その30
○登場人物
宮尾大和・みやおやまと(特に何かに秀でたこともなく毎日を生きている)
橋山加奈子・はしやまかなこ(生まれつき病気を抱えたまま生きている)
南江くるみ・みなみえくるみ(加奈子の友達で良き理解者)
山津高志・やまづたかし(大和の小学校からの友達)
村石樹・むらいしいつき(大和の中学校からの友達)
武正七恵・たけまさななえ(大和の高校の同級生、自由人で大和を気にかけてる)
橋山達夫・はしやまたつお(加奈子の父親、医者で加奈子の病気を気にかけてる)
橋山時枝・はしやまときえ(加奈子の母親)
そのときは思ってたよりも早くにやってきた。
「大和くん、陣痛来たかもしれない」
仕事の合間の昼食の時間に携帯の留守電に加奈子ちゃんの辛そうな声のメッセージが
入っていた。
出産予定日よりもそこそこ前だったから、急な展開に一気に慌ててしまう。
とりあえず、社長に状況を伝えて早退し、病院に向かった。
新幹線でも、電車でも、バスでもとにかく緊張はおさまらず、どうにか少しでも早く
進んでくれないものかと勝手に願っていく。
病院に着くと、分娩室に急ぐ。
部屋の前にはすでにオジさんとオバさんの姿があった。
まだ産まれてはなく、加奈子ちゃんが入ってからは5時間あたり経過してるようだ。
そこで二言三言のやりとりをすると、僕も2人と同じようにイスに腰掛けて待つこと
にした。
加奈子ちゃんからは3人とも分娩室には入らないでほしいと言われていた。
加奈子ちゃんなりに最悪の事態を想定して、誰にも見ないでほしいという結論を出し
てのことだった。
そんな万が一の状況もある可能性の中で落ち着こうとするのは無理で、座ったり立っ
たりを繰りかえし、気持ちがうまく定まってはくれなかった。
結局、分娩室に入る前には何も声をかけてあげることはできなかった。
電話は毎日してたけど、面と向かって話したのは数日前に病院に来たときになる。
「また来週来るから」
「うん、またね」
その会話が最後になる。
そのときはそれが最後だなんて思ってはいなかった。
でも、本当に最後になんてなりはしない。
またねって言ったんだから、絶対にこの次はあるに決まってる。
そう願い続けた。
一時間でも、二時間でも、何時間でも。
その先に光があることを信じて。
そして、そのときはここに来てから8時間を過ぎた頃にきた。
赤ちゃんの泣き声が届いてきた。
ずっと不安定な思いの中にいた3人には希望の音に聞こえた。
最初の安心を得られたのと同時に、次の不安も訪れてくる。
分娩室の扉が開くと、先に出てきたのは赤ちゃんだった。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
ナースの言葉の通りに泣き声の絶えない小さくてかわいい赤ちゃんの姿があった。
自分が父親になった実感なんて全くだけど、この子が自分の子供なのかと思うと不思
議な感覚とともに何物にも変えられない感情が溢れかえった。
「加奈子は?」
目の前の赤ちゃんに心を奪われそうになってた中、オジさんがたずねた。
「母子ともに健康です」
その言葉に、全てが救われた。
オバさんはその場に崩れるように泣いていく。
オジさんはそのオバさんの肩を抱いて、「よかった」と感情的に呟いていた。
僕もそうしたかったけど、僕も膝から崩れそうなのをなんとか立っている状態だった。
未来というものが初めて翳りもなく見渡せた気がした。
嬉しくて、喜びまくりたくて、喚きちらしたいほどの思いが募ってくる。
そのとき、分娩室の扉が開いて加奈子ちゃんが運ばれてきた。
駆けるように近づいていくと、加奈子ちゃんは目を閉じたままだった。
「今は気を失っています。そのうち、意識は戻ります」
ナースの言葉を聞いて、ようやく気を落ちつけることができた。
「出産において特に大きな問題はありませんでした。ただ、状態が状態なのでしばら
くは慎重に経過を見ていく必要はあります」
すぐに後ろから来た医者にも説明を受けた。
加奈子ちゃんが運ばれた個室へ移動する頃にはもう深夜を迎えていた。
1時間半後に加奈子ちゃんは目を開いて、ゆっくりと部屋にいる僕ら3人を確かめて
いく。
「私、生きてる?」
第一声は現実の確認だった。
「うん、生きてるよ」
加奈子ちゃんの手をとって伝える。
「これ、夢じゃないよね」
次の言葉も現実の確認だった。
「うん、ちゃんと生きてるよ」
両手に力を入れて、しっかりと伝える。
「やった」
現実と確かめたのか、力のない声でそう口角を上げた。
「ありがとう」
泣きながら言うと、加奈子ちゃんは「泣かないで」と小さく言った。
「ありがとうを言うのは私だから」
加奈子ちゃんはゆっくりと3人に向けて口を開いていった。
「お父さん、ありがとう」
「お母さん、ありがとう」
「大和くん、ありがとう」
結局、諸々のことで眠ることができたのは明け方近くになり、ほんの気休めぐらいの
睡眠しかとれなかった。
それでも、朝目が覚めたときに現実が現実のままあったことで安心できた。
他の人たちには何変わらぬ新しい一日のはじまりなんだろうけど、僕には今までとは
違う新しい世界のはじまりだった。
昨日とそう変わらない世界のはずなのに、とても綺麗なものに思えてしかたない。
昨日まで携えていた重いものが取りはらわれて、とても身軽な気分になっていた。
それはオジさんもオバさんも同じで、加奈子ちゃんはこの何倍もの感覚でいることだ
ろう。
無事に出産が終わったことを電話でみんなに伝えると、山津も村石も南江も社長も自
分のことのように喜んでくれた。
その温かさに僕もまた温められた。
よかった。
本当によかった。
病室に戻ると、加奈子ちゃんが目を覚ましていた。
近づいていくと手を差し伸べられたので、その手をとって横のイスに座った。
みんなに報告してきたことだけ伝えると、そこからは何も言葉はなく、ただ手を取り
あっていく。
視線はずっと合わせたまま、加奈子ちゃんは生きてることを確かめるように僕の手を
少しずつなぞっていた。
大丈夫、ちゃんと生きてるよ。
もう怖いものなんてない。
こんなに大変なことを乗りこえたんだから。
だから、これからは何があっても越えていける。
僕も全力で守る。
こうやって力を送りつづける。
繋がれた手を通して、その思いを届けていった。
それからまもなくして、加奈子ちゃんと新生児室にいる赤ちゃんのところに行った。
多くの新生児の中から僕らの赤ちゃんを手渡されると、加奈子ちゃんは感慨深くジッ
と見つめていく。
指で体を柔になぞりながら「はじめまして」と呟き、そっと抱きしめた。
「絶対、私が守ってあげるからね」
そう腕の中の赤ちゃんに伝えると、僕の方に赤ちゃんを向けてくる。
「かわいいね」
今までに目にしたことのないような加奈子ちゃんの笑顔だった。
寸分の邪気もない笑顔。
僕も「うん」と頷くと、加奈子ちゃんから赤ちゃんを手渡される。
僕もその小さな体をそっと抱きしめながら無償の思いが芽生えてきた。
何にも変えられない確固たる思いが。
そんな僕の姿を目にしながら、加奈子ちゃんは微笑んでいた。
「幸せってこういうことを言うんだろうね」
僕が今まさに思っていたことを加奈子ちゃんは言った。
「ずっとこのままでいようね」
「うん」
僕らの新しい世界は希望で満ちていた。




