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シオリさん ―赤い栞をはさまれた者は、三日後に―

作者: ぱっちー
掲載日:2026/06/29

 赤い字で名前を書いた栞を、相手の持ち物にそっと挟む。

 気づいてから三日のあいだ、その人の名前を呼ばず、目も合わせない。

 そうすれば三日目に、シオリさんが、最後の頁をめくりにくる――。


 クラスに広がった呪いの噂。その作法に、私はなぜか見覚えがありました。

 オカルトの皮をかぶった、論理の物語です。どうか、最後の一行まで。


 ※人が負傷する描写が出てきます。苦手な方はご注意ください。




 教室というのは、よくできた水槽だと思う。


 四十人ぶんの机が並んだ三年二組の空間を、俺はいつも窓際のいちばん後ろから眺めている。眺める、というのが正確だ。参加しているわけじゃない。透明な板の向こうで泳ぐ熱帯魚を観察するみたいに、俺はクラスメイトたちの群れを見ている。誰がどの群れに属し、誰が餌をやる側で、誰が餌をついばむ側か。水温が一度変わるだけで、群れの形がぬるりと組み替わる、あの感じ。


 朝の教室には、独特の匂いがある。誰かのヘアスプレーと、パンの甘い匂いと、まだ温まりきっていない古い校舎の、木と埃の匂い。それらが混ざって、薄い膜みたいに教室を満たしている。そこに、声が降ってくる。誰かのでかい笑い声、机を叩く音、スマホのスピーカーから漏れる音楽の切れ端。それらの音がどう響くかで、その日の群れの機嫌がわかる。今日は晴れだ。だいたいいつも、晴れだ。誰かが密かに沈んでいても、群れ全体としては、いつも能天気に晴れている。


 俺は棚橋透という。名前のとおり透明な男だ。スクールカーストでいえば中の下、いや、下の中くらい。いじめられるわけじゃない。むしろいじめられる連中は最下層の「役」を割り振られているぶん、まだ群れの中で位置を持っている。俺にはそれすらない。誰も俺を必要としないし、誰も俺を嫌わない。授業中に当てられても無難に答え、休み時間には自分の席で文庫本かスマホをいじっている。空気。背景。モブ。


 でも、悪くないと思っている。むしろ、いい場所だと思っている。


 観察者であることには、ひとつだけ特権がある。よく見えるのだ。群れの中にいる連中は、自分のすぐ隣の力関係に必死で、全体が見えていない。俺だけが、水槽の外から、群れ全体の動きを俯瞰できる。誰が次に誰を蹴落とすか、誰がもうじき泣くか、俺にはなんとなくわかる。そういう小さな予言が当たるたびに、俺は自分が群れの外側にいることを、ひそかに誇りに思った。

 俺はアニメやゲーム──いわゆる二次元を、たぶん人より少しだけ深く愛している。ただ消費するんじゃなくて、構造を見る。このキャラはどういう属性で、どの役割を負わされていて、物語の駆動装置として何を担っているか。テンプレートを覚えると、現実の人間も同じように読めるようになる。教室は出来の悪い群像劇で、登場人物にはたいてい一行で説明のつくテンプレが貼ってある。一行で説明のつく人間ばかりの中に紛れて、一行で説明のつかない自分だけが、特別なのだと、俺は思っていた。


 たとえば、教室の中心で笑っている高峰美月。


 彼女はクラスの女王だ。整った顔と、計算された無邪気さ。さらりと流した髪を、いつも赤いシュシュでゆるく結っている。誰に対しても等しく愛想がいいように見えて、その実、声のトーンを相手のカーストで〇・一秒単位で切り替えている。男子の沢渡に向ける声と、教室の隅の女子に向ける声と、教師に向ける声。三種類の声を、彼女は楽器みたいに使い分ける。俺はそれを知っている。よく見ているから。


 彼女がいちばん油断した横顔を見せるのは、誰も見ていないと思っている放課後の数秒間だ。掃除も終わって、友達も帰って、ふと一人になった瞬間。そのとき高峰の目は、ぞっとするほど退屈そうに教室を見渡す。さっきまで太陽みたいに笑っていた顔から、ぜんぶの表情が抜け落ちて、ただ、つまらなそうな目だけが残る。──退屈している支配者、というテンプレ。俺は勝手にそう貼った。そして、そのテンプレを貼るために、俺はずいぶん長く、彼女のその横顔を見ていたのだと思う。今になって思えば。


 高峰の前の席で大声をあげているのが沢渡だ。バスケ部、声がでかい、いじりという名のいたぶりが得意。彼の笑い声は教室の天気を決める。沢渡が笑えば晴れ、沢渡が黙れば曇り。先週、彼が前の席のおとなしい男子の弁当のおかずを「味見」と称してつまみ食いして、男子は笑うしかなかった。箸でつまんだ卵焼きを口に放りこんで、「うす味!」と大声で言って、教室がどっと沸いた。卵焼きを取られた男子も、いっしょになって笑った。笑うしかなかった。笑わなければ、次に標的になるのは自分だから。群れのルールだ。


 沢渡には一個だけ弱点がある。蕎麦アレルギーだ。一度、購買のカップ麺をめぐって騒ぎになったことがある。誰かが「これ蕎麦入ってんじゃね?」と沢渡に差し出して、沢渡が「うわ、やめろやめろ、俺それ死ぬやつ!」と本気で飛びのいた。死ぬやつ、と。あれだけ強気な沢渡が、そのときだけは本当に怯えた目をしていた。周りはそれを面白がって、しばらく「死ぬやつ」が彼をいじるネタになった。テンプレでいえば、強者ゆえに弱点が露骨な噛ませ役。物語の中盤で、その弱点を突かれて一度退場するタイプ。俺は彼にそういう役を貼った。貼ったことを、すっかり忘れていた。


 そして──俺の隣。


 守屋栞。


 彼女のことは、正直、一行のテンプレが貼りにくかった。地味、というのは貼れる。髪は肩までで、結ばず、いつも顔の半分を隠している。声を聞いたのは月に数えるほど。授業で当てられても、消え入りそうな声で答える。休み時間はいつも文庫本を読んでいて、教室の喧騒の中で、彼女のまわりだけ、薄い水のように静かだった。


 彼女が本に栞をはさむ手つきだけが、妙にていねいだった。ページの間に、そっと、まるで何か壊れやすいものを置くみたいに。その栞が、変わっていた。赤い紙を細く縒って紙縒(こより)にし、それを何本も編み合わせた、手製のもの。図書館のしおりとも市販のものとも違う。気の遠くなるような手間がかかっているのが、ひと目でわかる。本のページの隙間から、赤い糸を組み紐にしたようなものが、いつものぞいていた。あれを最初に見たとき、俺は「血の栞だ」と頭の中でつぶやいて、自分の語彙のセンスのなさに少し笑った。血の栞。我ながら、中二くさい。


 守屋は図書委員だった。それから、掃除当番を、よく進んで引き受けていた。誰かが「今日だるいからかわって」と言えば、いやな顔ひとつせず、「いいよ」と小さく言ってかわってあげる。階段や下駄箱まわりの掃除も、文句ひとつ言わず。プリント配りも、よくやっていた。一枚ずつ、ていねいに、机に置いていく。みんな、彼女がそこにいることに、ほとんど気づいていなかった。気づかないまま、彼女の手から配られたプリントを受け取り、彼女がきれいにした床を歩いていた。


 守屋は俺に時々だけ話しかける。教室で俺に話しかける人間は、たぶん彼女だけだった。


 あの日も、彼女はそう言った。俺が机の下で読んでいた文庫の背表紙をのぞきこんで。


「棚橋くん、それ、新刊?」


 観察者の俺が、人に背表紙をのぞかれて少し動揺したのを覚えている。観察される側に回るのは、慣れていない。心臓が、ひとつ大きく鳴った。


「……これ? まあ、最近の」


「ホラー、好きなんだ」


「嫌いじゃない」


「わたしも」と守屋は言って、ほんの少しだけ笑った。前髪の奥で。目もとが、やわらかく動くのが見えた。「こわい話、好き」


 それだけの会話だった。彼女はすぐに自分の本に視線を戻し、また赤い栞のはさまったページを開いた。俺は、なんとなく落ち着かない気持ちで、自分の文庫に目を落とした。そして、彼女の属性を結局、決めきれないまま、「無害な背景キャラ」のフォルダに放りこんで、それきりにした。テンプレの貼れないキャラは、物語上、重要じゃない。脇役にもなれない、背景。そう処理して、安心した。


 今思えば、それが俺の最初の、そして最大の読み違いだった。


 テンプレの貼れない人間こそ、いちばん警戒すべきだったのに。


---


 噂が回りはじめたのは、十月の、雨の多い週だった。


 西校舎は、うちの高校でいちばん古い棟だ。渡り廊下を渡った先にある、コンクリートの灰色がくすんで、雨の日には全体がじっとり湿る、そういう棟。普通教室は使われておらず、美術準備室や被服室、それから「資料室」と札のかかった、誰も中を知らない部屋がいくつかある。蛍光灯が半分切れていて、昼でも薄暗い。三階の廊下のつきあたりに、ガラスケースに入った古い市松人形が飾られている。由来は誰も知らない。おかっぱ頭に、赤い着物。ガラスの内側がうっすら曇っていて、人形の顔は、いつ見ても、こちらをじっと見ているように見えた。ただ「夜になると首が動く」「目が合うと連れていかれる」という、よくある学校の怪談の住人だ。


 その人形にまつわる新しい儀式が、女子の間で囁かれはじめた。


 「シオリさん」というらしい。


 最初に俺がそれを聞いたのは、前の席の女子グループの内緒話としてだった。声をひそめているつもりで、教室の静かな時間には筒抜けになる、あの距離。昼休み、弁当をつつきながら、彼女たちは身を寄せ合って囁いていた。


「だからね、本気でムカつく相手がいるとき、やるの。まず、相手の名前を赤い字で紙に書くでしょ。それを細く縒って紙縒にして、何本も編んで──栞にするの。手間かかるけど、それがいいんだって。で、相手が触ったもの、教科書とかノートとか、なんでもいい、その人の持ち物にこっそり挟む。本のページに栞をはさむみたいに」


「えー、こわ。赤い字って、なんで赤?」


「血の色じゃない? 知らないけど。でね、ここからが大事。栞を挟まれた人がそれに気づいてから、三日間。その間、絶対その人の名前を声に出しちゃだめ。目も合わせちゃだめ。三日間、その人を“もういない人”として扱うの。そしたら、シオリさんが毎晩、その人の頁をめくりにくる」


「頁をめくる? なにそれ」


「人間って、一冊の本なんだって。生まれたときが最初の頁で、死ぬときが最後の頁。栞をはさまれた人は、毎晩一枚ずつ、頁をめくられていくの。栞に気づいて、三日目の夜。最後の頁まで、めくられたら……終わり。だから、誰かの机から赤い栞が出てきたら、その人にはもう、関わっちゃだめ。名前も呼んじゃだめ。巻きこまれるから」


 ぞくり、と背中が冷えたのは、怖かったからじゃない。


 知っていたからだ。


 俺はそのルールを、知っていた。一字一句。


 『シオリさん』は、四、五年前にひっそり配布された同人ホラーゲームだ。学校の怪談をモチーフにした、フリーの探索ホラー。タイトルもそのまま『シオリさん』。「花子さん」や「テケテケ」と同じ列に並ぶ、ご当地の学校ホラー風の名前。だから誰も、その名前の固有性に引っかからない。ただの怖い名前の女として処理する。


 そのゲームの中で語られる呪いの作法が、たった今、女子の口から流れたものと、完全に一致していた。名前を赤で書く。紙縒にして編み、栞にする。持ち物に挟む。気づいてから三日、名前を呼ばない、目を合わせない。三日目の夜、最後の頁がめくられる。──同人ゲームの、しかもかなりマイナーな、検索しても個人ブログの感想記事と、攻略wikiの作りかけの一ページしか出てこないような作品の、細部の設定。それが、なぜ現実の女子高生の口に乗っているのか。


 可能性はひとつだ。


 誰かがこのクラスに、『シオリさん』をプレイした人間がいる。そいつが、ゲームの中の呪いを、現実に持ち出した。噂として撒いた。


 俺はそのとき、ほんの少しだけ高揚していたと思う。観察者として。退屈な水槽に、ようやく面白い色をした魚が一匹混じった、というような。長い長い、出来の悪い群像劇に、やっと「物語」が始まろうとしている。しかもそのきっかけは、俺の好きな二次元の知識でしか気づけない、特別な手がかりだ。これは、俺の物語だ。観察者の俺だけが、本当の構造を見抜ける物語だ。そう思って、俺は胸が高鳴った。


 俺は隣を見た。守屋栞は、いつものように文庫を読んでいた。雨の音の中で、ひとり、静かに。赤い栞が、ページの間からのぞいていた。赤い紙を縒って編んだ、あの手の込んだ栞。噂で語られたものと、同じ作りの。


 俺はそれを、見た。


 見たのに、つなげなかった。あんまり当たり前にそこにあるものは、視界に入っていても、像を結ばない。背景は、背景のままだった。


---


 最初の「被害者」は、瀬戸という女子だった。


 二年のときから何かと俺たちのクラスを仕切りたがる子。ある朝、彼女が自分の机の中から、それを見つけた。


 赤い紙を縒って編んだ、細い栞。ほどくと、内側に、赤い字で「瀬戸」と書いてあった。


 教室が、しん、と静まった。あの、水温が一度下がる感じ。群れの形が、こわばる。誰かが、ちいさく息をのむ音がした。


「シオリさんだ」


 誰かが言った。最初は冗談みたいな声色で。でも、その言葉は、教室の空気の中に落ちて、波紋みたいに広がった。シオリさん。シオリさん。あちこちで囁かれはじめた。それで、火がついた。


 噂のルールを、みんなが覚えていた。栞に気づいた人には、三日間、関わってはいけない。名前を呼んではいけない。目を合わせてはいけない。巻きこまれるから。


 その日から、瀬戸は、教室で「いない人」になった。


 誰も彼女の名前を呼ばなかった。誰も彼女と目を合わせなかった。彼女が「ねえ」と話しかけても、みんな、聞こえないふりをして、すっと目を逸らした。仲のよかったはずのグループの子たちも、だ。怖かったのだ。瀬戸に関われば、自分まで頁をめくられるかもしれない。だから、みんな、瀬戸を空気にした。仕切りたがりの瀬戸が、たった一日で、俺と同じ、透明な存在になった。彼女は、教室の真ん中で、ぽつんと、青い顔をしていた。


 三日目だった。


 五時間目の途中、瀬戸が急に「かゆい」と言い出して、腕をかきはじめた。最初はみんな、虫刺されかと思っていた。でも、かきむしる腕が、見ているうちに、みるみる赤く腫れていった。みみず腫れみたいな赤い線が、腕から首へ、頬へと這い上がっていく。瀬戸は半泣きになって、「なにこれ、なにこれ」と繰り返した。全身に蕁麻疹が広がって、彼女は保健室に運ばれた。


 原因不明だった。本人は「何も変なものは食べてない」と泣いていた。アレルギーの心当たりもない。保健室の先生も首をかしげた。


 でも、教室のみんなは、知っていた。


 三日目に、シオリさんが、最後の頁をめくったのだ。


 それからの二週間ほどで、教室は急速に病んでいった。被害者は瀬戸だけじゃなかった。そして、どの事件も、同じ手順をなぞった。まず、誰かの持ち物から赤い栞が出てくる。クラスがその人を「いない人」にする。名前を呼ばず、目も合わせず、三日。そして三日目に、災いが来る。


 二人目は、男子の井口だった。彼の自転車のサドルの裏に、ガムテープで貼りつけられた赤い栞が見つかった。ほどくと「井口」と赤い字。三日間、彼は教室で空気になった。三日目の朝、彼は通学路の坂で、自転車のチェーンが突然外れて転倒し、腕を骨折した。下り坂のいちばんスピードの出るところで、ペダルがすかっと空回りして、ブレーキも握れずに、ガードレールに突っこんだのだという。整備したばかりの自転車だった、と本人は何度も言い張った。先週、自転車屋で点検したばかりだ、チェーンなんか緩んでなかった、と。


 三人目は、女子の真鍋だった。彼女の上履きのつま先の、いちばん奥から、赤い栞が出てきた。三日間、彼女もまた「いない人」になった。高峰のグループにくっついていた彼女が、グループからも、そっと外された。怖かったのだ、みんな。そして三日目、彼女は西校舎へ向かう階段の踊り場で、足を踏み外し、四段ほど落ちて捻挫した。一人で歩いていたはずなのに、彼女は青い顔で、こう言った。「踊り場で、足が、つるっと滑ったの。なんか、見えない糸に引っかかったみたいに。そのまま、背中を押されたみたいに、落ちた」と。振り返っても、そこには誰もいなかった、と。階段は、しんと静まりかえっていて、ただ、踊り場の窓から、灰色の雨空が見えるだけだったと。


 その真鍋の栞を、俺は、混乱のすきに、そっと拾い上げた。観察者の癖で、近くで見ておきたかった。赤い紙を縒って編んだ、手の込んだ栞。指先でほどくと、内側に「真鍋」と赤い字。瀬戸のときも、井口のときも、同じ作りだった。同じ人間が、同じ手つきで、根気よく編んだものだ。


 ふと、思った。


 この編み方、どこかで、見たことがある気がする。


 毎日、すぐ近くで、見ているような。


 でも──思い出せなかった。記憶の表面を、その感覚は、つるりと滑っていった。どこで見たのか、像を結ばない。俺は、少し気持ち悪さを覚えながら、それを「気のせいだろう」と片づけて、栞を元に戻した。


 あのとき、ほんの少しでも、隣の席を振り返っていれば。


 俺は、答えに、手が届いていたのに。


 クラスは、もう誰も笑っていなかった。沢渡の笑い声すら、めっきり減った。みんなが、自分の机の中を、自分の鞄を、自分の持ち物を、おそるおそる確かめるようになった。授業が終わるたびに、教科書のページをぱらぱらとめくって、赤い栞が挟まっていないか確認する。誰かと目が合うと、慌てて逸らす。シオリさんに目をつけられたくない。次は自分かもしれない。そういう怯えが、教室の空気を、ぬめぬめと重くしていった。水槽の水が、にごっていく。


 俺はその間ずっと、観察していた。観察者の癖で、被害者のリストを頭の中で作っていた。瀬戸、井口、真鍋。三人に共通点はあるか。カーストも性別もばらばら。みんなが探している共通点──「誰に恨まれているか」──は、いくら考えても、見つからなかった。それくらいしか、共通点がないように見えた。


 いや。


 今だから言える。共通点は、あった。俺はそれを、全部、自分の目で見ていた。観察者の特権で、いちばんよく見える席から、ぜんぶ見ていた。


 瀬戸は二年のとき、図書委員だった守屋が運んでいた本の山を、廊下でぶつかってぶちまけさせた。守屋がしゃがんで本を拾い集めているのを、瀬戸は「邪魔なんだけど」と言って、またいで行った。謝りもせずに。守屋は、ひとりで、廊下に散らばった本を、一冊ずつ拾っていた。


 井口は、守屋が当番で配っていたプリントを受け取るとき、「のろい」と舌打ちした。守屋の手が、自分の番に回ってくるのが遅いと言って。守屋は、ちいさく「ごめんなさい」と言った。誰にも聞こえないくらいの声で。


 真鍋は、守屋の赤い栞を見て「なにそれ、血? きもー」と友達と笑った。守屋が本にはさんでいた、あの、ていねいに編まれた赤い栞を指さして。守屋は、本を、そっと閉じた。


 全部、ほんの些細なことだ。教室では一日に何十回と起きる、誰の記憶にも残らない種類の、ちいさな侮辱。


 俺はそれを、見ていた。見て、観察者の手帳に「守屋へのちょっかい・件数」みたいなどうでもいいメモとして処理して、それきりにしていた。背景キャラに対する背景の出来事。物語を駆動しない、ノイズ。重要じゃない、と俺は判断した。観察者の俺が、これは脇筋だ、と切り捨てた。


 ノイズじゃ、なかったのに。


 あれが、本筋だったのに。


---


「棚橋くんは、信じてないんだ。呪い」


 守屋が話しかけてきたのは、放課後の教室だった。日直の仕事で居残っていた俺の机の横に、彼女はいつのまにか立っていた。気配がしなかった。本当に、いつのまにか、そこにいた。窓の外は雨で、教室は薄暗く、蛍光灯がじりじりと小さな虫の羽音みたいに鳴っていた。古い校舎の、雑巾と粉チョークと、雨に湿った木の匂い。誰もいない教室は、昼間とはまるで別の場所みたいに、静かで、広く感じられた。


「信じてない」と俺は言った。観察者の余裕を見せて。「呪いで蕁麻疹は出ないし、自転車のチェーンは勝手に外れない。階段から人を突き落とす幽霊もいない」


「じゃあ、なんだと思う?」


 彼女の目が、前髪の奥でこっちを見ていた。雨の薄明かりの中で、その目だけが、妙にはっきりと見えた。あのとき俺は、その問いを、純粋な好奇心だと思った。怖がりの女の子が、冷静で論理的な男にすがるみたいな、よくある構図。テンプレ。か弱いヒロインと、頼れる名探偵。俺は少しだけ得意になって、答えた。観察者の俺が、ついに推理を披露する場面だ、と思いながら。


「誰かがやってる。人間が。呪いの作法を隠れ蓑にして、実際には物理的に手を下してるんだよ」と俺は言った。「考えてみろよ。栞が見つかってから、三日。その三日が、ミソなんだ。栞を仕込んだ犯人は、その三日のあいだに、ゆっくり仕掛けを準備できる。瀬戸の蕁麻疹は、たぶん接触性のアレルゲンだ。三日かけて、よく使うハンドクリームか何かに、少しずつ混ぜていけばいい。井口の自転車は、夜のうちにチェーンを細工しておく。走り出してしばらくは保って、坂でいちばん力がかかったときに外れるように。真鍋の階段は──あの踊り場、掃除のとき以外は人がほとんど通らない。三日あれば、段に何か滑るものを仕込んだり、見えない糸を張ったりできる。『背中を押された気がした』ってのは、その仕掛けに足を取られた感覚を、本人がそう思いこんだだけだ」


「すごい」と守屋は言った。本当に感心したように、目を、ほんの少し見開いて。「探偵さんみたい。棚橋くん、頭いいんだね」


「べつに。栞は、犯人が残してる“演出”だよ。みんなが呪いだと思えば、人間の犯行を疑わなくなる。それどころか、栞が見つかった人を、みんなで“いない人”にしてくれる。名前も呼ばない、目も合わせない。被害者は孤立して、助けも呼べない。完璧な煙幕だ。犯人にとっては、これ以上ない、おぜん立てだよ」


「でも、それだと──」彼女は少し首をかしげた。前髪が、さらりと揺れた。「犯人は、『シオリさん』のゲームを知ってる人、ってことになるよね。あの作法、ぜんぶ、あのゲームのとおりなんでしょう? あんなマイナーなゲーム、このクラスで知ってる人なんている?」


 いる、と俺は思った。俺だ。そして、もう一人。誰かが、いる。


 俺はそのとき、自分が「もう一人」を探しはじめたことに、何の疑問も持たなかった。守屋の言葉に、自然に、なめらかに、誘導されていることに、まったく気づかなかった。彼女が「あんなマイナーなゲーム」と言ったこと──マイナーだと知っているということ自体が、彼女がそのゲームをプレイ済みだという、動かぬ証拠だったのに。検索しても感想記事が数件しか出てこないような作品を「マイナー」と断言できるのは、自分でプレイして、その不人気ぶりを知っている人間だけだ。俺はそれを聞き流した。背景キャラの言うことだから。重要じゃないから。


「……一人、心当たりがある」と俺は言った。


「だれ?」


 俺は答えなかった。まだ確証がなかったから。けれど守屋は、もう答えを知っているような顔で、ほんの少しだけ笑った。前髪の奥で、唇の端だけが、やわらかく持ち上がった。


「棚橋くんなら、きっと、見つけられるよ」と彼女は言った。「だって、棚橋くん、いつも、ちゃんと見てるもんね。みんなのこと」


 その言葉を、俺は、褒め言葉として受け取った。観察者としての自分を認めてもらえた、と。胸の奥が、少しあたたかくなった。彼女が、俺をちゃんと見てくれている、と。


 いつも、ちゃんと見てるもんね。


 あれは、褒め言葉じゃなかった。


 あれは、観察だった。彼女のほうが、ずっと長く、ずっと深く、俺を見ていた。俺が高峰の横顔を見ていたことも、俺が人にこっそりテンプレを貼って得意になっていることも、俺が観察者という言葉で自分の臆病さを守っていることも、ぜんぶ、彼女には見えていた。俺が彼女を背景だと思っていたあいだ、彼女は俺を、まっすぐ読んでいた。


---


 俺が高峰美月に目をつけたのには、理由がいくつもあった。後から振り返ると、その「いくつも」が、出来すぎていた。誰かが、俺の足もとに、ひとつずつ、拾いたくなる石を置いていったみたいに。


 まず、動機。沢渡と高峰は、夏前まで付き合っていた。それを、沢渡が一方的に振った。しかも、振っただけじゃなく、「あいつ、ベタベタしてきて重かった」みたいな悪い噂を、男子の間に流した。高峰は表向き、まったく平気な顔をしていた。今までどおり、太陽みたいに笑っていた。でも、あの放課後の、誰も見ていないと思っている数秒間の、退屈そうな目の奥に、何かどろりとしたものを溜めているのを、俺は見ていた。被害者の中に沢渡はまだいなかった。でも、もし高峰が犯人なら、本命は沢渡だろう、と俺は読んだ。瀬戸も井口も真鍋も、本命にたどりつくための、目くらましの前哨戦。最後に、沢渡を仕留める。そういう筋書きが、すらすらと頭に浮かんだ。物語として、よくできていた。よくできすぎていた。


 次に、知識。ある昼休み、俺はたまたま、高峰がスマホでホラーゲームの実況動画を見ているのを、後ろから見てしまった。マイナーな同人ホラーらしき、暗い画面。ドット絵の、古びた校舎を歩くキャラクター。彼女が、女王の仮面の下で、そういうものを好んでいる──意外な属性。俺はそれを「発見」として、得意になって記憶した。女王は、ホラーゲームが好きだ。だから、『シオリさん』を知っていてもおかしくない。


 今ならわかる。その昼休み、俺に高峰の背中が見える角度の席で、誰が俺を呼び止めて、世間話を始めたか。守屋だ。守屋が、ちょうどその瞬間、「棚橋くん、今度、おすすめのホラー教えて」とか、そんなどうでもいい話で、俺の注意を引いた。そして、俺の視線が自然に高峰の背中の方向へ向くように、彼女は、俺の斜め前に立った。俺は、見せられていた。高峰がそのとき見ていた動画が、本当に同人ホラーだったのかどうかすら、今となってはわからない。ただの実況動画だったのかもしれない。俺は、見たいものを、見せられたものを、見ただけだ。


 そして、決定打。あの栞だ。真鍋の栞を拾ったとき、俺は「どこかで見た編み方だ」と思いかけて、思い出せなかった。けれど、その「赤」という印象だけが、頭の中に残った。そして俺は、赤、という色から、高峰を連想した。高峰がいつも髪を結っている、あの目立つ赤いシュシュを。


 赤。高峰の赤。


 俺は、自分の連想を、推理だと思いこんだ。


 観察者を自任する人間がいちばん陥りやすい罠は、「自分は偏見を持たない」と思いこむことだ。俺は、いちばん近くにある赤──隣の席の、守屋の赤い栞──を、見なかった。毎日見ていたのに、見なかった。さっき「どこかで見た」と感じた、まさにその編み方が、五十センチ隣にあったのに。あれは「背景」だったから。あんまり当たり前にそこにあるものは、視界に入っていても、像を結ばない。俺の連想は、隣の本物の赤を飛び越えて、教室の中心の、目立つ赤いシュシュへと飛んでいった。中心にいる人間こそが物語の主役にふさわしい、という、いちばん古い偏見に従って。


 俺は、高峰を犯人だと確信した。


 確信して、少し、せつなくなった。高峰が、こんな陰湿なことをする人間だったのか、と。あの太陽みたいな笑顔の裏で、こんな執念を編んでいたのか、と。俺は、自分が暴いてしまった真実に、勝手に傷ついた。その傷つきすら、自分が真実に到達した証拠みたいに、ひそかに味わいながら。


---


 最後の事件の予兆は、文化祭の三日前にあった。


 ある朝、沢渡が、自分の部活バッグの中から、赤い栞を見つけた。ほどくと、赤い字で「沢渡」。


 あの沢渡が、青ざめた。「死ぬやつ」のときと同じ、本物の怯えた目で。彼は栞を握りつぶそうとして、できなかった。怖かったのだ。捨てたら、もっと悪いことが起きる気がして。結局、彼はそれを、捨てられないまま、バッグの内ポケットに、お守りみたいに入れたまま持ち歩いた。


 そして、ルールどおり、沢渡は「いない人」になった。


 あれだけ教室の天気を支配していた男が、たった三日で、誰からも名前を呼ばれなくなった。取り巻きだった連中も、すっと離れた。沢渡が「おい」と肩を組もうとすると、みんな、さりげなく身をかわした。目も合わせなかった。教室の太陽が、急に、ひとりぼっちになった。沢渡は、自分の席で、しおれていた。いつもの大声は、出なかった。


 三日目が、文化祭の前日だった。


 二組は屋台で蕎麦──正確には「焼きそば」と「ざる蕎麦」の二本立て──を出すことになっていた。前日準備で、教室は調理器具と食材であふれていた。机を寄せて作った作業台の上に、ボウルやざる、割り箸の束、プラスチックの容器が山積みになっている。茹でた蕎麦の、湯気と出汁の匂いが、教室に立ちこめていた。そばつゆの、醤油と鰹の、濃い匂い。


 誰かが、蕎麦粉の袋を作業台の端に置いていた。試作で打った蕎麦の、残りの粉。誰かがそれをこぼして、床がうっすら白くなっていた。白い粉が、人の動きにつれて、ふわりと舞い上がる。雑然とした、活気のある、油断した空気。みんな、準備に夢中で、半分、事件のことを忘れていた。明日の文化祭の準備で、教室は久しぶりに、晴れていた。


 その活気の中心に、沢渡がいた。


 三日間しおれていた彼も、文化祭の準備の浮かれた空気に、少しだけ、いつもの調子を取り戻していた。でかい声で指示を出し、笑い、ふざけて、誰かの頭を小突いていた。「お前ら手ぇ動かせよー」と言いながら、自分はいちばん動いていなかった。沢渡が笑えば、晴れ。教室の天気は、彼を中心に、明るく回りはじめていた。三日目だってことなんか、その浮かれた空気の中で、本人も、半分、忘れていたんだと思う。


 彼が、自分の部活バッグから水筒を取り出して、スポーツドリンクを一気にあおった。「ぷはー」と、いかにも美味そうに笑った、その数十秒後だった。


 彼の顔が、見るみるうちに腫れあがった。


 唇が、ぷっくりと膨れ、瞼が垂れ下がり、首から喉にかけて、ぼこぼこと赤く盛り上がっていく。沢渡は「あれ」と言った。「あれ、なんか、息」と言いかけて、そこで言葉が続かなくなった。彼は喉をかきむしった。ヒューヒューと、笛みたいな細い音が、彼の喉から漏れた。空気が、入っていかない。彼の目が、大きく見開かれて、その中に、あの、カップ麺のときに見せた本物の恐怖が、何倍にもなって浮かんでいた。死ぬやつ。そう、これは、死ぬやつだ。


 沢渡は、その場に崩れ落ちた。


「沢渡!?」


「うわ、なに、どうした!?」


「アレルギーだ! 蕎麦! 沢渡、蕎麦アレルギー──!」


 教室が、悲鳴で満たされた。さっきまでの晴れが、一瞬で、嵐になった。誰かが沢渡のバッグをひっくり返してエピペンを探し、誰かが職員室に走り、誰かが沢渡を横にして、声をかけ続けた。「沢渡、沢渡、聞こえる!?」蕎麦粉の舞う教室の床で、沢渡は、ヒューヒューと音を立てながら、苦しんでいた。腫れあがった顔は、もう、いつもの沢渡じゃなかった。


 沢渡は救急車で運ばれ、一命はとりとめた。けれど、何日も入院した。あと少し処置が遅れていたら、命にかかわっていた、と後で聞いた。


 そして、混乱のさなか、エピペンを探して沢渡のバッグをあさっていた誰かが、内ポケットから、それを見つけて、叫んだ。


「これ……三日前の、沢渡の栞……!」


 みんなが、はっと、息をのんだ。


 ほどくと、赤い字で「沢渡」。彼が、捨てられずに、お守りみたいに持ち歩いていた、あの栞だった。


「三日目だ」


「沢渡、今日で、三日目……」


「やだ、やだやだ、待って、次わたしじゃないよね……? わたし、なんもしてないよね……?」


 教室はもう、ただの怯えた群れだった。水槽が割れて、魚が床の上で跳ねていた。みんなが、お互いを疑い、お互いに目を合わせないようにし、自分の持ち物をかき抱いた。蕎麦粉の白い床の上で、悲鳴と、すすり泣きと、「シオリさん」という囁きが、渦を巻いていた。


 俺だけが、冷たく、その様子を観察していた。


 完璧だ、と思った。


 蕎麦アレルギーは、最初から知っていた。「死ぬやつ」と沢渡が笑っていたのを覚えていた。前日準備の、蕎麦の粉が舞う教室は、これ以上ない舞台だった。犯人は、三日前に栞を仕込んで、沢渡を「いない人」にして、追いつめた。そして三日目、蕎麦粉だらけのこの教室で、沢渡のスポーツドリンクに、蕎麦粉を混ぜた。仕込むのは、簡単だ。沢渡のバッグは朝から教室の後ろに置きっぱなしだったし、粉だらけの教室なら、たとえ後から微量の蕎麦成分が検出されても、「準備中に偶然混入した」で片づく。誰も、故意の混入を疑わない。そして、栞は、三日前から沢渡自身が持ち歩いていた。犯人は、現場で新しい栞を残す必要すらなかった。被害者本人が、署名を、大事に抱えていてくれたのだから。


 完璧な犯行だ。そして、犯人を、俺は知っていた。


 俺は、教室を見渡して、高峰を探した。


 高峰は、教室の隅に、いた。


 青ざめて、立ち尽くしていた。震えていた。胸の前で、両手をぎゅっと握りしめて。その目には、あの放課後の退屈は、なかった。本物の恐怖が、あった。沢渡が運ばれていった方向を見つめる彼女の目に、涙が盛り上がっていた。元恋人が、目の前で、死にかけたのだ。


 俺はそのとき、はじめて、ほんの少しだけ、「あれ」と思った。


 犯人が、こんな顔をするだろうか。


 計画どおりに本命を仕留めた犯人が、こんなふうに、本物の涙を浮かべて、震えるだろうか。完璧に成功した瞬間に、こんな、心の底から怯えた顔を。


 でも、俺はその違和感を、押し殺した。観察者のプライドが、自分の推理を手放させなかった。せっかく組み上げた、美しい物語を、崩したくなかった。きっと演技だ、と俺は思った。女王は、演技がうまい。退屈そうな顔だって演技なんだから、怯える顔だって、いくらでも演技できる。むしろ、ここで本物そっくりに怯えてみせるのが、いちばん賢い隠れ方じゃないか。そうやって俺は、自分の物語の整合性を、無理やり、最後まで守りきった。違和感という、いちばん大事な手がかりを、自分の手で、握りつぶした。


 俺は、勝った気でいた。


 誰にも気づかれず、すべてを見抜いた観察者。透明な俺だけが、この混乱の真相に到達した。みんながシオリさんに怯えているあいだ、俺だけが、犯人の名前を知っている。高峰美月。あの女王が、四人を呪いの仮面で襲った、その全貌を、俺だけが見抜いた。──そう思って、満ち足りた気持ちで、騒ぎが少し落ち着いてから、自分の鞄を肩にかけた。明日の文化祭は中止になるだろうな、なんて、どこか他人事に考えながら。


 そのとき、指先が、鞄の中の、文庫本に触れた。


 ページの間に、何か、細いものが挟まっている感触があった。


 俺は、それを、引き抜いた。


 赤い紙を縒って編んだ、栞だった。


 手の込んだ、あの編み方。指先が、それを覚えていた。さっき真鍋の栞を拾ったときの、あの感触と、同じ。──いや、もっと前から、知っている感触だ。毎日、すぐ隣で、見ていた。


 俺は、ほどいた。


 内側に、赤い字で、書いてあった。


 「棚橋」


 いつのまに。


 俺は、ほんの一瞬、背筋が、すっと寒くなった。心臓が、嫌な感じに、ひとつ跳ねた。


 でも、すぐに理由をつけた。観察者の頭が、すばやく、いちばん安心できる説明をひねり出した。守屋だ。隣の席の守屋が、俺の本に、いたずらで栞を挟んだんだろう。あいつも『シオリさん』のゲームを、知ってたのかもしれない。ホラー好きだって言ってたし。事件が話題になってるから、俺をちょっと驚かせようとして、真似して作って、挟んだ。そういう、ちょっとしたお茶目だ。背景キャラの、無害な、いたずら。


 俺は、自分のその説明に、納得した。納得して、安心した。


 俺は赤い栞を、文庫に挟んだまま、鞄にしまった。明日にでも、守屋に「これ、お前だろ」と言ってやろう、と思いながら。少しだけ、彼女と話せる口実ができた、と、心のどこかで、喜んでさえいた。


 そして、教室を出た。観察者の役目を終えた、満足とともに。


 俺は、自分が、たった今、三日のカウントを、自分で始めてしまったことに、気づいていなかった。


 俺は最後まで、自分が、誰の物語の登場人物だったのか、わかっていなかった。


 俺は、探偵じゃなかった。


 俺は、次の被害者だった。


---


 わたしは、棚橋くんが教室を出ていくのを、見ていた。


 彼が鞄に手を入れて、赤い栞を見つけて、ほどいて、自分の名前を読んで、一瞬だけ表情を硬くして、それからすぐに「守屋のいたずらだ」と自分を納得させた、その一連の顔の動きを、全部、見ていた。教室の隅の、誰も気にとめない場所から。沢渡くんの騒ぎで、みんながそっちを見ているあいだ、わたしは、棚橋くんだけを、見ていた。


 わかりやすい人。


 棚橋くんは、自分のことを観察者だと思っている。透明な、誰にも見られない、見る側の人間だと。


 ちがうのに。


 いちばん見られているのは、いつも、自分は見ていないと思っている人なんだよ。


 わたしは一年生のときから、彼を読んでいた。彼が教室の隅で、人にこっそり「テンプレ」を貼って、得意になっている横顔を。彼が誰のことも見下しているようで、本当はただ、群れに入るのが怖いだけだということを。誰かに話しかけて、笑われるのが怖くて、最初から「観察者」という安全な場所に逃げこんでいるだけだということを。「見る側」でいれば、傷つかずに済むから。彼は、傷つくのが怖い人だった。わたしと、同じように。


 わたしには、それが、痛いほどわかった。だって、わたしも同じだから。


 わたしたちは、似ていた。見る側のふりをして、本当はただ、誰にも頁をめくってもらえない本だった。閉じたまま、棚の奥で、埃をかぶっている。図書室のいちばん下の段の、いちばん奥の、誰も借りない本。表紙の題名すら、誰にも読まれない。


 だからわたしは、彼に話しかけた。月に何度かだけ。それ以上は、警戒される。背景でいなくちゃいけない。ちょうどいい温度の、ちょうどいい無害さで。「それ、新刊?」「ホラー、好きなんだ」「わたしも」──彼が安心して、わたしを「無害な背景キャラ」のフォルダにしまうように。彼が、わたしを、それ以上、読まなくて済むように。読まれたら、困るから。


 彼は、わたしの思ったとおりに、わたしを背景にしまってくれた。やさしい人だから。わたしは、彼のいちばん近くの席で、安全に、彼を読みつづけることができた。一年間、ずっと。


 『シオリさん』のことを彼が好きなのは、知っていた。一年生のとき、彼が図書室の隅で、友達もいないのに、すごく楽しそうに、スマホでそのゲームをやっているのを、見ていたから。誰にも見られていないと思って、彼は、ほんの少しだけ、口もとをゆるめて笑っていた。教室では絶対に見せない、子どもみたいな、無防備な笑顔だった。わたしは、その笑顔を、覚えている。


 わたしは家でこっそり、そのゲームをプレイした。何度も、何度も。──呪いの作法を、覚えるために。


 名前を赤で書く。紙縒にして編み、栞にする。持ち物に挟む。気づいてから三日、名前を呼ばない、目を合わせない。三日目の夜、最後の頁をめくる。


 よくできた作法だと思った。とくに、三日間、名前を呼ばず、目を合わせず、その人を「もういない人」として扱う、というところ。それは呪いであると同時に、いちばんつらい現実そのものだった。わたしは、ずっと、みんなにそうされてきたから。教室で、わたしの名前を呼ぶ人は、いない。わたしと目を合わせる人も、いない。先生でさえ、出席をとるとき、わたしの名前のところで、少しだけつまる。「守屋……さん」と。わたしは、もう、半分くらい、いない人だった。生きているのに、もう半分、頁をめくられてしまった本だった。


 だから、わたしは、決めた。


 わたしを「いない人」にした人たちを、ほんとうに、頁の最後まで、めくってあげようと。あなたたちが、わたしにしたことを、そのまま、お返ししようと。三日間、まわりから「いない人」にされる、あのつらさも、ちゃんと、味わってもらおうと。


 瀬戸さん。井口くん。真鍋さん。沢渡くん。


 誰も覚えていないでしょう。廊下でわたしの本をぶちまけて、またいで行った人。プリントを受け取るとき舌打ちした人。わたしの栞を見て「血? きもー」と笑った人。──沢渡くんは、二年生のとき、わたしのことを、一度だけ、こう言った。「あいつ誰? うちのクラスだっけ?」と。笑いながら。同じクラスで、一年以上、毎日、同じ教室にいたのに。彼にとって、わたしは、いないのと同じだった。


 みんな、わたしの名前を、蕎麦の粉みたいに、何でもないものとして、床にこぼしていった。


 わたしは、覚えている。全部。一回も、忘れたことなんか、ない。


 わたしには、誰にも見えない、便利な力があった。「透明」であること。図書委員で、プリント配りで、掃除当番を進んで引き受ける、無害でおとなしい守屋さん。誰の机にも、誰の上履きにも、誰の鞄にも、近づける。プリントを配るふりをして、机の中に手を入れられる。掃除のふりをして、下駄箱の上履きに、触れられる。階段の踊り場の掃除当番を引き受ければ、誰にも怪しまれずに、踊り場の段に、細い透明な糸を張る時間も、つくれる。誰も、わたしがそこにいたことを、覚えていない。覚えていないどころか、見てすらいない。


 栞を仕込んでからの三日間は、わたしにとって、準備の時間だった。みんなが被害者を「いない人」にして、避けて、怯えているあいだに、わたしは、ゆっくりと、仕掛けを完成させた。瀬戸さんがいつも使うハンドクリームに、彼女がアレルギーを起こすものを、三日かけて少しずつ。井口くんの自転車のチェーンは、走り出してしばらくは保って、下り坂でいちばんスピードが出たところで外れるように、調整した。何度も練習した。捨ててあった自転車で、何度も。真鍋さんの踊り場の糸は、片端を結ばずに、軽く引っかけておくだけにした。三日目の朝、彼女が通る少し前に張って、足首をすくったその拍子に、糸はひとりでにほどけて落ちる。あとは、その日の掃除当番──わたしが進んで引き受けた、踊り場の掃除──のときに、ちりとりで、ほかのごみといっしょに、すっと集めればいい。誰も、糸なんか探さない。みんな、シオリさんを探しているから。だから、真鍋さんが振り返っても、そこには、なにも、なかった。「背中を押された気がした」のは、見えない糸に足首をすくわれて、つんのめった感覚を、彼女が、そう思いこんだだけ。呪いは、半分は、本物なんだよ。信じた人の、心の中で。


 沢渡くんの蕎麦粉は、いちばん簡単だった。粉だらけの教室は、わたしのために用意された舞台みたいだった。彼は、水筒の蓋を開けっぱなしにして、作業台の端に置いていた。みんなと騒ぐのに夢中で。わたしは、配り終えたプリントの束を、その作業台に取りにいくふりをして、開いた水筒の口に、蕎麦粉を、ひとつまみ。指先を、すっと振っただけ。床にも壁にも、おなじ白い粉が、いくらでも舞っている教室で、わたしの指先のひとつまみを、誰が見分けられるだろう。そして、栞は──彼が、自分で、三日間、お守りみたいに、大事に持っていてくれた。わたしは、署名を、現場に残す必要さえ、なかった。


 でも、いちばん時間をかけたのは、そこじゃない。


 高峰さんを、犯人に仕立てること。


 わたしが、彼女を選んだ理由は、ふたつ、ある。


 ひとつは、高峰さんも、わたしを笑った人だから。一年生のとき。わたしの上履きが、雨の日に汚れていたのを見て、彼女は、友達と顔を見合わせて、くすっと笑った。それだけ。彼女は、わたしを笑ったことすら、覚えていないだろうけど。たぶん、彼女にとっては、息をするくらい、なんでもないことだったから。でも、わたしは覚えている。彼女のあの、きれいな顔が、わたしを見て、くすっと歪んだのを。


 もうひとつは──棚橋くんが、彼女を、見ていたから。


 わたしは知っている。棚橋くんの視線が、いちばん長くとどまるのが、誰か。彼が「退屈している支配者」なんて、わざわざ気の利いたテンプレを考えてあげるくらい、彼が高峰さんを見ていたことを。放課後、彼女が一人になる数秒間を、彼がいつも待っていたことを。観察者のふりをして、彼が彼女に向けていた、あの、ほんの少しの、熱を。彼は、自分でも気づいていなかったと思う。でも、わたしには、見えた。彼の目が、彼女を追うときだけ、少しだけ、やわらかくなるのが。


 いやだった。


 すごく、いやだった。


 わたしのいちばん近くにいて、わたしだけが話しかける人が、わたしじゃない誰かを、そんな目で見ているのが。


 だから、彼の中で、高峰さんを、いちばん醜い役にしてあげようと思った。彼自身の手で、彼女を犯人だと決めさせて、永遠に「呪いを使った、執念深い女」として記憶させてあげようと。彼が、もう二度と、彼女を、綺麗なものとして見られないように。彼の頭の中の、高峰さんという本に、わたしが、消えない汚れをつけてあげようと。


 むずかしくは、なかった。


 棚橋くんは、自分が偏見を持たない観察者だと思いこんでいる、いちばん偏見に弱い人だから。わたしは、ただ、彼が歩く先に、彼が拾いたくなる石を、ひとつずつ、置いておくだけでよかった。「赤い栞」を見せれば、勝手に「赤いシュシュ」を思い浮かべる。隣の席の、わたしの赤い栞は、毎日見ているのに、見えないのに。真鍋さんの栞を拾って「どこかで見た編み方だ」と感じたときでさえ、彼は、隣を振り返らなかった。「マイナーなゲームを知ってる人」と囁けば、勝手に高峰さんを「発見」してくれる。「沢渡と高峰は別れた」という、誰でも知っている事実を、勝手に「動機」だと意味づけてくれる。


 彼は、自分の足で、自分の意志で、わたしの用意した道を、得意げに歩いた。一歩ごとに「自分はなんて鋭いんだ」と思いながら。最後まで、自分が誘導されていることに、気づかずに。彼が「推理」と呼んでいたものは、ぜんぶ、わたしが書いた筋書きだった。彼は、わたしの物語の中で、わたしの決めたとおりに、名探偵の役を、嬉しそうに、演じてくれた。


 彼が、震える高峰さんを見て、一瞬「あれ」と思ったのも、見ていた。あの、たった一度の、本物の違和感を、彼が自分のプライドで握りつぶしたのも。あそこで、もし彼が、自分の推理を疑っていたら。高峰さんの本物の涙を信じて、立ち止まっていたら。彼は、真実に近づけたかもしれない。隣を見たかもしれない。わたしを。


 でも、彼は、握りつぶした。自分の物語のほうを、選んだ。


 ありがとう、棚橋くん。


 あなたが自分の推理を手放せなかったおかげで、高峰さんは、あなたの中で、犯人になった。あなたが大切にした「観察者の自分」が、彼女を、あなたの心の中の地獄に落とした。あなたは、それを、一生、自分の手柄だと思って生きていく。「あのとき、自分だけが真相を見抜いた」と。


 いい気味、とは、思わない。


 ただ、すこし、さみしい。


 あなたは、最後まで、わたしを見なかった。


 毎日、隣の席で、わたしの赤い栞を見ていたのに。事件の凶器とまったく同じものが、毎日、あなたの五十センチ隣にあったのに。真鍋さんの栞を拾って、「どこかで見た」と、指先まで覚えていたのに。あなたは、それを、一度も、隣の席とつなげなかった。


 『シオリさん』。あなたが好きだったゲームの名前。学校の怪談みたいな、ありふれた、こわい女の名前。あなたは、その名前を、何百回も画面で見て、何百回も口の中で読んだでしょう。なのに、隣の席の、守屋栞(もりや しおり)の名前と、一度も、重ねなかった。


 しおり。栞。


 わたしは、ずっと、あなたのいちばん近くにいた、こわい話そのものだったのに。


 あなたは、わたしを背景キャラのフォルダにしまった。


 だから、わたしは、あなたを、本にしまった。


 今ごろ、あなたは、家に帰って、鞄から文庫本を出すでしょう。赤い栞の挟まった、その本を。あなたは「守屋のいたずらだ」と笑って、栞を、はさみ直す。自分の本に、わたしの栞を。明日、わたしに「これ、お前だろ」と言うつもりで。少しだけ、嬉しそうな顔をして。


 それでいい。


 あなたは、もう、栞に気づいた。だから、今日から、三日が始まる。


 でも、ほかの四人とは、ちがう。あの人たちには、三日きっかりで、最後の頁をめくった。憎かったから。早く、いなくなってほしかったから。


 あなたは、ちがう。


 あなたは、わたしのことを、見なかった。ただ一人、わたしに時々だけ話しかけて、そして、見なかった人。わたしを「背景」だと安心して、わたしの隣で、ほかの誰かを見ていた人。──いちばん、許せない人。いちばん、近かった人。


 だから、あなたの三日は、ずっと、ずっと、終わらせない。


 わたしは、明日から、あなたを「いない人」になんか、しない。その逆。毎日、あなたに話しかける。あなたの名前を呼ぶ。あなたと、目を合わせる。三日目が、永遠に来ないように。あなたの頁を、最後の一枚の手前で、止めておく。ゆっくり、ゆっくり、一枚ずつ、めくっては、戻して。


 あなたが、自分が読まれていることに、気づくまで。気づいて、怖がって、わたしの方を、振り向くまで。あなたが、はじめて、わたしの目を、まっすぐ、見るまで。「シオリさん」が、ゲームの中の女じゃなくて、ずっと隣にいた女の名前だったと、気づくまで。


 赤い栞は、もう、あなたの本に、挟まっている。


 わたしが、あなたの頁を、めくる場所。


 次は、どこを、開こうか。


***


 雨の音が、まだ続いていた。


 誰もいなくなった教室で、わたしは、文庫本を開く。自分の本を。赤い栞を、ていねいに、はさみ直す。これは、誰かを呪うための栞じゃない。同じ作りで、同じ赤い紙を縒って編んだけれど、はさむ相手は、わたし自身。ほどけば、内側に、わたしの名前が書いてある。守屋栞。誰にも呼ばれない、わたしの名前。誰も頁をめくってくれないなら、せめて、自分で、しおりをはさんでおく。どこまで読まれたかも、誰にも覚えていてもらえない本だから。わたしは、ずっと前から、自分で自分に、栞をはさんでいた。


 そして、窓際のいちばん後ろの、空っぽになった彼の席を、しばらく、見ていた。あたたかい蛍光灯の光が、誰もいない机の上を、ぼんやりと照らしている。さっきまで、そこに、彼がいた。わたしを見ずに、わたしの隣に、いた。


 ねえ、棚橋くん。


 観察するのって、楽しいでしょう。


 誰にも見られずに、ひとりだけ、ぜんぶが見えている気がして。特別な気がして。


 わたしも、ずっと、楽しかった。


 あなたを見るのが、いちばん、楽しかった。


 そして、いつか、あなたが、わたしのほうを、振り向く。


 その日が来るのを──わたしは、もう少しだけ、あなたの隣で、待っている。


 お付き合いいただき、ありがとうございました。


 怖いのは呪いより、人の「見ないことにする」気持ちのほうかもしれません。

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