第2話 新居と松山城
新居の鍵を受け取り、父と一緒にエレベーターで最上階へ向かった。
まだ段ボールの匂いが残る新しい生活の始まりに、湊は胸の奥が少しだけざわついていた。
「ここだな。……よし、開けるぞ」
父が鍵を回すと、軽い音を立ててドアが開いた。
玄関に入った瞬間、湊は思わず息を呑んだ。
リビングの大きな窓から、松山城が真正面に見えていた。
勝山の頂にそびえる天守は、春の光を受けて白く輝き、
その下に広がる石垣は、まだ朝の冷たさを残した影を落としている。
山肌には薄い霞がかかり、風が吹くたびにゆっくりと流れていく。
「……すごい」
湊は靴も脱がずに窓辺へ歩き、ガラスに手を触れた。
東京では、こんな景色を“日常”として見ることはなかった。
父が段ボールを置きながら、窓の外を見て笑った。
「カレンダーの写真みたいだなぁ。
毎日こんなのが見えるなんて、贅沢だよな」
“写真”という言葉が、湊の胸の奥で小さく響いた。
写真。
今まで特別興味があったわけではない。
けれど、この景色を前にすると、
その言葉が妙にしっくりと胸に落ちてくる。
――この光景を、切り取ってみたい。
そんな衝動が、湊の中で静かに芽生えた。
父はキッチンの段ボールを開けながら言った。
「今日は簡単に済ませるか。夕飯は外で食べよう。
この辺、店も多いしな」
父子家庭の生活は、いつもこんな調子だった。
母が亡くなってから、父は仕事に追われ、
湊も自然と“外で食べる”ことに慣れていった。
けれど、松山ではそれがむしろ嬉しかった。
この街を歩き回る理由ができる。
知らない店、知らない匂い、知らない人たち。
それらすべてが、湊にとっては“新しい光”だった。
「湊、ちょっと買い出し行ってくる。
お前は部屋の荷物、少し片付けとけよ」
「うん」
父が出ていくと、部屋は急に静かになった。
湊は窓辺に座り、松山城を見上げた。
天守の白壁は、時間とともに少しずつ色を変えていく。
朝の白から、昼の淡い金色へ。
風が吹くたびに、木々の影が石垣に揺れ、
その揺らぎがまるで“城が呼吸している”ように見えた。
湊は、母の言葉を思い出した。
――きれいだと思ったらね、ちゃんと見つめてあげるんよ。
幼い頃、母はよくそう言っていた。
その言葉の意味を深く考えたことはなかった。
けれど今、この城を見ていると、
その言葉が胸の奥で静かに形を持ち始める。
「……見つめる、か」
湊は窓に額を寄せ、ゆっくりと目を閉じた。
風の音、遠くの車の音、鳥の声。
それらがひとつの風景として胸に染み込んでいく。
やがて目を開けると、
松山城の天守が、少しだけ夕陽を帯び始めていた。
湊は思った。
――この街を、もっと知りたい。
――この光を、もっと見ていたい。
その気持ちは、まだ言葉にならない。
けれど確かに、湊の中で静かに灯り始めていた。
父が買い物袋を提げて戻ってくる音が聞こえた。
湊は立ち上がり、玄関へ向かった。
「どうだ、片付いたか?」
「うん。……ねぇ父さん」
「ん?」
「この景色……なんか、いいね」
父は少し驚いたように目を丸くし、
すぐに柔らかく笑った。
「だろ? 松山、悪くないだろ」
湊は窓の外の松山城をもう一度見た。
その白い天守は、夕暮れの光を受けて静かに輝いていた。
――この街で、何かが始まる気がする。
湊はそう思いながら、
父と一緒に新しい生活の第一歩を踏み出した。




