人間〈ヒト〉
これは、
〝人間〈ヒト〉になりきれなかった〟少年と、〝人間〈ヒト〉に憧れた〟少女の物語。
では、行ってらっしゃい。
これは、君への恋文〈ラブレター〉だ。
僕は君の、
幸せを願っている。
―――
僕は怪物だ。朝から晩まで、自堕落な生活を繰り返す毎日。――もう何日まともに眠っていないだろう。こんなものが、〝まともな人間〈ヒト〉〟と言えるのだろうか。いや違う。僕は――怪物か。この世界に僕の居場所はあるのか。そんな問いが、最近では頭から離れず、夜の街を彷徨うことが増えた。
『あなたはきっと――いいヒトに――』
今でも頭の中に響くのは、あの時の〝言葉〟。なぜ忘れられないのか。僕は一体、なぜ生きているのだろう。そんなことを考えながら、今日も、東京の薄暗い街を歩く。
気が付くと、見慣れた景色が眼前に広がっていた。相変わらずここ一帯は、東京の中でもひときわ賑わっている。そして、賑わいの中にひっそりと佇む、場違いなほど廃れたBar。無意識のうちにここに向かっていたのか。剥がれかけた看板と割れた窓ガラスが、過去の自分の傷のように思えた。目を逸らそうとするほどの自己嫌悪が、胸の奥を鈍く締め付ける。
そんな自己嫌悪に浸っていると、Barの脇から不気味で、それでいてどこか懐かしい空気が漂ってきた。僕は気になり、確かめるようにその路地をのぞき込む。細い脇道を進むにつれて、微かな物音が耳に届き、鼻先を掠める生臭い匂いがした。胸の奥で警鐘が鳴ったが、何故か足を止めることができなかった。薄暗がりに目を凝らすと、人影が揺れている。気付かれないように静かに近づくと、そこに居たのは、一人の少女。抱えこむようにしていたのは、ぐったりとした――人間の死体。彼女はおもむろにその首筋へ唇を寄せた。鋭い牙が月明かりに煌めいた。――目の前の少女は、吸血鬼だった。これが、僕と彼女の――出会いだ。
空の色を薄く溶かしたような水色の髪と、光に触れれば消えてしまいそうなほど透き通った肌の美しい彼女は、どこか哀しそうに、死体を食んでいた。僕はその姿から目が離せなかった。一通り食事を終えたのか、彼女はゆっくりと立ち上がり、その場から去ろうとしていた。
「あ、あの…」
しまった。とっさに声をかけてしまった。何故この時、黙って見送ることができなかったのか、自分でも分からない。ただ、夜の冷たい空気の中で俯く彼女の横顔が、あまりに寂しげで――胸の奥を何かが突き動かしたのだ。僕の存在に気付いた彼女は、何かを誤魔化すように視線を逸らし
「ごめんなさい…」
と、小さく謝ると、一層急いで去ろうとした。このままでは彼女が行ってしまう。僕は咄嗟に叫んだ。
「僕は、吸血鬼狩りではない!君と、話がしたいんだ!」
――むしろ怪しさが増した気がするが、もう遅い。僕の焦りをよそに、彼女は足を止め、じっとこちらを見つめてきた。その瞳には、怯えと疑いが宿っていた。
「…本当に…吸血鬼狩りではないのですか…?」
「…ああ、信じてくれ。僕はただ、君と話がしたいだけだ。僕を…信じてくれないか」
言い終えた後の沈黙は、やけに長く感じられた。やがて、彼女は意を決したように、少しだけ息を吸い、ほんのわずかに目を伏せて言った。
「…何所に、行きますか?」
僕たちは少し離れたBarへ向かった。外観も内装も、どこにでもあるような、ごく普通のBar。けれど、席や照明などの配置に妙な整いがある。まるで、何かを分け隔てるかのような――左右対称。相変わらず、ここはいけ好かない。
「いらっしゃいませ。…おや、久しい顔ですね。評論家さん」
出迎えたのは、店に似つかわしい、糸目の胡散臭いマスター。黒髪は目にかかるほどの長さで程よく整えられ、両耳にはいくつものピアスの跡。笑みを浮かべながら目を細めているその姿は、一見すると気の抜けたような雰囲気すら漂っている。けれど、何故かこちらの懐まで見透かされているような気にさせられる男だ。そんなマスターが、いつもの調子で、僕たちを左奥のテーブル席へと案内してくれた。
「ここなら、何を話しても大丈夫だ。…もっとも、あいつに聞かれたところで、どうということもないがな。…さて、何を飲む?」
彼女は黙ったまま、少し大きめの黒のパーカーを口元まで引き上げ、どこか警戒するようにこちらを見つめている。その視線がやけに気になり、癖毛の前髪を指先でいじった。薄暗い灯りが群青色の髪先にかすかな光を宿す。撫でつけた前髪は、すぐまた目元へと落ちてきた。
「おい、黙らないでくれよ。飲めるだろ?」
ほんの少しの沈黙。彼女は視線をそらし、かすかに唇を動かす。
「…XYZ」
その言葉を聞いた瞬間、胸が小さく跳ねた。昔、よく耳にしたカクテルの名。その響きが、不意に記憶の底をかすめた。胸が音を立てたのが、自分でもはっきりとわかった。
「…はは、いいねぇ。マスター、XYZを二つ」
口元が少し緩むのを隠しながら、僕は注文した。乾杯の後、暫くして彼女は口を開いた。
「…私が吸血鬼であること、恐れたりしないのですね」
僕は、グラスの中の琥珀色をひとしきり見つめてから、静かに答えた。
「その存在自体は知っていたからね。たいして何も思わないよ」
「…吸血鬼狩りに関しては?」
「…昔、知り合いがいてね」
彼女は視線を揺らし、指先にわずかに力を込めていた。小さく呼吸が乱れ、戸惑いが滲む。
「…人間なのに…普通の人なら、吸血鬼と知ったら、私と目を合わせることすらできないのに…恐れもなければ、襲うこともない」
気づけば、ぽつりと呟いていた。
「…凄いですね」
彼女はまた、かげのある表情を見せた。
「どうしてあの時、あんなに哀しそうな顔をしていた?…それに何故、謝ったんだ?」
気付けば、問いかけていた。どうしても、尋ねずにはいられなかった。
「…殺したく、なかった…です」
「殺したくなかった?でも吸血鬼〈キミタチ〉からしたら人間は食糧でしかないんじゃないのか?」
僕の言葉に、彼女は心苦げに答えた。
「…私は…人間が好きなんです。できれば傷つけたくなかった。ただ…もう何日もまともに食事をしておらず、欲には…」
まるで花瓶を割った子供のように視線を落とし、また黙り込んでしまった。
「…つまり、君は…人間を襲いたくない、傷つけたくない、ってことだよね?」
沈黙を裂くように、僕は声を発した。彼女は壊れそうなほど脆い気配を纏いながら、それでも微かに、確かに、頷いた。
「そうか…」
僕は一度、言葉を呑み込み、マスターの振るシェイカーが小さく氷を鳴らすのを聞いていた。
「…もし、君が本当にそれを望んでいるなら…僕に、考えがある」
ゆっくりと視線を上げ、彼女の瞳を見つめた。
「少しだけ、信じて…ついてきてくれないか」
彼女はグラスを持つ手にわずかに力を込め、視線を揺らした。迷いとためらいが入り混じった沈黙のなか、そっと唇を開く。
「…わかりました」
僕は立ち上がり、ドアへ向かう。Barの薄暗い灯りが背中を照らす中、彼女は席を離れることをためらうように、一度だけ足を止めた。やがて、椅子が小さく軋む音がして、彼女もこちらへと歩み出す。ドアが開いた瞬間、外気が入り込み、微かに冷たい夜風が二人の間をすり抜けていった。
Barを後にした僕たちが向かったのは、東京の街を見下ろす、ひっそりとした丘だった。
「ここは…呪われた場所らしい」
「…呪われた場所?」
足元の土がじんわりと冷たく、空気はどこか淀んでいた。丘を登るたび、風がひゅうひゅうと耳元で囁くように鳴った。視線の先には、月明かりに浮かび上がる一本の枯れ木。その枝は、鉤爪のように四方に伸び、闇に溶け込みながらも禍々しく蠢いて見えた。そして、その根元に、揺れているものがあった。
「この場所に、まともな人間は来ない。来るとしたら…」
僕たちはゆっくりと枯れ木の裏側へと回り込む。風がざわりと吹き抜けた瞬間、そこに吊るされた黒い影が揺れた。首を傾げたままの遺体が、月の光に照らされ、青白い顔を微かに覗かせていた。胸の奥がひやりと冷えた。けれどその奥で、不思議と微かな哀しみも芽生えていた。まるでこの丘自体が、誰にも見つけられず、孤独に凍えているように思えた。
「ここには月に何度か…今日のように死を求めて訪れる人間がいる」
「…そんなに多く?」
「…ここで死んだら、遺体が何故か見つからないとの噂があるらしい」
「…あなたは、何故ここを…?」
冷たい風が吹き抜け、彼女の声が頼りなく揺れた。僕はしばらく答えなかった。目の前の枯れ木を見つめながら、過去の影を追うように息を吐いた。
「…僕はずっと居場所を探してたんだ。ここにいてもいいよって、誰かが言ってくれる場所を」
言葉にするたび、胸の奥が裂けそうだった。
「…でも、そんな場所はどこにもなかった。だから…死のうとしたんだ、何度もここを訪れて。だけどそのたびに怖くて…踏み出せなかった。今まで感じたことのない感情〈モノ〉だったから」
息をひそめ、彼女は僕の言葉を飲み込むように聞いていた。
「居場所もない。死ぬ勇気もない。…なら、いっそ、この世界から僕という影だけをそっと消せたら…」
枯れ木の枝が風に擦れ、かさかさと小さな音を立てた。
「…あなたの気持ち、わかる気がします。私も、ずっとそんなふうに感じてたから」
かすかに微笑んだ彼女の横顔は、哀しみの色を帯びていた。
「…そういう君は、人間と過ごそうとはしなかったの?」
僕の問いに、彼女はまた視線を落とし、指先を震わせながら答えた。
「…何度も試みはしました。でも、そのたびに…バレてしまって」
その言葉には、諦めにも似た疲れが滲んでいた。
「…人間の生活は、私には難しすぎた。どこにいても、自分がまるで〝異物〟のように感じてしまう…」
冷たい風がまた、僕たちの間を抜けていく。僕は、そんな彼女を見ていた。無理をしていた過去の自分を、そこに重ねながら。
「…それでも、君は誰も襲わないように…抗っていたんだね」
彼女は少し驚いたようにこちらを見たが、やがて目を伏せて、小さく頷いた。そんな彼女を、僕は…見捨てることができなかった。
「…僕が、教えるよ。人間の生活を。きっと、君にもできることがある」
自分でも驚くほど、言葉は自然に出てきた。
「…それに、ここなら…」
ふと、風に揺れる枝を見上げて、声を潜める。
「…誰にも気づかれず、命が失われていく場所だ。誰かを直接傷つけることなく、君は…飢えをしのげるかもしれない」
思えば、何度もこの丘に通っていた自分が、それを一番知っていた。
「居場所を失った彼らに…〝意味〟を与えることも、できると思うんだ」
――僕には、何もない。けれど――この場所で命を落とした彼らに、何か〝意味〟を与えることができるなら。それだけでも、ほんの少し、〝この世界〟に価値が生まれる気がした。僕は一度、言葉を切り、ゆっくりと彼女を見つめた。
「君が、誰かを襲わずに生きる道を探したいって思ってるなら……僕も、その手伝いがしたい」
彼女は微かに瞳を揺らし、静かに僕の言葉を待っていた。
「…君が人間と一緒に暮らせるように、僕が手伝う。だから…僕が生きていける場所を、一緒に探してくれないか」
暫くの間、彼女の視線は宙を彷徨っていた。けれど、どこか吹っ切れたように小さく息を吐き、微かに笑みを浮かべた。
「…分かりました」
その声は頼りなげで、それでも確かな決意を秘めていた。先ほどまでの風が、まるで嘘のように――如月とは思えぬほど、やわらかく感じられた。胸の奥に、かすかな灯がともるような――そんなぬくもりが、そっと、静かに広がっていった。
「これからよろしくお願いします。…そういえば、私の名前はローフィ。あなたは?」
僕は微笑みながら答えた。
「僕は――」
―――
そこから、ローフィと過ごす日々が始まった。最初の頃、彼女は人間の気配に怯えていた。いや、正確には、かつて彼女が〝人間にバレてしまった〟記憶に囚われていたのかもしれない。夜の街を歩くときも、必ず深くフードを被り、僕の背中に隠れるようにしてついてきた。けれど、ある日、小さな公園のベンチで眠る猫に微笑みかえる彼女を見て、僕はふと気付いた。――こんな素敵な表情もできるのか、と。
新しい服を選ぶとき、わずかに頬を赤らめる仕草。
「いらっしゃいませー。何かお探しですか?」
店員の明るい声に、ローフィはぴたりと足を止め、フードを深く被り、肩をすくめるように身と縮める。けれど、ほんの一呼吸の後――彼女はそっと空色の髪を見せ、小さく、けれど確かに会釈を返した。その姿に、胸の奥がじんわりと熱を持つ。ローフィは確かに、人間の暮らしに少しずつ馴染み始めている。
そして、訓練のように挑戦した珈琲では、苦みに顔をしかめていた。
「うぅ…。あなたはよくこれが、飲めますね」
苦そうに眉をしかめる顔が、どこか子どもじみていて、思わず笑みがこぼれそうになる。
「慣れれば癖になるさ」
「…なら、もう一口だけ!」
そんな、何気ないひとつひとつが、僕の胸にゆっくりと染み渡たる。
「君といると、なんだか世界が変わって見えるよ」
思わず零れた言葉に、彼女はきょとんとこちらを見た後、小さく笑った。その笑顔は、僕の世界を少しずつ満たしていた。
あの丘はいつも静かだった。今夜もそこに、ローフィの姿があった。月光に照らされた彼女は、水無月の風を受けながら、何かを待つように佇んでいた。僕と会う時にはいつも身に着けている、肩の露わな黒のトップスが夜気に触れ、淡い空色の髪とともに、どこか頼りなげな輪郭を描いている。すらりと伸びた脚を包む長めのソックスと、浅くカットされたショートパンツの組み合わせは、涼しげで、けれど不思議と印象に残る。
「やっと来た」
「よく分かったね。待った?」
「ふふ…鼻がいいからね。それに、ちょうど来たところ」
そういいながら、彼女は小さく鼻先を擦り、わずかに微笑んだ。丘を撫でる夜風がどこか冷たく感じ、ローフィの髪がさらりと揺れる。その横顔は、どこか遠くを見つめているように見えた。
「君は…吸血鬼に〝禁忌〟があるのを知ってる?」
不意に、ローフィがそう呟いた。最初の頃、彼女は僕のことを〝あなた〟と呼んでいた。それがいつの間にか〝君〟になっていたことに、今さら気付く。その小さな変化が、胸の奥をじんわりと熱くした。
「〝禁忌〟…か。…人間を好きになること、とか?」
僕の返答に、ローフィはこちらを見て、わずかに唇をほころばせる。
「…確かに。それも、吸血鬼にとっては禁忌かもしれないね」
彼女は月を見上げ、淡く笑った。
「でもね、吸血鬼〈ワタシタチ〉の世界で本当に恐れられているのは…吸血鬼が吸血鬼の血を吸うこと。つまり、〝同族喰い〟」
「…〝同族喰い〟。なんだか人間の世界でも聞きそうな話だな」
「ふふ。そうかもしれないね」
月明かりが彼女の頬を照らし、長い睫毛の影が揺れた。
「でも…なんでそれが禁忌なんだろう」
ローフィの問いに、少しだけ間を置いて僕は言った。
「んー。…吸血鬼でいられなくなるから…とか?」
僕の言葉に、ローフィは微かにまばたきをした。その瞳が微かに揺れる。
「…さぁ」
小さく息を吐き、彼女は月明かりに視線を戻した。
「もしそうだとしたら…少し怖いね」
丘を抜ける夜風がひゅうっと鳴り、二人の間に静寂が広がった。
彼女と初めて出会ってから一年が経った。ローフィはだいぶ人間の暮らしに馴染んできた。小さなカフェで注文を迷ったり、店員の挨拶に明るい笑みを返したり。あの頃、人間の気配に怯えていた彼女からは、想像もできない姿だった。彼女といることで、僕も少しずつ前を向けるようになっていた気がする。あの空虚な夜を彷徨っていた僕はもういない。――そう思えるほどに。
そして今夜も、僕らはあのBarにいる。外では、静かに雪が降っていた。窓越しに見る街路樹の枝には、白い結晶がうっすらと積もっている。人通りも少なく、ただ降り続ける雪が、まるでこの街ごと、時間を止めてしまったかのようだった。店内の温かな照明の中、ローフィはいつものようにXYZを頼み、グラスの底で琥珀色をじっと見つめていた。今日は店内では、あのパーカーを脱いでおり、素肌を覗かせる黒のトップス姿でテーブルについている。彼女自身は気づいていないかもしれない。でも、少しずつ――ほんの少しずつ、彼女が変わり始めていることを実感できた。
「相変わらず、寒そうな服を着ているね」
僕がそう言うと、ローフィは小さく肩をすくめた。
「この方が、落ち着くんだもん」
「せめて、僕以外の人間と会う時は、ちゃんとした服を着なよ。そのために選んだんだから」
言い終える前から、彼女はふっと視線をそらし、グラスの縁に指を這わせる。
「わかってる。…でも、急には無理かも。努力は…してみる」
その声はわずかに拗ねていて、けれどその横顔には、照れくさそうな色が滲んでいた。その不器用な反応に、僕は少しだけ笑いそうになったけれど、何も言わずにグラスの水面を見つめていた。暫くの沈黙の後――
「…そういえば、居場所、見つけられそう?」
まるでふと思い出したように、彼女が言った。僕はその問いに、すぐには答えられなかった。グラスの中で、淡い紫が静かに揺れているのをぼんやりと眺めながら、少しだけ息をついた。
「…どうだろう。探してるつもりではいるけど、中々見つからなくて」
そう答えた後、僕は自分の言葉に小さく苦笑した。僕がいたい場所。それは――。ローフィは少しだけ、視線を下げ、グラスを傾けながら、そっと言葉を返した。
「でも、きっと見つかるよ。君なら、〝ちゃんとした場所〟にいられる気がする。私みたいなものにも、こんなに優しくしてくれるくらいだもん。…人間〈キミ〉の世界でも、きっと誰かの役に立てってるよ」
その横顔はどこか遠くを見るようで、まるで僕の未来をそっと祈るようだった。けれど、その優しさが少しだけ怖かった。まるで、僕の中の「まっとうさ」や「やさしさ」を、なんの疑いもなく信じているようで――それが苦しかった。
「…そんなことないよ」
僕は微かに笑った。
「ただ、君にとって都合のいい存在だから、そう思うんじゃないかな。…僕の存在は、きっと誰かを傷つけてる」
グラスの縁を指でなぞりながら僕は呟く。
「僕を含めてさ…人間なんて、みんな弱くて、醜いから」
僕の言葉を聞いて、ローフィはグラスの中の琥珀を見つめたまま、暫く黙っていた。やがて、ぽつりと小さく言った。
「…ううん。そんなふうに思っている君のことを、私は…醜いなんて思わないよ」
その声は、優しさに包まれていた。
「でも、確かに…」
彼女はグラスを傾けながら、続ける。
「誰かの幸せは、誰かの不幸の隣り合わせにあるのかもしれない。見方も、考え方も、人の数だけあるし。多分…正しさなんて、どこにもない」
低い音楽に、彼女の声が溶けていく。
「だから、ぶつかって、すれ違って、傷つけ合ってしまうんだよね。それでも…」
ローフィはふっと息を吐く。睫毛に落ちる灯りの影が、その息に乗って微かに揺れた。
「それでも、人間〈キミタチ〉は…誰かのために、涙を流せる。たとえ自分が傷ついたとしても、〝誰か〟を想うことができる」
そこで一度、ローフィはこちらを見た。
「吸血鬼〈ワタシタチ〉には、それができない」
そう言った彼女の声は、僅かに震えていた。
「目の前の欲に飛びついて、満たすことしかできない。吸血鬼〈ワタシタチ〉は、弱さや哀しみを、他の人の為に抱えておくことができない。…人間〈キミタチ〉みたいに」
彼女は目を細めて、微笑んだ。その笑みには、ほんの少しだけ、憧れが滲んでいた。
「人間〈キミタチ〉は、醜くて、弱いかもしれない。…それでも美しいよ。だから、羨ましいって…思うんだ」
――本当にそうなのか。なら何故、人を思えないはずの吸血鬼である君が――そんなにも壊れそうな顔で、哀しむことができるんだ。
「…ふふ、こんなこと、君にしか話せないね。…みんな幸せになればいいのに…」
そう呟いた君は、やはりとても美しかった。
彼女の言葉が、胸に深く突き刺さる。この一年、ローフィと過ごす日々の中で、僕は前を向けるようになったと思う。彼女の隣にいる時間が、確かに僕の中の何かを癒してくれた。でも、それだけじゃない。彼女の言葉に、笑顔に、触れるたびに――もっと近くにいたいと思うようになっていた。そのたびに、その気持ちに蓋をしようとした。彼女の視線の先――それに気付いていたから。それでも――。
「…ローフィ」
気付けば、その名前を呼んでいた。息を呑み、勇気を押し出すように言葉を紡ぐ。
「…僕は、君が好きだ。…僕がいたい場所は…君なんだ」
酔いのせい。きっとそうだ、そう思おう。ローフィは軽く赤面し、驚いたようにこちらを見つめた。まばたきもせず、僅かに唇を震わせる。
「……」
ほんの一瞬、何かを飲み込むように目を伏せたあと、
「…私なんかとずっといたら、君が壊れてしまう」
掠れそうな声で、彼女はそう呟いた。彼女の言葉は微かに痛みを孕んでいた。それでも――心は揺れなかった。静かに息を整え、ゆっくりと頷いた。
「それでも、構わない。…君がいい」
僕はテーブル越しに手を伸ばしかけた。その瞬間、ローフィはわずかに目を閉じ、ほんの一瞬だけ微笑んだように見えた。しかし、次の瞬間――その表情は夜の静寂に吸い込まれるように消えた。
「…ごめんなさい」
それだけ告げると、ローフィは席を立ち、グラスの琥珀色だけを残してBarを後にした。外の雪は、さっきより少しだけ強くなっていた。ローフィの後ろ姿が薄暗い東京の街に、静かに溶けていく。白い雪が、彼女の髪に、肩に、そっと降り積もっていくのを、僕はただ――見送ることしかできなかった。そして、その日を境に――いつもの丘にローフィが現れることはなかった。
―――
ローフィがあの丘に現れなくなってから、一年半が過ぎようとしていた。あの後、僕はあの廃れたBarを再開した。散歩で訪れる公園や、アフタ―ヌーンティで通う小さなカフェ――そのどれもが、ローフィとの思い出で満ちている。そんなことを考えながら、今日も仕事に勤しんでいた。
『カランカラン』
ドアベルの音がBarの空気を揺らす。
「いらっしゃいま…せ…」
一瞬、時が止まったように感じた。目の前に、ローフィが立っていた。白のスカートが足元でやわらかく揺れる。空色の髪とよく馴染む青い半袖の羽織が、涼しげに彼女の肩を包む。見慣れた彼女の黒とは違う、どこか柔らかくて穏やかな色合いが、照明の中でやさしく揺れていた。――僕に、気付いていない?
「二人でお願いします」
一瞬、息が止まる。ローフィの隣には、背の高い男性がいた。明るめの茶髪がBarの灯りをやさしく反射し、まるで、彼の周囲だけ春の空気が流れているようだった。暗がりの中で、その空気がひどく眩しく見えた。小さく息を整え、自分を落ち着かせるように、分けている前髪をかき上げる。
「…こちらへどうぞ」
声が少し掠れていたかもしれないが、二人をカウンター席へと案内した。
「なんだかいいお店だね」
男性が目を輝かせながら店内をよく見回し、気取らない笑顔を浮かべる。
「ねえ、ここ前から知ってたの?」
「ううん。昔、別の所によく行ってたんだ。でも今日はお休みで」
「だからここに?」
「そう。たまたま通りかかって」
「へー。いいお店知っちゃった」
――偶然、か。胸の奥がひりつくように痛む。
「あれ」
ローフィは、ふとこちらを見て、目を見開いた。一拍の沈黙の後――
「…久しぶり」
その声は静かで、どこか懐かしさを含んでいた。
「なに、知り合い~?」
柔らかい声で、隣の男性が尋ねた。
「うん!昔の友達」
彼女は軽やかに笑って答えた。その笑顔が、胸の奥にひりつくような痛みを残した。
「マスター、カッコいいですね!特に髪型が素敵です!」
その声は明るく、悪気のないものだった。けれど僕は、少しだけ返事が遅れた。
「…有難うございます。普段は下ろしていますが、仕事中だけは上げているんです」
「どちらも似合いそうですね。普段の髪型も見てみたいです」
他愛もない会話が遠く音のように聞こえた。
「ごめんね、ちょっとお手洗い。いつもの頼んでおいてもらっていい?」
「うん!」
ローフィは頷いた。その視線が隣の男性に向けられる。――その一瞬で、僕は悟った。彼女の瞳の奥にあるものに。
「XYZと、カシオレ、お願いしてもいい?」
その声で、ようやく我に返る。
「…かしこまりました」
ローフィは、何かを確かめるように、そっと顔を近づけた。
「…ねえ、香水とか付けてる?」
鼻をひくつかせ、ふっと微笑んだ。
「…いや、仕事柄付けてはないよ。ただ、ハンカチにアロマオイルを垂らしてはいるけど。…もしかして、きつかった?」
ハンカチを差し出すと、彼女は小さく首を振った。
「ああ、だからか。ううん。素敵な匂いだと思う。でも、いつもと少し違ったからさ」
――ああ、そうか。彼女は鼻が良かったな。――それ以上は考えないようにした。そのまま、何事もなかったかのように、ハンカチをポケットに戻す。懐かしい声。懐かしい仕草。けれど、今のローフィは、前よりも〝人間〈ヒト〉〟に近づいているように見えた。その変化が、胸の奥をきゅっと締め付ける。グラスが二つ運ばれ、ローフィがいつものように、琥珀色をじっと見つめる。カウンターの奥で扉が開き、彼が戻ってきた。
「お帰り。ちゃんと頼んでおいたよ」
「有難う。助かった」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合う。ローフィは彼に何か耳打ちし、彼は照れたように肩をすくめた。まるで二人だけの空気がそこにあって、僕の存在は、その場にうまく溶け込めないままだった。
やがてグラスが空になり、隣の男性が軽く伸びをしながら立ち上がった。ローフィも席を立ち、男性に言う。
「美味しかったね」
「うん。照明の取り方も上手いから、よりお酒が美味しく感じたよ」
二人が言葉を交わしながら、帰りの支度を始める。ほんの一瞬、ローフィがこちらに視線を向けた。
「有難う。美味しかった」
彼女が微笑む。その微笑みは、胸の奥の古い傷をそっと撫でるようで――少し痛かった。僕はその声を受け止めるように、少し頷いた。このまま何も言わなければ、きっともう交わることはない。――けれど、それでも――
「…あの場所に、明日、行こうと思う」
表面張力のように張り詰めていた感情が、ぽたりと零れ落ちるように、言葉が出た。ローフィは一瞬だけこちらを見て、微かに目を揺らした。すると隣の男性が、穏やかな笑みで言った。
「行ってきな」
その言葉に背中を押されたように、ローフィは
「…また、明日」
と小さく呟き、扉を押し開けた。
次の日、僕は久しぶりにあの丘へ向かった。本当は、もう会わない方がいい。わかっている。彼女には、あの〝春の空気〟が似合う。――それでも、また足が、あの丘を目指していた。月明かりの下、ローフィは枯れ木に背を預け、いつもの服を纏い、水色の髪を夜風に揺らしていた。
「来てくれて…有難う」
僕がそう言うと、彼女は微かに笑みを浮かべ、
「ううん」
と短く答えた。二人の間に涼しい風が通り抜ける。言葉が続かない。僕は声を押し出すように言った。
「大丈夫なの?彼がいるのに」
ローフィは静かに頷く。
「…優しい人だから」
彼女の目は、どこか遠くを見つめていた。もう、僕の知らない世界に居る人みたいに。僕は黙って彼女の横顔を見つめる。
「彼は…君が吸血鬼だと知ってる?」
「…ううん。知らない。…いつかは言わないとって思ってはいるけど…」
短い沈黙が落ちる。そして僕は、ずっと胸に引っかかっていた言葉を吐き出した。
「…あの後、どうして…来なかったの?」
声が僅かに震えたのが、自分でもわかった。ローフィは僅かに肩を震わせ、長い睫毛を伏せた。
「…気まずかったの。あの時…君を、きっと傷つけたと思った。だから…顔を合わせるのが怖かった」
風が木の枝を揺らし、乾いた音を立てる。僕はその音に紛れるように、僅かに笑みを作った。
「もう気にしなくていいよ。僕はもう…君に恋愛感情はないから」
――嘘だ。けれど、淡々とした口調は崩さなかった。ローフィは驚いたようにこちらを見た。けれど、すぐに、ふっと淡い笑みを浮かべる。
「…そう、なんだ」
その声には、ほっとした安堵と、胸の奥に残る悔やみが微かに混じっていた。言葉が胸の奥で軋む。けれど僕は気付かれないように、いつも通りの声色で問いかけた。
「また…会えるかな」
ローフィは一瞬俯き、そして小さく頷いた。
「…うん」
その返事が、風に溶けるように静かに届いた。
ローフィとまた会うようになってから、半年が過ぎた。二人で過ごす時間は、以前のように頻繁ではなかった。月に一度、あるいは気まぐれに二度。いつものあの丘か、夜更けの街のどこかで落ち合った。ローフィは変わらず笑った。変わらず静かに歩き、変わらずグラスの底をじっと見つめた。けれど、その微笑みに漂う色は、あのころよりもどこか淡い。
「君、前よりずっと、人間の生活に馴染んだように見えるよ」
「…ふふ、そうかな」
そんな会話を交わすたび、胸の奥が少しだけ軋んだ。
時折、彼女は〝春の空気〟について話すこともあった。
「この間、イルミネーションを見に行ったの。人も街もとにかくキラキラで綺麗だったの。…ふふ、これがきっと、幸せってやつなんだよね」
その言葉を聞くたび、僕は笑顔を作りながらも、心の奥で鈍い音が鳴るのを感じていた。それでも君に会ってしまう。僕はもう何も望まない――だから。そう自分に言い訳しながら。
夜の街角、ふと立ち止まり、ローフィが呟いたことがある。
「ねぇ…私って人間〈ヒト〉になれるのかな?」
そう言った後、彼女はすぐに笑って誤魔化した。でも、その笑顔はどこかぎこちなかった。――僕は、その問いには答えなかった。
二人の距離は、近づいては遠ざかり、触れそうで触れない。この脆い均衡が崩れぬように、僕は手を伸ばすことだけはしなかった。――それでも、彼女と会うたびに、僕の想いはどうしようもなく大きくなっていった。心はどうしようもなく彼女に向かっていく。君という痛みを――求めてしまう。
「はい、いつもの」
「有難う」
ローフィは変わらずXYZを頼む。グラスに揺れる琥珀色をじっと見つめ、細い指先でグラスを傾ける仕草は、あの頃と少しも変わらない。
「最近、時間の流れがすごく早く感じるの。君と出会って、もう三年くらい経つんだね」
ローフィはグラスを片手に、柔らかく笑った。
「年は取りたくないものだ」
冗談めかしながら、軽やかな声でそう言った。
「吸血鬼のくせに、何を言うんだよ」
その言葉に、僕は小さく笑い返しながら、ふと素朴な疑問を口にした。
「そういえば君、どれくらい生きてるんだ?」
「普通、女性に年齢を聞く?」
ローフィは一瞬目を細め、こちらをじっと見る。その瞳の奥で、微かに光が揺れた。やがて、彼女はため息混じりに微笑む。
「んー…どれくらいだろうね。あんまり覚えてないや。でも最近は、本当に時間が溶けていくみたい」
その声は、どこか遠くを見つめるようで、言葉の奥に、歳月の重みが滲んでいた。
会計を済ませると、ローフィは静かに立ち上がった。僕はグラスを拭きながら、その後ろ姿を見送る。ドアノブに手をかけた彼女は、ふと立ち止まる。振り返り、薄暗い照明の中で静かに微笑んだ。
「…君って、やっぱりいい人だよ」
ローフィは、祈るような眼差しで微笑んでいた。それは、心からの――願いのようだった。その表情が、ふと昔の〝誰か〟と重なった気がした。不意に、胸の奥で忘れていたはずの言葉が揺らめいた。
『大丈夫――あなたはきっと――いいヒトに――なれる――』
思い出さなくなっていたはずの夜が、その帳を静かに開く。グラスを拭く手が、ほんの一瞬止まった。その微かな動揺に気付いたのか、ローフィは慌てたように言葉を足す。
「…あ、悪い意味じゃないの。なんていうか…」
僕は微笑みで彼女の言葉を遮る。
「大丈夫、わかってる」
その声に、ローフィはほんの少し肩の力を抜いた。
「…よかった。あの時と同じように傷つけたかと思った」
不意に、暖かい夜風が吹き込んできた気がした。さっき揺らいだ記憶の残響が、まだ胸の奥に残っている。あの夜に〝彼女〟が僕に言った言葉。あのときの灯りの色。そして――今、目の前にいる彼女の微笑み。僕はグラスを拭きながら、いつもの声で何気なく言った。
「ねぇ、少し散歩しない?」
ローフィは一瞬だけ目を細めたが、すぐに表情を緩めて、
「いいよ」
と頷いた。
二人で並んで歩く夜道。人影の消えた公園の入り口で足を止める。遠くで風が木々の葉を揺らす音がしていた。
「ここで、君が初めて笑ったの、覚えてる?」
僕がそう言うと、ローフィは木々の方に視線を落とし、小さく頬を緩めた。
「…猫がベンチで寝ていて、君が『人間はこういう景色が好きなんだよ』って」
「そうだね」
その時のローフィの笑顔が、今も胸に焼き付いている。あの笑顔は、今の彼女よりずっと幼く見えた。二人の会話は短いけれど、思い出の重さが滲んでいる。
次に足を運んだのは、以前よく寄った小さなカフェ。深夜のためシャッターが閉じられている。でも、ショーウィンドウの奥にはまだ温かな灯りが残っていた。
「ここで君が、初めて珈琲を頼んだね」
「…懐かしいね。あの時は、苦すぎて顔をしかめてたっけ。…まぁ、今でも苦いけど」
ローフィはいたずら小僧のように笑い、両手をポケットに入れる。
「あの頃は、少しでも人間らしくなりたくて必死だったな」
彼女の言葉に、僕は何も答えず、暗がりの店先を見つめ続けた。
二人の足音だけが夜道に響く。町の喧騒はとっくに遠のき、夜風が静かに吹き抜ける。ふと視線の先に、今はもう灯りを落としたバレエ劇場が見えた。ガラス扉の奥に見えるポスターには、新作のタイトルが誇らしげに掲げられているが、今はただ暗い小さなエントランスに月明かりが差し込むばかりだ。ローフィは立ち止まらず、歩き続けている。僕はその後ろ姿を見つめ、吐く息の白さに紛れるように、言葉を零した。
「…あの頃、僕は…君に救われてばかりだったな」
その声が夜の空気に溶ける。ローフィは歩みを止めず、ほんの僅かに頬を緩め、パーカーの襟に口元を埋めるようにして、
「…ふふ」
と短く笑った。
月明かりに照らされた丘。枯れ木が夜風に揺れる。あの日と同じ景色が、そこにはあった。
「やっぱり…ここは落ち着くね」
ローフィがぽつりと呟く。その声は夜に溶けていくように柔らかかった。僕は、眠りかけた東京の微かな光を見つめながら、問いかける。
「彼とは…最近どうなんだ?」
「…うん、いい感じだよ」
ローフィは少し考えてから、小さく笑ってそう答えた。
「…そっか」
夜景に視線を向ける。胸の奥に、小さな名残のような感覚が残ったが、不思議と穏やかな気持ちだった。少しの間、二人の間に言葉が落ちた。夜風が吹き抜け、街の明かりがゆらゆらと瞬く。
「君にとって、彼は…やっぱり特別なんだろうな」
ローフィは目を伏せ、小さく息を吐く。
「…うん」
その返事を聞き、僕はしゃがみ込み、肩の力を抜いたように笑った。
「そっかー。なら、やっぱり…僕じゃダメだったんだね」
ローフィはほんの一瞬まばたきし、視線を夜空に泳がせた。そこには、優しさとも躊躇いともつかない、淡い色が滲んでいた。
「ダメってわけじゃない。んー、うまく言えないけど…直感なんだ」
「…直感、か」
僕はどこか納得したような声で、苦笑いした。
「そっか。それなら仕方ないね」
夜風が丘を撫でる。月が雲に隠れ、仄暗い光が二人の間で揺れた。僕は月の光を見上げながら、そっと呟いた。
「…ねぇ、もし、本当に…人間になれるとしたら、どうする?」
ローフィは少し驚いたようにこちらを見て、僅かに目を細める。まつ毛が微かに揺れ、唇が僅かに開いては閉じる。やがて、静かに顔を上げると、言った。
「…もし、なれるなら…うん、なりたいな。ずっと憧れてたし…何より、彼と一緒になれるから」
その言葉に、僕は肩を揺らして笑った。
「はは、きっついなー。やっぱ、まだ未練あったかも」
「えっ!?」
ローフィは目を丸め、軽く赤面していた。枯れ木の枝が風に揺れる音が、静かな夜に重なる。どこか遠くで犬の鳴き声が響き、すぐまた静寂が丘を包んだ。
「でも、もう…本当に大丈夫だから。色々とすっきりしたし」
僕はゆっくりと立ち上がり、夜景に視線を落として微笑んだ。その声は不思議と穏やかだった。ローフィは月明かりの中で、わずかにこちらを見る。夜風に揺れる水色の髪越しに覗くその表情は、どこか柔らかく、安堵とも微かな祈りともつかない光を宿していた。僕は小さく息を吐き、続ける。
「君のためなら、できる気がするよ」
夜の丘に冷たい風が吹き抜ける。
「僕は…吸血鬼が人間になる方法を、知っている」
「…え?」
ローフィは目を見開き、暫くこちらを見つめた。
「もし、君が本当になりたいならね」
ローフィは短く息を呑み、視線を落とす。月明かりに照らされる横顔が僅かに揺れて見えた。
「…なれるの?私が…人間に?」
その声は微かに揺れていたが、奥底には確かな決意の色が灯っていた。
「なれる。…でも、僕を信じてくれるなら」
僕の言葉に、ローフィはしばし黙り込む。夜風が吹き抜け、枯れ木の枝が小さく軋む音がした。やがて彼女は、ゆっくりと顔を上げると視線をこちらに戻し、頷いた。
「…うん」
その表情を見つめながら、僕は静かに言葉を続けた。
「明日、この丘に来てほしい」
夜風が二人の間をすり抜ける。ローフィの指先が袖口をぎゅっと握り、淡い光がその影を引き寄せた。
「…わかった」
その声は、夜風に乗って微かに響いた。僕はゆっくりと、丘を降りようと足を踏み出す。
「それじゃ、また明日」
ローフィは一瞬その場に留まり、冷たい風に揺られる水色の髪を抑えた。やがて、足音が静かに遠のく。夜風が僕の背中を――そっと押してくれたように思えた。
「おはようございます。本日は四年に一度の閏年。そして、一年に一度の『スーパームーン』でもあります。本日も――」
テレビから流れる天気予報が、今日は妙に優しく耳に届く。コートを羽織る手が、自然と軽くなる。僕は、季節外れの暖かさを探すように、街へ出た。
重厚なガラス扉に店名が控えめに刻まれた、小さな建物。その二階、設計事務所の扉をそっと開く。
「すみません、突然…」
事務所の扉越しに声をかけると、あの夜ローフィの隣にいた彼が、一瞬だけ目を細め、思い出したかのように頷いた。
「あれ、あなたは…Barの」
「急にすみません。少しだけお時間、よろしいですか?」
彼はわずかに眉をひそめたが、すぐに笑顔で頷き、上着を手に取って、そのまま玄関の扉を開いた。
「すぐ近くに、陽当たりのいいベンチがあるんです。外でもよければ」
僕は小さく頭を下げて、
「有難うございます」
とだけ返し、彼の後に続いた。道すがら、近くのコンビニで僕は、珈琲を二つ買った。ベンチに着くと、まだ湯気の立つカップをそっと差し出す。
「どうぞ。急に呼び止めてしまったお詫びです」
「気が利きますね」
彼はあの時と同じように、穏やかに笑ってカップを受け取った。ふっと息をつきながら、一口啜る。
「やっぱり、髪を下ろしていてもかっこいいですね」
彼の言葉に、僕は苦笑いした。
「それよりも、よく俺のことがわかりましたね」
僕は軽く笑みを返してから、穏やかに言葉を紡いだ。
「照明の明るさや当たり方を〝取り方が上手い〟なんて言う人、そうはいませんよ。それに…」
僕は彼の手元を指した。
「インク、付いてます。今でも図面を手書きしている証拠です」
彼は手元を見下ろして、少し微笑む。
「成程。それで俺が建築関係とわかったと」
納得したように頷く彼に、僕は続けた。
「人間観察、得意なんです。昔から、人の仕草とかを見る癖があって」
僕は少しだけ肩をすくめるように笑った。何気ない彼との会話は、春の麗かさを彷彿とさせる程、心地よかった。
「この辺で事務所を構えているのは、まあ、うちくらいですからね」
彼は珈琲を一口啜ってから、躊躇いなく――まっすぐ僕に目を向けた。
「それで…わざわざ俺に会いに来た理由は?」
穏やかな口調だったが、その瞳の奥には真剣な色があった。僕は静かに、けれども言葉を慎重に選びながら話した。ローフィのこと。彼女が人間になりたいと望んでいること。そして――その方法について。全てを伝え終えると、彼は暫くの沈黙の後、ぽつりと漏らした。
「…あなたは、いい人ですね」
「…そうでもないですよ」
僕は少し笑った。
「僕はただ…ただ、彼女に幸せになってほしだけなんです」
僕は珈琲を口に運び、ふっと息を吐いた。冬の空気に触れたそれは、白く微かに気霜を描いた。
「それに…これは、僕だけのことじゃない。あなたも…」
彼は、まるで重さを引き受けるように、小さく頷き、そして立ち上がった。木々の隙間から差し込む冬の陽光が、その背を柔らかく照らしていた。
「彼女のことは、ちゃんと受け止めます。…約束します」
その言葉に、僕はふと目を伏せた。――あの夜の、ローフィの声が胸に蘇る。
『人間〈キミタチ〉は、醜くて、弱いかもしれない。…それでも――』
ああ、そうだな。人間〈カレラ〉は美しい。たとえ――どんな形であっても。彼の姿を見て、僕は何の悩みもなく、微笑みながら言葉を零した。
「あなたの方こそ…僕なんかより、よほどいい人だ」
彼の笑顔はやはり、季節外れの暖かさを纏っていた。
彼に全てを話した後、僕はいけ好かない――それでも、いつしか馴染みになってしまったBarに足を運んだ。
「いらっしゃいませ。…おや、本日はお一人ですか?」
糸目をさらに細めて僕を見るマスター。カウンター席に案内され、目の前にコースターを、滑らせて置いた。
「本日は何にいたしますか?」
その問いに、僕はほんの僅かに笑みを浮かべて答える。
「ギムレットとXYZを一つずつ」
マスターは一瞬だけ目を見開いた。だがすぐ何かを悟ったように、表情を戻す。
「かしこまりました」
言葉少なかに、マスターは手元のボトルを取る。ドライジン、ライム、シュガーシロップ。そして、もう一つのシェイカーには、ラム、レモンジュース、コアントロー。二つのシェイカーに注がれた液体が、氷とぶつかる音を立てる。そのリズムに、いつかの夜を思い出した。やがて、ギムレットが僕の前に、隣の空席にはXYZがそっと置かれる。僕はギムレットを手に取り、宙へと軽く掲げた。
「乾杯」
誰にも届かない声だった。グラスを傾け、一口。ギムレットの凛とした酸味と乾いた余韻が、静かに舌の上を滑った。ふと、隣の席に目を落としながら、呟いた。
「やっぱり、初っ端からXYZはちょっとおかしいよ」
微笑みを浮かべながらグラスを空にし、席を立つ。マスターは黙ってそれを見送り、手元のグラスを布で拭きながら、ぽつりと口にした。
「…ギムレットには、まだ早いと思っていましたが」
そう呟いたマスターの声は、どこか遠くで鐘が鳴るように静かだった。ふと店内に風が流れ込む。扉の隙間から入り込んだ冬の空気が、足元を静かに撫でていく。僕はコートの襟を整え、振り返らず小さく笑う。
「…じゃあな」
扉を閉じた後、不意に背中越しに聞こえた気がした。
「…さようなら」
まるで、何かを見送るようなその声に、僕は一度だけ足を止めて、夜の通りへと歩き出した。
いつもより少し早い時間。まだローフィの姿はない。丘の上、冬枯れの風に揺れる枯れ木を眺めながら、僕はポケットの中で指を組み、ゆっくりと呼吸を整える。この場所に立つのは何度目だろう。あの夜から、幾度もここを訪れた。でも、今夜だけは、少しだけ特別な意味を持っている気がして――僕は妙に落ち着かない気持ちで空を見上げていた。
『大丈夫――あなたはきっと――いいヒトに――なれる――』
あの夜、君が僕にくれた言葉。この言葉は確かに、あの時の僕を救ってくれた。でも――それはいつしか、僕を縛る〝呪い〟のようにもなっていたのかもしれない。君と違って、何かを生み出すことも、誰かを救うことも――僕にはできなかった。がむしゃらに足掻きながら、〝まともな人間〈ヒト〉〟になろうとした。結果的に、〝いい人〟にはなれていたのかもしれない。でも――僕は、ローフィにとっての〝いい人〟になりたかったわけじゃない。草を踏む音が、背後から静かに近づいてきた。長い睫毛を揺らし、静かにこちらに歩み寄る。その姿を見たときに、僕の胸に言葉が浮かんだ。――僕は君〈ローフィ〉の〝居場所〈トクベツ〉〟になりたかったんだ。
「お待たせ。…今日は早いんだね」
少し緊張した声。微かに揺れる吐息が、冬の冷たさを語っている。少しの沈黙が二人の間を包む。けれど、その時間が不思議と心地よくも感じれた。
どのくらい時が経っただろう。数分なのか、もっとなのか、わからない。ただ、寒さの中に身を置きながらも、ずっとこのままでいたいとさえ思った。――でも。
「…ここで、吸血鬼の〝禁忌〟について話したの…覚えてる?」
静寂をそっと破るように僕が問いかけると、ローフィは小さく頷いた。その仕草を見届けてから、僕は深く息を吐き、ゆっくりと続きを口にした。
「…あの時、僕が言ったことは…〝全部〟、本当のことだよ」
凍てついた空気の中で、言葉だけが温度を持って漂う。彼女の表情が微かに揺れる。戸惑い、疑い、そして――ほんの少しの予感。
「〝同族喰い〟がなぜ禁忌なのか。それは…吸血鬼が、吸血鬼じゃなくなってしまうからだ」
冷たい風が吹き、草が擦れる音が、夜に滲んでいく。
「…吸血鬼じゃなくなる…。それって…」
声が震えるのを抑えるように、ローフィがようやく問いかける。その目の奥には、僅かな動揺が走り、視線は答えを探すように夜の闇を彷徨っていた。僕はゆっくりと頷いた。
「…そう。つまり、人間になるってことだ」
その一言が、静かに夜へと沈んでいく。
「…同族を喰うことで、吸血衝動や再生能力、種としての本能すら少しずつ消えていく。ホルモンのバランスが崩れて、やがて、〝人間〟の身体に近づいていくんだ」
一つ一つの言葉が、あの記憶の輪郭をなぞるようだった。彼女は信じられないというふうに、けれど、どこか確かめるようにこちらを見つめる。
「…君は、何故それを…?」
僕は少しだけ息を呑み、夜空を仰ぐ。月はいつもより近く、大きく――冷たい光を湛えていた。
「…僕が、その方法で…人間になったからだ」
ゆっくりと、言葉を落とすように続ける。
「…四年前の今日。元吸血鬼を喰らって、僕は人間になった」
その言葉を聞いた瞬間、ローフィははっきりと目を見開いた。けれど、僕は、それを受け止めることなく、静かに言葉を続けた。まるで、全てを言い終える義務があるかのように。
「どうやら…元吸血鬼でも、人間になれるみたいだ」
ローフィは、一歩、僕に近づいた。冬の草がその足元で微かに鳴る。その気配の一つ一つが、彼女の迷いの深さを物語っているようだった。
「…それって、つまり…」
何かを悟ったように発したその声は震え、息とともに白く溶けた。
「…そう。君が人間になるための方法。それは…元吸血鬼である僕を…喰らうことだ」
言い終えた途端、彼女の顔から血の気が引いた。額に皺を寄せ、まるで何かを拒絶するように、彼女は首を振った。
「…そんなこと、できないよ…。だって、君は…私の、大切な…友達…」
夜風が、彼女の長い髪をそっと揺らす。ローフィはその場に立ち尽くしたまま、唇を嚙んでいた。
「大丈夫。僕はもう十分生きたから」
ローフィは俯いたまま、自分の腕を抱えるようにして、その震えを堪えていた。
「…君との夜を…終わらせたくない。…君を思い出に変えるなんで…できないよ」
その目元には、今にも零れそうな涙が、強く光っていた。
「…わかってるよ。でも、これは〝終わり〟じゃない」
僕は小さく微笑んだ。
「これは〝始まり〟なんだ。君が人間として生きるための。それに、僕は…君の中で生き続けるよ」
それでも、彼女の瞳には涙が滲んでいた。僕はゆっくりとコートを脱ぎ、シャツの釦に手をかけた。一つ、また一つ、噛み締めるように外す。そのたびに、冬の空気が肌を撫でる。ローフィは、まだその場から一歩も動けずにいた。俯いた睫毛の先に、凍てつく夜気が触れ、細かく震えている。その小さな肩が、こらえきらない迷いを語っていた。
「…これは、君が望んだ未来〈コト〉だろう?」
僕はローフィに首筋を向け、そっと優しく問いかけるように言った。ほんの少しでも、その問いが彼女の背中を、そっと押す一言になればと願いながら。ローフィはその場に立ち尽くし、暫く俯いたまま動かなかった。握った拳が微かに震えている。何かを押し殺すように、小さく息を吐いた後――ゆっくりと顔を上げ、歩み寄ってきた。瞳には、涙が浮かんでいた。その足取りは、まるで夢の中のように覚束なく――けれど確かだった。僕のすぐ背後に立つと、静かにパーカーを脱いだ。その下から現れたのは、何度も見慣れた――肩の開いた黒のトップス。季節には少し不釣り合いなその服は、月の光を微かに受けて、彼女の輪郭を儚く照らしていた。震える指先で、彼女はそっと僕の胸元に手を伸ばした。まるで、命の鼓動を、自分の手で確かめようとするかのように。
「…本当に、いいの?」
その問いに、僕はただ頷いた。ローフィは目を閉じて、深く息を吸い込んだ。長く、苦しい決断だった。そして、静かに――僕の首筋へと、唇を寄せた。その動きには、もはや躊躇いはなかった。これが彼女との――最後の夜。彼女との日々が溢れてくる。そう、僕は――ずっとわかっていたよ。彼女の瞳の奥に――最初から僕は映っていなかったこと。それでも――
「…大好きだったよ」
その一言に、月明かりに煌めく牙が、ぴたりと止まった。そして、彼女の肩が小さく震え、一粒の涙が、僕の肩にぽたりと落ちた。やがて彼女は、ごく細く、吐息のように小さく――僕の肌を裂いた。一滴、また一滴。命が静かに、紅い雫となって流れていく。けれど、そこに痛みはなかった。あるのは、ただ――穏やかな幸福〈シアワセ〉だった。
指先が遠くなる。呼吸が浅く、空気に届かなくなっていく。目の前が紅に染まり、意識が薄れていく。朧げな視界の中、僕は宙を見上げる。そこには、四年前に見上げた時と同じ――紅く滲んだ月が浮かんでいた。――ごめん。やっぱり僕は、人間〈ヒト〉にはなれなかった。僕は――怪物だ。自分の欲に、最後まで忠実な、どうしようもない怪物だった。もう耳も遠くなっている。けれど、最後に――君の声が聞きたい。
「…名前を…呼んでくれないか」
ローフィは一瞬、吸血を止め、唇を噛んだ後――そっと呟いた
「…有難う。―――」
微かに、唇が動くのを感じた。でも――もう何も、聞こえなかった。声も、温度も、記憶も、全て遠ざかっていく。そう――これで、終わりだ。やっと終われる。やっと――。彼女の手を、最後の力を振り絞って握った。どうか、この思い出〈キズ〉だけは、永遠に消えないでほしい。そう――
そう、これは君への呪い〈ラブレター〉だ。
僕は君の、
絶望〈シアワセ〉を願っている。
『君は…吸血鬼に〝禁忌〟があるのを知ってる?』
『〝禁忌〟…か。
人間を好きになること、とか?』
最後まで読んで頂き、誠にありがとうございます。
初めまして。
柊 悟理と申します。
小説を書くのも投稿するのも初めてなもので、拙い部分が幾つもあったかと思われます。
理系というのもあり、なおですよね。
それでも最後まで読んで頂き、大変嬉しいです。
X(@hageee_s_t_y)の方にて、この物語に関するイラストを投稿しております。是非とも足を運んでいただけましたら幸いです。
この作品が少しでも多くの人に読まれ、何かを考えるきっかけになればと思います。
では、またどこかで。