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「先生、もう腹切ってください」36時間出産レポ

作者: 白鐘
掲載日:2026/06/03


出産二日前。


私は幸せだった。

産前休暇に入り、臨月。

実家に泊まりに来ていた旦那と、翌日は最後の二人きりデートをする予定だった。


カフェでも行こうか。

買い物もしよう。

そして何より。

たい焼き。

駅前の店で売っている、カスタードたい焼き。


あれを食べる。

絶対に食べる。


そう決意して眠りについた。



翌朝、午前五時。

ふと目が覚めた。


まだ早いな。

そう思いながら寝返りを打とうとして、違和感に気付く。

股のあたりが、なんか温かい。


「……ん?」


一瞬考える。

尿もれ?

いやいや、そんなわけ。


いや待って。

臨月だし。

ある?

あるのか?


慌てて起き上がる。

ぽた。

ぽた。

ぽた。


「……」


嫌な予感がした。

トイレへ向かう。

そして確信する。


「あっ…、これ破水だ」


人生初の破水だった。

知識としては知っている。

漫画でも見た。

ドラマでも見た。


でも実際に自分の身に起きると、

頭の中は驚くほど冷静だった。

というか、最初に思ったのは。


「え?」


次に思ったのは。


「マジ?」


そして三番目。

これが一番大事である。


「私のたい焼き……」


本日の予定、消滅。

カスタードたい焼き、消滅。

私の幸せなデート計画、消滅。


私は泣いた。

薄っすらと痛む腹を抑えて。


旦那を叩き起こす。


「起きて」

「ん……?」


「破水した」

「えっ」


飛び起きる旦那。

対して私。


「たい焼きが……」

「それどころじゃないだろ」

「うわあああぁぁぁん!!」


産婦人科へ向かう車の中で、

私は生まれてくる我が子より先に、

食べ損ねたカスタードたい焼きのことを考えていた。


今思う。


この時の私は、

まだ本当の地獄を知らなかった。




産院に到着した。


診察室。


夜勤の先生がさらっと言う。


「はい、前期破水してますね。このまま入院してください」


「はい……」


私のテンションは地の底だった。


陣痛はまだ前駆陣痛。

十分間隔くらい。

ちょっと重めの生理痛。


痛いけれど、普通に会話もできる。

歩ける。

スマホも触れる。


余裕である。


早朝だったこともあり、旦那は一度帰宅することになった。


「いつでも連絡して」


「はーい」


軽い。

実に軽い返事だった。

数時間後の自分が聞いたら殴りたくなるくらい軽い。


案内されたのはLDR。

陣痛・分娩・回復を一つの部屋で行うらしい。


ほうほう。

なるほど。

ここが戦場か。


まだ余裕だった私は写真を撮った。

ピースまでした。

今もスマホの中に残っている。

完全に観光客である。


部屋の中を見回す。

家族用の揺り椅子。

いきみ逃し用のチェアー。

壁には優しそうな絵。

テレビ。

冷蔵庫。

そして、枕。


私は枕を手に取った。

数秒後、そっと戻した。


臭い。

いや、かなり臭い。

汗の香り。

いや違う。

これは歴戦のお母さん達の香りだ。


この部屋で何人もの人が陣痛と戦い。

叫び。

苦しみ。

そして出産してきたのだろう。


私はまだ知らない。

数時間後。

その香りの一員になることを。



じわじわと時間が過ぎていく。


一時間。


五時間。


十二時間。


陣痛は来る。

でも生まれない。


産院のご飯は美味しかった。

彩りも良い。栄養バランスも良い。

腹は痛いけど。


それはそれ。

これはこれ。


病院食ってもっと質素なものだと思っていたので少し感動した。

腹は痛いけど。


そして。

夜。


助走を終えた地獄が、ついに本気を出し始める。


夜の診察後、助産師さんが言う。


「なかなか子宮口が開きませんね。このまま泊まりましょう」


「あ、はい」


この時点ではまだ冷静だった。


夜九時。

テレビではバラエティ番組。

芸人さん達の笑い声が響いている。

わはははは。

楽しそうである。


対して私は。


「うっ……」


五分おきに腹を抱えていた。


生理痛で例えるなら、

仕事を休んで布団に転がりたくなるレベル。

それが五分ごとに来る。


来る。

帰る。

また来る。

痛みが引いたと思ったら、もう次が来る。


全然帰らない。



夜十一時。

陣痛の間隔は四分。


助産師さんが診察する。


「どれくらい開いてるか見ますねー」


頼む。頼むぞ。

頑張った。私は頑張った。

せめて半分くらい開いてるはず。


「んー」


助産師さんが言う。


「二センチですね」

「……」


「まだまだかかりそうです」

「……」


「寝られそうなら寝てくださいね」


私は人生で初めて思った。

寝られるわけあるか。


「まだまだ……かかるんですか……?」


かすれ声で聞く。


だって本で読んだ。

ネットでも見た。

陣痛の間隔が短くなったら子宮口が開くって。


「個人差ですねー」


にっこり。


絶望。



深夜一時。

陣痛の間隔は二分。

もうほぼ休憩がない。


痛い。

痛くない。

痛い。

痛い。

痛い。


くらいの感覚。


再び診察。


今度こそ。

今度こそ進んでいてくれ。


祈る私に助産師さんが告げた。


「三センチですね」


三センチ。

三センチである。


十二時間以上頑張って。

二分間隔まで来て。


三センチ。


私は薄々気付き始めていた。

これ、思ってたより遥かに長期戦なのでは?


そこから先の記憶は曖昧だ。

飛び飛びである。


吐いた。

たぶん二回くらい。もっとかもしれない。

正直覚えていない。


陣痛が来る。

耐える。

終わる。

意識が落ちる。


また陣痛が来る。

起こされる。

耐える。

寝る。


その繰り返し。

睡眠というより気絶に近かった。


LDRに置かれていた、いきみ逃し用のチェアー。

私はそこにしがみついていた。

助産師さんが腰を温めてくれる。

背中をさすってくれる。


優しい。本当に優しい。

たぶん色々励ましてくれていた。

覚えていないけど。

人間、痛みが一定以上になると記憶を捨て始めるらしい。


そして不思議なことに、あれほど短くなっていた陣痛間隔はなぜか七分まで戻った。

意味が分からない。


頑張ったのに。


もう一度言う。


頑張ったのに。


リセットされた。

ゲームだったらコントローラーを投げている。



そして朝。

午前八時。


先生が出勤した。

救世主である。

私は診察台で開口一番こう言った。


「先生、もう腹切ってください」


本音だった。

心の底からの本音だった。


先生は慣れた様子で笑う。


「大丈夫ですよ」


大丈夫じゃない。


「陣痛が弱いですね」


弱い?

これで?


「促進剤使いましょうか」


私は数秒考えた。

考えた結果。


「……はい」


と答えた。


今思う。

あの時の私に教えてあげたい。


やめろ。


その返事をするな。



旦那へ電話する。


「これから陣痛促進剤使うから……」


自分でも驚くほど覇気のない声だった。


旦那はすぐ来ると言った。

たぶん心配だったのだろう。

正しい判断である。



吐き気は相変わらず続いていた。


水を飲んでも吐く。

ゼリーも吐く。

何なら何もなくても吐く。


そのため私は点滴に繋がれていた。

生命維持装置である。


そこへ新しい点滴が追加された。

小さなパック。透明な液体。

助産師さんが慣れた手つきで既存のラインへ接続する。

陣痛促進剤。


私はその名前を知っていた。

知っていたけれど。

本当の意味では知らなかった。



そういえば私は事前に、新ラマーズ法だのソフロロジー法だのを学んでいた。


呼吸法。

弛緩法。

赤ちゃんに会う喜びをイメージする。

そうすることで、痛みを和らげ、穏やかな出産を目指すらしい。


痛みを受け入れましょう。

陣痛は赤ちゃんからのメッセージです。

リラックスしましょう。

お母さんの身体は出産のためにできています。


なるほど。

とても素敵な考え方である。


当時の私は真面目に練習した。

呼吸もした。イメージトレーニングもした。赤ちゃんに会う喜びも想像した。


そして今。


何が穏やかな出産だ。


いてぇわ。




点滴が落ちる。


ぽた。


ぽた。


ぽた。


ゆっくりと体内へ入っていく。


何も起きない。

まだ大丈夫、そう思った。

次の瞬間だった。


全身を殴られたみたいな激痛が走る。


「あ"ッ!!」


身体が勝手に仰け反った。


違う。

今までのは陣痛じゃなかった。

あれは前座だ。

ウォーミングアップだ。


本物はこっちだ。


「あああああああッ!!」


勝手に悲鳴が出る。

出そうと思って出したんじゃない。


出た。

自然に。

反射で。

本能で。


私はその時、妙に冷静だった。

人間ってほんとに悲鳴出るんだなぁ。

とか考えていた。


助産師さんの声が飛んでくる。


「仰け反らないでー!」


「あっ、がッ……!」


「息止めないでー!呼吸してー!」


「フーッ!フーッ!」


「股の間見ててください!」


見てる場合か。

でも見た。

言われるがまま見た。


呼吸。

呼吸。

呼吸。


痛い。

呼吸。


痛い。

呼吸。


痛い。


視界の端で旦那が見える。

心配そうな顔をしてるけど、顔が引きつっている。

引くな。私も引いてるから。


でも、いつまでも気にする余裕はない。


頭の中は一つだけ。

痛い。

ただそれだけだった。


そして私は理解した。

陣痛促進剤とは、薬ではない。

拷問開始の合図である。



そこから先の時間はよく分からない。

時計はあった。

たぶん見ていた。

でも覚えていない。


記憶にあるのは、痛み。呼吸。それだけだ。


気付けば過呼吸気味になっていたらしい。

口元にマスクが装着される。

酸素だったのか何だったのか。

息苦しかった。

それだけは覚えている。


そんな極限状態の中。

事件は起きた。


十一時半。


昼食である。

前日、私は病院のメニュー表を見ていた。

そして歓喜した。


うどんだ。

私の大好物である。

出産頑張ったら食べよう。

そう思っていた。


しかし、私は食べられなかった。

食べたら吐くから。

代わりに旦那が食べた。


ずるるるる。


私が陣痛と戦っている横で、うどんが消えていく。

助産師さんに、


「旦那さん、これ、食べちゃってください」


「あ、はい」


と言われたのもあって、早めに食べようとしていたのだと思う。

無駄にしないように。


分かっている。

理屈では分かっている。


でも。


――後で覚えておけ。


その恨みだけは妙に鮮明だった。



そして、違和感に気付く。


身体の中身が、下にある。

赤ちゃんが下がっているとか、そういう可愛らしい感覚じゃない。


内臓が、全部、下がっている。

胃も。

腸も。

その他色々も。

なんかもう全部、下にいる。


お腹の形も変わっていた。

今まで前に突き出していた丸いお腹が、明らかに下へ落ちている。


人体の神秘である。

できれば体験したくない神秘だった。


助産師さんが診察する。

そして声を上げた。


「子宮口八センチ!」


八センチ。

その数字を聞いた瞬間。

ようやく希望が見えた。


終わる。

やっと終わる。

長かった。

本当に長かった。


私はこの時。

ようやくゴールが見えたと思っていた。


終わると思っていた。


甘かった。



LDRが変形した。

気付けば分娩台になっていた。


変形ロボみたいだな、などと頭の片隅に浮かぶ。

助産師さん達が慣れた手つきで準備を進めていく。


足を開く。

開く。

もっと開く。


待って。

そんなに開かない。

私の股関節はそこまで高性能じゃない。

無理。

無理無理。

あ。

開いたな。

人間、意外と開くものである。


次に足へ何かが巻かれた。

ぐるぐる。

ぐるぐる。

謎のシート。何これ。

後で調べたら血栓予防だったらしい。

その時の私は知らない。


そして手には謎のハンドル。

握れということらしい。

あ、はい。

握ります。

何でもします。

早く終わらせて下さい。


診察。

助産師さんが言う。


「子宮口九センチです」


九センチ。

あと少し。

あと少しなのに。


「まだいきんじゃダメですよ」

「は、い……」

「股が裂けますからね」


股が裂けるって何。

怖いこと言わないでほしい。


陣痛の間隔は一分から二分。

もう休憩なんて無い。


痛み。

少し楽。

痛み。

少し楽。

その繰り返し。


時間の感覚も消えていた。

そこへ先生が現れた。

救世主である。


診察。

そして。


「うん、十センチ開いたね」


先生が笑う。足をぽんぽんたたく。


「お母さん頑張りましたね」


頑張った。

本当に頑張った。

三十六時間近く頑張った。

褒められて当然である。

私は泣いてもいいと思う。


すると先生が続けた。


「じゃあ、麻酔かけてちょっと会陰切りますね」


はい?

切る?

何を?

どこを?

理解が追い付く前に。


チクッ。

痛み。

終わり。


え。

それだけ?

陣痛に比べたら蚊に刺された方が痛い。

感覚が完全に壊れていた。


先生が位置につく。

助産師さん達も集まる。

空気が変わった。

いよいよらしい。


そして、助産師さんが大きな声で言った。


「お母さん、いきんでください!」


そう言われた。


しかし。

いきむって何だ。

人生でそんなことを真面目に考えたことがない。


とりあえず。

お腹に力を入れてみる。

その瞬間。


ずるり。


身体の中で何か大きなものが動いた。


「あっ」


分かる。

赤ちゃんだ。

今の絶対赤ちゃんだ。


動いた。

下がった。

来てる。

来てる来てる来てる。


そして。

止まった。

動かない。

出ない。


何かが挟まっている。

もじゃもじゃしてる感触。

というか。

頭が出ているらしい。


股の間を見る。

見えた。

毛だ。

頭髪だ。

人間だ。

本当に人間が出てきている。


妙な感動があった。

いや感動というか。

驚きだった。


うわ。

本当にいる。


そこへ先生が言った。


「うん、頭引っ張ろうか」


そんな軽い感じで言うんだ。

引っ張るんだ。先生すごいな。

などと思っていたら。


次の瞬間。

どぅるん。

とてつもなく大きなものが身体の外へ出ていった。


軽い。

急に軽い。

今まで身体の中にあった重みが、一気になくなった。


終わった。

本当に終わった。

私はそう思った。


しかし、赤ちゃんはすぐには泣かなかった。


足元で。

じゅるっ。

何か吸われた。


そして。


「ほぎゃあああ!」


元気な泣き声が響いた。


生きてる。

ああ。

生きてるんだ。


助産師さんが笑顔で言う。


「お母さん、おめでとうございます!」

「元気な男の子ですよ!」


私は頷いた。

そして。

精一杯の返事をした。


「あー……」


「産まれましたねー」


感動で言葉が出なかったわけじゃない。

達成感で胸がいっぱいだったわけでもない。


ただ単純に。

疲れていた。


十一時五十七分。

破水から三十六時間。

本当に。

長かったのである。



気付けば、産後の処理は全て終わっていた。

本当に終わった。


達成感より先に来たのは、猛烈な疲労だった。

身体が重い。

鉛でも詰まっているみたいだった。


そして寒い。とにかく寒い。


毛布を一枚。

まだ寒い。二枚。

寒い。三枚。

ようやく落ち着いた。

人間ってこんなに冷えるのか。


隣で旦那が笑う。


「……頑張ったね。お疲れさま」


その言葉が一番嬉しかった。

私は毛布に埋まりながら答える。


「もう、めっちゃ頑張ったわー……」


本当に頑張った。

誰が何と言おうと頑張った。

三十六時間だぞ。

褒められて当然である。


そして私は現在の状態を説明した。


「今の疲労感としては」

「うん」

「五十メートル泳を四本やって、限界まで各種筋トレをした感じ」


旦那が吹き出した。


「なにそれ具体的」

「分かんないけどそんな感じ」


正確な表現だったと思う。

たぶん。


そして、隣を見る。

小さな身体。

さっきまで私のお腹にいた人。

息子である。


じっと観察する。

頭が少し尖っていた。

しわしわだった。

なんというか、サルっぽい。


私は正直な感想を述べた。


「うん」

「産まれたてって思ったより可愛くない」


旦那が即座に反応する。


「なんてことを」


いや。

だって本当にそうだったのだ。


もちろん嬉しい。

もちろん安心した。

しわしわの息子を見ながら。



出産から三時間後。

私はまだLDRのベッドの上にいた。

毛布にくるまり、半分死んでいた。


そこへ助産師さんがやって来る。


「はい、お部屋へ移動しますねー」

「はい……」


「歩いてください」

「歩くんですか?」


思わず聞き返した。

だって。

三十六時間戦ったのである。

さっき人間を一人出したのである。

移動はストレッチャー的な何かだと思うじゃないか。


しかし助産師さんは平然としていた。


「大丈夫ですよ。自然分娩ですから」


自然分娩。

便利な言葉である。


恐る恐る身体を起こす。

立つ。

ふらつく。

でも。


あれ?

意外と立てる。


身体が軽い。

信じられないくらい軽い。

今までお腹の中にいた数キロが消えたのだから当然かもしれない。


足は震える。

手も震える。

生まれたての子鹿みたいだった。

それでも歩けた。


人間ってすごい。



しかし。

違和感があった。

お尻である。


なんか、いる。

何かが、主張している。

歩くたびに気になる。


私は助産師さんへ聞いた。


「あの」

「はい?」

「なんか出てる気がするんですけど」


助産師さんは即答した。


「あー」


軽く。


「会陰も切りましたし」

「はい」


「脱肛もしてますね」

「はい?」


初耳である。


「痛かったら言ってくださいねー。お薬出してもらうので」


そんな感じで言うことある?

脱肛だぞ?



後日。

お見舞いに来た旦那へ聞いた。


「ねえ」

「うん?」


「最後の方さ」

「うん」


「お尻、めっちゃ拭かれてなかった?」


旦那が一瞬黙る。

嫌な予感がした。


「……拭かれてたね」

「やっぱり?」


私は続けて聞く。


「もしかして」

「うん」

「…出てた?」


旦那は少しだけ視線を逸らした。


「……うん」


沈黙。

私は天井を見上げた。


「…………そっかぁ」



こうして。

三十六時間に及ぶ出産は幕を閉じた。


会陰切開。

陣痛促進剤。

吐き気。

過呼吸。

徹夜。

激痛。

様々な試練があった。


だが、出産後も一番長く私を苦しめたのは。


脱肛だった。



人生、何がラスボスになるか分からない。





出産後。


部屋へ移動して。

抱っこして。

泣いたらあやして。


ふにゃふにゃの、小さな塊。


軽いと思った。

でも腕に乗せると、不思議とずっしりしている。

ほわっと温かい。


顔を近づけると、なんだかよく分からない匂いがした。

ミルクみたいな。

お日さまみたいな。

新しいタオルみたいな。

結局、何の匂いなのか今でも説明できない。

でも。


「あ、新生児の匂いだ」


そう思う。


寝ているだけなのに、

鼻からは「ぴす、ぴす」と小さな音がする。


口は時々、むにゃむにゃ動く。


指を一本差し出すと。

ぎゅっ。

小さな手が、思ったよりずっと強い力で握り返してくる。


その瞬間。


「あれ?」


と思った。


「……この子、めちゃくちゃ可愛くない?」


三十六時間苦しんだはずなのに。


会陰も切ったし。

脱肛もしたし。

たい焼きも食べ損ねたし。

うどんの恨みも忘れていない。


それなのに。


全部、どうでもよくなってしまうくらい。


この小さな生き物が、可愛かった。


不思議である。



私は旦那に言った。


「ねえ」

「ん?」

「二人目、いつにする?」

「えっ」

「だってこんなに可愛いんだもん!もう一人欲しい!」

「……また陣痛くるよ?」

「大丈夫大丈夫!二回目は早く産まれるって言うし!」

「ええ~……?」




そして数年後。


陣痛開始から二十三時間経過。深夜二十二時。


「……アアアアアァァァ!!やってられるかぁぁっっ!!」


怒りのスクワット。

怒りの階段昇降。


子宮口三センチから八センチへ、わずか三十分で急拡大。


夜中の産院を慌てさせ、助産師さん達を大いに焦らせたのであった。


ちなみに。


二回目も普通に地獄だった。


人類は、赤ちゃんが可愛すぎるから絶滅しないのだと思う。

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