第1部 隔離 10
秋に申請したのが、いつの間にか肌寒くなり、出かける当日は施設に初雪が降っていた。俊は実家から新たに送られてきたダッフルコートを着て、食堂へ行くため、いつもより早めに宿舎を出た。集合が八時なので、朝食を早く食べなければならないのだ。
外は風がないものの、空気は冷たく、雪が間断なく降り続いていた。ただ、まだ降り始めなのか、積もるほど降っていない。まだ十二月だというのに、こんなに寒いと、一月はどこまで寒くなるのだろうかと思う。俊は白い息を吐きながら、食堂へ向かった。
食堂は暖かく、コートを着ていると息苦しくなってくるほどだった。室内はパンが焼ける香ばしい匂いが立ちこめていた。テーブルには今日行くメンバーのうち、浜口とヌシ、それに由衣が座って食事をしていた。俊もおばさんから食事をもらった。今日はバターロールと牛乳、それにハムエッグだった。
「俊君は初めて行くの?」
「うん」俊は少しはにかみながら頷いた。
「申請が九月なんだから、本当ならもう少し早く許可が下りてもよかったのにねえ」
「なんだか許可はすぐに下りたんだけど、六人もいるから警備する人が大変で、時間がかかったみたいだよ」
「そういえば、原口さんもこのところ忙しいらしくて、食事に来るのが毎日遅かったわねえ」
「ふうん」
「今日は思い切り楽しんで行きなさいよ」
「ありがとう」
俊は微笑みを浮かべているおばさんからトレイを受け取り、仲間のいるテーブルへ行った。少しすると美佐子もやってきた。
「後は森山君だけね」
ヌシはもう食べ終わり、食堂の棚にあるインスタントコーヒーへ湯を入れて飲んでいた。
「あいつ、言い出しっぺなのに一番遅いんだな」
俊がパンをほとんど食べ終わろうとする頃、森山がようやく食堂へ入ってきた。
「ごめんごめん、ちょっと寝坊しちゃったよ」
あくび混じりに謝る態度が森山らしかった。
「八時集合なんだから、早くしてよ」
「大丈夫。俺、食うのは早いんだから」
そう言った通り、森山はパンを牛乳で流し込み、五分もかけずにすべて食べ終えた。
「さ、行こうぜ」
六人は集合場所になっている研究所のエントランスへ向かった。雪は相変わらず降り続いていた。他の生徒はこれから食事に出て行くくらいの時間なので、周囲は静かだった。大半の建物は暗かったが、職員室の窓だけは明かりが灯っている。
エントランスにはいかつい体つき男が、ソファに座って新聞を読んでいた。警備を担当している原口だった。いつものスーツとは違い、今日はジーンズにカーキ色のジャンパーを羽織っている。
「おはようございます」
「おはよう。五分前に来てくれるとは感心だな」
「だって原口さん、一分でも遅れたらスゲー怒るでしょ」
「まあな」原口は笑った。「約束の時間を守るのは基本中の基本だからな」
原口はジャンパーの内ポケットからトランシーバーを出し、全員集合したことを誰かに報告した。
「さあ、行くぞ」
原口の後に続いて、建物の外へ出た。そこにはワゴン車がエンジンをかけて止まっていた。中へ乗り込む。運転席には若い男が座っていた。
「俊は初めてだよな」
「はい」
「この場所はな、セキュリティ対策のため、一般に公開されていないんだ。だからな、情報漏洩を防ぐため、お前たちにも場所は明かされていない。それでどうするかというと、一旦みんなに目隠しをしてもらう」
原口は車内にあったバッグからアイマスクを取り出し、全員に配った。
「別にお前たちを疑ってるって訳じゃないんだ。ただ、お前たちは将来ここを出て行く身だ。何かの拍子にうっかり喋らないとも限らん。情報を持つ者は最小限に抑えたいのさ」
ヌシや森山は慣れた手つきで、さっさとアイマスクを付けていた。
「俊も付けなよ」隣にいた浜口に促され、アイマスクをはめた。目の前が真っ暗になり、少し不安な気持ちになる。
「これから出発する」
原口の声が聞こえると同時に、車内がわずかに揺れ始めた。どうやら車が動き出したらしい。スピードを上げたのか、エンジン音が大きくなり、揺れも激しくなった。
「気持ち悪くなったら、対処するから言ってくれ」
視界がなくなると、時間の感覚も曖昧になってきて、いつの間にか眠っていた。車の揺れが止まって目覚める。
「休憩だ。もうアイマスクを取ってもいいぞ」
アイマスクを外すと、まぶしくて何度も目を瞬いた。ようやく目が慣れて窓の外を見る。駐車場らしく、他に何台か車が止まっていた。高速道路の休憩所のようだった。
隣の浜口はまだアイマスクを付けたままだ。口を半開きにしたまま、シートに体を預けている。
「浜口、起きろよ」
前の席にいた森山が身を乗り出し、額を小突いた。浜口は一瞬びくんと震え、慌ててアイマスクを取った。
「ふう、つい寝ちゃったよ」
浜口のとぼけた表情に、みんなが笑った。
「俊、あれを見ろ」原口が窓の外を指さした。「トイレと、隣に自販機コーナーがある。お前たちはそこ以外行ってはいけないことになっている。他の連中もわかってるな」
「はあい」
運転手の男以外は全員外へ出て、トイレへ向かった。俊はちらりと看板を見た。「愛鷹パーキングエリア」と書いてある。
「全くめんどくさいことするもんだよ」隣を歩いていた森山がつぶやく。「わざわざ東名高速なんか出て遠回りしなくてもさ、138号線を行った方が早いんだよ」
「それって、学校の場所がわかってるってことなの?」
「学校がある場所は御殿場。それも自衛隊が持っている演習場の中にあるのさ。常識だよ」
「でも、秘密にされているんでしょ」
「無理無理。秘密になんかできるわけないよ。だって、今まで百人以上人が出入りしているんだぜ。いろんな情報を集めれば、だいたいの位置なんて特定できるさ。原口だって、その辺りのことはうすうす感づいてるはずだぜ」
「ふうん。そうなんだ」
「ただし、原口には場所の件を直接言うんじゃないぞ。ばれたら萩谷辺りが、規則を変えるとか言って騒ぎ出すからさ」
「わかったよ」
トイレに行ったあと、自販機でコーヒーを買い、バスへ戻った。原口が誰かへ連絡してバスは発車した。一時間ほどバスが走ったところで、静岡と山梨の県境にある富士見サンシャインパークへ到着した。
バスは通常の駐車場へは行かず、〈関係者以外立ち入り禁止〉の看板が出ているゲートをくぐって中へ入った。業者用の駐車場になっているようで、トラックやバンが止まっている。
「よかったな、どうやら雪は大丈夫なようだぞ」
原口がバスから降りて、空を見上げた。あとから出てきた俊たちも空を見上げる。まだ太陽は見えなかったが、雲の切れ目から、青空が覗いていた。学校の場所が御殿場だとしたら、標高は同じくらいだが、朝より暖かい。風は冷たかったが、雪が少し降ったせいか、乾燥していないので心地よかった。
「これから自由行動だ。十五時にこの場所へ集合する。くれぐれも遅れないように」
俊たちは原口と別れ、通用口を通って遊園地の中へ入っていった。
原口は生徒たちを見送り、駐車場へ隣接されている事務所へ入った。そこにいた職員へ挨拶をして、また外へ出ると、駐車場の片隅に止まっている別のバスへ向かった。グレーで、運転席以外の窓はふさがっていた。原口は入り口へ立った。
「開けろ」
自動ドアが開き、中へ入る。やや薄暗い車内の壁沿いには、モニターがずらりと並んでおり、四人の男たちが画像をチェックしていた。
「ご苦労さん。どうだ、園内に異状はないか」
「はい、今のところは」
このバスはJS研究所警護斑の指揮管制車だ。園内の監視カメラとつながっており、十人いる監視員と、コンタクトがとれるようになっている。
「園内いる者には、必ず定期報告をさせるんだ。前回のような怠惰は許さんぞ」
「はい」
出張警備が始まってから、今まで大きな問題はなかった。何度か生徒が逃走しかけたときもあったが、すべて未然に防いでいる。事情を知らない不良が絡んできたときは、生徒たちがアグノーを出す前に介入し、事なきを得た。
そうした実績もあるせいか、このところ、警備が惰性で動いている感があった。前回監視員の定期報告が漏れたのも、そうした背景があるからだ。やはり、たまにはカツを入れていかなければと思う。
もっとも、彼らがだらけるのもわからないではなかった。世間的に名の知れたVIPならともかく、相手は年端もいかない子供だし、特に危険な情報があるわけでもない。原口自身もふと気づけば、惰性で動いている自分に気づくときがある。
しかし、彼らは特別だった。いくらストロンチウム製剤を服用しているとはいえ、原口が素手で彼らと戦い、勝つのは不可能だ。まだあどけない顔をしているが、恐ろしく危険だ。
一体どうしてこんな子供が生まれちまったんだろうか。笑顔を見せて園内を歩いている子供たちを見ながら、原口は来年中学生になる自分の息子を思った。彼らには申し訳ないが、息子には決してあんな症状を出してほしくないと思う。
「ねえ、最初は何に乗ろうか」
広場にある案内板を見ながら森山が言った。
「もちろん〈ボイジャー〉でしょ」ヌシが答えた。
「だよねー」
案内板のイラストを見る。〈ボイジャー〉と表示されてある下に、ジェットコースターのイラストが描かれていた。確か、この施設最大級の絶叫マシンだったはずだ。俊はさっき飲んだコーラが胃から押し出されそうな気がしてくる。
正直言って、俊はこの手の乗り物が苦手だった。富士見サンシャインパークへは何度か来ているが、ボイジャーへはまだ一度も乗ったことがない。しかし、ここで自分だけ行かないと言うのはためらわれた。これで気まずくなるのは嫌だし、特にヌシがノリノリなのが気になった。
ま、いいんだけどさ。俊は由衣とケラケラ笑い合いながら歩いているヌシから視線を外した。
前に行ったときは順番待ちの列がある印象だったが、今日は平日で一番早い時間だったせいか、〈ボイジャー〉の前には誰もいなかった。みんなでチケットを買い、受付に並ぶ。
「あれ?」
隣り合った浜口と俊は、お互い不安げな顔をしているのに気づき、見合った。
「浜口、お前ボイジャーだめじゃないのか」森山がニタニタ笑って後ろから浜口をつついた。「俊もそんな感じだけど。無理しなくってもいいんだぜ」
「大丈夫さ。そうだろ」
俊の言葉に、浜口は不自然に頷いた。
先頭はヌシと由衣、次に森山と美佐子、最後に俊と浜口が乗った。一周回って戻ってきたとき、俊は想像以上のアップダウンとスピードで、頭がくらくらした。次に来たときは絶対乗らないぞと思った。口を半開きにして呆然とした顔をしている浜口も、同じ意見に違いないと思う。
〈ボイジャー〉から出てきたとき、俊は一瞬視線を感じた。道を歩いていた女性が、確かに自分たちを見ていた。それが顔に出ていたのか、ヌシが説明する。
「あの人、きっとあたしたちを警護してる人だわ。何かトラブルが起きないように、この中で監視してるのよ」
「そう。誰も脱走しないようにってね」
「森山君は相変わらず皮肉屋ね」由衣が口を尖らせた。「あたしたちが他の人と喧嘩なんかしてアグノーを使ったら、大変なことになるのよ。原口さんたちはそれを防ぐためにいてくれてるの」
「二人が言ってることは両方正しいわ。あの人たちはあたしたちが逃げたり、問題を起こしたりしないよう監視してるのよ」
「本音を言えば、あたしたちをこんな所へ連れて行きたくないんでしょうけど、行動を制限したら、憲法違反になるのよ」
「憲法違反?」
普段聞き慣れていない言葉に、俊は思わずオウム返しになる。
「美佐子のお父さん、弁護士なのよ」
「お父さんがいいつも言ってるわ。私たち犯罪者じゃないんだから、不当に拘束されるのは、憲法二十二条に規定する移転の自由に反するのよ」
「美佐子のお父さんは、JS研究所へあたしたちを拘束するのが憲法違反だと言って、国を相手に訴訟を起こしてるのよ」
「そう。こう見えても、あたしは原告なのよ」美佐子はニコリと笑う。「いつか、みんなを学校から出しあげるわ」
「頼むぜ、美佐子センセイ」
「茶化さないでよ」
美佐子がぱしりと森山の肩を叩いた。「へへっ」と森山が笑う。
「さて、次は何に乗ろうか」
「今度はゆったりしたのにしようよ」
浜口のリクエストで、観覧車へ乗ることにした。ゴンドラは二人乗りなので、三組に分かれることになる。とりあえず、森山と美佐子が一緒に乗るのは既定路線だった。
「お前ら、せっかく来たんだから、男同士で固まるんじゃねえぞ」
いきなり森山へ釘を刺されて、俊はどぎまぎした。浜口と由衣も困ったのか、曖昧な笑みを浮かべていた。ヌシだけが落ち着いて三人をじっと見つめた。
「どうする? あたしはいいけど」
「うん、あたしも」
由衣がおずおずと答える。
「どうするね」
浜口が困った顔をしているので、俊が「じゃんけんで決めよう」と言った。他の三人が頷く。
「ちょっとだらしねえ感じだけどな。まあいいや、好きにしてくれよ」
男と女同士でじゃんけんをして、勝った方と負けた方同士で、同じゴンドラへ乗ることにした。俊とヌシが負けて、浜口と由衣が勝った。
ヌシが負けた瞬間、俊は浜口をちらりと盗み見た。
――浜口もヌシが好きらしいんだ――
森山が言っていたのを思い出す。
一瞬悲しそうな表情をしたように思えたが、気のせいかもしれない。もちろん、真意を確かめる勇気はなかった。
「さあ、行きましょ」
ヌシと森山、それに美佐子が乗り場へ向かって歩き出す。そのあとを俊たちがおずおずとついて行った。最初は森山たちが乗り込み、次に俊とヌシが乗った。
ゴンドラがゆっくりと上昇していく。さっきまで覗いていた晴れ間も今はなくなり、どんよりとした雲が空を覆っていた。ヌシはぼんやりと外を眺めている。何か話さなきゃなんないだろうなと思いながらも、言葉が見つからない。
「富士山、もやがかかって見えないわね」
「うん」
ようやく出た言葉も、後が続かなかった。
俺と一緒でよかったの? それが今、一番彼女に聞きたかったこと。
でも、今の俊には、絶対に聞けなかった。
別に。どっちでもいいわ。そんな言葉を投げかけられるのが一番確率が高そうで、怖かった。
こんな思い、一体どう表現したらいいんだろうかと思い、俊は戸惑った。
故郷や家族のこと、本当は話したいことが山ほどあった。でも、何を言っても彼女を傷つけてしまいそうで怖い。その中には彼女が必ず触れてほしくない部分があるはずだ。自分もそうであるように。
後頭部と膝裏がくっついた死体。壁に打ち付けられた男、腸をはみ出しながら這っていく姿。不意に記憶がフラッシュバックしていく。
「大丈夫?」
ヌシが心配そうに顔をのぞき込んでいた。いつの間にか俊は目をつぶり、両手の拳を握り締めていた。
「ごめん、こんなところで」
気恥ずかしくて、思わずうつむいた。
「謝ることなんかないわ。誰にでもあるのよ。深呼吸して。ゆっくり、大きくね」
言われたとおり、深呼吸した。少し落ち着いてくる。
「ヌシもこんなことがあるの?」
「当たり前じゃない。最近はかなり落ち着いてたけど、それでも年に二、三回あるわ」
「どんな光景なのさ」
一瞬、ヌシの動きが止まった。
思わずつぶやいた自分に、激しく後悔した。
「ごめん、余計なこと聞いちゃったよ」
「どうしてそんなことが聞きたいの」
ヌシは俊をまっすぐ見つめてきた。
目は笑っていない。かといって、怒っているわけでもない。
「わからない。わからないよ」
俺、一体どうしてこんなことを聞いてしまったんだろう。それが一番聞かれたくないのはわかってたじゃないか。
気まずい沈黙が続いたあと、ヌシが小さく息を吐いた。
「ごめん、変なところ突っ込んじゃって」
「こっちこそごめん。最初に変なことを聞いた俺が悪かったよ」
「あんまり謝らないでよ」
「ごめん。あ、謝っちゃったか」
二人はようやく笑った。
「また雪が降ってきたわ」
雪が止めどなく下へ落ちていき、窓に張り付いたものは次々と溶けていく。ゴンドラは一番高い場所まで来ており、見下ろすと、他の乗り物や建物が、ミニチュアに見えてきた。雪のせいもあるのか、ひどく寒々しい光景に見える。
「そういえば、あたしと由衣が参加したの、みんなびっくりしてたでしょ」
「う、うん」
事実だった。優介の事件のあと、彼女たちがダメージを負っていたのは、落ち込んだ様子からも想像できたからだ。発案した森山自身も、二人が了解したのに驚いていた。
「例の事件が起きたあと、優介と会ったの。本当はだめみたいだったけど、ある日、山原先生がこっそり連れてきてくれたのよ。ほんの十分間だけだったけど、それで心の整理がついたわ」
「優介さん、かなり落ち込んでいたかい?」
「ううん、意外とさばさばしていた。福池があんなことをしなくても、だめなものはだめ。十八になったらなるべく静かに過ごすなんて、気休めでしかなかったって言ってたわ」
「俺はあの人とあんまり話したことなかったけど、様子はなんだか想像がつくよ」
「うん。優介は取り乱すような人じゃないからね」
ゴンドラが下まで降りてきて、外へ出た。雪が降り始めたせいか、乗るときよりも肌寒かった。次に降りてきた浜口と由衣は楽しげに話し続けていた。少しほっとする。
その後、さらにいくつか乗り物を楽しんだ。十二時になったので、園内のフードコートへ行き、昼食を摂ることにした。