第8話 キンモクセイの香り
温室から一番近い棟の、いつもは入ってはいけないと言われている三階の廊下を歩きながら、ミモザは緊張していた。
ベイルからもらった地図によるともうすぐで到着するらしいが、いかんせん王城は大きいので、あと少しといってもかなりの距離がある。
今朝、ベイルが腰を痛めて救護室に運ばれた際、付き添ったミモザは一つお願いをされた。
「実は今、ローワン王子が風邪をひいておりまして。……大体雨に濡れたぐらいで風邪をひくなんて、長く引きこもっていたせいで体力がなさすぎるんですよ、まったく」
ぶつぶつと呟くベイルに、ミモザは目でそれで? と合図を送る。その合図に気づいたベイルは、ごほん、と小さく咳払いをして話を続けた。
「ご夕飯と共に薬をローワン様のお部屋まで持っていって頂きたいのです」
「私が、ですか?」
王族の配膳は信頼のある人間にしか任されない。
毒を入れられる危険があるからだ。
自分はもちろん毒を入れるなんてことはしないが、まだ雇われて半年ちょっとの訳あり令嬢なわけで、そんなことを任せられていいのだろうかと、その重責に一瞬怯む。
「本来であれば配膳係がいるのですが、ローワン王子は引きこもっていらっしゃることもあり、人との関わりを最小限にされたいと望まれていて……。そのためお部屋のお掃除も、ご飯の配膳も、すべての給仕をわたくしが担当しているのです。ですがほら、今日はこういった状態ですので……」
ベッドに横たわったまま、首だけでこちらを見るベイルが、情けなく眉を垂らす。
いつもは精悍な顔つきが、崩れて今にも泣きそうだった。
「配膳といっても、ミモザ様は王子の部屋の前にキッチンワゴンを置いていただくだけでよいのです。王子はお姿を見られるのを嫌っておいでなので。わたくしは明日の朝には気合で治しますので、ミモザ様には今日の夕方だけでも対応してもらえると……」
弱った声でお願いされて、それなら自分にもできるかもしれない、とミモザは思う。
「本当だったら、匍匐前進ででもローワン王子のもとへ行って給仕させていただきたいのですが」
ベイルは悔し涙で枕を濡らす。
他の誰かであれば面白い冗談と笑えたが、真面目なベイルのことだ。きっと冗談でもなんでもなく、本心だろう。
「わかりました。キッチンワゴンを運ぶだけでしたら」
そうして、この仕事を引き受けたのだった。
ローワン王子直属の庭師として働き始めたが、ローワン王子には会ったこともなければ、どんな方なのかも全く知らない。
いろんな噂を耳にはしたが、どれも頭には留めていない。噂は噂であって、真実ではないから。
キッチンワゴンを部屋の前に運ぶだけではあるが、何か粗相をしてクビになったらどうしよう。もう行く場所はどこにもないのだ。クビだけは避けたい。
救護室を出る直前にベイルに受けた注意を改めて思い出す。
「ローワ王子の部屋には絶対に入らないでください。お顔も見ないようにお願いします。極力お話もなさらないでください。」
余計なことをせずにやるべきことをやるだけ。
そう何度も言い聞かせていると、ようやくローワ王子の部屋の前についた。
部屋の前には、前の食事のキッチンワゴンと思われるものが置かれている。
朝と昼兼用らしいワゴンには、ほとんど手がつけられていないお皿が乗っていた。
食欲がなかったのだろうか。
新しいワゴンと取り換えて、ドアをノックした。
「ローワン王子、ご夕食とお薬をお持ちいたしました。ドアの前に置いておきます」
キッチンワゴンを置いたら速やかに帰らなければ、とその場を後にしようとしたとき、部屋の中から、ゴトンっと鈍い音が響いた。思わず言葉が出てしまう。
「大丈夫ですか⁈」
そう言った後で、差し出がましいことを言ってしまったかだろうかと不安になる。けれど一度出てしまった言葉は取り消せない。
それに部屋の中も気になる。
何もなければいいが、かなりの音だった。
人がベッドから落ちたような音。
もし部屋の中でローワン王子がベッドから落ちているのに助けを呼べないでいたらどうしようと、危惧する。
ドアノブに手をかけて扉を開けようとした時、ベイルの部屋に入ってはいけないという言葉を思い出した。
けれど、非常事態はしかたないのではないだろうか、いやでも相手は引きこもり中のローワン様だし、見知らぬ使用人が入っては驚かれるかもしれない。
いやしかし、命にかかわることだったら、
いやけれど、と次々に考えが溢れる。
何が正解かわからずドアノブに手をかけたまま逡巡していると部屋の中から声が聞こえた。
「だ、大丈夫! じんぱいしないでくれ」
おそらくローワン王子の声なのだろう。
初めて聞いたけれど、それが鼻声でしゃがれているのがわかる。風邪はなかなかひどいらしい。
「ちょっと驚いてベッドから落ちてしまっただけだから、ぎにじないでくれ。どごろでなぜミモザが持ってきてくれたんだ? ベイルはどうじたの?」
所々鼻声できつそうに話すのも心配だが、やはりベッドから落ちてしまっていたのか、とダブルで心配する。
「ベイル様は本日、温室の手伝いをしてくださった際に、腰を痛められてしまい、今救護室で手当を受けていらっしゃいます」
そこまで言ったときに、はたと気づいた。ローワン王子は自分をミモザと呼んだのだ。
部屋の扉を開けて自分の顔を見たわけでもないのに、ミモザだと言い放ったのだ。ミモザはキョロキョロとあたりを見回した。
「あの、ローワン様。どこかから見られているのですか?」
「え、なんで?」
「いえ、私今日初めてローワン様とお話したのに、名乗る前からミモザと呼んでくださったので」
扉に小さな穴があったりするのかもしれない。ワートル家の玄関にも、外にいる相手を見ることができるドアスコープなるものがついている。
けれども、ローワン王子の部屋の扉には、パッと見たところそういったものはないようだった。ではどうして自分がミモザだとわかったのだろうか。
「……ごえで……、ごほんっ……。声で分かったんだ」
「声ですか……」
ローワン王子とはこれまで話したことは一度もない。それなのにどうして自分の声をしっていたのだろう。そう疑問に思っていると、ローワン王子が焦るように言葉を繋げた。
「ごの部屋からは温室が見えるからな。たまに君と……ロウィが話しているのを見たことがあったんだ。その時に声を聴いたからっ、だからわかったんだ」
ミモザはなるほど、と納得した。確かにこの部屋の位置であれば、温室がよく見えるだろう。
「そうでしたか。これまで直接ご挨拶できずで失礼致しました。今日はローワン様とお話できてうれしかったです。それでは私はこれで」
ベイルから、『極力お話もなさらないでください』と言われていたのを思い出し、ミモザはローワン王子の部屋の扉に向かって軽く頭を下げると踵を返そうとした。
ちょっと話過ぎたかもしれない。クビにならないといいけど。そう思っていると、
「ま、待っでぐれ! ミモザっゴホッ、ゲホゲホ」
部屋の中からミモザを引き留める声がした。急に大きな声を出してしまったからか、ローワン王子が咳き込む。
「ローワン王子、大丈夫ですか? どうされましたか?」
何か忘れ物か、もしくは粗相でもしてしまったかと焦っていると、ローワン王子の声が聞こえた。
「話がじたい……んだ。ご飯を食べる間だけでいいから、話を、してぐれないか」
「お話、ですか?」
「ああ。ずっと部屋から出ていないから暇なんだ……。今日はベイルとも話せないし……」
徐々に弱くなっていく声は、最後は小鳥のさえずりのように小さくなった。
一瞬、ベイルの『極力お話もなさらないでください』が頭をかすめたが、陽の光に直接当たることもなく、部屋の中に一日中いるとはかなりのストレスに違いない。植物だったら枯れてしまうところだ。
それに唯一給仕を任せているベイルとも話ができ
ないとはきっと辛いはずだし、風邪で弱っている時なら尚更だ。
自分にできることがあればローワン王子の役に立ちたい、とベイルからの注意も忘れて、ミモザは返事をした。
「もちろんです!」
「よがった、ありがとう」
心なしか、ローワン王子の声が明るく喜んでいるように聞こえた。
「なるほど。ではミモザの家では花種からオイルを作っているのか」
「はい。温室の植物でいうと向日葵やツバキの種子なんかはできそうかなと」
「ツバキか。あれは昔、西からキャラバンが来た時に買ったものなんだ。よかったらぜひ今度作ってみてくれ」
「もちろんです! 楽しみにしていてください」
ローワン王子と会話を初めて三時間。ミモザは王子の部屋の扉を背もたれに床に着座していた。
当初は夕飯が終わるまでの予定だったが、想像以上に盛り上がり、話は一向に尽きない。
陽が落ちる直前の仄明るかった空が、今は完全に闇に包まれる。
暗紫色の空には宝石をちりばめたような星が至る所で輝いていた。
少し前までクビにならないようにとびくびくしていたが、その緊張も春の雪解けのようにあっという間に跡形もなく消えていた。相手が王子だということを、忘れてしまいそうになるほどだ。
これまでミモザの植物トークの相手は侍女のマーガレットだけだった。そのマーガレットでさえ、ここまでの知識は持っておらず、二人で盛り上がるというよりは、一方的にミモザが話をし続けるだけだった。
王城で働き始めてから、ロウィやアンダーソンと話すようになり、やっと心から植物に関して語り合える仲間ができたわけだが、それでも二人。語り合える相手は多いほうが嬉しい。
「ほんどうに、ミモザは植物のことをよく知っているね」
関心するような口調に嬉しくなる。自分の人生は植物一筋だったわけで、それを肯定されるということは、人生を肯定されたような気になる。
「それを言うならローワン王子のほうこそ」
互いに誉めあいながら、えへへと照れ臭くなる。
「ミモザはなんでそんなに植物が好きなの? やっぱり名前がミモザだからかな」
ローワン王子の質問に、図らずもミモザの声のトーンが落ちる。
「……そうですね、この名前は母がつけてくれたもので、母は植物が好きな人でした。その影響だとおもいます」
「あ、ごめん。……聞いちゃだめだったかな」
ミモザの声の小さな変化に気づいた、ロウィが訊ねる。
ミモザは急いで首を振った。
「いえ、すみません。久々に母のことを話すのでしみじみしてしまって」
ローワン王子に気を遣わせてしまったことが申し訳なく、ミモザは何か話をしなければと、口を開いた。
「私、小さい頃はミモザって名前が嫌いだったんです」
ミモザという名前は植物好きの母がつけてくれた名前だった。
小さくも、太陽のように美しく咲くその花のように、周りを明るく照らす子で合ってほしいという願いを込めてつけられた名前は、現実の地味でおとなしい自分とはあまりに対照的で、重荷でしかなかった。級友にも名前と容姿が合っていないといつもからかわれたが、そんなこと、自分が一番わかっていた。
自分はあんなにかわいい花になれないし、ましてや太陽のように輝くなどなれる訳がない。こんな名前なんか、嫌いだ。大嫌いだ。
そうしていつしか名前を呼ばれること自体を拒むようになった。
「母が亡くなる少し前に言ったんです。なんでこんな名前にしたのって。名前負けしてるって。でも、母は言言いました。『あなたは私にとって、いつまでも太陽よ。だから笑ってミモザ』って。何度も何度も愛しそうに名前を呼んでくれました」
それまで嫌いだった名前がキラキラと輝いて見えた。母が名前を呼ぶ度に、まるで魔法がかかったみたいに自分が強くなれる気がした。
本当に太陽になれる気がした。
周りがどう思っているかなんてどうでもいい。自分の大切な人さえわかっていてくれれば。母さえ自分のことを認めてくれれば、それだけで幸せだった。
「母は体の弱い人で、一緒に遠くに出かけたことなんて一度もありませんでした。ずっと病床に伏していて、ほとんど外に出ることはできませんでした。そんな母の唯一の楽しみが部屋の窓から見える草花だったのです。それが彼女の世界の全てでした。母のためにこの景色をもっと豊かにしてあげたい。そう思っていろんな植物を植えました。それが私が植物を好きになったきっかけです」
母はそれから少しして亡くなってしまったけれど、きっとどこかで見てくれている。そう思って、母が亡きあとも、庭の手入れを欠かさなかったし、笑顔を絶やさなかった。天からでも母が見つけやすいように太陽のように眩しい笑顔を。
「お母様は幸せだっただろうね」
「そうだといいなと…思っていま…す……」
その言葉を言い終わる前にミモザは激しい睡魔に負けて瞼をとじた。今日は朝からバタバタしていて疲れていたのだろう。
遠くの方で、ローワン王子が自分の名前を呼ぶ声が聞こえる気がするが、それすらも夢なのかもしれない。うつらうつらする意識の狭間で、扉がガチャリと開く音が聞こえ、毛布のような暖かな何かが、ふわりとミモザの体を包み込んだ。
「君はいろんな人を幸せにしているんだね」
穏やかな声と共に、かすかに甘く爽やかな、キンモクセイの香りがした。
――あれ、この香り……。
そう思った時にはすでにミモザは深い眠りに就いていた。