第1話 松山空港
春休みの終わり、湊を乗せた飛行機は伊予灘の上空をゆっくりと旋回しながら高度を下げていった。
窓の外に広がる海は、朝の光を受けて薄い銀色に震えている。東京で見慣れた東京湾の濁った青とは違い、どこか柔らかく、静かで、光そのものが海に溶けているような色だった。海の向こうには小さな島々が点々と浮かび、瀬戸内らしい穏やかな風景が広がっている。
「……きれいだな」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
飛行機が滑走路に触れ、軽い衝撃とともに速度を落としていく。松山空港は海に近く、滑走路の向こうに伊予灘が広がっている。湊はその開放感に胸が少し軽くなるのを感じた。
タラップを降りた瞬間、頬を撫でた風に湊は思わず立ち止まった。
潮の匂い。
それに、柑橘の皮をひと撫でしたような、ほのかな甘さが混ざっている。
東京では感じたことのない匂いだった。
「湊、行くぞー」
先に歩いていた父が振り返る。湊は小さく頷き、キャリーケースを引きながら空港ロビーへ向かった。
松山空港のロビーは大きくはないが、天井が高く、ガラス張りの窓から柔らかな光が差し込んでいる。観光案内のポスターには道後温泉や松山城、しまなみ海道の写真が並び、湊はその一枚一枚に目を奪われた。
――この街には、こんな景色があるんだ。
空港から市街地へ向かうバスに乗り込むと、窓の外を緑色の路面電車がゆっくりと走っていくのが見えた。その鈴の音は、都会の喧騒とはまるで違う、“時間の流れそのもの”のような柔らかさを持っていた。
「松山って、こんなにのんびりしてるんだ……」
湊が呟くと、父は笑いながら前を向いたまま言った。
「いい街だよ、きっと。お前にも、きっと合うと思う」
バスは海沿いの道を走り、遠くに小さな島々が浮かんでいるのが見える。その島影が、春の霞の中でゆらゆらと揺れていた。
湊は胸の奥に小さな灯がともるのを感じた。
――この街を、もっと見てみたい。
そんな衝動が、まだ言葉にならないまま、静かに湧き上がってくる。
バスが市街地へ入ると、古い商店街や低い建物が続く街並みが広がった。東京のような高層ビルはほとんどない。その代わり、空が広い。光がよく通る。
湊は、母の言葉をふと思い出した。
――きれいだと思ったらね、ちゃんと見つめてあげるんよ。
幼い頃、母がよく言っていた言葉。
その意味を深く考えたことはなかった。
けれど今、この街の光を見ていると、
その言葉が胸の奥で静かに響いた。
バスが停まり、「松山駅前です」というアナウンスが流れる。
湊はキャリーケースを引きながら外に出た。春の光が、まっすぐに降り注いでいる。
ここが、これから暮らす街。
母の言葉を胸に、湊はゆっくりと深呼吸をした。
「よし、行くか」
父の声に背中を押され、湊は新しい生活へ向けて歩き出した。
その歩みはまだ小さく、頼りないものだったかもしれない。
けれど、松山の光はそんな湊を優しく包み込むように、ゆっくりと降り注いでいた。




