「先生、もう腹切ってください」36時間出産レポ
出産二日前。
私は幸せだった。
産前休暇に入り、臨月。
実家に泊まりに来ていた旦那と、翌日は最後の二人きりデートをする予定だった。
カフェでも行こうか。
買い物もしよう。
そして何より。
たい焼き。
駅前の店で売っている、カスタードたい焼き。
あれを食べる。
絶対に食べる。
そう決意して眠りについた。
翌朝、午前五時。
ふと目が覚めた。
まだ早いな。
そう思いながら寝返りを打とうとして、違和感に気付く。
股のあたりが、なんか温かい。
「……ん?」
一瞬考える。
尿もれ?
いやいや、そんなわけ。
いや待って。
臨月だし。
ある?
あるのか?
慌てて起き上がる。
ぽた。
ぽた。
ぽた。
「……」
嫌な予感がした。
トイレへ向かう。
そして確信する。
「あっ…、これ破水だ」
人生初の破水だった。
知識としては知っている。
漫画でも見た。
ドラマでも見た。
でも実際に自分の身に起きると、
頭の中は驚くほど冷静だった。
というか、最初に思ったのは。
「え?」
次に思ったのは。
「マジ?」
そして三番目。
これが一番大事である。
「私のたい焼き……」
本日の予定、消滅。
カスタードたい焼き、消滅。
私の幸せなデート計画、消滅。
私は泣いた。
薄っすらと痛む腹を抑えて。
旦那を叩き起こす。
「起きて」
「ん……?」
「破水した」
「えっ」
飛び起きる旦那。
対して私。
「たい焼きが……」
「それどころじゃないだろ」
「うわあああぁぁぁん!!」
産婦人科へ向かう車の中で、
私は生まれてくる我が子より先に、
食べ損ねたカスタードたい焼きのことを考えていた。
今思う。
この時の私は、
まだ本当の地獄を知らなかった。
産院に到着した。
診察室。
夜勤の先生がさらっと言う。
「はい、前期破水してますね。このまま入院してください」
「はい……」
私のテンションは地の底だった。
陣痛はまだ前駆陣痛。
十分間隔くらい。
ちょっと重めの生理痛。
痛いけれど、普通に会話もできる。
歩ける。
スマホも触れる。
余裕である。
早朝だったこともあり、旦那は一度帰宅することになった。
「いつでも連絡して」
「はーい」
軽い。
実に軽い返事だった。
数時間後の自分が聞いたら殴りたくなるくらい軽い。
案内されたのはLDR。
陣痛・分娩・回復を一つの部屋で行うらしい。
ほうほう。
なるほど。
ここが戦場か。
まだ余裕だった私は写真を撮った。
ピースまでした。
今もスマホの中に残っている。
完全に観光客である。
部屋の中を見回す。
家族用の揺り椅子。
いきみ逃し用のチェアー。
壁には優しそうな絵。
テレビ。
冷蔵庫。
そして、枕。
私は枕を手に取った。
数秒後、そっと戻した。
臭い。
いや、かなり臭い。
汗の香り。
いや違う。
これは歴戦のお母さん達の香りだ。
この部屋で何人もの人が陣痛と戦い。
叫び。
苦しみ。
そして出産してきたのだろう。
私はまだ知らない。
数時間後。
その香りの一員になることを。
じわじわと時間が過ぎていく。
一時間。
五時間。
十二時間。
陣痛は来る。
でも生まれない。
産院のご飯は美味しかった。
彩りも良い。栄養バランスも良い。
腹は痛いけど。
それはそれ。
これはこれ。
病院食ってもっと質素なものだと思っていたので少し感動した。
腹は痛いけど。
そして。
夜。
助走を終えた地獄が、ついに本気を出し始める。
夜の診察後、助産師さんが言う。
「なかなか子宮口が開きませんね。このまま泊まりましょう」
「あ、はい」
この時点ではまだ冷静だった。
夜九時。
テレビではバラエティ番組。
芸人さん達の笑い声が響いている。
わはははは。
楽しそうである。
対して私は。
「うっ……」
五分おきに腹を抱えていた。
生理痛で例えるなら、
仕事を休んで布団に転がりたくなるレベル。
それが五分ごとに来る。
来る。
帰る。
また来る。
痛みが引いたと思ったら、もう次が来る。
全然帰らない。
夜十一時。
陣痛の間隔は四分。
助産師さんが診察する。
「どれくらい開いてるか見ますねー」
頼む。頼むぞ。
頑張った。私は頑張った。
せめて半分くらい開いてるはず。
「んー」
助産師さんが言う。
「二センチですね」
「……」
「まだまだかかりそうです」
「……」
「寝られそうなら寝てくださいね」
私は人生で初めて思った。
寝られるわけあるか。
「まだまだ……かかるんですか……?」
かすれ声で聞く。
だって本で読んだ。
ネットでも見た。
陣痛の間隔が短くなったら子宮口が開くって。
「個人差ですねー」
にっこり。
絶望。
深夜一時。
陣痛の間隔は二分。
もうほぼ休憩がない。
痛い。
痛くない。
痛い。
痛い。
痛い。
くらいの感覚。
再び診察。
今度こそ。
今度こそ進んでいてくれ。
祈る私に助産師さんが告げた。
「三センチですね」
三センチ。
三センチである。
十二時間以上頑張って。
二分間隔まで来て。
三センチ。
私は薄々気付き始めていた。
これ、思ってたより遥かに長期戦なのでは?
そこから先の記憶は曖昧だ。
飛び飛びである。
吐いた。
たぶん二回くらい。もっとかもしれない。
正直覚えていない。
陣痛が来る。
耐える。
終わる。
意識が落ちる。
また陣痛が来る。
起こされる。
耐える。
寝る。
その繰り返し。
睡眠というより気絶に近かった。
LDRに置かれていた、いきみ逃し用のチェアー。
私はそこにしがみついていた。
助産師さんが腰を温めてくれる。
背中をさすってくれる。
優しい。本当に優しい。
たぶん色々励ましてくれていた。
覚えていないけど。
人間、痛みが一定以上になると記憶を捨て始めるらしい。
そして不思議なことに、あれほど短くなっていた陣痛間隔はなぜか七分まで戻った。
意味が分からない。
頑張ったのに。
もう一度言う。
頑張ったのに。
リセットされた。
ゲームだったらコントローラーを投げている。
そして朝。
午前八時。
先生が出勤した。
救世主である。
私は診察台で開口一番こう言った。
「先生、もう腹切ってください」
本音だった。
心の底からの本音だった。
先生は慣れた様子で笑う。
「大丈夫ですよ」
大丈夫じゃない。
「陣痛が弱いですね」
弱い?
これで?
「促進剤使いましょうか」
私は数秒考えた。
考えた結果。
「……はい」
と答えた。
今思う。
あの時の私に教えてあげたい。
やめろ。
その返事をするな。
旦那へ電話する。
「これから陣痛促進剤使うから……」
自分でも驚くほど覇気のない声だった。
旦那はすぐ来ると言った。
たぶん心配だったのだろう。
正しい判断である。
吐き気は相変わらず続いていた。
水を飲んでも吐く。
ゼリーも吐く。
何なら何もなくても吐く。
そのため私は点滴に繋がれていた。
生命維持装置である。
そこへ新しい点滴が追加された。
小さなパック。透明な液体。
助産師さんが慣れた手つきで既存のラインへ接続する。
陣痛促進剤。
私はその名前を知っていた。
知っていたけれど。
本当の意味では知らなかった。
そういえば私は事前に、新ラマーズ法だのソフロロジー法だのを学んでいた。
呼吸法。
弛緩法。
赤ちゃんに会う喜びをイメージする。
そうすることで、痛みを和らげ、穏やかな出産を目指すらしい。
痛みを受け入れましょう。
陣痛は赤ちゃんからのメッセージです。
リラックスしましょう。
お母さんの身体は出産のためにできています。
なるほど。
とても素敵な考え方である。
当時の私は真面目に練習した。
呼吸もした。イメージトレーニングもした。赤ちゃんに会う喜びも想像した。
そして今。
何が穏やかな出産だ。
いてぇわ。
点滴が落ちる。
ぽた。
ぽた。
ぽた。
ゆっくりと体内へ入っていく。
何も起きない。
まだ大丈夫、そう思った。
次の瞬間だった。
全身を殴られたみたいな激痛が走る。
「あ"ッ!!」
身体が勝手に仰け反った。
違う。
今までのは陣痛じゃなかった。
あれは前座だ。
ウォーミングアップだ。
本物はこっちだ。
「あああああああッ!!」
勝手に悲鳴が出る。
出そうと思って出したんじゃない。
出た。
自然に。
反射で。
本能で。
私はその時、妙に冷静だった。
人間ってほんとに悲鳴出るんだなぁ。
とか考えていた。
助産師さんの声が飛んでくる。
「仰け反らないでー!」
「あっ、がッ……!」
「息止めないでー!呼吸してー!」
「フーッ!フーッ!」
「股の間見ててください!」
見てる場合か。
でも見た。
言われるがまま見た。
呼吸。
呼吸。
呼吸。
痛い。
呼吸。
痛い。
呼吸。
痛い。
視界の端で旦那が見える。
心配そうな顔をしてるけど、顔が引きつっている。
引くな。私も引いてるから。
でも、いつまでも気にする余裕はない。
頭の中は一つだけ。
痛い。
ただそれだけだった。
そして私は理解した。
陣痛促進剤とは、薬ではない。
拷問開始の合図である。
そこから先の時間はよく分からない。
時計はあった。
たぶん見ていた。
でも覚えていない。
記憶にあるのは、痛み。呼吸。それだけだ。
気付けば過呼吸気味になっていたらしい。
口元にマスクが装着される。
酸素だったのか何だったのか。
息苦しかった。
それだけは覚えている。
そんな極限状態の中。
事件は起きた。
十一時半。
昼食である。
前日、私は病院のメニュー表を見ていた。
そして歓喜した。
うどんだ。
私の大好物である。
出産頑張ったら食べよう。
そう思っていた。
しかし、私は食べられなかった。
食べたら吐くから。
代わりに旦那が食べた。
ずるるるる。
私が陣痛と戦っている横で、うどんが消えていく。
助産師さんに、
「旦那さん、これ、食べちゃってください」
「あ、はい」
と言われたのもあって、早めに食べようとしていたのだと思う。
無駄にしないように。
分かっている。
理屈では分かっている。
でも。
――後で覚えておけ。
その恨みだけは妙に鮮明だった。
そして、違和感に気付く。
身体の中身が、下にある。
赤ちゃんが下がっているとか、そういう可愛らしい感覚じゃない。
内臓が、全部、下がっている。
胃も。
腸も。
その他色々も。
なんかもう全部、下にいる。
お腹の形も変わっていた。
今まで前に突き出していた丸いお腹が、明らかに下へ落ちている。
人体の神秘である。
できれば体験したくない神秘だった。
助産師さんが診察する。
そして声を上げた。
「子宮口八センチ!」
八センチ。
その数字を聞いた瞬間。
ようやく希望が見えた。
終わる。
やっと終わる。
長かった。
本当に長かった。
私はこの時。
ようやくゴールが見えたと思っていた。
終わると思っていた。
甘かった。
LDRが変形した。
気付けば分娩台になっていた。
変形ロボみたいだな、などと頭の片隅に浮かぶ。
助産師さん達が慣れた手つきで準備を進めていく。
足を開く。
開く。
もっと開く。
待って。
そんなに開かない。
私の股関節はそこまで高性能じゃない。
無理。
無理無理。
あ。
開いたな。
人間、意外と開くものである。
次に足へ何かが巻かれた。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
謎のシート。何これ。
後で調べたら血栓予防だったらしい。
その時の私は知らない。
そして手には謎のハンドル。
握れということらしい。
あ、はい。
握ります。
何でもします。
早く終わらせて下さい。
診察。
助産師さんが言う。
「子宮口九センチです」
九センチ。
あと少し。
あと少しなのに。
「まだいきんじゃダメですよ」
「は、い……」
「股が裂けますからね」
股が裂けるって何。
怖いこと言わないでほしい。
陣痛の間隔は一分から二分。
もう休憩なんて無い。
痛み。
少し楽。
痛み。
少し楽。
その繰り返し。
時間の感覚も消えていた。
そこへ先生が現れた。
救世主である。
診察。
そして。
「うん、十センチ開いたね」
先生が笑う。足をぽんぽんたたく。
「お母さん頑張りましたね」
頑張った。
本当に頑張った。
三十六時間近く頑張った。
褒められて当然である。
私は泣いてもいいと思う。
すると先生が続けた。
「じゃあ、麻酔かけてちょっと会陰切りますね」
はい?
切る?
何を?
どこを?
理解が追い付く前に。
チクッ。
痛み。
終わり。
え。
それだけ?
陣痛に比べたら蚊に刺された方が痛い。
感覚が完全に壊れていた。
先生が位置につく。
助産師さん達も集まる。
空気が変わった。
いよいよらしい。
そして、助産師さんが大きな声で言った。
「お母さん、いきんでください!」
そう言われた。
しかし。
いきむって何だ。
人生でそんなことを真面目に考えたことがない。
とりあえず。
お腹に力を入れてみる。
その瞬間。
ずるり。
身体の中で何か大きなものが動いた。
「あっ」
分かる。
赤ちゃんだ。
今の絶対赤ちゃんだ。
動いた。
下がった。
来てる。
来てる来てる来てる。
そして。
止まった。
動かない。
出ない。
何かが挟まっている。
もじゃもじゃしてる感触。
というか。
頭が出ているらしい。
股の間を見る。
見えた。
毛だ。
頭髪だ。
人間だ。
本当に人間が出てきている。
妙な感動があった。
いや感動というか。
驚きだった。
うわ。
本当にいる。
そこへ先生が言った。
「うん、頭引っ張ろうか」
そんな軽い感じで言うんだ。
引っ張るんだ。先生すごいな。
などと思っていたら。
次の瞬間。
どぅるん。
とてつもなく大きなものが身体の外へ出ていった。
軽い。
急に軽い。
今まで身体の中にあった重みが、一気になくなった。
終わった。
本当に終わった。
私はそう思った。
しかし、赤ちゃんはすぐには泣かなかった。
足元で。
じゅるっ。
何か吸われた。
そして。
「ほぎゃあああ!」
元気な泣き声が響いた。
生きてる。
ああ。
生きてるんだ。
助産師さんが笑顔で言う。
「お母さん、おめでとうございます!」
「元気な男の子ですよ!」
私は頷いた。
そして。
精一杯の返事をした。
「あー……」
「産まれましたねー」
感動で言葉が出なかったわけじゃない。
達成感で胸がいっぱいだったわけでもない。
ただ単純に。
疲れていた。
十一時五十七分。
破水から三十六時間。
本当に。
長かったのである。
気付けば、産後の処理は全て終わっていた。
本当に終わった。
達成感より先に来たのは、猛烈な疲労だった。
身体が重い。
鉛でも詰まっているみたいだった。
そして寒い。とにかく寒い。
毛布を一枚。
まだ寒い。二枚。
寒い。三枚。
ようやく落ち着いた。
人間ってこんなに冷えるのか。
隣で旦那が笑う。
「……頑張ったね。お疲れさま」
その言葉が一番嬉しかった。
私は毛布に埋まりながら答える。
「もう、めっちゃ頑張ったわー……」
本当に頑張った。
誰が何と言おうと頑張った。
三十六時間だぞ。
褒められて当然である。
そして私は現在の状態を説明した。
「今の疲労感としては」
「うん」
「五十メートル泳を四本やって、限界まで各種筋トレをした感じ」
旦那が吹き出した。
「なにそれ具体的」
「分かんないけどそんな感じ」
正確な表現だったと思う。
たぶん。
そして、隣を見る。
小さな身体。
さっきまで私のお腹にいた人。
息子である。
じっと観察する。
頭が少し尖っていた。
しわしわだった。
なんというか、サルっぽい。
私は正直な感想を述べた。
「うん」
「産まれたてって思ったより可愛くない」
旦那が即座に反応する。
「なんてことを」
いや。
だって本当にそうだったのだ。
もちろん嬉しい。
もちろん安心した。
しわしわの息子を見ながら。
出産から三時間後。
私はまだLDRのベッドの上にいた。
毛布にくるまり、半分死んでいた。
そこへ助産師さんがやって来る。
「はい、お部屋へ移動しますねー」
「はい……」
「歩いてください」
「歩くんですか?」
思わず聞き返した。
だって。
三十六時間戦ったのである。
さっき人間を一人出したのである。
移動はストレッチャー的な何かだと思うじゃないか。
しかし助産師さんは平然としていた。
「大丈夫ですよ。自然分娩ですから」
自然分娩。
便利な言葉である。
恐る恐る身体を起こす。
立つ。
ふらつく。
でも。
あれ?
意外と立てる。
身体が軽い。
信じられないくらい軽い。
今までお腹の中にいた数キロが消えたのだから当然かもしれない。
足は震える。
手も震える。
生まれたての子鹿みたいだった。
それでも歩けた。
人間ってすごい。
しかし。
違和感があった。
お尻である。
なんか、いる。
何かが、主張している。
歩くたびに気になる。
私は助産師さんへ聞いた。
「あの」
「はい?」
「なんか出てる気がするんですけど」
助産師さんは即答した。
「あー」
軽く。
「会陰も切りましたし」
「はい」
「脱肛もしてますね」
「はい?」
初耳である。
「痛かったら言ってくださいねー。お薬出してもらうので」
そんな感じで言うことある?
脱肛だぞ?
後日。
お見舞いに来た旦那へ聞いた。
「ねえ」
「うん?」
「最後の方さ」
「うん」
「お尻、めっちゃ拭かれてなかった?」
旦那が一瞬黙る。
嫌な予感がした。
「……拭かれてたね」
「やっぱり?」
私は続けて聞く。
「もしかして」
「うん」
「…出てた?」
旦那は少しだけ視線を逸らした。
「……うん」
沈黙。
私は天井を見上げた。
「…………そっかぁ」
こうして。
三十六時間に及ぶ出産は幕を閉じた。
会陰切開。
陣痛促進剤。
吐き気。
過呼吸。
徹夜。
激痛。
様々な試練があった。
だが、出産後も一番長く私を苦しめたのは。
脱肛だった。
人生、何がラスボスになるか分からない。
出産後。
部屋へ移動して。
抱っこして。
泣いたらあやして。
ふにゃふにゃの、小さな塊。
軽いと思った。
でも腕に乗せると、不思議とずっしりしている。
ほわっと温かい。
顔を近づけると、なんだかよく分からない匂いがした。
ミルクみたいな。
お日さまみたいな。
新しいタオルみたいな。
結局、何の匂いなのか今でも説明できない。
でも。
「あ、新生児の匂いだ」
そう思う。
寝ているだけなのに、
鼻からは「ぴす、ぴす」と小さな音がする。
口は時々、むにゃむにゃ動く。
指を一本差し出すと。
ぎゅっ。
小さな手が、思ったよりずっと強い力で握り返してくる。
その瞬間。
「あれ?」
と思った。
「……この子、めちゃくちゃ可愛くない?」
三十六時間苦しんだはずなのに。
会陰も切ったし。
脱肛もしたし。
たい焼きも食べ損ねたし。
うどんの恨みも忘れていない。
それなのに。
全部、どうでもよくなってしまうくらい。
この小さな生き物が、可愛かった。
不思議である。
私は旦那に言った。
「ねえ」
「ん?」
「二人目、いつにする?」
「えっ」
「だってこんなに可愛いんだもん!もう一人欲しい!」
「……また陣痛くるよ?」
「大丈夫大丈夫!二回目は早く産まれるって言うし!」
「ええ~……?」
そして数年後。
陣痛開始から二十三時間経過。深夜二十二時。
「……アアアアアァァァ!!やってられるかぁぁっっ!!」
怒りのスクワット。
怒りの階段昇降。
子宮口三センチから八センチへ、わずか三十分で急拡大。
夜中の産院を慌てさせ、助産師さん達を大いに焦らせたのであった。
ちなみに。
二回目も普通に地獄だった。
人類は、赤ちゃんが可愛すぎるから絶滅しないのだと思う。




