第1話:鉄拳の沈む日
「アルス、大丈夫よ。あなたは我が家の自慢の末っ子なんだから」
母マリアンヌの慈愛に満ちた声。だが、俺……元日本フェザー級王者、速水 鉄拳の魂は、その言葉に安住することを拒んでいた。 この「バルカ・バトラー子爵家」において、魔法が使えない俺は、愛玩動物のような扱いに甘んじていた。
「おい、また母様に甘えているのか? この出来損ないが」
部屋に踏み込んできたのは、三男のジーク(10歳)。 彼は指先に集めた衝撃魔法を、見せしめのように俺の顔面へ放った。
(遅い……。軌道が丸見えだぜ、坊主)
俺は首をわずかに傾ける「スリッピング・アウェイ」で衝撃波をかわすと、そのまま懐へ踏み込む。 身体強化を足腰に集中させ、最短距離を走る左。
ドォォン!
俺の拳がジークのみぞおち数ミリ前で止まり、拳圧だけで彼をひっくり返した。 「ひっ……!?」と情けない声を上げて尻餅をつくジーク。ここまでは前座だ。
「……何をしている、ジーク。無様に床を這って」
冷気のような声とともに、二男のレグルス(15歳)が現れた。 彼はバルカ家が誇る「魔剣」の使い手。ジークとは纏っている魔力の密度が違う。
「レグルス兄上、こいつ……生意気にも俺の魔法を!」 「黙れ。身内の恥を晒すな。——おい、アルス。少しは動けるようだな。兄として、教育してやる」
レグルスが訓練用の木剣を抜く。 俺は本能的にステップを刻み、ファイティングポーズをとった。
(来る……!)
レグルスの一閃。速い。だが、ボクサーの動体視力はそれを捉える。 俺は剣筋を潜り抜け、レグルスのガラ空きの顎に、身体強化をフル稼働させた渾身の右を叩き込んだ。
ガキィィン!!
「なっ……!?」 拳に伝わったのは、肉の感触ではなく、鋼鉄の壁を殴ったような衝撃。 レグルスの周囲には、魔力による自動防御膜『衝撃の鎧』が展開されていた。
「避けたのは褒めてやる。だが、魔法を持たぬ者の拳など、蚊が止まったようなものだ。——『真空破』」
不可視の衝撃波が、回避の隙を与えず俺の胸を直撃した。 「が……はっ!?」 身体強化を防御に回したが、出力の差が絶望的すぎる。 俺の体は吹き飛び、石壁に激突して血を吐いた。
「……ふん。所詮は身体強化しかできぬゴミだ。才能の差を、その身に刻んでおけ」
レグルスが冷たく言い放ち、立ち去ろうとしたその時。
「——その程度で『教育』なんて、笑わせるわね。レグルス」
澄んだ、だが心臓を掴むような重圧を伴う声が響く。 部屋の隅にいつの間にか立っていたのは、俺のひとつ上の姉、シエラ(7歳)だった。
彼女はこの家系、いや王国でも数百年ぶりと言われる「全属性適性」と「神速の演算能力」を持つ、一族最高の天才。
「シエラ……お前には関係ないだろう」 「関係あるわ。私の『おもちゃ』を勝手に壊さないでくれる? アルスのさっきの動き……魔法じゃない。ただの肉体の制御だけであなたの剣を避けたわ。レグルス、あなたが『鎧』を使わなかったら、今頃顎が砕けていたわよ」
シエラは俺を見下ろす。その瞳は、弟を慈しむ姉のそれではない。 珍しい標本を見つけた学者のような、残酷で純粋な好奇心。
「ねえ、アルス。もっと強く、もっと速くなりなさい。あなたが私の退屈を殺してくれるまで、誰にも壊させないから」
彼女の手のひらで、七色の魔力が静かに渦巻いている。 レグルスすら顔を強張らせて、何も言わずに部屋を後にした。
(クソッタレが……)
俺は血を拭い、震える足で立ち上がる。 魔法の出力で圧倒してくる兄と、それすらも超越した位置から見下ろす化け物じみた姉。 前世のリングにはいなかった、理不尽なまでの「暴力」がそこにはあった。
(面白くなってきたじゃねえか……。魔法がなんだ。いつかその『色』ごと、全部ぶち抜いてやる)
俺の第2ラウンドは、敗北からのスタートだった。




