第2話 新しい出会い
「ひ、広すぎる……」
目の前に広がる景色に、ミモザは思わず声を漏らした。
朝一番でワートル家の領地を出て、馬車で進むこと半日。着いた先は王城だ。
バレンスティン国の王族の住む家が王城なわけだから、大きいのは当たり前なのだが、いざ目の前にすると、その広大な敷地に驚嘆してしまう。ここまで大きいとは。
王城には昔一度だけ訪れたことがある。
あれはたしか今から十年前ほどだっただろうか。
王城の庭があまりにも素晴らしいと噂を聞いて、父の仕事に着いて行かせてもらったのだ。
その時も城の広さと儼乎たる様に、いたく感動した覚えがある。
庭に咲く普段見れないような植物の数々に目を奪われ、花に誘われる蜜蜂のように引き寄せられていると、気がつけば迷子になっていた。
その後、たまたま出会った貴族の少女に道案内をしてもらい、無事に父と再会できたが、正直、庭の広さがすごすぎて、ほかの事はあまり記憶に残っていない。
目の前に広がる王城の庭は、あの時と同じく、色とりどりの花が咲き誇っている。
どの花も、どの木も、凛としていて、自然と自分の背筋も伸びる。
ミモザにとってここは天国そのものだった。
そんな場所で自分が働くなんて、夢みたいだと心が躍る一方で、少しも不安がないと言えば嘘だ。
それでも、もう自分には後がないのだと、もう一人の自分が喝を入れる。
なぜ王城で働くことになったか。それは一週間前に遡る。
フランシス家から出て、三年ぶりの実家での暮らしは、想像以上に居心地がよかった。
あまりの居心地の良さに、このままでは人間としてだめになると、奮い立ってしまうほどに。
父と継母は、ミモザの離縁に驚きこそすれ、怒ることも、蔑むこともなく、むしろとても気を遣ってくれた。
腹違いの弟のイーリスも思春期の年になるはずなのに、いやな顔一つせず、快く迎え入れてくれた。
「こんなこと言っていいかわからないけれど、姉さまとまた一緒に暮らせて、本当にうれしいよ」
「イーリス、気を遣ってくれてありがとう。今後の身の振り方を考えるまで、少しの間お世話になるわね。迷惑をかけっぱなしの姉で、ごめんなさい」
「そんなこと言わないで。ここは姉さまの家なんだから。僕はずっといてくれてもいいんだよ」
イーリスはそう言ってくれているが、バツイチ出戻りの姉がいつまでも居れば、ワートル家の名前に傷がつくことは火を見るよりも明らかだった。
貴族というのは噂が好きな性分だ。
ミモザの離婚も、翌日にはバレンスティン王国の隅々にまで回っていたほどだ。
このままここに居続ければきっと根も葉もない噂で、家族に迷惑をかけてしまうかもしれない。
イーリスは次で十八歳、つまり成人を迎える。いつ婚約の話が来てもおかしくない大事な時期に、弟に迷惑がかかることは避けたい。
家にバツイチ義姉が居るとわかって、嫁ぎたがるような奇特な人はそういないだろう。
イーリスの婚約話に影響が出ることだけは避けたい。弟の幸せを壊したくはないのだ。
そうなる前に、どうにか手を打たねばと思いついた方法は二つだった。再婚か、就職か。
けれど、離婚した傷モノの侯爵令嬢に結婚を申し込む令息など、まずいない。
そもそも、もうだれかと結婚するなんてミモザ自身も御免だ。きっと次もダメになるに決まっている。
だって誰のことも愛することができないのだから。相手に失礼だ。
だとしたら就職するしかないのだが、特にこれといった取り柄もなく、ずば抜けた才能があるわけでもない温室育ちで世間しらずな令嬢が働ける場所などあるのだろうか。
きっと就職活動をしても、侯爵令嬢という肩書き故、扱いづらいと雇ってもらえないだろう。
貴族は就活に不向きなのだ。
いっそのこと身分を隠して偽名で働くというのもありかもしれない……なんて考えていたある日。
家族団らんで朝食を囲んでいると、父がミモザに呼びかけた。
「ミモザ。王城で働いてみる気はないか」
あまりに突然の問いかけにミモザは口をポカンと開く。
「王城? ……私が?」
「実は昨日、王城に勤める知り合いから連絡がきて、お前に庭師をお願いしたいと言うんだ」
「庭師……!」
なんて素敵な響きなのだろうか。ミモザは目をきらめかせた。
「なんでも、ミモザの植物オタ……植物好きの噂を聞き、第三王子のローワン様から直々にお声がかったようなんだ。できればすぐにでも働いてほしいらしい。もちろん住み込みで、とのことだ」
父の言葉を最後まで聞く前に、継母の声が重なる。
「私は反対ですわ」
いつもニコニコしている継母は強い口調でそういうと、父をきっと睨んだ。
「侯爵令嬢が庭師として働くなんてなんて聞いたことがありませんわ!」
確かにそうだ。貴族令嬢が王城の使用人に、それも庭師になるなんて前代未聞だ。
それに、と継母は口を開ける。
「ミモザさんはこちらに戻ってきて、まだ一週間しかたっていないのよ。これから久々に一緒にお茶を飲んだり、街へ買い物に行ったり、娘と母の親睦を深めながら、女子トークを楽しむつもりなんだから!」
血がつながってないのに、実の息子であるイーリスと同じように愛情を注いでくれる継母は、ミモザの手を両手でぎゅっと握って、行っちゃ嫌よ、と目で訴えてくる。
四十歳に見えない、かわいらしい顔立ちに、思わず胸がきゅんとして、一生ここにいます、と言いたくなる。
継母に絆されかけた時、横からイーリスが継母の腕を掴み、ミモザから振り離した。
「母さん、姉さまが困っているだろ」
継母そっくりの端整な顔で、イーリスはキッと継母を睨む。
継母も負けてはいられないとばかりに睨み返す。互いに一歩も譲らない。
その二人の間でミモザは、ただただ狼狽えるしかできなかった。
自分なんかのせいで仲の良い家族が喧嘩するなんてあってはいけない。
「二人とも落ち着いて。いったん落ち着きましょう」
そう言ってはみるが、二人の耳には届かない。
「そもそも今どきご令嬢だから働かなくていいなんて時代遅れもいいとこだよ」
「そうね、確かに今はご令嬢でも働く時代かもしれないわね。でも庭師なんて前例がないわ。前例がないことにはみんなとやかく言うものよ。心ないことを言ってくる人だってきっと出てくる。私はミモザさんに嫌な思いして欲しくないのよ」
父親に見そめられて平民から貴族になった継母は、様々な思いをしたのだろう。だからこそミモザには楽な道を歩いてほしいと思っているようだ。
継母の優しさに、イーリスは容赦なく反撃する。
「言いたい奴には言わせておけばいい。母さんは姉さまの人生よりも、世間体のほうが気になるんだね」
「そんなことあるわけないわ。私はいつだって子供たちが一番大切よ。ミモザさんが幸せになれるならどんな道だって応援するわ」
「だろ? じゃあ反対なんてしないで。姉さまの人生なんだから、姉さまに決めさせるべきだ」
イーリスはそう言うと、姉さまはどうしたい? とこちらを窺った。
伏せていた目を上げると、父を含めた三人がミモザを見つめている。
みんなそれぞれ意見は異なるが、ミモザのことを心配してくれているのだなと、真剣に開かれた瞳からひしひしと伝わってくる。
それだけで自分がいかに幸せかがわかる。
「私は……」
女性が、しかもバツイチの貴族の令嬢が、結婚する以外に、誰かのすねをかじらず生きていくには、働く以外に道はない。
働き口を探すのでさえ難しい中、自分の好きなことでお給料をいただけるなんて、願ったりかなったりだ。
答えはすぐに出た。
「そのお話、お受けいたしますわ」
――ごめんなさい、お継母さま。でもこのチャンスを逃してはいけないと思ったの。
ミモザは心の中で継母に謝罪しながら、王城で庭師となることを決めた。
そして今、広大な庭の花々をうっとり眺めている。
空気いっぱいに息を吸うと、昨日の雨のせいですこし湿った土の匂いとともに、春の花々の香りが鼻腔に充満する。
冬の間寒さに耐え抜き、頑張って力を蓄えていた植物たちが、春の息吹とともに目を覚ます。
つぼみは花開き、木々は新芽を萌え出す。目をつぶると新しい命の音が聞こえてくるようだ。
「ミモザ様」
突然、背中越しに近距離で名前を呼ばれ、ミモザは新鮮な魚のように体を飛び跳ねさせた。
振り返ると、ミモザのすぐ後ろに男が立っていた。
コーヒーを煮詰めたような真っ黒の髪をした男性は、顔の中心にある黒縁眼鏡を掌であげると、恭しくお辞儀をした。
「お待たせしてしまい申し訳ございません。わたくし、第三王子の従者、ベイルと申します」
眉間に寄せられた皺に、一瞬怒っているのかと思ったが、口元に薄ら笑みを浮かべようとしている様子をみると、デフォルトでこんな顔なのだろう。
頑張って笑顔を作ろうとしているのか、口元がぎこちなく、不気味に見える。
どうやら笑顔が苦手らしい。
「ベイル様、お初にお目にかかります。わたくし、ワートル侯爵家長女のミモザと申します」
スカートの裾を軽く持ち上げて、できるだけ華麗に挨拶をする。
ミモザの言葉に、ベイルの眉間の皺が一層深まった。
何か粗相をしてしまったかしら。
貴族としての基本的なマナーは問題なく習得している。
それなのにミモザはお茶会でも、ほかのご令嬢方の嘲笑の的だった。
きっと何か気づかないうちにやらかしてしまっていたのだろう。
今回もそうに違いない。何が気に障ってしまったのだろうか。
恐る恐るベイルの顔をみると、ベイルが仏頂面で口を開いた。
「ベイル様だなんて辞めてください。ミモザ様は侯爵家ご令嬢なのですから、私のことは呼び捨てで結構です」
「呼び捨て……」
「はい。いくら使用人として働くといえど、ミモザ様は侯爵令嬢で、貴族であられます。ベイル様、なんておやめください」
どうやら本気で『様呼び』に嫌悪感を抱いている様子のベイルは、眉間の皺を一層深めた。
本来であれば受け入れるべき事案なのであろうが、ミモザはきっぱりと断った。
「いえ、それは出来ません。ここで働かせていただく以上、爵位のことは忘れて、いち使用人として働く所存です。ここではベイル様のほうが先輩かと。なのでベイル様のほうこそ、ミモザと呼んでいただいて構いません」
ミモザの頑とした口調にベイルは目を瞠った。
「いえ、さすがにそれはできません」
「いえ、そうしていただかないと困ります」
「いえ、そんな」「いえ、こちらも」「いえ」「いえ」
何度目かのラリーの末に、ベイルは黙った。
明らかに不快そうな顔に思わず笑いそうになる。
きっと感情が顔に出やすい質なのだろう。みなまで言わずとも何を言いたいかが手に取るようにわかる。少し面白い。
ベイルは小さな溜息と共に、再び眉間に皺を寄せた。
「それでは間をとって、互いに『さん付け』に致しましょう。ではミモザさん、着いてきてください」
本当は『さん』もいらないのだけれど、これ以上粘ればきっとベイルを不快にさせてしまうだろうなと、口を噤んだ。
荷物はほかのものに運ばせますので置いていていただき大丈夫です、と言われ、ミモザは身一つでベイルの後ろをついていく。
庭を突っ切り、迷路のような屋敷を突っ切り、どんどん進む。
ベイルは黙々と歩く。ミモザがついてこれているか、後ろを確認したりすることはせず、ひたすらに歩みを進める。
だけどそれが、ミモザにとってはうれしくもあった。
侯爵令嬢としてではなく、ここで働く使用人として扱われている気がしたのだ。
「ミモザさんの業務内容に関してですが」
どこまで向かっているのだろうと思うほど歩き続けていると、ベイルがミモザに目を向けることもなく、話を始めた。
「温室専任の庭師として働いていただければと思っております」
「温室ですか」
温室という響きに胸が躍る。
温室とは植物を育てるために温度を調整している部屋のことだ。
植物によっては、寒さに弱いもの、暖かい土地でしか成長しないものなどが多くある。そういった植物を育てるために温室がある。
人間が住むための一般的な部屋と異なるのは、植物にとって大切な太陽光を取り入れるために、光の入りやすい素材で天井や壁ができていること。
ワートル家にも三平米ほどの小さな温室があった。
透明ビニールに囲われたそこには、たくさんの植物が植えられており、もちろんミモザが世話をしていた。
王城の温室はそれよりは大きいだろうけれど、やることは同じはずだし、きっと大丈夫。
自分を安心させるように、何度も大丈夫と心の中で唱えてみる。
「温室は第三王子の管理下になりますので、ミモザさんは第三王子、ローワン様直属の庭師ということになります」
そういえば、ベイルもローワン王子の従者といっていたな、と最前の挨拶を思い出す。
――ローワン王子といえば、確かあの……。
と、頭で考えていると、その思考を読んだかのように、ベイルが話を振ってきた。
「ミモザさんはローワン様のお噂をお聞きになったことはありますでしょうか?」
気のせいか、ベイルの声がワントーンだけ下がったように感じる。
「えっと……はい。確か、引きこもっていらっしゃるとか」
「……はい、そうです。ローワン様はかれこれ三年間、ご自身のお部屋に引きこもっていらっしゃいます」
「三年も……」
「はい。三年はとても、とても、長いです」
そう言うと、ベイルはかすかに目を伏せた。
その口調はさみし気で、主人を心底心配しているのだろうなと、忠誠心の高さが窺える。
伏せた目線をすぐに戻して、ベイルは言葉を繋げた。
「ローワン様は基本誰にもお会いになることはありません。それはローワン様直下の使用人といえど同じです。もし今後、何かローワン様にお伝えしたいことができた場合は、私を経由してご連絡いただくことになります」
「そうなのですね、わかりました」
それにしても、三年とはあまりに長い。
ミモザがアデスと結婚したのも、ちょうど三年前だった。この三年はミモザにとっても苦痛の三年だった。
フランシス家で、ミモザは空気だった。
いるのかいないのかわからない透明な存在。
アデスはミモザを求めないし、ミモザもアデスを求めなかった。
これが結婚なのかと苦しくなる日々もあったが、ミモザには植物があったから、どうにか日々をやり過ごすことができた。
ローワン王子にも何かそういった、心の拠り所があるだろうか。あればいいなと思う。
そうでないと、三年も部屋の中にいるだけなんて、きっととてもつらい。
会ったこともなければ、顔さえも知らない主の事を考えていると、さて、とベイルが気を取り直して説明を続ける。
「温室はこれまで、王城全体の庭を管理している庭師長のアンダーソンと、もう一人の庭師で手入れをしていたのですが、先日アンダーソンが腰を痛めまして。そんな折にミモザ様のお噂を聞き、すぐにお声をかけさせていただいたのです」
「噂……ですか」
フランシス家を出てから、ミモザの耳にも数々の噂が入ってきた。
神話の植物姫さながら、不倫相手のリリアにひどい仕打ちをしたとか、離縁された腹いせにアデスに性器不能になる植物を食べさせただとか。
噂の中のミモザはどれも極悪非道の悪徳令嬢だ。
もちろんどれも全くの出鱈目なのだが、みんな面白い噂ほど信じてしまうもので、噂はまことしやかに広がっている。
さて。いったいベイルの耳にはどんな噂が入ってきたのだろう、とミモザ自身も半分面白がりニヤニヤしていると、ベイルが宙を見て何かを思い出すような仕草で口を開いた。
「なんでも、神話の植物をつかさどる女神に由来して、植物姫と呼ばれるほど、植物を愛し植物にも愛されている女性で、普段は天然なのんびり屋に見えるが、実は自分の軸がしっかりあり、譲れない部分は頑として譲らない強さがある女性だとか」
さらさらと話されるその言葉は、直球のべた誉めだった。
冗談か何かかとも思ったが、ベイルの瞳には決してからかいの色は見られない。
学校の通信簿でもそんな誉め言葉が書かれたことがないミモザは、ポカンと開いた口が閉まらなかった。
「えっと……それは誰のことですか? お相手を間違えていらっしゃるのかと」
「いいえ、合っております。『植物姫と呼ばれているミモザさん』は国内に二人といないかと」
確かにそうだ。そんな素敵なあだ名、他に聞いたことはない。
「なんだかとっても買い被りな気が……。それは誰が仰っていたのですか?」
「誰なのかは秘密ですが、確かな筋ではございます」
自分の知らないところで陰口を叩かれるのは慣れっこなはずなのに、褒められるのには慣れておらず、胸がとてもむず痒い。
「あの私、植物を愛してはいるのですが、そこに関しては間違いないのですが、庭師としての実務経験はないのですが……」
あまりの過大評価ぶりに、急に不安が押し寄せてくる。
「問題ございません」
ベイルがきっぱりと言い放つ。
「ローワン様が求めていらっしゃるのは、植物を愛しているその気持ちです。温室は王子にとってとても大切な場所なので、植物を愛していない人間に管理をさせたくないのです。実務に関しては、これから覚えていってもらえれば問題ありません」
「なるほど。植物を愛している気持ちならだれにも負けません!」
「その意気です」
不安が少しだけ薄れた気がした。
「こちらが温室です」
そういわれて案内された目の前の建物に、ミモザは目を疑った。
「これが温室ですか……?」
「はい、そうです」
さらりと言われたその言葉をいまだに信じることができないミモザは目をぱちくりさせる。
そこには、高さ三十メートルはくだらない一面ガラス張りの建物があった。
ワートル家にあるビニールでできた小さな温室とはあまりに違いすぎる。これはもはや温室ではない。言ってしまえば温城だ。
「えっと、これまでこの広さを二人でされていたのですか?」
「はい。現在は庭師長が休みを取っているので一人ですが」
「こ、この大きさをおひとりで……?」
「はい、そうです」
相変わらず仏頂面のベイルはさらりと答える。
「これは、フィーリア植物館より大きいのでは……」
ボソッと零れた独り言に、ベイルが答える。
「ああ、そうですね。フィーリア植物館の温室の三倍はございます」
「さ、三倍……」
バレンスティン王国一の植物館よりも大きいとは。開いた口がふさがらない。
一刻でも早く扉の奥の温室をお目にかかりたい。どんな花が、どんな木が生えているのか。素敵な出会いがきっとあるはずだ。
しかしベイルは温室の前で立ち止った。ここにきて焦らすとは、どういうプレイなの、とミモザは鼻息荒くベイルを見つめる。
「ここでもう一人の庭師と落ち合う予定なのですが……。って待ち合わせの時間はもう過ぎているのに、なぜあの人はいつもこう遅れてくるんだ」
ベイルは持っていた時計を胸ポケットに入れながら愚痴をこぼすと、ミモザに目を向けた。
「ミモザさん、すみません。もう一人の庭師とここで待ち合わせをしていたのですが、どうやら忘れてしまっているようで。すぐに呼んで参りますので温室の中で待っていていただけますか?」
「もちろんです!」
温室の中に入れる嬉しさ故、あまりに勢いの良い返事になってしまうミモザを、ベイルは変なものでも見るかのような視線を向けながらも、颯爽と踵を返し、屋敷に戻っていった。
改めて温室に目を向ける。その存在感たるや。縦も、横も、奥行も段違いにでかい。
ここが自分の職場かと思うと嬉しさのあまり目眩がしそうだった。早く中に入りたい。でも早く入ってしまうのが勿体無い気もする。
まるでプレゼントを開けようとワクワクする子供のように、ミモザは温室の扉に手をかけて、胸を高鳴らせる。血液が、細胞が、自分の身体全身が興奮しているのを感じた。
ギィっというドアの音とともに、中の暖かな空気がふんわりとミモザを包んだ。
そこにあったのは、異空間だった。
辺り一面、すべて植物。右も左も上も下も。
黄、赤、青、緑、茶、白。
あらゆる色が一気に視界を華やかにする。大きな木々に、可憐な花々。
なかには、初めて見る異国の植物も多く植えられている。図鑑でしか見たことの無い植物を目の前に、ミモザの口から思わず言葉がこぼれた。
「こんなところで働けるなんて、なんて幸せなのでしょう」
誰もいないのをいいことに、くるりと回転なんかもしてしまう。体だけではなく、心も躍る。比喩じゃない。本当に心臓がドクンドクンといつもより軽快に鳴っていた。
くるくると回っていると、ふと一本の木が目に付く。
「あれは……!」
入り口を入って少ししたところに空高くに伸びる一つの木が生えていた。
高さは十メートルといったところだろうか。枝に無数の小さな花が咲いている。小さな太陽のような黄色い花は、ふわふわと穏やかに咲き誇っている。
ミモザの木だ。
寒さに強くなく、日当たりが重要なミモザにとって、この温室はまさに天国といえるだろう。こんなに伸び伸びと大きく育ったミモザは見たことがなく、なんだかうれしくなる。
よく見ると、温室の至る所にミモザの木が見える。どれも大きく、華やかだ。
温室最高! 温室天国!
声に出して叫びたいのをぐっと我慢して、心の中で何度も唱える。
それにしても、この大きな温室を一時だけとはいえ、一人で管理しているとは、いったいどんな人物なのだろう。俄然興味がわく。
植物以外のことに興味を持ったのは初めてのことだった。
「ミモザ……」
「え」
急に名前を呼ばれ振り返ると、そこには息を呑むほど美しい男性が立っていた。
後ろで一つに結ばれた肩下まである細く柔らかな銀髪が風になびいている。すっと通った高い鼻に、筆をなぞったような切れ長の目。瞳の色は深い真紅で、白磁の肌がその紅い輝きを一層際立たせていた。
軍手に長靴という決しておしゃれな服装ではないはずなのに、長身の彼が着れば最先端のファッションのようにも見えてしまう。
あまりに整った顔に、思わず見入ってしまい、少しの沈黙が漂った。
――さっき、名前を呼ばれた気がしたのだけど……。
ということは以前どこかであったのだろうが、頭の中の、全ての記憶の扉をノックしてみるも、こんな美青年のデータは入っていない。ここまで顔が整っていれば、一度見ただけで覚えているようなものだ。
「えっと……」
どちら様でしたでしょうか? という問いが喉元まで出かけたとき、相手が先に口を開いた。
「ミモザは、お好きですか?」
「へ?」
美青年はミモザの後方に伸び伸びと育つミモザの木を指さす。
「……あ、ああ!」
なんと恥ずかしい勘違い。
美青年は自分の名前を呼んでいたわけではない。ミモザの木の話をしていたのだ。
そりゃそうだよなと思いながら、ミモザは即座に返事をした。
「あ、はい。一番好きな花です」
「僕もなんです。僕も、ミモザが本当に、とっても、世界一、大好きなんです」
そう言うと美青年は、照れ臭そうに微笑んだ。
あまりに協調されたその言葉から、彼が本当に植物のミモザが好きだということが窺える。
もちろん彼は自分の名前も知らないわけなのだから、好きだと言っているのは明らかに植物のミモザなわけなのだが、まるで自分のことを言われているかのように錯覚して照れてしまう。
だって、大好きだなんて、アデスにも言われたことがないのだ。
「もしかして、新しい庭師の方?」
美青年は、微笑みを崩さないまま穏やかに訊ねた。
「はい。私、ワートル侯爵家から参りましたミモザと申します。……えっと、あの、本名です」
先ほど植物のミモザの話をした流れで、自分の名前がミモザだったなんて冗談にも聞こえてしまうかも、とそっと語尾に付け加える。
「素敵な名前だね」
カジュアルな物言いは、とても爽やかで、若さを感じる。ミモザよりも数歳は若いとみた。
もしかして、この方がもう一人の庭師なのだろうか、と見つめていると、温室の扉が勢いよく開いた。
そこにはベイルが立っていて、美青年を見るや否や、大股で近づいてくる。
「全くここにいたんですか、おうっ……、おう!」
ベイルは「おう!」という声とともに、不自然に右手を上げて美青年に挨拶をした。
真面目で堅い性格だと思っていたが、どうやら親しい人にはこんな砕けた挨拶もするらしい。しかし慣れていないのだろうか。あまりにギクシャクとしていて違和感を覚える。
美青年はくすくすと笑いながら、ベイルと同様、「おう」と片手をあげて挨拶をした。
「ベイル、遅いよ。ちゃんと時間には間に合わないと」
「それはこっちのセリフですよ。あなたがちゃんと時間通りに温室に来てくだされば、入れ違いになることもなかったのに」
「温室には時間通りに来ていたさ。ただ病気にかかっていたバラを診るために温室の中にいたんだよ」
つまり僕はちゃんと約束は守っていたよ? と挑発するような口調で話す美青年に、ベイルはこれ以上何を言っても無駄だと思ったようで、大きな溜息のみをこぼし、早々と言葉を返すのをやめた。
「ミモザさん、お待たせしてしまいすみません。こちらの減らず口が、もう一人の庭師、ロー……、ロウィです。ミモザさんと一緒に働く、いわば同僚でございます」
「ロウィです、初めまして」
減らず口と言われたのに特に怒った様子も見せない美青年あらため、ロウィは、手に付けていた軍手を外し、ミモザの右手を両手でしっかりと握った。
「君が来てくれて本当に助かるよ。一緒に働くことをとても楽しみにしていたんだ。これからどうぞよろしく」
その瞬間、体の中に残っていた一抹の不安が紅茶に溶ける砂糖のように一瞬で消えてなくなった。
フランシス家にも、ワートル家にも自分の居場所はもうない。こんなに価値のない自分でも必要としてくれている人がいる。それがとてつもなく嬉しかったのだ。
ここでなら頑張れる。そんな気がする。
ミモザは、こちらこそ、と告げると、ロウィの手にもう片方の手も添えた。
隣で穏やかに咲き誇る黄色いミモザの木が、まるでミモザの心を表すかのように、嬉しそうに揺れていた。