第1話 離婚してくれ
「ミモザ、離婚してくれ」
庭のフリージアが甘い香りを漂わせ、穏やかな木漏れ日が心地よく揺れる、気持ちの良い春の朝のことだった。
久しぶりに、本当に久しぶりに、夫婦水入らずで朝食を囲んでいると、目の前に座る夫であり、フランシス侯爵家次期当主であるアデスが口を開いた。
その表情は険しく、陽春とはかけはなれている。まるでそこだけ土砂ぶりの雨が降っているかのように空気が重い。
あまりのコントラストに思わず笑ってしまいそうになったが、流石に離婚を申し出されている最中で笑えば、またアデスに怪訝な顔をされてしまう。
ミモザは上がりかけた口端にグッと力をいれて笑みを我慢すると、代わりに口を開いた。
「あらまぁ。なるほど。」
「あらまぁって……。驚かないのか?」
ミモザの反応が想像と違っていたのか、アデスは伏していた目を即座にあげた。
瞠った瞳がミモザを捉える。
まるで得体の知れない生物でも見るかのような、アデスの目つきにはもう慣れた。
「いえ、驚いております。……えっと、わぁびっくり」
すこしわざとらしかったかしらとも思ったが、アデスは特に気に留めなかったようで、言葉を続ける。
「実は……その、好きな人がいるんだ……。相手は……その……」
言い淀んだ言葉が宙を漂い、アデスの瞳が気まずそうにミモザから逸らされた。
なかなか相手の名前を言えずにいるその姿をみて、ミモザはいっそのこと言ってしまおうかと思った。
――お相手が誰か、存じておりますよ。お二人が私に隠れて、影でよろしくしていらっしゃることも。
けれど、言葉を詰まらせて一生懸命に話そうとする姿が可笑しくて、その様子をのんびりと見つめる。
ミモザは、アデスの想い人であり、いわゆる不倫相手がだれなのかを知っている。
サイネリア男爵家のリリア嬢である。
リリアは、巷で知らない人はいないほどの美女だ。
目鼻立ちのはっきりとした顔は、顎にかけてシュッときれいなラインを描いている。
しなやかな髪はまっすぐと伸びていて、歩くたびにさらさらと揺れる。
その美しさから、社交界では『白百合の君』という異名を持っているほどだ。
それに比べてミモザは丸顔に鼻ぺちゃ。お世辞にも美人とは言えないルックスに、亡き母ゆずりのくるりとパーマがかった栗色の髪はあちこちにうねっていて野暮ったい。
体のどのパーツをとって見ても美人であるリリアに、ミモザは何一つ勝てるところがない。
バレスティン王国内で、ミモザとリリアのどちらかを選ぶかという街角調査をしてみたとして。
きっと殿方の全員がリリアを選ぶだろう。ミモザが男でもリリアを選ぶ自信がある、いや自信しかない。
それほどまでに、リリア嬢は魅力的な女性なのだ。
つまりアデスがリリアと不倫するのも無理はない。
加えてリリアは内面も素晴らしい。
アデスと結婚してから、ミモザは様々なご令嬢からのお茶会に誘われ、足を運ぶようになった。
自身も侯爵令嬢ではあるので、お茶会や社交界のお誘いはこれまでも幾度となくあったわけだが、結婚するまで一度も参加したことがなかった。
ワートル侯爵家の当主であるミモザの父親は貴族には珍しく、体裁に重きを置かない教育方針で、ミモザは比較的自由に育てられた。
もちろん令嬢としての最低限のマナーは学んだが、それ以上、何かをしなさいなどと強要されることはなかったので、お茶会や社交界もスルーしてこれたのだ。
別にそれらに抵抗がある訳ではない。ただ興味がないのだ。
同じ時間を過ごすのだったら、趣味のガーデニングや菜園に勤しみたい。
ミモザにとっては、貴族との優雅なひとときより、土を触りながら植物の声に耳を傾けるほうが何倍も充実しているのだ。
けれどフランシス侯爵家に嫁いでからは、少しでも他の貴族と友好関係を気づくようにとアデスに命じられ、お茶会や社交界にも嫌々ながらも、参加するようになった。
特にお茶会は頻度が高い。
というのも、貴族令嬢や貴族夫人というのは、残らずみんな暇を持て余しており、お茶会以外にこれといった娯楽がないのだ。
多い時には週に二、三回、お茶を飲みながらおしゃべりに花を咲かせている。
そして、お茶会に参加するようになって分かったことが一つある。
お茶会での会話は、内容がほとんど同じだということだ。
まずは自身の身に着けている装飾品の自慢大会に始まり、その後どこかのイケメンご令息の話で盛り上がり、最後は没落した貴族令嬢の噂話でお開きになる。
毎度そうなのだ。
どれもミモザにとっては、全くといっていいほど興味のない内容で、どうも話が合わない。
加えて、初めて参加したお茶会で、「ご趣味は?」と聞かれ、かなりの熱量で趣味のガーデニングや植物の話をしてしまって以降、周りに引かれてしまった。ただ引かれたのではない。ドン引きだ。
おかげさまでその日から陰で「植物姫」という素敵なあだ名で呼ばれ、嘲笑われている。
その名前自体はとても気に入っているし、周りに小ばかにされているのも特に気にはしていないのだが、フランシス家の顔に泥を塗ったと、アデスからはひどく叱咤されてしまった。
その一件以降、お茶会でミモザに話しかけるような奇特な人はいなくなった。
リリア一人を除いては。
リリアだけはいつもミモザのことを気にかけ、話に耳を傾け、楽しそうに会話をしてくれた。
どの令嬢に対しても分け隔てなく接しているその姿は、絵画からそのまま現実世界に出てきたヴィーナスのようだ。
友達と呼んでしまうのはおこがましいが、ミモザにとっては唯一会話を交わすことができる令嬢なのだ。
そんな彼女が、夫アデスの不倫相手だと知ったのは、結婚して半年経った頃。
もともと嘘が苦手なアデスのことだ。何かを隠していることはすぐに気がついた。
加えて、シャツにつけられた口紅の痕。
首元につけられたキスマーク。
コートに染みついた女性者の香水。そのどれもが不貞を匂わせていた。
極めつけは、二人の密会現場に出くわしてしまったのだ。厳密に言うと、一方的に見てしまった。
あれは、サイネリア家のお茶会に参加した日のこと。
お茶会の終わりに、リリア嬢に呼び止められた。
「ミモザ様、本日はわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
「リリア様。こちらこそいつもお誘いくださって、感謝しております」
「あまりの頻度でお茶会にお誘いしているから、そろそろ私がアデス様に怒られてしまうかもしれませんわね」
いたずらっぽく肩をすくめて笑うリリアはとても愛らしい。
ミモザは勢いよく首を振った。
「そんなことありませんわ。旦那様は昨日から王城にお仕事で赴いていらっしゃるので、わたくし家に一人でとても暇でしたの。またいつでもお誘いいただきたいですわ」
「なら良かった。ところでミモザ様は、植物がお好きということだけど、青いミモザをご覧になったことはあって?」
「青いミモザ……ですか?」
植物のことならもちろん、特に自分の名前の由来となる『ミモザ』は誰よりも詳しいと自負していたが、『青いミモザ』なんて、これまで聞いたことも、見たこともない。
「実は最近、贔屓の商人から買い取りましたの。とても珍しいらしくて。もしご興味がおありなら、ぜひ裏庭をご覧になって」
リリアはにこりと微笑むと、それでは、と頭を下げて別の令嬢へ挨拶に向かった。
青いミモザなんて、それはぜひお目にかからねばと鼻息荒く、胸を弾ませながらサイネリア家の裏庭を歩いてみるが、青いミモザはどこにも見当たらない。
しかしその代わりに、大きなねむの木の下に、二つの人影を見た。
二つだったその陰が一つに重なったのを見て、ミモザは頬を染めた。
男女がキスを交わしていたのだ。それもただのキスではない、かなり濃厚なキスだ。
ミモザは咄嗟に倉庫の影に隠れた。
どうやら向こうはミモザに気づいていないようだ。
こんな裏庭で密会をしているということは、サイネリア家で働く使用人同士かもしれない。
いつぞやかに流行った使用人同士のラブロマンス小説のワンシーンを思い出しながら、ロマンティックに胸をときめかせていると、強い風と共に、草木がざわっと揺れた。
葉っぱの擦れ合う音が嫌に鼓膜にこびりつき、木々の隙間からその人影がはっきりと見えた。
そこにいたのはサイネリア家の使用人などではなく、先ほどまで一緒にお茶を飲んでいた、リリア嬢その人と、本来であれば今は仕事のため王都に行っているはずの、夫アデスだった。
ミモザは驚いた。
けれどそれは、王都にいるはずの夫がサイネリア家にいたことでも、そこでリリアとキスをしていたからでもない。
――なんで私、こんなに何も感じていないのかしら……。
目の前で夫が別の女性とキスをしていたにも関わらず、心は凪いでいた。
あまりのキスの激しさに、面食らいはしたが、リリアとアデスが恋仲だと知っても、悲しみも、怒りも、感じはしなかった。
アデスの不倫を疑い始めてからというもの、なぜ自分は落ち込んでいないのだろう、と不思議だった。
けれどその時は、まだ不倫の確証がないからだろうなと単純に思っていた。きっと不倫の決定的な証拠でも出れば、すごく落ち込んでしまうのだろうと。
だが実際は、目の前で自分としたこともないような熱いキスを、違う女性と交わしている夫の姿を目撃したというのに、心は少しも波立たない。
かわりに胸いっぱいに広がったのは、安堵だった。
もう無理にアデスとキスやそれ以上のことをしようとしなくて済むのかという安堵。
恋愛小説が好きで、ロマンティックなことに憧れがあるミモザだが、自身は小説の主人公のように、だれかを思って胸が焦がれた経験もなければ、眠れないほど誰かを思った夜を過ごしたこともない。
アデスとの結婚に、愛はなかった。
家督が釣り合うという理由で組まれた政略結婚。けれどそれ自体に不満はなかった。
貴族の結婚とはそういうものなのだ。
結婚をして、同じ寝室で夜を共にし、同じ空間で生活をすれば、きっと相手を好きになれる。そう信じていた。
けれど、結婚して三年――。
気持ちは今も結婚した日と同じ位置で、スタートラインの上に置き去りのまま、時間だけが過ぎていった。
アデスに特別な感情を抱くことは一度もなかった。
嫌いだと思うことはないけれど、好きだとときめくこともない。
そこにあるのは、無。自分でも驚くほどに、彼に関して興味が無いのだ。
キスをされた時でさえ心は動かなかった。
ミモザにとってはファーストキスだったというのに。
もしかすると、それにアデスも気づいたのかもしれない。
だから、リリアと不倫をしてしまったのかも――。
だとすれば、アデスだけが悪いわけではない。悪いのは、ミモザも同じだ。
自分はアデスの欲求にこたえることができなかった。
だから代わりにリリアがアデスに愛を注いでくれたのだ。
むしろリリアには感謝しなければいけないほどだ。
そう思って、これまでアデスの不倫には目を背けていた。気づかないフリをした。
けれど、ミモザも薄々気づいてはいた。こんな上辺だけの関係がそう長く続くわけがないということを。
「相手だけれど」
大きく張ったアデスの声に、ミモザは今が離婚の協議中だったことを思い出す。
「……サイネリア家の、リリアなんだ。……彼女を新しい妻に、と……思っている」
歯切れの悪い言葉の後で、アデスは大きく深呼吸をした。
「リリアを、愛しているんだ」
愛してる、と強いまなざしと声色で言われ、ミモザはなぜだか心が温かくなった。
別れ話の最中で、しかも、不倫相手に対する愛の告白を聞かされているにも関わらず、こんなに満ち足りた気持ちになるなんて、またアデスに変わり者だと揶揄されるだろう。
けれどこれは、虚勢でも、見栄でもない。純粋な気持ちだ。
貴族の結婚は、家督のつり合いを考えられての政略結婚がほとんどで、恋愛結婚は本当に稀だ。
そんな中、アデスは本当に好きな人と出会い、結婚をしようとしているのだ。
なんてロマンティックなのだろうか。
自分のせいで少し遠回りをさせてしまったが、今度はリリア嬢と、絶対に幸せになってほしい。
ミモザはあふれ出る歓喜を言葉に出した。
「素晴らしいですわ。純愛ですわね。わかりました。お相手のためにも、急いで離縁致しましょう。アデス様の幸せを心より祈っております」
ミモザは両の手を顔の前で合わせ、満面の笑みを深めた。心の底からの言葉だった。
アデスはつぶらな目を見開き、口を縦にぽかんと開けた。
自分から離婚を切り出したくせに、こんなにとんとん拍子で離婚が成立するとは思っていなかった、という顔だ。
ミモザが笑顔が深める一方で、アデスの驚いた顔は徐々に、歪んでいく。
アデスは呆れたように頭を抱えてはぁと息を漏らすと、右頬を引き攣らせ、苦虫を噛むような表情で笑んだ。
その冷たく鋭い瞳に、ミモザが映る。
「君は本当に、私に何の感情もなかったのだな。この三年間、君が好きなのは植物だけだった。きっと人を愛せないのだろうな。だから他人に酷いことも平気でできるんだ。君には何か感情が欠落しているよ、普通じゃない」
低く、怒りに震えた声だった。
他人に酷いこととは、何のことだろう、そう思ったが訊ねることはできなかった。
今聞けば、火に油を注ぐことになりかねない。
「……次は植物とでも、結婚するんだな」
アデスは薬指から指輪を取ってテーブルにおくと、今後の手続きは執事長の指示に従うようにとだけ言い残して、ミモザを置いて席を立った。
これまでアデスには幾度となく、変わり者だと言われてきた。
そんな言葉は慣れっこで今更傷つきなんてしないけれど、今回ばかりは少しだけ言葉が胸に突き刺さる。
――きっと人を愛せないのだろうな。
――君には何か感情が欠落しているよ、普通じゃない
その通りだ。
きっと自分は、人を愛することができない人間なのだ。
これまでいろんな人に変わっていると言われてたけれど、本当にそうなのだろう。何か感情が欠けていて、それが故に人の気持ちがわからないのだろう。
もう二度と恋愛も結婚もやめておこう。またこうして無意識に相手を傷つけてしまうから。
ミモザは薬指から指輪を外すと、テーブルの上に置き、その日のうちに荷物をまとめて家を出た。
こうしてフランシス家での三年に及ぶ結婚生活は幕を閉じた。