電子の海に宿る精霊〜関ヶ原で西軍勝利した四百年後のIT戦争史〜
関ヶ原の合戦は、西軍の勝利で幕を閉じた。
小早川秀秋は、裏切らなかったのである。
たった1人の決断が、400年後の世界地図を書き換えた。
豊臣政権は存続し、日本は徳川の治世を迎えることなく、鎖国をしなかった。
朱印船は南へ、西へと帆を広げ、ルソン、シャム、安南、ジャワへと航路を結び、日本人街は各地に根を下ろしていった。
海外との交易は絶えることなく続き、西洋の科学や航海術、火器、数学は100年、200年という歳月をかけて日本へ溶け込んでいった。
急激な文明開化ではなく、緩やかで着実な変化。
その積み重ねは、やがて世界でも類を見ない海洋国家を生み出した。
やがて日本の朱印船は、南十字星の輝く未知の大陸へ到達する。
後にングランバンと呼ばれるその大陸――史実でいうオーストラリアである。
ングランバンとは、アボリジニの言葉で「家」を意味する。
そこでは先住民族アボリジニとの交易が始まり、征服ではなく共存を選んだ日本人たちは、ともに町を築き、新たな文化を育んでいった。
そして日本人はアボリジニと共にングランバンでクック船長を出迎え歓待したのである。
日本人とアボリジニの血は世代を重ね、太平洋には海を祖国とする新たな民族が誕生していく。
さらに東には、アオテアロア――史実でいうニュージーランドがある。
アオテアロアとは、マオリ族の言葉で「長く白い雲のたなびく地」を意味する。
マオリの人々が暮らすこの島々もまた、日本との交易によって独自の発展を遂げ、太平洋文明圏の重要な一角となった。
こうして日本、東南アジア、インド、ングランバン、アオテアロアを結ぶ巨大な海洋交易圏が形成される。
一方、大西洋の彼方では、ヨーロッパ諸国が西の大陸へと進出した。
西の大陸を先住民はタートルアイランドと呼んでいたが、後に移民によって支配され南北アメリカ大陸と呼ばれる事となり、一神教を共通の価値観とする銀本位制の国家群が勢力を拡大していった。
19世紀になると、蒸気機関、製鉄、電信、鉄道が世界を変えた。
日本は首都大阪を中心に長年にわたる交易で蓄えた知識をもとに工業化を進め、太平洋交易圏の中心国家となる。
ングランバンで産出される豊富な金資源は経済を支え、「黄金の国ジパング」と「ゴールドラッシュの大陸ングランバン」は金本位制で太平洋経済を牽引する両輪となった。
太平洋と大西洋。
多神の文化圏と唯一神の文化圏。
金本位制と銀本位制。
二つの世界は、それぞれ繁栄を極めていく。
20世紀、人類は空を飛び、海底に通信網を張り巡らせ、世界はかつてないほど近くなった。
しかし近づいたからこそ、2つの文明は互いの存在を無視できなくなる。
銃ではなく市場で。
戦艦ではなく技術で。
植民地ではなく情報で。
覇権を巡る争いは、新たな時代へと姿を変えていった。
1990年代、世界は二つの情報圏へ分かれる。
西方圏は、巨大マザーコンピューターを中心とした統一された設計思想を持つVindows系OSを世界標準として広げようとした。
東方圏は、日本で生まれたFRONアーキテクチャを基盤に、分散型ネットワーク社会を築き上げる。
人々はこれを、「OS戦争」と呼んだ。
やがて21世紀。
史実より早く、人類は現実世界と仮想世界を自在に行き来する技術を手に入れる。
国家機密も、金融も、軍事も、外交も、その多くは電子の海へ移された。
世界の勢力図は、もはや陸地ではなくネットワークによって描かれる。
太平洋は、再び世界の中心となった。
そして2010年代。
2つの文明が最後の均衡を保っていた時代。
これは、その境界に立つ1人の少女が見届ける、もう1つの世界史である。
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世界が赤く染まった。
「警告。FRON中核ノードへ侵入を確認。」
電子の海の水平線から、巨大な黒い影が姿を現す。
それは人ではなかった。
西方圏マザーコンピューター《Vindows Core》の演算能力を受け続けるクラッカーのアバター。
全身は黒い甲冑。
背には何千本もの光ファイバーが翼のように伸び、その一本一本が大西洋情報圏へとつながっている。
一人でありながら、背後には巨大な中央演算装置が存在する。
「分散など非効率だ。」
低く響く声。
「一つの意思、一つの支配こそ秩序である。」
アバターが剣を振るう。
数百万の攻撃パケットが黒い津波となってFRONネットワークへ襲い掛かった。
各ノードが次々と沈黙する。
黒いダイビングスーツを着た少女型アバターが電子の海へ降り立つ。
少女の名は美海・ヤラ。
アボリジニと日本人のハーフである。
肩にはエミュー型AIのビリー。
「美海! 演算能力で負けてる!」
「うん。」
美海は静かに頷いた。
「だから勝負しない。」
「え?」
「一人では。」
彼女はゆっくり両手を広げる。
「FRON。」
その一言で世界が変わる。
日本。
ングランバン。
アオテアロア。
ジャワ。
シャム。
太平洋交易圏中の無数の端末が一斉に応答した。
家庭用PC。
学校の端末。
研究所。
病院。
漁船。
人工衛星。
それぞれが余剰演算能力を差し出していく。
「演算資源、接続開始。」
「ノード一億突破。」
「十億突破。」
「百億突破。」
ビリーが目を丸くした。
「全部集まってる……。」
光が集まる。
それは球体ではなかった。
無数の文様が絡み合い、一つの生命のような姿を形作っていく。
アボリジニのドリームタイムを描く同心円。
マオリのコル(渦巻き)の紋様。
ネイティブハワイアンが神聖視する海と波の文様。
アイヌの刺繍を思わせる渦。
太平洋の民族が受け継いできた祈りが、光のアルゴリズムとして組み上がっていく。
美海はその姿を見つめ、小さく呟く。
「電子の海にも、精霊は宿る。」
すると光の中から、巨大な存在が姿を現した。
海亀。
その甲羅には島々が浮かび、潮の流れが星座のように輝く。
マオリ神話で世界を支えた海。
アボリジニ神話の虹蛇がその周囲を巡り、大地と水脈を結ぶ。
ハワイ神話の海神カナロアを思わせる蒼い波が、その身体を包み込む。
それは一柱の神ではない。
文明を超えて受け継がれてきた「海を敬う心」が、FRONの分散ネットワークによって一つのプログラムとなった姿だった。
クラッカーが笑う。
「神話だと?演算では勝てない。」
美海は首を振る。
「これは演算じゃない。」
彼女は両手を前へ突き出した。
「信頼。」
巨大な精霊が咆哮する。
その声はプログラムだった。
暗号化。
認証。
検証。
修復。
世界中のノードが互いを確認し合い、攻撃パケットを一つずつ正常なデータへと書き換えていく。
黒い津波は白い泡となって消えた。
「ば、馬鹿な……!」
クラッカーの甲冑に亀裂が走る。
背中から伸びる光ファイバーが一本、また一本と切断される。
中央集権の力は、中央との接続を失った瞬間に急速に弱体化していく。
対照的に、美海の精霊はさらに大きくなる。
一台止まっても、誰かが支える。
一人倒れても、世界中が補う。
それがFRONだった。
「終わり。」
美海が静かに告げる。
海亀の精霊は胸の前で光を抱え込むと、それを一筋の蒼い奔流へ変えた。
無数の民族の紋様が光の尾を引きながら、電子の海を横断する。
それは兵器ではない。
「共に支え合う」という思想そのものをコードにした、分散型自己修復プログラムだった。
奔流はクラッカーを飲み込み、そのアバターは黒い粒子となって静かに崩壊していく。
電子の海に朝日が差し込む。
ビリーは息をついた。
「勝ったね。」
美海は水平線の向こうを見つめた。
「いいえ。」
「均衡を守っただけ。」
太平洋の空には、現実には見えないはずの南十字星が静かに輝いていた。




