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第1部 隔離 25

「フラッシュバックって言うんですかね。突然あの日の記憶がよみがえってくるときがあるんですよ。そうすると、恐怖がぶり返してきて、体が震えてくるんですわ。特に夜これが起きると、その後眠れなくてね」

 村井は小さく息を吐き、コップのウーロン茶を飲み干した。彼は元々痩せ形だったが、福池の事件以降、更に痩せていた。顔色も明らかに悪い。医師からは、PTSDと診断されているらしい。田原は空になった村井のコップに、ペットボトルのウーロン茶を注いだ。

 今日は食堂で村井の送別会を行っていた。生徒たちが食事を終えたあと、安田を始め、学校関係者が来て、妙子の作った料理を食べている。福池の事件以降、学校関係者が去って行くのは村井で五人目だった。

「でも、教頭はご立派でしたよ。危険な状況の中、本部ビルに一人残って、館内放送で状況を伝えていたんですから」

「やめてくれよ。来週からは君の上司でないんだから」

「僕は本気で言っているんですよ」

 田原は酔いが回って、饒舌になる自分を抑えきれないでいた。

「うすうすわかっていたかと思いますが、正直いって僕は教頭があまり好きではありませんでした。しかし、あの場面で逃げずに踏みとどまったっていうのは、普通できるもんじゃありませんよ」

「私は職務を全うしただけですよ。ただ、その代償は大きかったけどね」

「すいません。握手させて下さい」

「はいはい」

 照れ笑いしながら差し出した村井の右手を、田原は両手で握った。思わず涙が出てくる。

「教頭、なんでやめるんですか。休職扱いにして、元気になったら復帰すればいいじゃないですか」

「いやいや、もう私も年だし、復帰したら即定年だよ。それならいっそのことここで辞めた方がいい。役所へ入って三十五年、ろくに家族サービスもせずに働きづめだし、そろそろ一休みしてもいいんだろうと思ってさ」

 村井の笑い顔は、事件前に見られなかった清々しいものだった。前はさんざん嫌みを言われたりもしたが、今になって思えば、この人もいろいろなプレッシャーがあってそうしたんだなと思う。

「そういえば、川崎さんからその後、何か連絡はありますか?」

「先日絵はがきが来ましたよ。今、オーストラリアにいるそうです。一時期よりはよくなったらしくて、多少外へ出られるようになったみたいです。しばらく滞在するって書いてありましたね。もっとも、まだ薬は手放せないらしいですが」

「そうですか……。あの人の場合、病状は私なんかよりずっと深刻ですからねえ」

 あのとき、川崎の恐怖に駆られた表情を思い出す。当時の彼女を、誰も責められないはずだ。

「田原先生も気をつけて下さい。子供たちを守るのも大切ですが、山原さんのようになったり、私や川崎さんのように、体を壊したらおしまいですよ。

 それにしてもオーストラリアですか。彼女も思い切りますねえ。家族持ちにはとてもできませんよ」

 村井は憑き物が落ちたような顔をして、再び笑った。

 送別会は八時でお開きとなった。田原は本部ビル横にある職員宿舎へ戻り、自分の部屋の明かりを点けた。パソコンのスイッチを入れ、メールソフトを起動させる。仕事絡みのメールに混じって、娘の留美から一通届いていた。携帯での連絡が禁止されている中、パソコンでのメールが、唯一できる外部との通信だった。

――パパへ。クマちゃんのぬいぐるみをありがとう――

 添付画像を開くと、田原が送った熊のぬいぐるみを抱えた留美が写っていた。今日四歳になったばかりの娘に、七十センチ近くあるぬいぐるみは大きすぎるのか、若干体をのけぞらせ気味で少々危なっかしい。それでも、満面の笑みを浮かべている姿を見ていると、思わず微笑んでしまう。返信入力をする。

――留美ちゃんへ。きょうはおうちへかえれなくてごめんね。パパはおしごとがんばるから、留美ちゃんはママのいうことをしっかりきいてください――

 送信しようとして、妻の一恵から必ず写真を添付するよう思い出す。すこし気恥ずかしいが、引き出しからカメラを取り出し、自撮りしたものを添付した。こうしないと、小さな子は長く会わない自分の父親の顔を、すぐに忘れてしまうというのだ。ことに福池の事件以降、一度も家に帰れていない状況ならなおさらだった。

 他のメールを一通りチェックしてソフトを閉じようとしたとき、新たなメールが入ってきた。一恵からだった。

――邦彦さんへ。忙しい中、体は壊していませんか? いろいろ大変な状況かも知れませんが、体調には気を付けて下さい。

 留美は相変わらず元気ですよ。今は幼稚園の夏祭りで披露する踊りの練習をしています。

 ところで、転職の件は考えてもらえたでしょうか。今日もお義父さんとお義母さんが留美の誕生会に来ていたとき、そのことを話していました。私も最近体調はよいので、仕事をできるのではないかと思います。また考えておいて下さい。一恵――

 うちの親もしょうがねえな。また一恵にプレッシャーをかけたのか。田原は手近にあるものをたたきつけたくなる衝動を抑えた。

――検討しているが、今はそうそう簡単に辞められる状況じゃないんだよ――と書き、返信する。

 一恵は留美を妊娠して九ヶ月目から、嘔吐を繰り返すようになった。医師に診断してもらうと、HELLP症候群と診断され、即入院した。出産は帝王切開により、無事留美を産んだが、予後が悪く、肝機能が弱っているという診断だった。このため、出産後に再び仕事へ復帰するという予定は頓挫してしまった。当時田原は小学校に勤めていたももの、非常勤講師という立場で給料も低く、共働きでなければ住宅ローンも払えない状態だった。

 そんな中、知人の学校関係者から紹介されたのが、白坂学園の教師という職だった。JS患者の子供たちを教育するという立場なので、給料は危険手当的な料金も加算され、正規の教師よりも更に高い。不安はあったものの、背に腹は代えられなく、この仕事へ飛びついた。

 福池の事件があったあと、妻や親類から、この仕事へ就いていることへの不安が伝わってきていた。特に両親は急先鋒で、金の問題じゃないとして、強硬に退職を迫っていた。

 確かに金の問題じゃなかった。しかしそれは、親の言っている意味とは違っていた。きっかけはともかくとして、今は教育者としてこの現場から去るわけにはいかないと思い始めていた。確かに彼らは危険だったが、普段はどこにでもいる普通の子供だった。山原や川崎といった、彼らを熱心にサポートしていたメンバーがいない今、自分がいなくなれば、フォローしてやれる者が誰もいなくなってしまう。

 しかし、だ。

 パソコンを閉じ、ウイスキーと氷を取り出し、グラスに注ぐ。

 山原は死に、川崎は心を病んでしまった。村井が言っていた言葉が強くリフレインしてくる。

――山原さんのようになったり、私や川崎さんのように、体を壊したらおしまいですよ――

 確かにそうだった。心が揺れ動く自分を感じながら、田原はウイスキーを口に含む。苦い味が口へ広がり、しばらくすると、冷めかけた酔いが再び戻ってきた。

 福池の事件があったとき、田原たちは職員室にいた。コンクリート片の一つが職員室を直撃し、学校事務をしていた三浦という女性を押しつぶした。熟れたトマトをたたきつぶしたように鮮血が飛び散り、壁とコンクリートの間から突き出た腕が細かく痙攣していた。

 あのときの光景が鮮明に思い出される。田原は思わず吐き気を催し、トイレへ駆け込んだ。

 さっきまで食べていたものが勢いよく吐き出されていく。

 吐くものが血が混じった胃液だけになって、ようやく胃は落ち着きを取り戻した。うがいをして部屋に戻ったが、既に酔いはすっかり覚めていた。再び酒を飲む気にもなれず、ウイスキーは流しへ捨てた。

 川崎はショックで半狂乱に陥り、二人の職員が抱え上げて外へ連れ出した。

――自衛隊を呼んで――

 そう叫ぶ川崎の声がリフレインしてくる。

「私はなんてことをしてしまったんでしょう。山原先生のように、福池君を説得する道があったというのに、彼を殺すよう仕向けてしまったんです」

 事件後の会合で、川崎は人目もはばからず泣き続けた。田原は彼女に慰めの言葉をかけたが、助けにはならなかった。川崎は田原と違って、JS患者を助けたいという使命感に駆られてこの学校へ来ていたからだ。

 自ら自衛隊出動を要請してしまったのは、それまで費やしてきた思いを、全否定してしまう行為だったのだ。

 川崎は鬱病と診断され、退職を余儀なくされた。

 強い疲労感が、田原を押しつぶしていく。シャワーも浴びる気になれず、服を脱いで下着だけになると、電気を消してベッドへ横たわった。

 体は確かに疲れていたが、意識だけは冴え冴えとして、目をつぶっても眠気は差してこなかった。

 一体これからどうなるんだろうか。暗闇の中、不安が心の中にふくれあがっていく。

 山原の後任が朝倉に決まったのは、事件後四ヶ月経ってからだった。週刊誌によると、山原のような緩和派から、規制派の最右翼である朝倉が着任するのに、文科省内部で相当議論があったようだ。しかし、田原のような下っ端には、そんな情報は入ってこない。着任までの期間が長かったということで、その気配をうかがい知れるだけだった。

「田原君、やっかいな話になりそうだよ」

 安田は朝倉の着任が正式に決定したあと、職員室に二人だけしかいなくなったのを見計らって話し始めた。

「一昨日ヤフノスキ症候群対策委員会の定期会合あったんだが、その席で、朝倉さんと初めて顔を合わせたよ。そこで最初に発言したのが、ここのセキュリティ強化だった」

「福池の事件後、相当レベルは上がっているはずですが」

「それでも不足だと言うんだな。確かにストロンチウム製剤は経口投与から静脈注射へ変更したし、自衛隊出動についてのガイドラインも作成した。だが、JS患者を殺傷できる武器は強化されていない」

「その点は、自衛隊への要請を迅速に行っていくことで結論が出たはずです」

「それでは遅いそうだ。仮にJS患者が暴動を起こした場合、自衛隊へ応援要請する前に我々が圧制される恐れがあるというんだ」

「それじゃあ、生徒たちは悪者みたいじゃないですか」

 安田は田原の憤り含んだ言葉に頷く。

「我々はこれまで、この学校を性善説的な立場で運営していた。生徒たちはなるべく外へいるときと同じ生活をさせたいと思い、この学校を運営してきた。しかし、今後はそういうわけに行かないだろう。

 知っての通り、朝倉さんはJS患者に人権を認めない方向で動いている人だ。彼にとってJS患者は悪であり、社会から排除されなければならない存在なんだ。もちろん私や萩谷理事長はこれまでの方向を維持したいが、朝倉さんにセンターの運営への発言権がある限り、軌道修正は免れないよ。

 彼が主張しているのは武器の強化の他、面会の原則禁止だ。現在休止扱いの外出も、全面禁止として扱う」

「そんなことをしたら、生徒たちは反発するだけですよ」

「私も同じことを彼に言ったよ。そしたら、もっと押さえつければいいと言うんだな。どうしようもないよ」

「しかし、どうしてあんな人が山原さんの後任に就いたんでしょうか」

「どうやら今後の法改正を睨んでのことらしい。今や世界的なトレンドはJS規制強化だよ。新聞社のアンケートでも、規制強化支持が過半数になっているしな」

「あの男が主張しているとおり、JS患者は人間でない、別の生物として取り扱われるのですか」

「可能性は大だ。この解釈なら憲法改正が必要ないから、法整備のハードルは低い。JS保護法を軸に改正し、国会の審議だけで法整備が可能となる。今のところJS患者の人権を主張してくれている国会議員はまだいるが、このあいだの参院選では半減したしな」

「古坂さんも、とうとう引退しちゃいましたしね」

「あの人も年だからな。若手の国会議員は規制派が多いし、法改正も時間の問題だろう」

 一週間後、朝倉が初めて研究所へ来た。挨拶回りで職員室に現れた彼は、テレビで見るよりも小柄だった。脳天は禿げており、三つ揃いのスーツをきっちりと着ていた。意志の強そうな目で職員たちを見回す様子は、討論番組で相手を打ち負かそうとする姿を連想させ、思わず緊張してくる。

「初めまして、朝倉です。日本のJS政策は、現在非常に困難な事態に直面しています。そんな中、皆さんとともに手を取り合い、微力ながらも貢献していく所存であります。是非ともご協力をお願いいたします」

 言葉は丁寧だが、口調には有無を言わせぬ響きがあった。かつて自分の学説が異端扱いされ、教職を得るのにも苦労していた。にもかかわらず、自説を変えなかっただけあって、意志の強い人なのだろう。

 朝倉の着任後、研究者の入れ替わりが激しくなっていった。当初いたメンバーは全員何らかの形で山原の影響を受けていた人たちなので、この動きは当然だった。

「自分の研究が、あの人に受け入れられる訳ないですからね」

 食堂で一緒になった、知り合いの若手研究者が溜め息交じりで話し始めた。

「転職先は福岡で、正直マイナーな学校なんですけどね。ここで冷や飯を食っているよりは、精神的によっぽどいいですよ」

「やっぱり評価とか、相当違ってくるんでしょうね」

「穏健派というだけで、既にマイナスですよ。それに朝倉さんたちのグループとは、生理的にも合わない。エリート然として人が多いんですよ。

 あの人たちはJS患者が違う人種とみていて、彼らをいかにコントロールするかを主眼に置いていますから、どうしても権威的になりがちなんですね。研究者だけでなく、学校関係の方も、新しくここへ来た方は、そういう傾向が強いんじゃないですか」

「確かにそうですね。上の人たちは、考え方が朝倉さんの方針に近い人を採用しているんですかねえ」

「そうだと思いますよ。その方が運営していくのに楽ですから。山原さんが亡くなってから、どんどん変わってきますよ」

 二人は大きくため息をついた。


 夏が過ぎ、朝晩が冷え込み始めた秋の日、ジューケイの施設送りが決定した。移動決定後、他の生徒たちとは隔離されるため、田原から話があっただけだった。対して一ヶ月後に行われた奈美の試験では、彼女にアグノーが消えているのが確認された。本来は喜ぶべきことだったが、彼女はジューケイと別れなくてはならなくなる。

 アグノーが消えた生徒は手続きが済むまで一緒に生活をするので、俊たちは彼女の様子を見ることができた。他の生徒なら幸せな顔をしているのだが、奈美はジューケイと別れなければならず、終始暗い顔をしていた。

「なんだか、お祝いしていいのか慰めていいのかわかんないよね」

 とぼとぼとグラウンドを歩いている奈美を、校舎から頬杖をついて見ていたヌシがつぶやく。

「クソな世界からおさばらできるんだぜ。ハッピーに決まってるだろ」

「そうよね」

 力ない言葉が返ってきた。

「もしヌシがアグノーをなくしてここから出られたら、何をしたいんだい」

「わかんない。あたし、あんまり興味ないから」

「お前だってここから出たいんだろ」

 ヌシの投げやりな態度に、思わず怒りがこみ上げてきた。

「俊、よしなさいよ」隣にいた由衣が諫める。「香織もそういう態度はいい加減やめてよ。みんなあんたを心配しているんだから」

 ヌシからは快活さが消えていた。優介との別れ、美佐子の変わり果てた姿、そして山原と福池の死。どれもどうにもならない力で押し切られていく。そんな中、彼女が無力感にうちひしがれるのは仕方ないと思いながらも、見ているのは辛かった。

 森山はほとんど仲間と交わらなくなり、休み時間は携帯ゲームばかりしていた。話しかけると、「ごめん、話しかけないでくれ」と言われた。

 昔の森山なら、話をしたくない時は強く拒否するはずだった。少なくとも「ごめん」なんていう言葉は使わないはずだ。それだけに、彼の傷が深いのを感じる。

 そんな中で、あまり変わらなかったのが由衣と浜口だった。今や沈滞したクロックのムードを下支えしているのは日頃穏やかな二人だった。案外、精神的に強いんだなと俊は思う。

「この中で誕生日は、由衣が一番早いんだろ」

「うん。四月十日よ」

「あと四ヶ月ちょっとか」

 来年になれば、いよいよ自分たちの番が来る。そう思うと、思わず緊張してしまう自分がいた。

 年が明け、ジューケイたちのクラスは全員試験を受け、ほとんどが施設へ送られた。田原は何も言わなかったが、解放されたのは奈美だけだったようだ。館野も施設へ送られている。期待がどんどんしぼんでいく気がしていた。


       第1部 了

第1部は終了でございます。ここまで読んでくださった皆様方にお礼を申し上げます。引き続き、2部もよろしくお願いいたします。更にハードな展開になっていきます。

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