第2部 血まみれの愛 5
久々に受けた日光に目を細めた。冬の冷たい風にあおられて、羽織っただけのコートの前を押さえる。
どこからか、大音量で拡声器の声が聞こえてくるが、音がこもっていて聞き取りにくい。訝しげな顔になったのだろう、塚原が説明した。
「国会前でデモが行われています。警察の発表では五千人ですが、どんどん増えている様子です」
「JS絡みか」
塚原が頷く。「政府の弱腰を糾弾しているそうです」
建物の裏手へ回った。道をバリケードで塞いでいる機動隊の姿が目に入った。その先には首相官邸がある。不安に、緊張が加わる。
塚原が機動隊員の一人に身分証明書を差し出した。堀田も身分証明書を差し出す。トランシーバでどこかへ連絡をしている隊員を横目に見ながら、別の隊員から身体検査を受けた。
バリケードが開いた。塚原はためらうことなく奥にある薄暗い首相官邸の通用口へと入り、更に入館のチェックを受けた。堀田も後に続く。
官邸の中はデモ隊の叫び声も届かず、焦燥の表情を浮かべた官僚の姿もない。窓ガラス越しから見える日本庭園は、時が止まったように静謐な佇まいを見せていた。二人の靴音だけがロビーに響く。エレベーターに乗って二階に上がり、小部屋へ入った。
そこは小さな会議室になっており、十数名の人々が座っている。山岡、時田、三ヶ月前に財務省事務次官へ就任した野平。大半が次官クラスの人物だったが、その中で一人、異彩を放つ人物がいた。小柄で頭は禿げあがり、ツイードのジャケットにノーネクタイ。やつれた顔をしていたが、目だけはらんらんと輝きを帯びている。朝倉啓四だった。堀田はおおよその状況を理解したが、同時にまだ現実感を持てない自分がいた。
「堀田室長をお連れしました」
「忙しいところすまないな。空いている席へ座ってくれ」
山岡の指示に、一番下座を選んで座る。塚原からびっしりと細かい文字が印刷された文書が差し出された。
「まずはそれを読んでくれないか」
タイトルは〈ヤフノフスキ症候群保護法等の一部を改正する等の法律案新旧対照表〉となっていた。読み進めるうちに、恐怖と緊張、興奮が一つとなり、脳天へ突き上げてくる。
「これは……」
読み終えた堀田は、法案作りを主導したであろう朝倉を凝視した。それを見て、朝倉は脂の浮いた頬をゆがませて微笑んだ。
「もちろん、すべて昨日今日でできるようなものではありませんよ。私と研究所の職員はこうした事態を想定して、あらかじめ法案作りを進めていたのです。もっとも、法制局の皆さんと擦り合わせを行うのに徹夜してしまいましたが」
「首相は三週間後に臨時国会を召集し、この改正案を国会に提出する。法案が通過した後、〈ヤフノフスキ症候群保護庁〉を創設し、君と塚原君、それに萩谷理事長には中心メンバーとして活動してもらうことになる」
「しかし、JS患者を人間として認めず、すべての人権を停止するとは……失礼ですが、このような法案が簡単に通るとはとても思えませんが」
朝倉は眉間に皺を寄せ、険しい視線で堀田を射貫く。
「JS患者というのは、昔から私が主張しているとおり、ホモ・サピエンス・デヴィエーション、つまり、ホモ・サピエンスの亜種なんだ。そもそも日本国憲法を適用する範疇にはあたらない。それを明文化しただけだよ」
「しかし、国民は簡単に受け入れるんでしょうか」
「君は役所の中でカンヅメになっていたからわからないかも知れないが、一日で世界は変わってしまったんだ」
それまで、タバコを咥えてじっと堀田を見つめていた男が口を開いた。衆議院議員の宇田孝一だった。静岡一区選出の五十七歳で、他のメンバーよりも横幅が広くて精力的な顔をしている。JS政策ではタカ派最右翼と言われている男だ。彼は会議室に一つだけある灰皿に、短くなったタバコの先端を押しつけた。
「君も東日本大震災があった日を覚えているだろう。被災地はもちろんだが、それ以外の地域も大混乱に陥った。人々は原発から漏れた放射能に恐怖してパニックを起こし、様々なデマがあふれ出た。今はあれ以上の事態が起きているんだ。
新潟のある村ではJS患者が近くに潜伏しているという噂が出て、住人全員が避難した。ネットでJS患者を擁護する発言をすれば、たちまち非難が殺到する。住所をネットに晒され、住居に反対派が押しかけた事例もある。
あと二週間もすればストロンチウム製剤の効果も切れ、逃げたJS患者たちは強大な力を得る。彼らが政府を攻めてきたらどうなる? この国は内戦状態になるんだ。
既に米軍の空母が日本へ向かっているとの情報が上がっている。我々だけでこの問題が解決できないと国際社会が認識すれば、彼らは国連軍の名の下に軍事介入を行ってくるだろう。我々はそんな事態にならないよう、あらゆる手段を用いていかなければならないのだ」
堀田は出かかった言葉を飲み込んだ。既にこの法案が提出されるのは既定事実なのだ。
「萩谷理事長は〈ヤフノフスキ症候群保護庁〉長官、塚原君が管理局長、堀田君は保護局長の任についてもらう予定だ。ヤフノフスキ研究所は朝倉氏がトップになり、保護庁所轄の独立行政法人として各種の提言を行ってもらうこととなる。いずれも重席だが、国家の存亡がかかってくる事態だ。命を捧げるつもりでがんばってもらいたい。
なお組織だが、人員の詳細を三人で詰めていただきたい。それをたたき台として次官級会議で決定する。無論、すべては法案提出までに行い、且つ極秘裏に進めてもらいたい」
その後、業務の内容について簡単な打ち合わせが行われた。堀田は概要を知るに至り、慄然とせざるを得なかった。
頭の芯がぴりぴりするような感覚を覚えながら官邸から出る。返却された携帯を取り出し、自宅へ電話をかけた。
「麻紀はどうしている」
「家にいますよ。動き出すのが早かったですから、どうにか始発に乗れました」
「よかった」
思わずつぶやいたが、仙台にいようが千葉にいようが、危険度は変わっていない。体制を新たに作らなければならないことを痛感する。
しかしその一方で、これまで保護してきたJS患者の子供たちの不安と悲しみに満ちた表情を思うと、思わず胸が痛んでくる。これまでは、彼らのためになるんだという思いが行為の正当性を担保してきた。今後はそんなもの、建前にもならない。
JS患者となった子供たちが辿るであろう今後を思い、暗い気持ちが肩にのしかかってくるのを感じた。
思わずめまいがして、足を止めた。屈み、両手を膝につける。
「どうかしましたか?」
先を歩いていた塚原が立ち止まって振り返り、訝しげに目を細めた。見上げると、逆光でシルエットが暗く浮かび上がる。
「あの議論、君はどうにも思わないのか?」
「堀田さん、それはここで聞く質問じゃないし、そもそも議論する問題でもない」
塚原は緩やかに微笑み、再び歩き出した。
塚原の言うとおりだった。我々は一公務員としてやるべきことをやらなければならない。しかし、人としてどうなんだ。あの男にはなんの逡巡もないというのか。堀田は遠ざかる塚原の後ろ姿が、ひどく冷たいものに感じられた。