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第2部 血まみれの愛 15

 その日の夜、俊は暗闇の中でベッドの上に横たわり、じっと天井を見つめていた。時刻は午前一時を過ぎようとしていたが、一向に眠くなる気配はなかった。

 目をつぶると、繰り返し浜口が死ぬ瞬間がリピートされる。そのたびに、心臓の鼓動が激しく高鳴った。

 俺は今、崖の縁にいた。足下を見ると、底の見えない真っ暗な闇が広がり、吸い込まれていく予感がする。由衣や浜口が落ちていった、二度と戻れない領域。眠りに落ちると、そこへ行ってしまうような気がして、更に眠気は遠ざかっていった。

 どれくらい時間が経ったのだろうか。時計を見る気もなくなり、時折寝返りを打ちながら、朝が来るのを待っていた。静寂の中、トントンと何かを叩く音が聞こえてきた。

 窓から聞こえてくる。

 ベッドから降り、カーテンをそっと開けた。

 息を呑んだ。心臓が止まるかと思うほど驚いた。

 窓の外に、ヌシがいた。ビル壁に貼りついていたのだ。

 俊は慌てて窓を開け、冷たい夜風とともに、彼女を部屋の中へ招き入れた。

「どうしたんだよ」

「なんだか急に会いたくなったのよ。アグノーが強くなったから、壁伝いを上れるようになったしね」

 ヌシの目は暗く落ちくぼんでいるように見えながら、窓から差し込むわずかな常夜灯の光に照らされ、きらきら輝いていた。本能的に危ういものを感じ取った俊は、後ずさりして、部屋の電気を点けようと、壁を手で探った。

「待って、このままでいいわ」

「でも……」

「いいの。お願いだからここに座って」

 ヌシはベッドの端へ腰掛け、その傍らを軽く左手で叩く。俊は手を壁から離し、おずおずと座った。

 暗いせいか、彼女の柔らかな匂いが強く感じられる。静寂は呼吸をするわずかな音さえも、耳へ届けてきた。

「こんな時間にどうしたのさ」

「あたし、浜口君を殺しちゃった。由衣もそう」

「馬鹿なこと言ってんじゃないよ。由衣は自殺だし、浜口を殺したのは塚原だ。浜口だって、あんなことをすれば塚原が指令するのはわかってたはずだ」

「結果的にはそうかも知れない。でも、あたしはあの子たちを止められなかった。いくらでも思いとどまらせる時はあったのに」

「そんなのは、後から考えたからそう思うだけさ」

「違うのよ。私にはわかっていた」

「そうかもしれない。だけど、俺たちに出来ることは、ほとんどなかったよ」

 息づかいが湿り気を帯びてきた。ヌシはうつむきながら、わずかに肩を震わせていた。

「泣いているのか」

 ヌシは軽く頷く。

 俊は戸惑いながら、ヌシの肩に手を回した。彼女は体を寄せ、俊の胸に顔を埋めてきた。

 心臓が高鳴り、体が強ばっていく。体を離すことも出来ず、かといってそれ以上進むわけにも行かず、ただ、ヌシのぬくもりを感じていた。

「ヌシ……」

 たまらず、つぶやく。

「ゴメン、ヌシって呼ばれるの、昔から嫌いだった。香織って呼んで」

「か、香織」

「ふふ。つかえたわね」

 思いもよらず笑ったのに、俊の心がほぐれた。同時に、いろんなことがあって、今まで押し殺していた感情が、ふつふつとわき起こってくる。

 サッカーの試合で、ヌシと由衣が声援を上げたのはいつのことだったろうか。ジューケイからコンドームを渡されたのを思い出す。

 手を握る。

 彼女が更に強く握り返してきた。

 熱く、柔らかい手だった。

 涙に濡れた顔を上げてくる。

 押さえつけていたものが解き放たれ、俊はヌシの唇に、自分の唇を重ねた。

 そのままベッドに倒れ込み、二人はお互いの唇をむさぼるように吸いあった。


 すべてが終わった後、脱ぎ捨てられた服に囲まれ、俊とヌシは火照った体を抱きしめ合っていた。

「ねえ、一緒に観覧車へ乗ったときのこと、覚えてる?」

 ヌシが耳元でささやいた。

「ああ。あのときお前、ずっと黙ってたよな。俺、困っちゃったよ」

「困ったのはあたしの方。だって、由衣もあなたのこと好きだったのよ。わかってた?」

「いや……。知らなかったよ」

「そう」由衣は俊の胸の上で小さく笑った。「あたしと由衣は親友だった。でもね、みんな気づかなかったかも知れないけど、あなたが来てから、微妙に関係が変わっちゃったのよ。

 お互い口に出さなかったけど、しばらくすれば、雰囲気で誰が好きなのかぐらいはわかったわ。だけど、二人の友情は壊したくなかった。家族がいない同士、姉妹以上の絆があったつもり。でも、一旦口にすれば、その関係が二度と元になんか戻らなくなるような気がして怖かった。普段は本当に仲良くても、俊の話になると、途端にぎくしゃくしちゃってね。だから観覧車の時は、本当に困ったわ」

「そうだったんだ」

「でもね、本当のことを言えばうれしかった。話が出来たらもっとよかったんだけど、一緒に雪の降る風景を見ていられたのが、あたしの中で一番の思い出だった」

 ヌシは再び肩をふるわせて泣き出しだした。

 由衣も、浜口もいない。美佐子だって死んだも同然だ。

 もう、あのときに二度と戻ることなんか出来ないんだ。

 いとおしく、腕に力を込めた。

 ずっと、この時間が続いてくれればいいと思った。

 東の空が白み始めようとしたときだ。ヌシは突然体を起こすと、手早く服を着始めた。

「ごめん」

 一言つぶやいた後、窓から出て行った。

 あまりのあっさりした別れにあっけにとられながら、俊は窓から走り去っていくヌシを見下ろした。

 窓を閉め、ぼんやりとベッドに横たわりながら、シーツの上に遺された彼女のぬくもりを感じ取っていた。やがて朝日が差し込み始めると、彼女のいた痕跡は跡形もなく消えてしまう。

 さっきの出来事が、まどろみの中で見た幻にしか思えなくなっている自分に気づいた。


 まともに朝食を食べる気も起きないまま、出発の時刻は迫っていた。俊はシャワーを浴びて着替えると、宿舎から既に到着しているバスへ乗り込んだ。既にヌシは座席に座っており、窓の外をぼんやりと眺めている。俊は隣の席へ座ろうとした。

「他が開いてるんだから、別の席に座ってくれる?」

「あ、ああ」

 思いがけず素っ気ない言葉を投げかけられ、俊は反対側の席へ座った。彼女は再び外を眺め始めた。

「香織、一体どうしちゃったのさ」

「ねえ俊」ヌシが振り向き、冷たい視線で見つめた。「一回寝たからっていい気にならないでよ。それと、香織って呼ぶのはやめて。虫酸が走るわ」

「ヌシが嫌いだって言ったのは、お前の方じゃないか」

「あのときはそういう気分だっただけ」

「なぜさ。お前はそれでいいかもしないけど、俺は納得できないよ」

「いいじゃないの。昨日は楽しんだんだから」

「香織」

「触らないで」

 伸ばしかけた手が、ナイフのように鋭い言葉で止った。

「悪いけど、昨日起きたことはなかったことにして。浜口が死んだから、ちょっと動揺してたの。ただそれだけ」

「そんな……」

 昨夜とのあまりの落差に、戸惑わずにいられなかった。あのとき見せた涙は一体何だったのだろうか。

 もう一度声を掛けようと思ったところへ、田原が乗り込んできた。彼も昨夜は眠れなかったのだろう、病人のようにひどく疲れた顔をしている。動くこと自体が一苦労なのか、座席へ座ると大きく息を吐いた。

「だらしないわね」

 ヌシがちらりと田原の姿を横目で見てつぶやく。

「一体どうしちゃったんだよ。そんな言い方、お前らしくないよ」

「別に。ただ素が出ちゃっただけよ。はっきり言って、人に気を遣うとか、優しくするとか疲れちゃったの。

 これからあたしたち、殺し合いをしていかなくちゃならないの。それなのに、どうして人に優しくなんかできるって言うのよ。あんたも、もっと想像力を働かせるべきだわ」

 唖然として、声も出せなかった。

 かつて福池の行為に憤りながらも、彼を助けようとした正義感が、今はひとかけらも感じられなかった。

 時間ぎりぎりで森山が乗り込んで、バスは出発した。ガラガラの車内では誰も喋らない。重苦しい雰囲気が張り詰めていた。やがて牧場へ着き、バスから降りた。

 牛小屋の中は昨日よりも更に蒸し暑かった。当然だか死んだ牛と浜口の姿はない。浜口死体は、研究用に細かく切り刻まれるのだろう。

「さて、もうやることはわかってるだろ。牛がもったいないから、もう手本は見せないぜ」

 既に待ち受けていた館野は、ポケットに手を突っ込みながら三人を見た。

「まず俊だ」

 腕を組んでいる塚原をちらりと見やったあと、牛の前に立った。牛は自分の運命をわかっているのか、どことなく悲しげな瞳だ。ごめんなと心の中でつぶやきながら、力を出し、牛を包み、更にその内部へ入り込んだ。異変を悟った牛が一瞬体を震わせて、低く鳴いた。

 熱く、ぐにゃりとした感覚が脳へ直接届いた。おぞましくて背筋が震え、額から脂汗がにじみ出てくる。

「どうだ、心臓や肝臓の違いがわかるか?」

 館野の問いかけに、まともに答える余裕はなく、ただ首を振るしかなかった。

「まあしょうがねえな。だったら適当にクラッチしてみなよ」

 大きく息を吐き、内臓を掴もうとするが、細かな感覚がわからず、何度も滑って取りこぼしてしまう。汗が大量に噴き出て、顎から滴った。

 五分以上経過したのだろうか。ようやく感覚を掴めるようになってきた。俊は掴んだ内臓を力任せに引きちぎった。

 引き裂くように悲鳴が、心に突き刺さった。牛は床に倒れ、苦しそうに目を見開き、力の限り暴れ出す。胴体を跳ねるようにして床にたたきつけ、小屋か振動した。ほかの牛たちが、不安げな鳴き声を上げる。

「ようやくできたか。ほら、早く息の根を止めてやれよ。うるさくてしょうがねえや」

 胃がむかつき、思考が混乱している。それでもどうにか再び牛の内臓へアグノーを突っ込み、潰したり、引きちぎったりした。やがて、牛は力尽きたのか、ぐったりと横たわった。

「よし、そこまでだ。俊は合格」

 牛の口から吐き出された金臭い血の臭いが、辛うじて押さえていた胃のむかつきを爆発させ、気づいたときには胃液を吐いていた。体の芯が痺れたように感じ、神経の末端へ伝染していく。体が一ミリぐらい浮いている気がしてきた。

「臭えな。まあしょうがねえ。次は森山だ」

 森山は大きく息を吐くと、館野が指し示した牛の前に立った。俊と同じように内臓を掴むのに苦労していたが、しばらくするとコツを掴み、牛が悲鳴とともにのたうちまわり始めた。

「オッケーだ。森山も合格」

 森山は嘔吐こそしなかったが、精神的に疲れたようで、その場にしゃがみ込んだ。

 ヌシの番が来た。俊や森山のように怯む様子もなく、牛の前に立った。手をかざし、牛の内部へ力を潜り込ませる。

 牛がいきなり悲鳴を上げ、暴れ始めた。

「腸をちぎってやったわ。どう?」

 ヌシは眉一つ動かなかった。館野が笑い出す。

「すげえ度胸だな。男連中とは大違いだ。しかも内臓の部位までわかるとは見事だよ。合格だ」

 ヌシはうっすらと笑いを浮かべると、再び牛へ向き直った。牛は一瞬大きく痙攣した後、動きを止めた。虚空を見つめているその目は、既に命を宿していないことを物語っていた。

「おめでとう、これで君たちは取締官へ昇格する。早速手続きを始めることとしよう」

 笑みを浮かべた塚原が、右手を俊たちに差し出してきた。

「塚原さん、それって冗談にしたらブラック過ぎやしませんか?」

 怒りの感情とともに、言葉が勝手に出てくる。

「握手しないと心臓がつぶれるならするけどさ、そうでなければご免だな」

 しゃがんだままの森山が、投げやりに答えた。

 ただ、ヌシだけは違った。彼女は塚原に近づき、彼の手を握った。

「取締官、がんばります」

 笑みを浮かべて塚原を見るヌシに、俊は唖然とした。

 浜口を殺した男と握手するなんて、どうかしてる。昨日流した涙は一体何だったんだ。

 しかし、ヌシにそんな思いは届かないようだった。彼女は笑みを浮かべ、俊と森山を見た。悲惨な世界など、自分とは無縁だと思っているかのように。


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