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第7話 気づいてから

 翌日はロウィと二人きりの仕事だった。いつもならなんでもないはずなのに、マーガレットの言葉が頭の中で反芻する。


 ――それは恋ですよ。


 その言葉のせいで変に意識をしてしまって、さっきからロウィを直視できない。

 こんなにかっこよかっただろうか。

 いや、かっこいいのは知っていたが、こんなに太陽のように輝いていただろうか。


 ――私ロウィ様のこと、もしかして、本当に……。


 考えすぎて、仕事が手につかない。


「ミモザ? 体調悪いなら今日はあがってもいいよ」

 急に目の前にロウィの端正な顔がぴょこっと表れて、思わず声が漏れる。

「うわあ! ……あ、いえ、元気ですのでお気になさらず」

「脅かしてごめん。でも、なんだか少し変だよ」

「いえ、これはその……」


 あなたのことを意識してしまって、だなんて口が裂けても言えなくて、ミモザは必死に言い訳を探す。


「おなかが空いていて……」


 もっと良い嘘など、他にもいろいろあっただろうに、口からとっさに出たものはレディとは到底思えないほどに食いしん坊な言い訳だった。


 昼食もしっかり食べたのに、お腹が空いているなんて、きっとどれだけ食べるんだと思われているに違いない。

 恥ずかしい。恥ずかしすぎて、顔が赤らむ。

 ロウィは、くすりと優しく笑った。春風のように穏やかで暖かい笑顔だ。


「ミモザのそういう素直なところ、可愛いよね」

 その笑顔を見て、ミモザの羞恥で溢れた心が、一瞬でほぐれた。

 この笑顔が見れたのなら、少しくらい恥ずかしくても、食いしん坊と思われてもいいかもしれない、そう思える。


「ちょっと休憩しようか。この前ベイルからもらったクッキーがあるんだ」

 ロウィは棚からクッキー缶を取り出すと、それをお皿に出して、紅茶の準備を始めた。


 まるで水あめにコーティングされたように甘い「可愛い」というその言葉に、ミモザの鼓動が早くなる。

 ドクンドクンと刻む心音があまりに大きくて、近くにいるロウィにまで届きそうだ。

 できるだけ心音を下げたくて、息を止めてみるけれど、心音は小さくなることはなく、むしろどんどん大きくなるばかりだった。



「ごちそうさまでした」

「おいしいクッキーだったね」

「片付けは私が」

 二人分のティーカップを片付けていると、空が急に陰りをみせた。


「なんだか雨が降ってきそうだね」

 ロウィのその言葉が引き金だったかのように、大きな雨粒がぽたぽたと降ってくる。

太陽は完全に雲に蝕まれ、あたりはどんよりと暗くなり、雨足も強まる。


その時あたり一面を明るく照らすように天が光った。遅れてゴォォォォンという鈍く重い音が轟く。大地を割ったような音に、思わず体をびくつかせる。


「これはもっとひどくなるかもね。今日はこの辺で引きあげよう」

 ロウィは横殴りの雨をガラスの外に見ながらそう言うと、身の回りの物を片付け始めた。

 雨風の強い日の温室は危険だ。物が飛んできて、ガラスが割れる可能性がある。

 今朝はからっとしたいい青空だったのに、天気とはなんて移ろい易いのだろう。


「あ、傘......」

 ミモザは声を漏らした。今日は傘を持ってきていないのだ。

 朝はあれほど快晴だったのだ。恐らくロウィも持ってきていないだろう。


 温室は庭の外れにあり、屋敷まではなかなかの距離がある。二人で傘もささずに雨の中を走り、びしょ濡れになるのは建設的ではない。


「ここは一度、私が傘を取りに行ってまいりますので、ロウィ様はこちらで少しお待ちくださいませ」


 ここから屋敷まで走って十分程度。ミモザの部屋には傘が一本しかないので、あと一本はベイルに貸してもらおう、と取りに行く算段を脳内でつけていると、ロウィが怪訝な面持ちでミモザを見ていた。


「まって、君が行く気かい? もちろんダメに決まっているだろう。そんなことしたらミモザが濡れちゃうじゃないか。傘は僕がとってくるよ」

「いえ、だめです。私はロウィ様の後輩ですから。年功序列です」

「それを言うなら僕のほうが年齢は下だから。やっぱり僕が取りに行くよ」

「でもこの屋敷では私のほうが若輩者です」


 お互いに一歩も譲らず、時間だけが過ぎていく。

 大きな雨粒が温室のガラスを勢いよく叩く。

 ガラスが細かく震え、ギシギシと音をあげる。


「やっぱりここは私が行きーー」

「ミモザ」


 言葉を最後まで言い切る前に、ロウィの声がミモザを制す。

 いつもの穏やかで優しい声ではなく、重く深い声だった。

庭師として働き出してもう半年以上が経っていて、今までだって何度も呼ばれた名前なのに、その真剣な眼差しと声色に、魔法にかけられたように体が固まってしまう。

 瞬きも忘れて、ただロウィを見つめた。


「ミモザ」

 ロウィはもう一度力強く名前を呼ぶと、まるで哀願するように見つめた。


「お願いだから、ここは僕に行かせて」

 瞳の紅が悲しそうに揺らぐ。

 そんな風に見つめられて、断れるわけがない。


「分かりました……。お願いします」

 熱い視線に負けてそう言うと、ロウィはにこりと微笑み、待ってて、と雨の中を走っていった。


 数分後、ロウィが戻ってきた。

 肩で息をしながら、濡れた髪を掻き上げるロウィはあまりの艶やかで思わずどきりとしてしまう。

 睫毛のひとつひとつに朝露のように小さな水がついていて、ロウィが瞬きするたびに、ポロポロと落ちる。

 透けた服の下にうっすらと肌色が見えて、ミモザは思わず目を逸らした。


「ミモザ、傘持ってきたよ。帰ろう」

「……はい」

 意識していることを悟られまいと、いつも通りを装うも、もはや自分でもいつも通りがわからない。


 どこに目を向けていいのか迷い、視線を落とすとロウィの手に握られた傘が見えた。


「あれ、ロウィ様……。傘は一本ですか?」

「え?」

「え?」


 互いに顔を合わせて、傘を見て、また顔を合わせる。

ロウィの顔がゆっくりと赤らんだ。


「あー……、ごめん。そっか、そうだよね。普通に考えれば、二本持ってくるべきだよね。ミモザを待たせちゃいけないって、早く持ってこなきゃって思って、完全に失念してたよ……」

 ロウィはそう言うと、もう一度取りに行くと、踵を返した。


「あ、では今度こそ私が」

「だめだ。僕のせいだから」

「でも、ロウィ様にもう一度行ってもらうなんて申し訳ないです」

「全然気にしないで。二本持ってこなかった僕が悪いんだし」

そう言ってロウィが温室の扉に手をかけた時、ミモザの体が勝手に、動いた。


 気がつくとミモザはロウィの手を握っていた。

 滴る水がロウィの指からミモザの指に伝って、ぽとりと下に落ちた。

 雨に濡れて冷たいロウィの指先が徐々に温かくなる。

「では……、二人で一緒に使いませんか?」

 身体中の勇気をかき集めて、言葉を絞り出した。


 嫌だと言われたら恥ずかしさで死んでしまいそうだ。

 ミモザの言葉に、背中を向けていたロウィがゆっくりと振り返る。


「い……いの?」

「ロウィ様が嫌でなければ。仕方のないことですし……」

 結婚もしてない、ましてや恋仲でもない男女が同じ傘に入るなんて、はしたないことだとは十も承知だ。 けれど今は非常事態で、断じてロウィと一緒の傘に入りたいわけではない、とミモザは誰に言い訳をするでもなく思う。


「じゃあ、ミモザおいで」

 ロウィは温室の扉の先で傘をひろげると、そのままミモザの手を引き寄せた。

 二人で並ぶには、傘は一つでは小さすぎる。

 ロウィはミモザを自身の斜め前に立たせると、右手で傘を、左手でミモザの肩を抱き寄せた。

 

 あまりの近距離に変に意識してしまう。

 緊張するミモザの頭の上からロウィの穏やかな声が聞こえた。


「ミモザ、一つ誤解してほしくないのだけど、ミモザと一緒の傘に入りたくて一本しか持ってこなかったわけではないんだ。本当に忘れてただけなんだ」


 困ったような声色に、わかっていますからそんなに言い訳されなくてよいのですよ、と口を開こうと、ロウィの顔を見あげて、ミモザは二の句が継げなくなった。

 なぜなら瞬きの音すら聞こえてしまいそうなほどの距離に、ロウィの顔があったから。

 心臓がどこまでも高く跳ねる。


 その時、ロウィが何か呟いた。

 けれど一層強くなる雨音でよく聞こえない。

 ミモザは、え? と殊更に強調して首を傾げてみせた。

 ロウィは、今度は雨音にかき消されないようにと、ミモザの耳元に口を寄せた。


「わざとではなかったけど、ミモザと一緒の傘に入れるなんて、偶然だとしても本当に嬉しい。なんか恋人みたいだ」


 瞬間、雨がスパっと降り止んだように世界が静かになった。

 世界の隙間を埋めようとするほどの雨音が、嘘のように聞こえなくなり、まるでミモザとロウィだけになったかのような。そんな錯覚に陥ってしまう。


 ロウィの声が温度をもって耳元で聞こえる。

「濡れないように寄って。じゃあ、せーので走ろうか」

 

 せーのっ、というロウィの声と共に、一つの傘を差しながら、二人は一緒に走り出した。


 肩が、背中が、手が。

 ロウィに触れる全ての場所が、じんわりと熱を持っていく。


 自分の心臓の音が、耳元でドクンドクンと絶え間なく響く。

 お願い、神様。もっと雨を降らせて。

 この鼓動が周りにも聞こえてしまわないように。


 跳ね上がった鼓動は、きっと走っているから。

 そう自分に言い聞かせてみたが、それだけではないことをミモザ自身、もう知っていた。




 昨晩の大雨が嘘だったようにからっと晴れた青空に、ミモザは昨日のことはすべて夢だったのではないだろうか、と思っていた。

 いや、そう思い込もうとしているだけで、それが夢ではないことは、ぬかるんだ土と、庭にできた水たまりを見ればすぐに気づく。


 ロウィへの恋心を意識して、初めてロウィに会うわけで、一方的に気まずい。

 仮病で休んでしまおうかと思ってみたが、ミモザの性格上そんなことができるはずもなく、今日はいつもより早く来て、無心で温室の草をむしっている。


 そもそも人を好きになったことが生まれてこのかたないので、これが恋なのか、いまいちピンときていない。

 庭師の先輩として尊敬しているだけかもしれないし。人として好きなだけかもしれない。

 自分の心のはずなのに、自分が一番よくわかっていない。

 

 昨日はいろいろ考えてはみたけれど、答えなんか出るわけもなく、ミモザは一旦、これが本当に恋なのかと、考えあぐねるのをやめた。

 もしこれが恋だとしても、特に何かが変わるわけではない。

 ミモザはこれ以上の関係は求めていない。アプローチはもちろん、告白なんて絶対にしない、できない。 だって今がとても幸せだから。


 優しい同僚たち、大好きな植物、自分をわかってくれる侍女、何かあれば手を差し伸べてくれる家族。ミモザの世界にはそれで十分だった。

 自分なんかがこれ以上、何かを求めるなんて、バチ当たりもいいところだ。


 告白をして、ロウィを困らせたくはない。居心地の良い職場を自分のエゴで壊すことはできない。


 人を好きになることができないと思っていた自分に好きな人ができた。それだけでもう十分なのだ。

 それに、アデスに離婚を切り出されたあの日、二度と、結婚も恋愛もしないと決めた。


 ――君は何か感情が欠けているよ。


 アデスの言葉は、喉元にかかった魚の小骨のように、ずっと胸につっかえて忘れようにも忘れられない。何度も耳元で反芻される。

 きっとアデスの言ったことは正しい。


 昔から感情が鈍いほうだと思っていた。幼少期、大切にしていたぬいぐるみを弟のイーリスに取られたときも、仲の良い友人に影口を言われていることを知った時も、涙を流すことはなかった。

 悲しくないわけではない。ぬいぐるみも、友人も大好きだった。

 けれど、どちらも諦めることができたのだ。

 自分なんかが多くを求めてはいけない、諦めよう。そう思って生きてきた。 


 きっと、ロウィのことも諦めることができる。


 草むしりは、心の安寧をもたらしてくれる。

 ふわふわと雲の上を転がっていたような気持が、すっと現実に戻ってくる。

 それでいい。自分には静穏な日々のほうが向いている。


 その時、背に向けた温室の扉がギィっと開いた。

 ミモザは一つ深呼吸をして、ゆっくり振り返った。

「おはようございます、ロウィさ……って、ベイルさん?」

「ミモザさん、おはようございます」

 いつも通り、きりっとした表情のベイルがそこにいた。しかし、その恰好にミモザは目を瞠った。


「えっと、本日はどうされたのですか? ……それは、コスプレか何かでしょうか」


 いつもは濡れたカラスのように全身真っ黒で、燕尾服に身を包んでいるベイルだが、今日は違う。

 なぜか庭師の服を着ているのだ。

 頭には麦わら帽子までかぶっている。


 ベイルは表情を変えず、淡々と話し始めた。

「ローワ……、ごっごほん。ロウィが数日の間、急遽実家に帰ることになりましたので、私がその間お手伝いすることになりました」

「あ、そうなのですね」


 思わずほっとした声が溢れてしまう。

 実家に急遽帰ることになったということは、ご家族に何かあったかもしれないのに、自分は今、ロウィに会わずに済むことに安堵してしまったのだ。


 会いたくないわけではない。むしろ毎日だって会いたい。

 なのに、会うと胸が苦しくて、目で追ってしまって、近くにくると息が浅くなって、とにかく体が異常を知らせるのだ。

 自分の体なはずなのに、自分ではうまくコントロールができなくなる。それが怖い。


 ミモザが脳内でいろんなことを考えているとは露も知らないであろうベイルは、掌でメガネをクイっとあげながら、ミモザに訊ねる。

「……ミモザさんは、体調は大丈夫ですか?」

「あ、はい。元気です」


 ミモザさんは、なんて、ほかの誰かは体調が悪いのだろうかと考えながら返事をする。

 ベイルは仏頂面のまま、良かったですと口元だけで笑みを作ると、さっそく仕事をはじめましょう、と気合を入れるかのように、首にかけられた手ぬぐいを、ネクタイのようにきゅっと首に巻いた。


「ロウィからは、ミモザさんの指示を仰ぐようにと伺っているのですが、今日私は何をすればよいですか」

「そうですね。では、一緒にポインセチアの植木鉢をこちらに移動させていただけますか? ポインセチアは日当たりのよい場所を好むので、日中はここに移動させてあげたくて」


 ガラス張りで太陽光がよく入ってくる温室の中でも、よく太陽が当たりやすい場所を指で刺しながら、ミモザは指示を出す。

 

 ポインセチアの植木鉢はさほど重くはない。

 とはいえ、軽く五十個はあるだろうそれを一人で移動させるのはかなりの重労働だったので、男手があるのは嬉しい。


 今日はポインセチアの植木鉢を移動させた後、高い木々の剪定を柱に乗ってして、その後は牛糞を土と混ぜたものをアンダーソンにもらいにいって、それからーー。


 次の作業を考えながら準備に取り掛かっていると、背後からベイルの声がした。

「ミモザさん、ポインセチアとはこれのことで合ってますか?」

 振り返ると植木鉢を今にも持とうと腰を屈めているベイルがいる。


「ベイルさんっ! それはっ」

「うっ!」


 ミモザの言葉を最後まで聞く前にベイルの濁った呻き声が響いた。

「それはヤシの木といってかなり重い木でして……。急に持とうとすると腰を痛めてしまうかも、とお伝えしようとしたのですが……」

「……なるほど」


 ベイルは腰を屈めたままの体勢でゆっくり顔だけをこちらに向けた。いつも以上に眉間の皺が深く刻まれており、表情は険しかった。

「今まさに、腰を……やってしまったようです」

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