困り切ったときに優介がよくやる表情だ。対して福池は、頬にいつもの嫌らしい笑みを貼りつかせていた。

「なんでもないさ。あっちいけよ」

「あんた、何企んでるのよ」

「僕にアグノーを見せてくれって言うんだ」

「バカじゃないの。今アグノーを使ったら、優介の人生終わっちゃうじゃない」

 あまりに非常識さに、香織は怒りを通り越して、あきれかえってしまった。

「だってさ優介、ストロンチウム剤を飲んでないんだろ。アグノーを発揮できる最後のチャンスじゃん」

「あんたさあ、それ本気で言ってるの? それが元でアグノーが消えなかったら、一生施設で過ごさなくちゃならないかもしれないんだよ」

 日頃穏やかな由衣もさすがに怒りを隠さず、福池を睨みつけた。

「ちょっとだけなら関係ないさ。それより、今しかできないんだぜ。やらない手はないだろ」

 福池が再びニタニタと笑い始めた。

「優介、こんなのに付き合っちゃだめよ」

「そうそう」

 香織は優介の腕を取って、歩き始めた。

 その時、背中に圧力を感じた。福池かアグノーを発していた。

「やる気なの?」

 振り向き、優介の楯になるようにして立ちふさがった。

「福池、バカなまねはやめろ。僕は絶対アグノーなんか使わないからな」

「香織は優介を連れていって。こいつはあたしが抑えるわ」

 由衣が二人の前に出た。ゴールキーパーが、PKで相手を威嚇するように両手を開く。

「頼むわ」 

 香織は優介を引っ張り、廊下を小走りに進んだ。

「由衣ちゃん、大丈夫なのか」

「あの子なら平気よ。あたしなんかより力持ちだし。しかも冷静だから、どっかの男子みたいに大立ち回りはしないわ。福池一人なら、チョロいもんよ」

「違うよ、そんな風にアグノーを使って、将来大丈夫なのかって思うんだ」

「まだそんなの信じてるわけ? あんなの先生があたしたちを押さえたくて言ってるだけじゃないの」

「ま、確かにあれだけアグノーを使ってた大里君が、十八になったらピタッと力が消えちゃったし」

「逆に渥子ちゃんは、一切使わなかったけど、試験に落ちちゃったでしょ。アグノーを使ったら、大人になっても残るなんて、ぜったい嘘よ」

「そうだけど、もしかしたらっていうのがあるだろ」

「うん……そうかもしれない」

 曖昧に頷き、言い争うのはやめた。今は優介にとって、大切な時期なのだから。

 今、優介はストロンチウム剤の摂取を中止していた。この時点で力を使って問題を起こせば、間違いなく審査で不利になる。だからこの学校の生徒は十八を超えると、なるべく感情を高ぶらせないように、周囲が気を遣うようになる。福池が要求していたことは、優介に対して、棺桶に片足を突っ込めと言っているようなものだった。

 外の日差しは案外強く、思わず目を瞬かせた。優介の腕を放し、図書室のある階を見上げる。大丈夫と太鼓判を押したが、やはり少々気になる。

「大丈夫かな、ちょっと見てこようか」

「やめて、あたしが見てくるから、あんたはこのまま帰って。そういうことされると、逆に迷惑なのよ」

 優介は心配そうな顔をしたものの、しぶしぶ宿舎へ向かって歩き出した。それを見届けて、階段を駆け上った。

 廊下に由衣と福池の姿が見えた。由衣は怒り顔で腰に手を当てている。福池はいつもの猫背ではなく、直立不動の姿勢だった。軍隊の上官と部下みたいで、思わず笑みを浮かべそうになる。

「どうしたの」

「こいつ、簀巻きにしてやったの」

「へえ」

 簀巻きといっても、当然福池の体へ物質のひもが巻いてあるわけではない。周囲からアグノーで圧力をかけ、体を動けなくしているのだ。二人の間に圧倒的に力の差がないと、こんなまねはできない。

「福池、今後優介には近づかないって約束しなさいよ」

「そんなのわかんねえよ」

 福池の顔が苦痛でゆがみ、「ゲオッ」と呻きながら息を吐き出す。

「くそっ、息ができなくなるじゃねえか。田原に言ってやる。そうすりゃお前も独房行きだ」

「言うなら言ってみなさいよ。あたしも優介を脅したのを言いふらしてやるから。そしたらあんたは、優介が審査を受けるまで、病棟行きよ」

 再び福池が更に顔をゆがめて呻く。

「わかったよ。もうあいつには一切話しかけない。これでいいだろ」

 不意に圧力が消え、福池は崩れ落ちた。

「ったく。死ぬかと思ったぜ」

 ゼイゼイと荒い息をしながらつぶやく。

「約束だよ。あんただって、優介が今どんな時期かわかってるでしょ」

 福池が脱力した目で見上げた。しかし、それは香織たちを油断させるカモフラージュだった。

 いきなり圧力が高まってくるのを感じた。防御するタイミングを逸した香織たちは、のけぞって福池の攻撃をかわそうとしたが、バランスを崩して廊下に倒れた。

「へへ」福池は下品な笑いを浮かべ、走り去っていった。

「あいつ……」

 立ち上がって追いかけようとした香織を、由衣が手を引いて止めた。

「追いかけても無駄よ。もう一度締め上げたって、結果は同じだと思うわ。それより、先生に相談しましょ」

「でも、それを言ったら由衣がアグノーを使ったのがばれちゃうわ」

「しょうがないわよ。それより奴から優介を遠ざけるのが優先よ」

 由衣はため息をつきながら、乱れたスカートを直した。


「またあいつか」

 話を聞いた田原は、苦虫をかみつぶしたような顔をしてつぶやいた。

「何とかしてください」

「福池には強く言っとくよ」

「それだけじゃだめよ。あいつを優介の試験が終わるまで、病棟か独房に閉じ込めてやらないと」

「ただなあ、特別教育室もそうそう長く置いておけないし、病棟は医師から病気と診断されないと入れない決まりだ」

「そんなルール、変えちゃえばいいじゃん」

「そう簡単にはいかないよ。人の行動を制限するのは、簡単じゃないんだ。委員会に諮って、最終的に政府の了承を得なければならない。要請はしてみるけど、確実に半年以上はかかるはずだ」

「なに言ってんのよ。あたしたち、もともとここに閉じ込められているのよ。今更制限も何もないでしょ」

「確かに回りくどいかもしれないが、福池にも人権はある。人の行動を制限するのは憲法に関わる問題なんだから、必要な手続きを取らないと、後で大変な問題になるんだ」

 結局、先生たちで、優介と福池の監視を強めること、由衣と福池の独房行きを、最長の一週間に延長してもらった。

「自分から期間延長を申し出るなんて、初めてだぞ」

「だって、あたしの方がアグノーを多く使ったのに、福池の方が長かったら、後で文句を言われるじゃないの」

 あきれ顔の田原に、由衣は涼しい顔で答えた。


 夕方、香織と由衣は食事をするため、宿舎を出て、隣にある食堂へ行った。ここは一階がコンビニになっている。弁当は置いていないものの、日用品やパン、おにぎりが置いてあり、見た目はほとんど普通の店と変わりない。ただ一つ違うのは、店に店員がいないことだ。

 会計はすべて、生徒が無人レジのセンサーにバーコードをかざし、金額を払うようになっている。万引きをしても、会計前の商品が店内から出るとセンサが反応するので、すぐに捕まってしまう。店内で騒いだり、商品を散らかしたりすれば、監視カメラが反応して、すぐに先生が来るシステムになっていた。

 もちろん、商品を陳列したり、入れ替えたりするのは外から来た業者がやっているはずなのだが、深夜にやっているらしく、香織は見たことがない。

 きっと、あたしたちのことが怖いんだ。

 香織はがらんとした店内をガラスドア越しに見るたび、暗い気分になった。

「香織、何してんのよ」

 無意識に立ち止まっていたらしく、由衣は階段の手前で、訝しげに香織を見ていた。

「ごめん、ごめん」

 由衣の隣へ駆け寄り、階段を上った。

 食堂は既に多くの生徒でごった返しており、長テーブルの大半が埋まっていた。香織たちは場所取り用に持ってきた手提げバックを空いた席に置き、トレイを持って列に並んだ。

「独房へ行くのが明日でよかった」

「なんでよ?」

「だって今日、エビフライなんだもん。独房へ行くと、冷めたのしか出ないでしょ。特に揚げ物は最低。衣がしなしなになっちゃうんだもの」

「確かにそうよねえ。タルタルソースもおいしいし」

「そうそう」由衣が幸せそうな笑顔を見せた。「いくらカロリーが高くても、タルタルソースだけはやめられないわ」

 香織たちの番が来た。厨房で働いているのは割烹着に三角巾をかぶった女性一人で、年は五十過ぎぐらいだろうか。ここへ来た当初からずっとここで働いていたが、名前は知らなかった。生徒の間では単に「おばちゃん」で通っている。

「ねえおばちゃん、タルタルソース多めにして」

「はいよ」

 おばちゃんが、ボウルに入ったタルタルソースをすくい、皿へ山盛りにした。

「ありがとう」

「いいのよ。いっぱい食べて」

 おばちゃんはニコニコと微笑み、由衣に皿を渡した。

 このおばちゃんを見るたび、いつも違和感を覚える。どうしてこんなふうにあたしたちに対して、自然な振る舞いができるのだろうかと。

 発症してから、一般人と触れあったのはほんのわずかな期間だけだ。それでもあのとき、恐怖に満ちた目で、自分を見つめていた大人の姿は、心の中に焼き付いたままだ。

 あんなにあたしを愛してくれていたはずの、パパやママもそうだった。思い出すたびに、胸が苦しくなってくる。

 それなのにおばちゃんはあたしたちのことを、普通の子供のように接してくれている。先生たちのように、権威的な態度で恐怖を押し隠そうとしているわけでもない。何ともいえず不思議だった。

「由衣、ごめんな。俺のせいで独房行きになっちゃって」

 夕食を食べていた香織と由衣のところへ、優介がやってきた。

「いいのよ」由衣が微笑んだ。「だって、今のうちに止めとかないと、あいつ、また同じことをやるわ」

「優介は心配しなくてもいいの。あんたは試験に向けて、心を落ち着かせなくちゃいけないのよ」

「そんなところで突っ立ってないで、みんなでご飯、食べようよ。あたし、当分一人で食べなきゃならないんだから」

 優介は頷き、食事の列へ並んだ。由衣はそれを見て、おかずのエビフライにタルタルソースを付けて食べはじめた。

「由衣、ありがとう」

「何よ、改まっちゃってさ」

 由衣が照れくさそうに笑った。

「だって、本当ならあたしだって一緒に入るべきだと思うのよね」

「ううん」由衣は首を振った。「香織はきっと福池を止められなかったはずだわ。あいつ、結構力が強いから。

 一週間いればいいんだし、どうってことないわ。それより、さっき渡した番組のリスト、全部録画しといてよ。特に『真夏の星座』。あれを忘れてたらホント怒るからね」

「大丈夫だって。ばっちり録画しとくから」

「よお由衣、お前明日から独房行きなんだってな」

 森山が声をかけてきた。授業中に着ていたシルクシャツの上に、黒のカーディガンを羽織っている。しっとりした表面は、いかにも高級品と言った印象だ。洒落者の森山らしい。

「福池を道連れにしたって聞いたけど、あいつ、何したんだよ」

 由衣がさっき起きたトラブルを話した。

「お前も災難だったなあ。いっそのことあいつ、十八になるまで独房に閉じ込めといてくれればいいのにな」

「あたしもそう思う」

「みんな持ち回りで福池と喧嘩してさ、ずっと奴を独房に入れとくってのはどうだ」

「それはそれで大変よねえ」

 二人はけらけら笑った。

「俺、結構本気で考えたんだぜ。やっぱりあいつ、危険だよ」森山の顔から笑顔が消えた。「このままだと、今以上に問題をやらかす気がしてしょうがないんだ」

「ここから追い出すのも不可能だし。困った奴ね」

「ホントだよ」

 優介が食事を持って戻ってきたのを見て、森山は話を切り上げ、列に並んだ。福池の話題で、彼を動揺させたくないと思ったからだろう。見た目はちゃらちゃらしたしているが、案外気がつく男なのだ。

 食事をした後、それぞれの部屋へ戻った。香織は風呂の湯張りをセットすると、昨日ダウンロードしたばかりのHAYATEの最新アルバムをかけた。

 ベッドに寝転がりながら、一年前に行ったライブを思い出し、もういっぺん行ってみたいなあと思う。しかし、行くまでに至る手続きを考えると、ため息が出てしまう。

 まず、外へ出るためには学校へ申請を出さなくてはならない。その時点で先生が内容をチェックし、だめな場合は却下される。先生の審査が通ったとしても、次に、月一開催される、JS対策委員会の定期会合で更に検討されて、了承されれば政府に申請が行く。こんな感じなので、仮に申請が許可されるのに、三ヶ月待たされるのはざらだった。日にちが決まっているイベントの場合、開催日が過ぎてから許可が下りたなんてことはよくある話だった。それでも、許可が下りるだけでもいい。申請の半分以上は、検討の中で却下されてしまう。

 香織を含むHAYATEファン五人がライブへ行けたのは、まさに奇跡的だった。まず、東京で行われるライブがワールドツアーの最終日だったため、開催の一年前から日程が分かっていたこと。しかも会場が警備のしやすいライブハウスだった。そして、およそ五十倍の確率で、申し込みが殺到したライブの抽選に当選したこと。どれも欠けていたら、ライブへ行けなかっただろう。

 一体、神様はどうしてあたしをこんな体にしてしまったんだろうか。発症以来、幾度となく思ってきた疑問を蒸し返した。同時に、自宅で捕まったときの光景がよみがえり、心がかき乱される。

 恐怖で泣き叫ぶたび、タンスが倒れ、テレビが天井にぶつかって激しい音を立てた。書棚にあった本が飛び散り、香織へも向かってきた。母は泣き叫び、父は宙に浮いた机を押さえようと無意味な努力をして、床に投げ出される。

「香織ちゃん、お願いよ。やめてったら」

「香織、落ち着くんだ」

 その言葉が香織を更に混乱させ、部屋のカオスは加速していった。

 部屋の中へ、濃紺の服を着て、ヘルメットを被った男が侵入してきた。彼は香織を見ると、迷わず筒のようなものを香織に向けた。

 銃だ。そう思った瞬間、筒から何かが発射され、胸へ突き刺さる。香織は力の限り悲鳴を上げた。

 その瞬間、壁が破れ、向かいの家と青い空が見えた。濃紺の男が壁の切れ端とともに、空へ吸い込まれていくように飛んでいく。唖然としてその光景を見ながら、記憶はフェードアウトしていった。

 気がつくと、自分が細かく震えているのに気づいた。あれから五年近くたっているというのに、思い出すと未だに恐怖がぶり返してくる。

 自分の中に、怪物が潜んでいた。薬で抑えられている力が、いつか再び爆発するかもしれない。そんな恐怖感が、あの思い出を、過去の出来事にできないでいるのだ。

 香織は服を脱ぎ捨てて、風呂に入った。少しぬるめの湯が、こわばった心を、少しずつほぐしてくれた。

 脳裏に、発作が起こる前の家族が浮かんでくる。その日は日曜日、香織は少し遅めの時間に起きてきた。

「あ、パンだ」

 テーブルの上に、家で焼いたパンが並んでいた。お父さんが朝早くに起きて、小麦粉をこねて作ったパンだ。眠っていたおなかが騒ぎ始める。

「さあ、ご飯にするか」

 テレビを見ていた父親が立ち上がり、スープを温め、カップに移した。三人がテーブルに座る。

「いただきます」

 香織はレーズンの入ったパンをとり、頬張る。柔らかな感触と、レーズンの甘酸っぱさが口に広がった。スープを一口飲み、次にバーターロールへジャムを塗って食べる。

「香織、パンばっかりじゃなくて、サラダも食べなさい」

 母に言われて、渋々あまり好きでないセロリのサラダを口にした。セロリ特有の苦みが口へ広がったので、ドレッシングを追加でかけ、母にかけ過ぎと怒られる。

 お母さん、お父さん。あのときに戻りたいよ。

 いつの間にか、香織の目から涙が溢れ、湯の中へ流れていった。

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