表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/59

第2部 血まみれの愛 3

 その日、大桑妙子は自宅で朝食を食べ終えたところだった。研究所での仕事は一ヶ月前に辞めていた。夫の死後、思想的に擁護派と見なされていた人物は排除される傾向にあり、妙子も後任の目処が立った時点で萩谷から打診があった。契約はまだ半年ほどあったが、違約金を支払うとまで言われれば、拒否するわけにもいかなかった。

 別れたときに山原が残した資産と、自分の年齢を考えれば、とりあえず死ぬまで食べて行くには困らないのだろうが、それでも心に開いた穴は埋めようがない。

 山原と慎也の不在。

 山原が慈しみ、彼女が見守ってきた子供たちはこの先どうなってしまうのだろうか。

 妙子は大きく息を吐き、山原の遺したノートやメモに目を通すため、机に向かった。

 最近、滅多に鳴らない携帯電話が鳴り出した。

 バックに入れたままだった携帯電話を取り出し、表示された名前を見る。〈野沢武〉とある。かつて山原と師弟関係にあった研究者だ。JS研究所に勤めていたが、今は東京の専門学校で講師をしているはずだ。

「大桑です」

「お久しぶりです。テレビ、見ましたか?」

「は?」

「もしテレビを消しているなら、すぐ点けて下さい」

「はいはい」

 いきなりの問いかけに、妙子は戸惑いながら、空いた手でリモコンのスイッチを入れた。やがて映し出されたモニターには、いつもの華やかなワイドショーは映し出されず、緊張した表情のアナウンサーが座ってるだけだった。

「繰り返しお知らせします。警察庁の発表によると、本日午前五時、北海道美幌にあるヤフノスキ症候群成人居留施設で、脱走事件が発生しました。その数八十五名。現在、警察が全力で行方を追っている最中です。繰り返します――」

 呆然とテレビを見ていた妙子に、携帯電話からの声が聞こえ、慌てて耳に当てる。

「どうですか、大変なことになりましたよ。ストロンチウム剤の効果が切れるまで、およそ二週間。それが過ぎれば彼らは強大な力を手に入れることになる」

「わかってるわ。でも、だからといって、彼らがその力を行使するとは限らないでしょ」

「確かにそうですが、世間はそう思わない。現にこうして臨時ニュースで大々的に報じているんですよ。これから大がかりな追跡が行われ、場合によっては戦闘が始まるかも知れない。ある学者の説では、JS患者一人につき中隊程度の戦力を持つと言われています。もし彼らが本気を出せば、クーデターを起こすことも可能なんですよ」

「あの人たちが私たちを襲ってくるとでも思っているの? あなたも逃げた人たちを知っているでしょ。みんな、そんな大それたことをするような人じゃないわ」

「わからない。でも、国の方針に反して逃げ出したのは事実です。今後、彼らが襲ってこないという保証はどこにもないんですよ」

 野沢は明らかに怯えていた。かつて夜の食堂で、山原と酒を飲みながら、JS患者の融和を語り合っていた声ではなかった。

「しっかりしてちょうだい、これから大変なことになるのよ」

「僕、どうしたらいいかわからないんですよ。なんだか彼らに裏切られた気がして。本当に彼らを信じていいのかわからないんです」

「落ち着いて考えて。あなたみたいな人が彼らを信じなければ、誰も彼らを擁護する人はいなくなるわ」

「そうなんですけど、本当にこれでよかったのかって考えちゃうんですよ。だから奥様の声を聞きたくて電話したんです」

「不安なのはわかる。でも、落ち着いて考えるようにして。お願いだから」

 電話を切り、食い入るようにして、テレビの中で喋り続けるアナウンサーを見つめた。

 今のところ情報は限られていた。伝えられたのは、居留地を管理していた男二人が死体で発見されていたことと、JS患者の人数ぐらいだった。あとは警察車両が行き交う札幌市内の様子と、脱出しようとする人であふれかえる空港の様子が映し出されるだけだった。

 こんなとき、山原ならどうしていただろうか。

 あの人だったら、知り合いの政治家に連絡して冷静に対処するよう要請するのだろう。でも、あたしにはそんな伝はない。

 最後に見た、グラウンドを走って行く山原の後ろ姿を思い出していた。衰え始めた体を顧みず、全身から気迫をみなぎらせ、走って行く姿。

 あたしも、何かしなければならない。

 いても立ってもいられず、外出着に着替え、携帯電話と財布をバックへ詰め込んで外へ出た。幹線道路でタクシーを捕まえ、羽田空港へ行くよう頼んだ。

 空港へ到着してタクシーを降り、北海道行きのターミナルで係員に聞きながら、どうにか午後便のチケットを購入した。時間が来て、機内に乗り込んだが、座席はほとんど空席だった。敢えて危険な場所へ向かう人などいないのだろう。

 妙子の乗った飛行機は、新千歳空港に降り立った。

 到着口からロビーへ出たとたん、妙子は人がひしめく状況に圧倒された。家族、カップル、単身、年齢も老人から子供まで様々だ。彼らはロビーだけでなく、売店にまで溢れ、まるで避難所のような様相を呈していた。

 全員、北海道から脱出しようとしている人々だ。

 一様に不安な表情を浮かべ、辺りを見ている。JS患者が怖いのだ。

――現在、新千歳空港発の便は五ヶ月間先まで予約が入っております。予約をされていない方はお帰りいただくようお願いいたします――

 立ち上がる人はどこにもいない。全便満席とはいえ、ここまで搭乗待ちが多いわけはないだろう。この人たちの多くは、出る見込みのないキャンセル待ちをしているのだ。

 とりあえず、警察へ行ってみよう。自分は逃げた患者たちと面識があるのだから、何かの役に立てるかも知れない。

 空港出口へ向かっているとき、人々の間に開いたわずかな隙間から、酔っ払ったようにおぼつかない足取りで歩いてくる若い女性に気づいた。両手で幼い子供を抱いている。

「誰か……この子を助けて下さあい。この子を東京まで乗せてって下さあい。町田にこの子のおじいちゃんが住んでいるんです」

 この人、パニックになっている。落ち着かせなけりゃ。妙子は女性に近づき、そっと肩に手を置いた。

「ねえあなた、JS患者はまだあたしたちを襲ってくると決まったわけじゃないのよ。もう少し冷静に考えましょう」

「そんなのわかったもんじゃない。あいつらがやってきたら、一瞬で町が消えちゃうんだわ。来てからじゃ遅いのよ」

「大丈夫。あの人たちも私たちと同じ人間なの。理由もなく襲ってくるわけがないわ」

「でも、あいつらは凄い力を持ってるのよ。なんでも、あと二週間もしたら、もっと強くなって自衛隊だって負けちゃうぐらいの力が出るっていうじゃないの。そうしたら、誰も止められない」

「あの人たちはそんなに凶暴な人じゃないわ」

「なんでそんな風に言えるんだよ」

 それまで、足下に座っていたうつむいていた男が、不意に顔を上げた。

「それは……」

 足下の男だけでない、いつの間にか周囲の人々が、一斉に不安と憎しみの顔を浮かべ、妙子を見つめていた。

 彼や彼女たちは立ち上がり、妙子へ詰め寄ってきた。

「JS患者はなあ、人間じゃねえ、化け物なんだよ」

「そうさ、熊とかオオカミとかと同じさ。あんな施設に住まわせないで、見つけ次第、殺しときゃよかったのさ」

「俺はあの近くに住んでいるんだが、施設を作るのに反対していたんだ。あのとき、命がけで抵抗すればよかったよ」

「ちょっと待って。まだ、この事件で直接亡くなったのは二人だけよ。ほとんど実害は出ていないわ」

「馬鹿野郎、みんな着の身着のままでここへ来てんじゃねえのか。それだけでもえらい損害なんだ。俺なんか、仕事を辞めて来てるんだぞ」

「そうだ、そうだ」

 不穏な様子を感じたのか、警官が二人で近づいてきた。妙子はほっとして彼らを待った。

「皆さん、どうしましたか?」

「この女がJSの奴らをかばうようなこと言ってたんだ。ちょっとおかしいんじゃねえのか」

「皆さんいろいろ気が立っているのはわかります。ですがこの中でトラブルを起こされるようでしたら、退去していただくことになりますので、お静かにしてもらえますか」

 言葉は丁寧だが、制服と大柄な体格は、有無を言わせない雰囲気を発していた。妙子を取り囲んでいた人たちは、再びその場へ座り込んだ。

「お手数をおかけしまして、ありがとうございます」

 警官に対し、深々とお辞儀をした。

「いえいえ。皆さんも突然のことで殺気立っていますから、ちょっとしたきっかけで声を出したくなるんです。ところで、あなたもここから出発を予定されているんですか?」

「私はついさっき、ここへ到着したばかりです」

「まさか、事件のことをご存じなかったわけでは」

「もちろん存じております。もし、この事件でお役に立てることがあればと思いましてここへ来たのです。私、逃げた人たちを多少知っておりまして」

 その言葉を聞いたとたん、突然穏やかだった警官の表情が硬くなった。

「逃げた人たちを知っているというんですね」

「え、ええ」

 急変した警官の態度に戸惑いながら答える。

「他に同行された方はいらっしゃいますか」

「いいえ。私一人です」

「申し訳ありませんが、ちょっとお話を伺いたいので、私たちと同行願えないでしょうか」

「はあ……」

 もう一人の警官が、トランシーバーで何かを喋っている。その間、妙子と話をしていた警官が移動し、彼女は二人の警官に挟み込まれる形になっていた。

 周囲にいる人々は、黙って妙子を見続けていた。その目には怒りと不安に変わって、怯えが浮かんでいた。

「あんた、もしかしてJSじゃないの」

 子供を抱いた女性が、半ば悲鳴のような声を上げた。

「大丈夫、あの年だと、JSはいないんだってさ」

 誰かが声を掛けたが、怯えた顔は戻らなかった。我が子をしっかりと抱きしめ、人々の間を危なげな足取りで逃げていく。

「さあ、行きましょう」

 ターミナル内にある派出所へ連れて行かれた。十分ほどすると、刑事と名乗る私服の男が現れ、鋭い視線を向けながら、延々と事情聴取をされた。その過程で、ここへ来て捜査に協力するなんていう考えが甘かったと身に染みて感じた。

 ようやく警察から解放された時は、既に日が暮れていた。当分東京へ戻るのは不可能なので、案内所でホテルを予約してもらい、タクシーを拾うため、ターミナルの外へ出た。

 寒い。慌てて開いたままだったコートのボタンを留めた。外は雪が舞い、冷たい風が吹き付けてくる。妙子は冬の東京で外出する服装だったことに、今になって気づいた。靴も普通のウォーキングシューズなので、雪に滑りやすく、たちまち指先が冷たくなっていく。慎重に歩きながら、タクシー乗り場へ並ぶ。

 五番目でようやくタクシーへ乗り込み、車内の暖かさに一息ついた。札幌市内にあるホテルの名前を告げ、タクシーが走り出す。

「お客さん、なんだか尾けられてるみたいですよ」

 高速へ乗ったあと、しばらくして運転手にそう告げられた。妙子は後ろを振り向く。ライトがまぶしくて車種はわからないが、乗用車が一台、タクシーの後ろをぴったりとくっついていた。

「気のせいじゃないですか?」

「ちょっと見ていて下さい」

 タクシーはスピードを上げ、追い越し車線に出て、前の車を追い抜き、再び走行車線へ戻った。後ろにいた車も、同じように追い越しをかけ、すぐに元の通り、タクシーの後ろへ付いた。

「どうですか。明らかに私たちの車を尾けていますよね」

「偶然でしょう」

 しかし、自分の発した言葉とは裏腹に、背筋に寒気を感じていた。緊張で心臓が激しく鼓動し始める。落ち着けと心の中で言い聞かせながら深呼吸をした。

 札幌の町はまだ八時だというのに人通りはない。走っている車も、警察や自衛隊の車ばかりだった。既にシャッターを閉めている店も多い。妙子は初めて来たこの町に、ただならない雰囲気を感じていた。

 ホテルに到着し、タクシーから降りる。再び寒さで体が強ばってくるのを感じながら、道路を見た。

 ホテルの玄関から少し離れた場所に、白いセダンが一台止まっていた。さっきまで、タクシーの後ろに付いていた車だろう。

 俺たちは監視しているぞ。そんな無言の圧力を感じながら、妙子はホテルへ入っていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ